それはきっと誰かが見た、一夜の幻
朝と夜、人と人ならざるもの。
交わってもそれは相容れぬもの。
満天の星が輝く夜。月が真っ暗な夜に飲み込まれてしまったかのような新月の日。町外れといって差し支えないだろう小さな山の暗く深い森の中にある古びた小さな神社の前。草木も眠る丑三つ時。
風雨に晒されてすっかり薄汚れてしまった狐の像の上に独りの少女が腰掛けていた。
歳は十代半ばといったところか。身長はどちらかというと小柄な部類に入るだろう。白衣に緋袴、暗闇のような黒髪が星明かりを受けて控えめに、どこか怪しげに、けれど神聖に少女を彩っている。蝋人形のように蒼白い肌はいささか病的ではあったが、彼女の持つ日本人形めいた雰囲気にぴったりと合っていた。
しかし、なんと言っても一番目を引くのはその顔にくっつく狐面だった。切れ長な目の隙間の暗闇は無表情をしていて見るものをぞっとさせる。笑っているように吊りあがっている口端はただただ不気味なだけだった。
「あぁ」
少女が溜息とも感嘆ともつかないような声をそっと静かに吐き出す。
華奢な手の指を絡み合わせ吐息のような声で儚い言葉を紡ぐ。
「何て良き日。祭りを、祭りを……」
ニヤッと、妖しげに動くはずのない狐面が笑ったように見えた。
少女の蒼白い手が神社の鳥居、境内またそこに続く階段へと向けられる。
「祭りを、始めようではないか」
さっきとは打って変わった凛と響く鈴のような声が誰もいない神社で寂しく響く。
ポポポポポ、という音と共に狐火が境内を照らし出した。
「うふふふふ」
愉しそうに少女は空へと手をかざす。
「おいで、おいで、皆々様方」
謡うような節回しで囁きながら、彼女は星を手招く。
「今宵は新月、妖かしの祭りを始めましょうぞ」
そのまま手を下ろし今度は再び境内へ向かって複雑に手を振る。
すると、揺ら揺らと当てもなく揺らいでいた狐火たちが一斉に提灯へと化け、境内と階段を華々しく飾る。
「此の度、霜月の祭りを主催させて戴くのは、」
パチンと乾いた音と共に少女が手を叩くと無造作に落ちたままにされていた落ち葉は祭りの屋台となった。林檎飴、たこ焼き、焼きそば、籤引き、烏賊焼き、金魚掬い、焼きとうもろこし、射的、大阪焼き、型抜き、ラムネ、たい焼き、綿飴、ジャガバター、宝掬い。
何かが焼ける香ばしい匂いと、甘い匂い、売り子達の威勢の良い呼び声が閑静な神社に充満する。
「××××の夜憑にござァい」
それだけ謡い上げ終わると、少女は愉しそうにコロコロとその場で笑い転げた。
いつの間にか、即席の祭り会場には誰かがちらほらと見え始めている。祭りらしき雰囲気が整い、華やかなお囃子が何処からともなく流れ出していた。
少女は存分に笑い転げた後、狐の像から飛び降り一歩先の祭りの中へと入っていく。跳ねるような足取りが彼女の浮かれようを分かりやすく表していた。
「うふふふ」
祭り提灯から柔らかな光が放たれている。お囃子の笛の音がひょうきんに、大太鼓の音はお腹にくるように低く重く、小太鼓は軽快に、和音を響き渡らせていた。
それは、愉快で仕方ないものだった。
「うふふふ」
十一月という秋も深まり冬がすぐ隣にある季節だというのに、祭り会場には浴衣姿の誰か達が愉しげに蠢いている。少女は水の中を泳ぐ魚のようにスイスイとその人並みを当てもなく独り縫い歩く。歩きながら少女は小さく口ずさんでいた。
「さァさ、今宵は無礼講。神様に鬼に幽霊、妖怪に仏様、人間に虐げられしモノから崇拝されしモノまで皆々様で楽しみましょうぞ」
漆黒と緋色と純白が柔らかな、熱っぽい空間の中翻る。カラコロと黒塗りの下駄が軽快な音を立てる。
「何せ今日は、祭りなのだから」
▲▽
