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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第6話 天下の大目付と姫将軍。

「まずは、上様に代わって礼を申すぞ……平次とやら。よくぞ、上様の御命を救ってくれた」


 陸奥会津23万石。

 保科正之はその大藩の藩主であり、先の将軍徳川家光の異母兄弟である。

 日本史の教科書では絶対に登場してくる、歴史上の大人物だ。


 平次も日本史の資料集で、主に試験勉強の為に彼の肖像画を何度も見たことがある。

 されど、目の前の男は肖像画のそれとは――おおよそ違うように思えてならなかった。

 やはり生身の人間であるが故のエネルギーがあり、肖像画では補いきれないものがあるからなのだろう。


 彼は今年で48歳になる。

 江戸時代においては立派な老人なのだが、実に血色も良い。

 精力的に国政を切り盛りする姿が容易に目に浮かぶような、そんな気迫があった。


 平次は両膝を突いて頭を下げ、応じる。


「実に(おそ)れ多いお言葉です」

「ふむ、そうかのう? まぁ、良いわ」


 正之の頭髪は既に薄くなっているが、髭は豊かで、眼光鋭く強面(こわもて)な容貌をしていた。

 対する者に凄みを感じさせる、圧倒的なオーラを振り撒いている。

 文字通り、格の違う相手だと言ってもいいだろう。


 徳川一門に連なる正之からすれば、本来であれば平次など――箸にも棒にも掛からぬような男のはずだ。

 だがしかし、()の会津中将は、身を乗り出すようにして平次を見つめている。

 一介の町人に過ぎない身の上からすれば、信じられないような話だった。


「実に若々しく、凛々しい面構えをしておるな……歳は幾つだ?」

「今年で19になります」

「なるほど。上様とはひとつ違いということになるか」


 正之は白の占める割合が多い顎髭(あごひげ)を撫でながら言った。


「上様はな……城に戻ってこられた際、(わし)にこう仰った。江戸本舩町に医師の才のみならず料理の才ある者あり。かくも卓抜(たくばつ)せし技、今生(こんじょう)実見したこと(あら)ず――とな」

「滅相もございません。まだまだ未熟者でございますから……」


 平次は慌てて応答する。

 たしかにお綱を助けたことは事実だし、料理を振る舞ったことも事実だ。

 だがしかし、そこまで称賛されるようなことを成したつもりはなかった。


「フフッ、実に謙虚な若人(わこうど)よ……。上様に狼藉(ろうぜき)を働かなかったばかりか、技能については向上心もあるようだ。どうやら江戸の民も、まだまだ捨てたものではないらしい」


 正之は彫りの深い顔に不敵な笑みを浮かべ、身を乗り出して言った。


「とはいえ、おぬしがいくらそう言ったところで、こちらにも体面というものがある。上様に代わり、儂はおぬしへ褒美をやろうと思う」

「……」

「黄金をくれてやっても良いし、地位が欲しければ儂の口利きで旗本程度になら取り立てよう。江戸が嫌だと言うのであれば、我が会津藩の上士として取り立ててやるが……どうだ?」

「……折角のお申し付けですが、お断りさせて頂きます」


 平次は頭を上げて応答した。

 自分は土の上で膝を折り、お綱と正之は東屋の床の上にいる。

 この構図、可視化できる直截的な身分制度こそが――江戸社会の本質だった。


 固定されたシステムにおける上昇機会の打診を断られ、正之は驚きの表情を見せる。

 やはり、断られるとは想定していなかったらしい。


「ふむ、何故だ? 金はあっても困らんだろうし、なにより士分ともなればおぬしの世界も広まろう。悪い話ではないと思うのだが」

「お言葉ですが、悪い話に他なりません」


 平次ははっきりとした声で、正之のみならずお綱にも告げた。


「無礼を覚悟で申し上げます。此度のことは、『上様だから』と特別に身を(てい)して動いた訳ではありません。たとえ相手が誰であろうとも、命を助けられるのであれば手を差し伸べる――それが人というものでございましょう」


 正之は沈黙し、その鋭い眼光をまともに向けてくる。

 心の奥底までのぞかれかねないほどの眼力が、そこにはあった。


「ですから、あくまでも俺は当然のことをしたまでなのです。今回はあくまでも、偶然、その相手が上様であったというだけのこと。お礼などいりません。感謝の言葉は、既にあの日のうちに、上様から頂いておりますから……それだけで十分です」

「なるほどのう」


 会津中将は感心したように頷いた。その上で、彼は問い掛ける。


「では、褒美は何もいらぬと申すか。それではこのまま、来た時と同じように駕籠で送らせることにするが……」

「ええ、それで構いません」


 豪華絢爛な装いに身を包んでいるお綱にも目を配りながら、平次は言った。


「俺はこうして、また、お綱様――いえ、上様と相見(あいまみ)えることができただけで、十分なのですから」


 東屋に座る天女のような女性が、くしゃりと顔を歪めたのが分かる。

 そしてそれは、正之も察知するところだったのだろう。

 強面の権力者は、深い溜息をついた。


「平次とやら、くどいようだが……おぬしは本当に、何も望まんのか? 何でも良いのだぞ?」

「もう既に、満ち足りております」


 何でもと言われると何事か頼みたくなってしまうが、それを理性でなんとか握り潰す。

 平次は改めて、はっきりと、老人に言葉を投げ返す。


「というのも、安心できたのです。上様が大病を患うことなく、こうしてご壮健であられることを――この目でしっかりと見届けることができましたから」

「平次様……あの、わたくしは――あっ」


 思わず、と言った態で声を漏らしたお綱。

 その顔には『やってしまった』という色が浮かんでいる。

 どうやらこの場において、将軍である彼女が口を開いてはならなかったようだ。

 そんな主をちらりと見やり、深々と息を吐き出してから正之は言う。


「若人よ、医師の息子であるおぬしが、内心では料理人となることを願っているということは、既に上様より聞き及んでおる」

「はは……っ」


 どこまで(しゃべ)られたのだろうか――と、ふと思う。

 だが、悪いことをした訳ではないし、恥ずかしがる必要もないに違いない。


 そんなことを思いながら平伏した平次に、天下の大政参与は目を爛々と光らせながら、有無を言わせない様子で重々しく告げるのだった。


「そこで、なのだが……おぬし、上様の専属医師として、そして専属料理人として、上様にお仕えするつもりはないかのう」


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