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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第8話 お給料と仕事の内容と。

「ああ、その件か」


 凄まじい勢いで平伏した平次を見て、幕府の大政参与は苦笑する。

 そしてお綱は、平次にその裸体を見られたことを思い出したのだろう。

 顔を真っ赤にして恥じらいながら、面を伏せていた。


「なに、心配はいらぬ。上様が江戸城に戻られた際、おぬしの潔白性を証明する際にそのこともお話しいただいたのでな。既に役人の手によって回収済みよ」

「あぁ……それならば安心致しました」


 あの着物は、将軍が着ていたともなれば超が付くほどの高級品だろう。

 それを紛失してしまい、弁償しろということになれば――とんでもない額が請求されることは明らかだったからだ。

 ほっと胸を撫で下ろす平次を見て、正之は「それにしても律儀な男よの」と零した。


「して、平次よ。いきなりではあるが、今晩より上様の料理人として、医師として仕えてもらいたい。安心せい、俸禄(ほうろく)については御典医と御膳所付き料理人の給金を併せた上に色を付けよう」

「いや、そのような……!」


 平次は給与の話を聞いて、思わず躊躇する。

 あまりにも莫大な額になりそうだったからだ。


 ちなみに御膳所の料理人は、(ろく)としては米50俵に10両の御役料が幕府から支払われている。

 町人としてはなかなかの額だが、体面もある武士からしてみれば――懐具合はいささか厳しいだろう。

 内職などに手を染めていてもおかしくない。


 ただ、問題なのは御典医の方だ。

 端的に言えば、報酬が莫大なのである。

 いまから8年前の慶安3年(1650)、大老の病を治した医師が幕府から2,000両もの薬代を与えられたことは、いまなお江戸の語り草だ。


 ちなみに2,000両は、現代の価格に換算すればおよそ2億円になる。

 しかも医師の給与には日給の御役料も加えられるため、もはや一生食うに困らないだけの財産が御典医の懐に転がり込んでくるのだ。

 その上、将軍と日常的に接する御典医は旗本に相当する地位を得ることができ、実際に領地も与えられるので――武士と何ら変わりがなくなるのである。


「料理人と御典医の役料を併せるなど……そんな莫大な禄をいただいても……!」

「貰えるものは、貰えるうちに貰っておくものぞ、平次」


 断りの声を上げようとした平次に、機先(きせん)を打って正之が言った。


「儂らとしても、禄を与えると言うことは、その者に対して首輪を付けていることを内外に示すために必要なことなのだ。高い金を払うのだから、それに見合った働きをさせるのだと――周囲を納得させるためにもな」


 建前がなければ、女子である上様のお傍に男子をひとりだけ置くなどという真似はできん。

 大政参与はそう言ってから、さらに続けた。


「それにだ、おぬしが仮に、夢の大衆食堂を構えることになったとしよう。建築費も材料費もただではない、相応の支度金が入用となろう? それだけではないぞ。食道の板前が、元征夷大将軍付きの料理人であったとなれば宣伝にもなる……違うか?」

「……」


 実に痛いところを突いてくる老人である。

 たしかに、そうなのだ。夢だけで世の中は回らない。

 その事実は、痛いほどに分かっていた。江戸には至るところに貧困が潜んでいるからだ。

 平次は往診の手伝いによって、そういった人間の貧富にまつわる生々しい部分を嫌というほど理解させられている。


 ただ、それでも、金儲けのために料理を提供することは――平次の望むところではなかった。

 されど正之の言う通り、料理を提供する場所、そして食材に金がかかるのは事実だ。

 それを確保するためだと考えれば――莫大な金銭が入ってくることはやはり気が引けるものの、悪い話ではないのかもしれない。


「では、頼むぞ。おぬしの役名(やくめい)であるが、『膳医』としておこうか。あくまでも特例措置で創設されたものであり、一代限りの臨時職という扱いになる」


 儂の仰せつかっておる大政参与と同じよ、と会津中将は微笑する。


「その役目は、朝晩二回の上様のお食事を準備し、朝の診察を行うことである。上様の体調が優れない場合には、その治療も行って貰いたい。また、これは儂の願望なのだが――できれば上様の体質を、おぬしに変えて欲しいと思っておる。」

「体質、ですか……」

「うむ、そうだ」


 老人は頷き、続けた。


「上様はあの日、池に落ちたと言うではないか。いつもの上様であれば、御調子を崩されていたであろう。しかしおぬしの膳を食し、その献言を()れた結果、体調を損じることはなかったのだ。儂はそこに希望を見出しておる」


 真面目な顔付きに戻った正之は、平次を見据えて重々しく言う。


「おぬしは江戸の民の健康を、食から変えようとしていたそうな。ならばその正当性を、上様をお支えすることであまねく天下に示してみせよ。ひとりの女子(おなご)の健康さえも維持できぬのであれば、とうてい民も納得すまい」


 それはまるで、彼女のことを実験動物のように扱うみたいではないか。

 いや、そもそもからして将軍のことを女子呼ばわりしていいものなのか?

 そんな疑問を抱いた平次だったが、次いで会津中将が発した言葉は驚くべきものだった。


「無論、ずっと上様にお仕えせよと言っているのではない。上様はやがて征夷大将軍の座を譲位される身だ。その後は、好きにしてもらっても構わん。その時は、儂もおぬしの願いをかなえるために助力するとしよう」

「譲位……?」


 思わず問い返す平次だったが、会津中将はそれについては何も答えない。彼は厳然(げんぜん)と続ける。


「だが何の審査も経ずにおぬしを採用すれば、ただちに心無い輩が騒ぎ出すであろう。儂はその総てを黙らせる準備がある。だが――」


 江戸幕府の権力者はにやりと口元を歪める。


「――まずは、おぬしの料理の腕を確かめるところからはじめることにしよう。上様の召し上がるもの、それを把握しておかねば儂もネズミ共を黙らせ辛いのでな」


 その表情、その言葉を聞いた瞬間に平次は察した。

 絶対にこの老人を敵に回すような真似はしてはなるまいと。


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