満天の星が輝く夜。慢性的な寝不足でしょぼしょぼする目を擦りながら僕はくらい細道をゆっくり歩いていた。伸びきった前髪が視界を狭めている。僕が歩くたび小刻みに揺れるそれはまるであざ笑っているようだ。……あぁ、いけない。また神経過敏になっている。まあ、いつものことなのだけど。
電灯もかなり長い間隔ごとにしかない田舎な道を呪いながら当てもなく、前へ進む。目的などはなかった。ただ、酷くむしゃくしゃしていて散歩でもしていないとまた『あれ』をやってしまいそうな気がして怖かったから。それだけの理由で僕は独りきり真夜中の散歩を決行していた。
濃密な暗闇が暗に『お前の居場所などない』と言いながら嘲笑っているような気がする。それは僕の悪い癖だった。何事に対しても酷い被害妄想を抱いてしまう。しかし、癖などというものは直そうと思って直るものではない。それに、妄想と割り切れないことだって現にあったわけだしね。
「と、いうか」
独り誰に聞かせるでもなく呟いてみせる。
「暗闇にまで拒絶されるとか、どんな駄目人間」
口からするりと吐き出されたのは何気ない自己否定の言葉。いつも通りの無意識下にいた僕自身から僕自身への言葉だった。あぁ、違う、違う。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
自己嫌悪の海に浸かりながら、俯く。
考えれば考えほど思考はマイナスへと転がっていく。どうやら僕の思考力と想像力は持ち主の精神をズタズタにすることが大層お好きなようだ。自傷癖はこんなところまで浸透していたのかとまだ幾分か冷静な思考力は妙な方向に納得していた。
不意に笛の甲高い音を聞いたような気がした。祭り特有のお囃子のような笛の音を。そして、良く響く太鼓の音を。
俯いたまま自分の聴覚を否定する。持ち主虐めに精を出していた思考力と淡く存在する常識をかき集めた。
祭り? なにを寝惚けたことを。だいたい今は十一月だぞ? しかも、こんな真夜中にやってるはずなんてないじゃないか。
その間にも空耳は依然続いている。どうやらそれは町外れにあるおんぼろ神社のほうから聞こえてくるらしかった。あの、普段存在を忘れ去られているような小さな神社から。
だったら簡単なことだ。異常な聴覚を正常に戻すためには視覚で見てやればいい。
半ば音が聞こえていることを受け入れてるようなことを思ってる時点で僕自身が異常をきたしているのかもしれなかったけれど。
僕は顔を持ち上げて神社の方角を見た。
そして、
「遂に視覚までおかしくなったか」
目も疑った。聴覚を正すどころか視覚のほうまで異常をきたしているらしいことに気付く。
なぜなら、神社のほうに明かりが煌々と灯っているのが幻のように淡く、しかし確かにはっきりと見えたから。
お囃子は依然ばっちり続いて聞こえる。ピーヒャラドンドン。楽しそうだ。
それを聞き続けているうちに僕は半ばやけくそのような気持ちになった。ここまではっきりとした幻覚幻聴があるなら本当かどうか確かめに言ってやろうじゃないか。
「あぁ、うん、うん」
ゆっくりと神社のほうへ今度は目的を持ち歩いていく。
△▼
人混みの中、少女はずっと当てもなく歩き回っていた。
祭りはいよいよ盛り上がりの凄さを見せ、屋台を冷やかし歩く誰か達の顔も赤みを帯びているものがほとんどだった。
少女は気まぐれに近くにあったラムネの屋台に近寄り、売り子に向かってその細い指を一本立てた。
「あい、ラムネ一本ね」
売り子、実態は経立、が水の入ったバケツの中から冷たく冷えたラムネを手渡し、受け取った少女はその濡れた手に銀色の硬貨を二つ落とす。無論それは本物ではない。けれど月に一度開かれる妖かしの祭りでは人間のそれを模倣するように偽物の硬貨でやり取りをするのが決まりだった。
