第7話 徳川料理人の事始め。
江戸幕府の重鎮である保科正之。
現在、彼から滾々(こんこん)と告げられている内容は、平次にとっては色々と耳を疑うようなものだった。
端的に整理すれば、こうなる。
平次がお綱を助けた翌日から、彼女は将軍の食事に関する制度やその慣習を破壊しはじめたのだという。
その内容には、平次も驚くほかになかった。
あんなにも大人しそうなお姫様が、そんな大胆なことをしてしまったのか――という思いがある。
江戸城には、将軍の食事を作る御膳所と呼ばれる台所組織が存在していた。
そこには40名ほどの料理人たちが所属。いずれも御家人であり、交替勤務で食事を作っていたらしい。
要するに、武士たちが将軍のご飯を賄うのである。
征夷大将軍家綱公。その食事は、朝と夕の2回に供される。
そして朝食と夕食が作られるそのたびに、料理人たちは10人前の料理を作ることになっていた。
その総てを将軍が食べる訳ではない。毒見の分なども含めての数なのだ。
「出来上がった料理は、まずはずらりと並べてな。御膳所の毒見係がそのうちのひとつを無作為に食い、次の毒見へと渡すのだが……」
そんなことをしている間に、時は過ぎ去っていってしまうのだ――と正之は言った。
なんでも、将軍への料理を供する最後の関所である「御膳建の間」へ料理が辿り着く頃には、一刻(2時間)以上は経過しているのだとか。
その「御膳建の間」で最後に毒見を務めるのは、徳川家の三河時代以来の旗本から任命される鬼取役 (膳奉行)である。
そして彼が箸を付けなかった膳が「囲炉裏の間」で温め直されて、ようやく将軍の前に現れるのだ。
「だがな、上様はおぬしと邂逅を果たした後……そのような制度は撤廃せよと強談なさってなぁ」
東屋の上座。
そこでお上品に正座しているお綱を顧みた後に苦笑し、正之は続ける。
「その時にこう申されたのだ。味気も風味もない食事はもう食べたくない、生ぬるい食事などもう嫌だ、そのようなものを食べるくらいならば断食して飢え死ぬ道を選ぶ――とな」
「な……っ!?」
驚くのも仕方がなかろう、と正之は苦笑した。
「我らは上様の虫の居所が悪いだけと思っていたが、実際に2日間も断食されてしまってはなぁ……。それで流石の我らも慌てたのだ。この御意向には是が非でも従わねばならぬ、とのう」
「……」
「で、な……。儂らは温かい料理をお出しできれば良いのではないかと考え、上様が食事を召し上がる『御膳の間』に近いところに、御膳所を新たに作ったのだ。毒見の者たちも、できるだけ最短で食事の内容を検めることができるように考慮した。しかし、だめであった」
「だめ、ですか」
「うむ。やはり毒見を行っているうちに料理が冷めてしまうことに変わりはなくての。その上、今度は『料理に心がこもっていない』とお叱りを受ける始末。もはや儂らも万策尽き果て、御意見を伺ったのだ……どのようにしたら食事を召し上がっていただけるのですかと。さすれば――」
正之はそこで言葉を切り、平次を見つめた。
それでなんとなく、分かってしまう。平次は会津中将に伺いの声を掛ける。
「俺の名前がそこで出た、ということですか」
「――左様」
江戸幕府の大権力者は、頷いた後、溜息を漏らす。
「上様は生来、お身体が弱くてな……。食事を召し上がらないようになれば、当然だが体調も輪をかけて悪くなるであろう。儂らは何としても食事を摂っていただかねば困る。故に、おぬしの雇用を検討するとお伝えし、その引き換えに断食を止めて頂いたのだが、やがて問題が起きた……分かるか?」
「……分かりません」
「で、あろうな……流石に想像もつくまい。なんとな、上様は――己が身体に医師が触れることすら、拒絶されるようになられたのだ」
「はっ……?」
平次の反応を見て、いよいよ正之は苦悩の色を深くする。
「徳川宗家にはな、御典医と呼ばれる専属の医師たちがおる。だがつい先日、上様は彼らに対してお暇を出されてしまった。男の医師には、ひとりを除き、もはや何人たりとも触れられたくないと申されてな……」
平次の背中に冷たい物が流れる。
「そ、それはいったい何方のことで……」
「おぬしのことよ、おぬししかおらぬであろうが……」
他に誰がいると言うのだ――と会津中将は呻き声を上げた。
「上様はな、もはやおぬしの作る食事以外は口にしたくもないし、診察についてもおぬし以外の指図を受けたくないと仰っておる。故に、少々強引ではあったが――おぬしをここに連れてきたのだ。あるいは、連れてこざるを得なかった、という方が正しいやもしれぬ」
「つまり、それは……」
平次が頭を抱えながら呻くように言うと、正之もまた頭を抱えて告げる。
「おぬしがここで仕官の話を了承してくれねば、上様は衰弱死されてしまいかねん……!」
「そんな……!」
会津中将は恥も外聞もなく、平次に頭を下げる。
おそらく彼が頭を下げたことのある人物は、己の養父母に実兄たる家光、そして現在の主君である家綱程度だろう。保科正之という男は、それほどのエリートなのだ。
「頼む。ここで上様を失い、権現様が勝ち取られた太平の世を――また戦乱のなかへ巻き戻す訳にはいかぬのだ。天下の為、上様のためにも……医師兼料理人として仕えてはくれぬだろうか」
どうやら、平次が考えていた以上に事態は深刻らしい。
たしかに正之の言う通り、征夷大将軍が倒れれば政情は不安定なものとなるだろう。
明暦の大火から再建の只中にある江戸。
ただでさえも治安が悪い幕府の首府は、更に秩序が乱れてしまいかねないのだ。
そしてそれを統制しきれなかった場合、騒擾の気配は全国へと波及していくのだろう。想像するに難くない。
もはや、正之の願いを受け入れる他になさそうだ。江戸のしがらみが何だと言っている場合ではなかった。
お綱に死なれ、世が戦国時代に戻るようなことがあれば、それどころの騒ぎではなくなるからだ。
そして、天女のようなお姫様とまた話ができる――という期待感に、心が躍っていることも事実だった。
「分かりました……。非才の身ではありますが、仕官のお話、お受け致します」
「うむ」
正之が、安堵したように首肯する。
そして当のお綱は、心底嬉しそうに微笑んでいた。
「では本件については、正式に、幕府よりおぬしの父母や日本橋界隈の民に伝えさせることにしよう。名医の息子が上様の直臣に取り立てられるのは道理であろう。さすれば江戸の町衆も諦めがつくというもの。それに、上様がおぬしの御母堂から拝借しておった召し物も返さねばならんしの」
「あ……っ」
召し物というワードを聞いて、平次は不意に思い出す。そして慌てて正之に言上した。
「もっ、申し訳ございません……! そう言えば、桜ヶ池に隠していた上様の御召し物について、俺は未だ幕府に届け出ておりませんでした……!」