天上の甘味
ププッ! プーー!! 後続車の怒りをこれでもかと表したクラクション。はっと、青年は正気付いた。慌てて視線を持ち上げた先にある信号は青色である。すぐさま、ぐっとアクセルを踏み込んだ。車体が急発進する。
青年は今日何度目だろうかと思考しかけて、すぐに諦めた。導き出される答えが、数なんて覚えてない、そうなるのが容易に察せられたので。
赤信号で止まる度に意識が飛ぶ。そして後続車のクラクションで信号が変わったことを知る。極度の睡眠不足による弊害。いわゆるブラック会社に勤めて三年目になる青年にはもう慣れっこであった。
青年はこの症状を密かにフェイズ1と呼んでいた。自らの疲労度を示す第一段階である。そう、恐ろしいことにこれでまだ第一段階であった。
ちなみにフェイズ2は、更に寝不足と疲労が蓄積された状態で、大きな通りを直進している時に度々見受けられる症状であった。それは半ば意識がない状態で、ひたすら直進し続けるというものだ。本来曲がるべき交差点も過ぎ去って、只々真っ直ぐ突き進む。ふと意識が再浮上した時には、信じがたい距離を走破していたりする。その間の記憶が青年の頭の中にちっとも残ってないのが常であった。事故を起こしていない以上、どうやら信号できちんと停止発進はしているようではあったが。
ああ、何とも恐ろしい症状ではないか。さしもの青年も、この症状が表れた時は側道に車を停めて、15分だけ仮眠を取ることにしていた。
フェイズ3? ああ、それは事故のことである。幸い、青年はまだ人を轢くことだけはしていなかった。
青年はふと、車内のデジタル時計に目を向ける。時間は14:10。先程、先方の都合で15時のアポが取り消しになった。次のアポは16時。移動時間を考えても、うんと余裕がある。
青年はふむと思案する。何処かでゆっくりと仮眠を取ろうかと。
慣れっこのフェイズ1とはいえ、辛いものは辛い。それに休める機会を見つければ、逃さず休むのがブラックで生き抜く秘訣であった。
青年は脳内地図を照会する。この近辺で最適な仮眠場所はどこであろうか、と。答えは瞬時に思い浮かんだ。青年に限らず、営業であるなら、各営業方面の仮眠場所を押さえているのは当然のこと。営業あるあるというものであった。
ちなみに青年の好みは、都心から少し外れた場所にある大型家電量販店の駐車場だ。広大な店舗の二階フロアが、そのまま駐車場の屋根になっているタイプである。
この手の駐車場なら無料で停められる所が多く、また広大なスペースがあって常に余裕があるから、良心の呵責が少なくすむ。更に屋根が直射日光を遮ってくれて快適だし、尿意を催せば、店舗のトイレを借りればよい。
今回青年が脳裏に浮かべた仮眠場所も、こういった大型家電量販店の駐車場であった。
よし、久々にしっかりした仮眠が取れるぞと、青年は意気揚々と交差点でハンドルを切った。
ふと気付くと、目の前に幻想的な光景が広がっていた。空には不思議な光体が上っている。まるで太陽と月の合いの子のようだ。眩しすぎず優しく照らすのは月のようであったし。さりとて月にしては、辺りをまるで昼のように明るくしてくれる。
空の色も単純な青ではない。基調は青なのだが、その時その時によって淡い赤だの何だのと、別の色が重なって、複雑なグラデーションに色付く。
地上に目を向ける。遠目に見える山の稜線には、桜か、紅葉かと、様々な色に染まる木々が並ぶ。しかし、この二つの木が同時期に色付くはずもなかったから、きっと別の木であるのだろう。
青年はすーっと息を吸い込む。仄かに桃のような甘い匂いが鼻孔を擽った。
美しい景色に、桃のような香り。まるで古に語られる桃源郷のようだ。
(夢……か。きっと仮眠中に見ている夢なのだろう。しかし、明晰夢とは珍しいな)
青年は夢を見ることは稀であった。いつも泥のように眠る。ましてや、明晰夢を見た試しなどなかった。