屋台から少しだけ離れた道端で、水滴が表面に付着したままのラムネの栓をキュポンと小気味よい音を立てて少女は嬉しそうにはずす。薄っすらと水色に着色された硝子瓶の中の液体は細かな泡を無数に立てていた。瓶の真ん中あたりに収まっているビー玉の色は常盤緑と鉄色の筋が入っている透明なものだ。売り子が少女に気を使ってくれたのだろう。彼女は優しい悩みと憂鬱の味が大好物だった。
上機嫌なまま少女は狐面を控えめな口が見える程度までずらし、瓶の口にその紅い唇を当て、そのまま体を反らして一気にラムネを飲み干した。少女の細い喉がゴクゴクという威勢のいい音を鳴らす。
最後の一滴が少女の口の中に消えていった瞬間、ビー玉が小さく蠢いて、砕けて消えた。
「あぁ、美味しかった」
少女は満足そうにそう呟き、狐面を元に戻した。それから硝子瓶を屋台へと返しに行き先程の売り子に空になった瓶を手渡した。
「ご馳走様。良い想いの欠片だった」
「どうも」
ニッと売り子が嬉しそうに笑う。
この祭りが妖かしの祭りであることの最大の特徴。
それはここで売っている食べ物飲み物その他諸々のものは普通のものではないということだった。
全てが人間の想いの欠片でできているのだ。
幾ら人間達の模倣をしたいと思ったところで所詮は皆妖かし。人と食するものは根本的に違っていた。
そして幾代か前の祭りの主催者が知恵ををひねり出して得たのがこの方法だった。そう、彼女彼らが主食とする人間の想いの欠片を、人間の食べ物に擬態させることによって彼らの祭りの様子を模倣する。人の祭りというものを愛している彼女彼らにとってそれは画期的かつとても素晴らしい方法だったのだ。
「と」
少女は再びふらりと雑踏へと踏み出す。
次は行き先に目的があるようだった。しっかりした足取りで真っ直ぐに目的地へ向かっていく。
「うふふ」
少女の瞼の裏にはもう既に目的物である、艶やかな紅色にコーティングされた林檎飴が映っていた。
▲▽
頼りなく設置された電灯以外明かりの無い暗闇の道を暫らく歩くと町外れの神社、通称『おんぼろ神社』の入り口に辿り着いた。朱色が剥げかけた鳥居が見下ろしてくる。
「あは、は」
間の抜けて乾いた笑い声が僕の喉から漏れ出た。
ここにきてはっきりしたこと。それはやっぱり僕は異常をきたしているということだった。
祭り提灯から柔らかな光が放たれている。お囃子の笛の音がひょうきんに、大太鼓の音はお腹にくるように低く重く、小太鼓は軽快に、和音を響き渡らせていた。
嘘だろ?
そこに広がっていたのは紛れもない、祭りの風景だった。
頬を抓ってみる。夢かどうかを確かめる定番中の定番の行動。そしてこんな時のお約束どおり、僕の頬は痛かった。強めに抓ってしまったため少し頬がひりひりする。ただこれだけはちゃんと分かった。僕はしっかり起きている。ということはやはり精神的に僕は異常をきたしてしまったのか。
呆然と自分の精神について絶望する僕の目の前には楽しそうな祭りが延々と伸びている。
林檎飴、たこ焼き、焼きそば、籤引き、烏賊焼き、金魚掬い、焼きとうもろこし、射的、大阪焼き、型抜き、ラムネ、たい焼き、綿飴、ジャガバター、宝掬い。
何かが焼ける香ばしい匂いと、甘い匂い、売り子達の威勢の良い呼び声、浴衣姿の誰か達がいつもは閑静なはずの神社に充満していた。提灯からの柔らかな光が、その光の柔らかさとは裏腹にそれらの存在を強く強くそして鮮やかに僕の目に焼き付ける。
「あぁ、うー、あー」
異常だ、異常だ。でも逆に、僕の何処に正常が残っているというのか。
暴走状態になりそうな思考をまだ冷静な一部が宥めつつ、現実的な解釈をしようと試みる。
もしかしてこの幻を見るのは、今『あれ』をやりすぎたせいで僕は多量出血で昏睡状態になっているからではないのか? 頬を抓って痛かったのはそう、痛覚をちゃんと再現しているからだろう?
