PROLOGUE 1/4
PROLOGUE 1/4
――平成29年(2017年)11月1日。
心が荒れている日ほど、夜空は意外にも綺麗だったりする。
そんなことを感じたことのある人は、日本には相当数いるのではないだろうか。
東京23区――皇居を擁する千代田区から見上げた空は、雲ひとつない鉄紺色だった。
だがその空に散らばる星々を、千代田区から余すことなく見渡すことは叶わない。
地上を走る夥しい数のガソリン車。鉄筋コンクリート造りの喧噪なビル街。そして、人々がその手に握り締めて意識の過半を割いているスマートフォン。
そういった人工の明かりが、空に煌めくものを覆い隠してしまっているのだ。
目先の利を得るために、空を見ることを忘れた資本主義体制下の日本。
そこに生きる、有象無象にして代替可能な社会の歯車のひとつ――工藤 平次は、メインストリートから外れた路地裏で、大荒れに荒れている。
荒れている理由は、簡単だ。
『貧乏人がレストランに来るとか――絶対に有り得ねぇ』
頭のなかで、先ほど投げかけられた言葉が、幾度となく反響しているからである。
『いやいや、可笑しいから変だから。大体、レストランってのは金持ちの社交場なんだからさ、そこ履き違えるのって結構マズいと思うんだよね』
夜の千代田区は、車のブザー音や救急車のサイレンが支配していた。
しかしそういったノイズは、平次の頭のなかで飛び交う記憶を打ち消すものではない。共に混ざり合い、その苛立ちを増長させるものでしかなかったのだ。
ドスッ、と路地裏の壁を拳で殴りつける音。
だが、夜の都市を支配する音を打ち砕くようなものではない。打ち砕かれるとするならば、それは平次の骨ぐらいだろう。
幸いにして骨にダメージは行っていないようだったが、左手にはジンジンとした鈍痛が走っている。
それすら怒りに転化して、青年は呻き声を上げた。
「ふざけやがって……!」
また、路地裏の壁を殴る鈍い音が響いている。
◆
平次は今年で24歳になる。
職業は、料理人。見習いという言葉が、名詞の後に続く。職場は、日本橋の老舗レストランだ。
料理人としてのキャリアは、今年で6年目。
下積みを12年ほど続けることで、ようやく次のステップに進めるという料理人業界である。平次はちょうど、折り返し地点に差し掛かった頃合いだった。
料理人としての筋もよく、そして栄養学にも素養があるこの青年は――レストランのオーナーシェフの覚えもめでたい、新進気鋭のホープでもある。
そんな平次には夢があった。
すなわち、安くておいしい手作り料理を振る舞うレストランを開く、という夢が。
手軽に訪れることができて、そして幸せな気持ちで帰っていくことができる空間。
そんな場所を作ることができたら、どれだけ素晴らしいだろう――ことあるごとに、青年はそう想ってきた。
だがしかし、現実は非常である。
己の夢を語った平次を、あろうことか厨房仲間たちは嘲笑ったのだ。
そこには嫉妬や僻み、やっかみもあったのかもしれない。
己よりも優れた者を引きずりおろし、マウンティングしようという悪意。その欲求に従って、出る杭を打とうとするのが世の常である。
平次に対する彼らの見解は共通していた。
安くておいしい料理は一流料理人の作るものではない――というものである。
『一流のシェフが、金持ち相手に手作り料理を振る舞うのがレストラン。工場で大量生産された安い冷凍食品を、従業員が解凍して振る舞うのがファミレスだろ。お前のやりたいことって、ファミレスに任せりゃいいんじゃねぇの? 俺たちは金持ちを相手にして、儲けるのが仕事なんだよ』
平次からすれば、耳を疑うような発言だった。
だがしかし、それはまさしく――次代の料理業界を担うであろう者たちから発せられた、嘘偽りのない本音に他ならない。
故に、平次は怒ったのだ。
食事の場にだけは、絶対に、拝金主義を持ち込んではならない。
そんな若い義憤によって、青年は厨房から飛び出してきたのである。
「表向きには『おもてなしの心は和の心』と言っておきながら、裏ではひたすらカネ、カネ、カネか……ふざけやがって」
腐ってやがる。
平次は壁をまたまた拳で殴りながら、激しく頭を振った。
「本当に、どうしようもない時代になっちまったんだな……」
平次は裏路地から空を仰ぐ。希望溢れる大都市。
そこにおいて、夢と希望は星ではなく――カネの輝きによって取引されるものだった。
「昔は、そうじゃなかったんだろうけど」
夢見る青年のため息は、夜空へと吸い込まれていく。