否応なしに青年の気分は高まる。折角の珍しい夢だ。楽しまなければ損だと、青年は美しい景色の中を歩み出す。青年の歩いている周りにはまた、不思議な植物が群生している。一見すると、ススキのようにも見える。ただ色合いが全くの別物であった。優しい光に照らされるそれは、白銀色に輝いている。
ふわっと、気持ちの良い風が吹き抜ける。ススキのような植物は一斉に揺れて、白銀の波を思わせた。
青年は気持ちの良い風を肌で感じながらも、どうも気になって自らの姿を見やる。着ている服はかっちりとしたスーツだ。ネクタイも曲がることなく、きゅっと締め上げられている。青年は苦笑した。
(こんな夢の中ですら、堅苦しいスーツ姿とは。全く、もう少し楽な服でもいいだろうに)
そのように青年が心中でぼやいた瞬間であった。青年も気付かぬ内に身に纏う服装が変わっている。スーツ姿から、風を良く感じられる浴衣へと。
これはいいと、青年は満足げに頷く。夢の中だから何でも思い通りというわけだ。そう青年は得心する。
(ふむ。何でも思った物が出てくるなら……)
青年が思い浮かべるのと同時に、青年の両手の中にブリキのロボットがあった。青年はそれをしげしげと懐かし気に見やる。
そのブリキのロボットは、子供の頃弟が一等大切にしていたものだった。だが、ある日のこと、どうしたわけか青年は弟とこのブリキのロボットを取り合いし、その結果壊してしまうという、そんな失態をしたことがあった。
当然の如く、弟は酷く落ち込んで、しばらく塞ぎ込んだのだった。まだ子供であったとはいえ、青年はその当時から悪いことをしてしまったと、ずっと気に病んでいた。
青年の弟ももう成人しているので、ブリキのロボットなどどうでもよいだろうが。それでもずっと青年の中で気残りになっていた苦い記憶。
手の中にあるブリキのロボットは壊れる前の姿を留めている。
(ここに、あの日の弟がいたら、ごめんなと言って、手渡ししてやれるのになあ)
そんな風に青年は残念に思う。しかし、ここは青年の夢の中だからか、青年の弟が姿を現す気配はない。
青年は緩く首を振るうと、ロボットを手にしたまま、ススキのような植物が群生する坂を下っていく。下るにつれて、甘い匂いが強くなっていく。やがて、ススキのような植物が途切れると、美しい小川に出くわした。
どうやらこの甘い匂いは、あの小川から流れてくるようだと、青年は把握する。
青年は小川の淵まで歩み寄る。しゃがみこんで、その流れをじっくりと覗き見る。見た目は不思議なものではない。緩やかに流れる澄んだ小川だ。ただ、匂いだけが甘い。
どれ、味も甘いのかと、青年はブリキのロボットを置くと、両手で小川の水を掬い取る。
「だめ」
不意に背後から聞こえた声に、青年はびくりと肩を揺らした。背後を振り返る。果たしてそこには、純白の衣服を身に纏う少女の姿があった。
年の頃は、十歳前後だろうか。さらさらと流れる金砂の髪に、宝石のような碧い瞳。すっと整った鼻筋に、印象的な紅色の唇。肌の色は、滑らかな白磁か、新雪のように麗しい白だ。青年はこんなに美しい生き物に出会ったのは初めてであった。
「君は……?」
「だめよ」
美しい少女は、青年の問い掛けを無視して、再度同じことを口にする。
「何が駄目なんだい?」
「その水を飲んではだめ。ここのものを口にしたら、もう戻れなくなるわ」
青年は少女の言っていることを理解できずに首を捻る。しかし、『戻れない』という言葉に何ら危機感を覚えなかった青年は、その両手に掬った水に口を付けた。
それはこの世のものと思えぬほど、甘い甘い味がした。
思い付き短編第六弾。某掲示板のとある設問を切っ掛けに書いた小説。
設問内容は『ブリキのロボットは天国へ行けるか?』。
某掲示板に書き込んだ私の回答は下記の通りです。
無機物が天に行けぬ道理はない。
行けぬとすれば天に住まう者は一切の無機物に囲まれぬ生活を強いられる。
それのどこが極楽な世界であろうか?
天が過ごしやすい世界であるならば、必ずそこに無機物はあるはず。
つまり、ブリキのロボットは天国に行くことは可能である。
皆さんの答えはどんなものでしょうか? 興味があれば考えてみて下さい。