いや、それともこれは立ち向かわずに逃げた僕への罰なのか?
あぁ、失敗した。押さえられない僕の自傷癖が何の前触れもなしに冷静な解釈の中に乱入してくる。違う、違う。こんなことを考えたくはないのに。僕の叫びなんてものは無視をして、歯止めの利かない思考はそれを引き金に精神の自傷行為へと暴走しだす。
やっぱり全て僕が悪かったのだろうか? 僕が我慢さえしていれば今頃は全て円満になっていたのだろうか? そう、僕が我慢すればあんな事は起きなかったかもしれない。いや、そうだいっそ僕がいなければ。
「違う、違う」
むりやり声を絞り出して思考回路の暴走を止めようと試みる。鼓膜を震わせたのは酷く醜いノイズ交じりの掠れ声だったが、何とか暴走を止めることは出来たようだ。あくまで、一時的ではあるが。
このまま鳥居の前にずっと立ち尽くしたままだとまた思考の暴走に飲み込まれてしまうような気がした。否、気がしたではなくそうなるだろう、おそらく絶対に。
もう、異常でも何でも良いと捨て鉢な気分だった。まぁ、少なくとも今夜だけはだが。
鳥居を抜けて神社の境内へと続く階段へ足をかける。蠢く群衆の中の一人となって祭りの熱気の中に埋没すべく足を進める。適当に引っ掛けてきたパーカーは暑くて邪魔だと思った。即座に脱いで腰に巻く。
「あつ」
今は十一月、そろそろカーディガン姿の中学生が表を歩き始める頃合だ。なのに、この中は蒸し暑くまるでまだ八月のようだった。周りの誰か達が浴衣姿でいるのにもようやく納得した。
下に着ていたシャツの袖を捲ると『あれ』によって出来た細い黒い紅い筋がいくつもいくつも手首から覗いた。見た瞬間、自分が付けたものにも関わらずなんともいえない嫌悪感と罪悪感が沸く。やっぱり、シャツを捲るのは止そう。
ふらふらと祭りを当てもまく散策する。知り合いに遭遇してしまうかもという危惧は無かった。まず、この町には僕と同類の子供はいないらしいし、第一こんな夜更けに徘徊している暇な子供など、この町には僕一人いれば十分だ。その証拠に周りを歩いている誰か達は皆大人のようだった。
いや、その前にこれはそもそも僕が見ている妄想に過ぎないのかも知れないのだが。
前髪の隙間から覗くどこか虚ろな目で周囲を見回す僕に周りの誰か達は全くに警戒心を抱いていないように見える。そのことは僕にとってはかなり新鮮で久しぶりのことだった。嬉しさについつい頬が緩むくらいに。そういえば僕がこんな目で見てもらえるのは何時振りだっけ?
まぁ、そんなことはいいんだ。
さて、何時までここにいようか?