かつてこの地は江戸と呼ばれていた。
日本史の知識は高校レベル止まりの平次だったが、それぐらいは知っている。
それに、時代劇や時代小説を見たり読んだりした経験もあった。
そういった経験のなかで形作られた江戸時代のイメージは、良くも悪くも人情が第一 ――というものである。
もちろん、時代劇や時代小説はフィクションだ。現実は大いに違うのだろう。
だが、それでも、いまの平次にとっては――カネとカネの繋がりだけに終始する現代社会よりも、人と人の繋がりを重視した昔の日本社会の方が、理想的なもののように思えた。
「江戸時代だったら、俺の願いは叶ったかもなぁ……」
平次はそんな声を漏らし、ふらふらと――飛び出してきた職場ではなく、別の場所へ向かって彷徨いはじめる。
しかし、それが良くなかったのだろう。
街灯の明かりもまともに届かない裏路地、そこにぽっかりと空いたマンホール。
光の届かぬ深い穴に足を取られ、凄まじい勢いで顔面を強打し、青年の身体は深淵に向かって落下する。
その状況を見ている人間は、誰もいない。あるのはただ、上空で輝く星々だけだった。
◆
名状し難き激痛。
それに呻き、叫んだ平次だったが――やがてその痛みがすっかり消えてなくなったのを理解する。
そう、消失したのだ。和らいだのではない。
(一体、何がどうなってるんだ……?)
状況を把握できていない平次だったが、いま自分が何をされているのかは分かった。
そう、入浴させてもらっているのである。
ベタベタに汚れている全身を、優しく丁寧に拭ってもらっているのだ。
(あぁ……くそっ、目がまともに動きやしない……)
視界が黒・白・灰の三色に支配されている。視点のピントすら合わせることができない。
まさか、頭を打った衝撃で目がやられてしまったのだろうか――そんな恐怖が脳裏をよぎる。
(だが、まずはお礼を言わないと……)
未だ見ることのできない恩人。その人に「ありがとうございます」と伝えようとして――
「あぅ、あぅあー!」
――平次は、己が喃語しか発せないことを自覚した。
それだけではない、身体すらまともに動かせないのだ。
流石に混乱するが、聴覚だけは機能しているらしい。頭上で、複数の女たちがやり取りしているのを聞くことができた。
「あぁ、よかったわね。この子、ちゃんと泣けるみたいだわ」
「あら、ほんと……。良かったわね、すぐに絞め殺さなくて」
「きっと寡黙な父親に、先生に似たんでしょうねぇ」
何やら物騒な会話である。一体どのような状況なのだろうか。
しかし、それを確認する手段はない。
いまの平次にできることは、お湯に浸されて身体を拭われながら、「あぅー」だとか「だぁー」などといった情けない声を発することだけだった。
「ほら、お満さん。しっかり抱いてあげなさいね、大切な跡取り息子なんだから」
そして、自覚する。自分の身体は、女性の手で易々と抱えあげられてしまう程に軽いということは。
一瞬の浮遊感。次いで感覚したのは、温かくて柔らかい弾力ある肌の存在だった。
平次の身柄は、どうやらこの餅肌の女性に手渡されたらしい。
「あぁ……この子が、私の赤ちゃんなのね……」
どうやら自分は赤ちゃんになってしまったらしい。いや、赤ちゃんってどういうことだ――と平次は混乱する。
だが、理解は早かった。
目がまともに見えず、そして話すこともできないこと。
さらには先程の、自分を洗ってくれていた女性の「跡取り息子」という発言。
これで気付かない方がおかしい。
どうやら自分は、この餅肌な女性が産んだばかりの赤ん坊になってしまっているようだ。
「ほらお満さん、はやくお乳を飲ませてあげないと」
「そうね……そうよね……」
お産をしたばかりということもあって、相当に疲弊しているらしい。声を聞くだけでも、その辛さが痛い程に伝わってくる。
だが、平次を触れる手はとても優しい。まるで壊れ物を触るように愛おしんでくれていた。
そして彼女は、平次の口にゆっくりとなにかを押付けてくる。
「ほら、たくさん飲んで……大きくなるのよ……」
「あぅ!? だぅぅー!?」
状況が全く把握できず、流されるがままの状況。
だが、分かっていることがあった。平次は赤ん坊である。であるからには、母乳を飲む以外に生き延びる術はないのだ。
ここで羞恥心の余り授乳を拒絶すれば、飢えて死ぬ他にない。
(俺は、いったい……どうなるんだ……)
味などとっくの昔に忘れてしまっていた母乳。それを嚥下しながら、平次はとてつもない不安感に襲われるのだった。