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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第9話 姫将軍からのおねがい。

 江戸城は幕府の権力中枢である。

 しかしその総てが官僚の職場なのではない、国政の中心はあくまでも本丸だった。

 そこで将軍は大名を引見し、官僚たちが働いているのである。


 江戸城の本丸は、大きく分けて3つのブロックに分かれていた。

 官僚たちが入り乱れて立ち働く政治の場である『(おもて)』。

 将軍が公私にわたって使用する場である『中奥(なかおく)』。

 そして、将軍の正室(正妻)をはじめとした女たちが暮らしている――男子禁制の領域『大奥』である。


 現在、平次がお綱や正之と対面している二ノ丸は、将軍のセカンドハウス的な空間になっていた。

 庭園があり、東屋があることから趣向は明らかだろう。

 だが、実態としては将軍の生母や前将軍の側室たちが暮らす場だった。

 つまるところ、かつて大奥にいた女たちが移ってきているのだ。


 いまの彼女たちには何の力もない。

 大奥という夢の舞台で陰険な権力闘争や派閥闘争を繰り広げていたのも今は昔――前将軍の死亡と共に、大奥の構成員は権力や権威の一切を喪失することになる。

 そして夢の残滓である女たちは、あっという間に記憶の彼方へと忘却されていくだけだ。


 彼女たちも、その事実をよく理解していた。

 毒牙を抜かれ、戦いを忘れたことで――もはや、死に至るまでの日々を漫然(まんぜん)と過ごす者ばかりとなっている。


 従って、二ノ丸は本丸と比較して静かだった。

 人影はまばらで、どこかのんびりとした雰囲気も漂っている。

 だからこそ、平次の引見の場所として選ばれたのだろう。邪魔が入る可能性が低いからだ。


 とはいえ、正之の会話でも出てきたように、お綱の食事を準備する新たな御膳所は本丸にあるという。

 二ノ丸と本丸にはそれなりに距離がある。

 平次はてっきり、駕籠を使って移動するものだと思っていたのだが――


(じい)は先に行って、先に食材を準備しておいて下さいますか。あなたが用意したもので平次さ――ごほん、平次が何を作るのかを想像するのも楽しいでしょう? わたくしたちは徒歩でのんびりと参りますから』


 ――そのような鶴の一声で、お綱と共に江戸城の散策をすることになったのだった。


「本当に申し訳ございませんでした、平次様。このような大事に巻き込んでしまって」

「いや、そのようなことは……」


 徳川第四代将軍・家綱公――もといお綱の三歩後ろを歩きながら、平次は己の人生の波乱万丈具合に嘆息するしかない。

 彼女がいいところのお姫様だということは分かっていた。

 とはいえ、まさか、日本の武家社会の頂点に君臨する征夷大将軍だとは思いもしなかったのだ。


(そもそもからして、徳川家綱って男じゃなかったのか……?)


 色々と疑問が残るが、突っ込んでも仕方がない。目の前にある状況こそが真実なのだから。

 それに、自分は征夷大将軍に仕えることになっているが、実際はそうではない。

 仕える相手は、お綱というひとりの女性なのだ――平次はそのように、無理矢理自分を納得させることにした。


「ですが、わたくしは平次様に謝罪をしなければなりません。わたくしの我儘(わがまま)に巻き込んでしまった訳ですから」

「うっ、上様……! いけません、こんな場所でおやめください……!」


 内心の折り合いをつけた平次を振り向き、お綱はそっと首を垂れる。

 その行動に平次は慌てた。将軍に頭を下げられているところを見られたら、大問題に発展しかねない。

 だが、彼女は俺とは異なる感覚を持っているらしい。頭を上げ、苦笑しながら言った。

 黒を基調とし、白の華やかな文様が刺繍(ししゅう)された打掛。それを身に纏い、赤漆(あかうるし)の鮮やかな和傘を差すお綱は、見惚れてしまうほど美しい。


「いいではありませんか、そのように必死になられなくても。誰にも見られてなどおりませんから」


 それに、己に非があれば詫びるのは当然ではないのですか?――麗しの姫将軍は微笑する。


「それに、たとえ誰か見られていたとしても言い訳がつきます。足元を飛蝗(ばった)が跳ねていたとでも言えばいいのです。心配される必要はありません」

「そんなもの、ですか……」


 どうやら平次が思っている以上に、お綱は頭の回転が速いらしい。

 決して弱々しいだけの女性ではないようだ。


「ええ、そんなものです。それに、平次様はわたくしを救って下さった殿方ではございませんか。貴方は他の方とは違います。人目がある時はたしかに体面もありますが、ふたりだけの時は斯様(かよう)なご遠慮はなさらないで下さいね」

「いや、その……それは、流石に……」

「いけませんか……?」


 じわり、と姫将軍は目元に涙を(たた)えた。


「平次様は、わたくしを将軍ではなくただひとりの人間として見て下さった、はじめての殿方だと思っておりましたのに……」


 平次は慌てる。色々と不味い事態だった。

 彼女を泣かせたことが露見すれば、打ち首は免れ得ないのではないだろうか。


「あぁ、分かりました……分かりましたから」


 いよいよ泣きながら懇願してきそうなお綱を、平次は一生懸命に(なだ)めた。

 命運の総てはこの女性にかかっているのだ。


「上様、どうか頭を上げて下さい。ふたりだけの時は俺も普通にしますから。ですがここでは流石に……」

「うえさま……」

「おっ、お綱……さま……」

「さま……」

「お綱、さん……」

「……」

「……」

「……はいっ!」


 ようやく笑顔を見せてくれた姫将軍。

 対し、平次は内心ではこれからのことに――そこはかとなく不安を覚えていた。


 彼女はこの時代の最高権力者である。

 そのお綱を名前呼びする時点で不敬極まりないというのに、あろうことか『様』ではなく『さん』付けで呼ばなければならなくなってしまったのだから。


(もしあの会津中将様に知られたら、市中引き回しの末に(はりつけ)とかにされてしまうんじゃ……)


 別にそこまでの事態にならなくても、色々な不都合が降りかかってくる可能性もある。

 これからどうすればいいんだ――と葛藤する平次だったが、その内心をお綱は察しきれないらしい。

 それは彼女が鈍感だから、という話ではなかった。生まれや身分が違い過ぎて、悩むべきポイントが異なっているのだ。


「平次様、これからどうぞ……末永くよろしくお願い致しますね」

「は、はは……っ」

「もぅ」


 要領を得ない返答を聞き、ほんの少しだけむくれ顔になるお綱だった。



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