△▼
林檎飴、という屋台ののぼりが見えた頃からいよいよ少女の歩く速度は走ると形容したほうが近いものになっていた。下駄のカラコロの速度も上がっている。結われてすらいない黒髪の先っぽがふわりふわりと誘うように揺れる。
「うふふ」
カカッという軽い擬音が似合いそうな様子で少女は林檎飴の屋台の前で停止すると即座に売り子に向けて丁度その艶やかな林檎たちの健康的な色とは不釣合いの二本の指を突き出した。
「おぉ、これはこれは夜憑殿。今宵も有り難うございます。うむ、二本ですな。飴の種類はいつも通りで?」
もう、すっかり顔なじみなのだろう。柔和そうな顔をした売り子の老人、これまた実態は経立、柔らかな物腰で尋ねる。
その問いを聞いて、即座に少女は上機嫌に首を縦に振った。
「はい、はい。ではいつも通りで……おぉ、そうだった。近くで良質な悩みの欠片が手に入りましてね、しかし、いかせん背負っていた事情が事情で少し苦味が強いのですが、飴のほうに練り入れましょうか?」
少女は今度は少し躊躇うような素振りを見せた後ゆっくりと首を縦に振った。
にっこりと老人が微笑む。
「はい、では、どうぞ」
作業工程なんてものは所詮模倣物、そもそも存在などしていない。
頷いてからあまり間を置かずに差し出された二つの真っ紅な林檎飴を少女はいそいそと受け取る。ついでにしわしわになっている老人の手へと金色の硬貨と銀色の硬貨を一つずつ落とした。二つの硬貨がぶつかる硬質で冷たく、涼しげな音がした。
「毎度ありがとうございます。次回もどうか御贔屓に」
老人が丁寧にそういって腰を折る。少女は鷹揚に首を縦に振って見せてからまた雑踏の隅のほうへと身を寄せた。
祭り提灯の柔らかな光に照らされて、血のように真っ紅な林檎飴は艶やかさを増しているようにも見える。少女は嬉しそうに首を傾けた。ゆっくりとした動作で狐面をずらし、そこでまた嬉しくて仕方が無いといった風情で微笑む。くるくると意味もなく二つの林檎飴が少女の手によって回る。ようやくそれを止めると少女は紅い舌先を出して大切そうにそれの片方を一舐めした。
たまらなくおいしいのか少女はその場で小さく身悶える。
と不意にその動きが固まった。ぎこちなく少女が視線をさまよわせ、苦々しく口許を歪めた。真珠の粒のように白い、小さく形の良い歯が紅い唇の間からちらりと覗く。人間の少女を基準とするとその犬歯はやや尖りすぎているように見えた。
狐面を元の位置へと戻しながら少女は低く低く呟く。
「人間、か」
▲▽
ふらふらと当てもなく祭りという名の怪物の腹の中の喧騒を練り歩き続ける。不意に視界の隅に林檎飴の屋台が入り込む。僕はほぼ無意識のうちに顔をしかめていた。
林檎飴は僕がもっとも苦手とする食べ物である。恐怖と言っても過言ではないだろう。味や食感だけだと好み、というかどちらかというと大好きと言ってかまわないぐらいの部類には入る。実際昔は大好物だった。より正確に言うなら僕がこんな風になるまでは。
今はどうしてもあの林檎をコーティングしている紅色が好きになれないのだ。あの色を見ていると『あれ』をしたときに傷口からじわりじわりと滲むように出てくる血の色を連想させてしまう。滲む程度にしか切ることが出来ないのだ。深く抉る様になんて臆病な僕には到底無理な話。腕を血だらけにするなんて傷は写真でしか見たことはない。正直言うならその写真を見たとき僕は吐きそうにすらなった。それくらいなのだ。それにもともと僕は昔から痛いのも血を見るのも本当は苦手だった。なら、『あれ』をするのはやめればいいのだけれど、なんていうのだろう。『あれ』をやってみないと解らない快感というか、そんなものがあって、あぁやっぱりこんなことを思ってる時点で僕は異常なんだろうな。うん。ただ、『あれ』には一度やったらやめられない、依存性みたいなものが「そこの、人間」
「……」
少し苛立ったような少女の声が暴走しだす思考回路を無理やり止めた。それは僕のノイズ混じりのような掠れ声とは違い、芯の通った鈴のような綺麗な声だった。
ぼんやりとしたまま反応しない僕に苛立ちを募らせたのか、さっきよりも強く声が発せられる。
「人間、聞こえているだろう。反応しろ」
反応するよりも先に、僕の思考は少女の台詞の中の異物に気付き、自身に疑問を投げかけた。
人間?
まるで自分は人間ではないかのような呼びかけ方だ。
少しの好奇心に動かされながら、声のする方へ首を捻った。
僕を見上げている恐ろしいまでに無表情な狐面と目が合った。
いや、正確にはその狐面の目に当たる真っ黒な穴の部分の奥から注がれている視線にかち合ったというべきか。瞳自体は見えていないのだから。
どちらにせよ確かに人間らしくはない、というか人間臭さがない少女だった。
「人間、ここに来てから何か食べたか?」
ニンゲン、ココニキテカラナニカタベタカ?
唐突過ぎてすぐには言われたことを理解することが出来なかった。
カタカナ変換、ひらがな変換、漢字変換。うん、僕は祭りに来てから何か食べ物を口にしたか聞かれたのだろう。多分。
目がかち合ったままじっと僕を見つめたままの狐面をからはいささかの悪意も感じられない。
こんなことも久しぶりのことだった。最近目を合わせた者は大抵、悪意か侮蔑かをその瞳の中に浮べていた。純粋に見つめられると言うのはなかなか無いことだ。ん、最近? あぁそうだな。うん。……ただ、悲しかな、僕は神経過敏、自傷癖ありのコミュ障いじめられっ子だ。視線をかち合わせるということは背中に冷や汗を浮べるほど苦手なことである。
明るい感じに振舞ってみてもやっぱり思考回路はどうしてもマイナスに転がっていく。何故だろう? やっぱり自前の自傷癖のせいなのだろうか。
「否定、肯定どっちだ」
少女が唐突に真っ紅な林檎飴を僕の眼前へと突き出す。
真っ紅、真っ紅な林檎飴が僕の瞳に映し出される。
「……っ」
林檎飴恐怖症発動警報。頭の中でそんな漢字だらけの警報の情報がペカペカと点滅する。
う、あ、最悪。
少女は悪くないと、思う。なぜなら僕が早く答えなかったのが少女を焦らしたのだろうし、そもそも林檎飴が苦手なのは僕自身の問題だからだ。
うん、だから、何か背筋に悪寒が走ろうが、吐き気がしようが、顔が引き攣ろうが、手先が細かく痙攣しそうになろうが、訳の分からない興奮と快感と少しの疑惑と苦痛、こんなんじゃまだまだ全然足りないという欲求、不安感達成感背徳感満足感敗北感解放感嫌悪感安心感罪悪感優越感その他もろもろの感情の波で溺れそうになろうが、そうそれは全て僕のせい。
でも、でも、願わくばそれを降ろすか、僕の目の届かないところへやって欲しいな、なんて。あはは。渇いた作られた笑いとそんな言葉が喉の奥でひりつき粘ついて、吐き出したくて、そうしそうでそうしたくて堪らなくて。だけど今の僕には、
そんなことは、言えなくて。
その代わりに少女の質問、というかむしろ尋問の答えを競りあがってくる胃液を宥めながら口にした。
「食べてないよ」
少女の狐面が浮べているような無理やりで奇妙、そして歪すぎる微笑を浮べて。
「なら、いい」
声の質の根本的な違いが悲しい。
納得したように首を振ってから少女はゆっくりと林檎飴を下げた。首の振りが二回だったのは何か意味があったのだろうか。
そこでようやく少女の顔だけでなく全体を見る余裕が出来た。……しかし見れば見るほど奇妙としか言いようがない少女だ。服装も奇抜だが神社の関係者といえば納得できる巫女姿である。まぁその場合結わえてもいない髪型はちょっと変だということになるが。けれど何と言うか、やっぱりこの少女は根底的に人間というものではなくもっと奇怪なもののような気がするのだ。仮に今この少女の実態は人形や精霊などと誰かに言われればそちらのほうが妥当な正体だと納得してしまうだろう。
『普通な人間』からはおそらく逸脱している僕がいうのもなんだったが。
僕を見つめたまま揺らがなかった狐面が安堵の溜息をつく。提灯の光の当たり具合が少しだけ変わってさっきよりもほんの僅かだけそれの表情が人間味を帯びた。
「手遅れになる前で良かった」
そして、狐面の奥から聞こえてきたのもさっきよりも優しい声色の声だった。
なんとはなしに照れくさくなって視線を下に降ろすと、ぎゅっと握り締められている少女の両手に思わず目がいく。林檎飴、二つ。提灯に照らされてテラテラと妖艶に艶めくそれはやっぱり瞬時的に僕の脳裏に『あれ』の時の血の色を浮べさせる。気分が悪い。見るんじゃなかったと深く後悔する。
また微妙に顔を引き攣らせる僕を少女は凝視している。さっきの僅かな人間味は何処へ行ったのだろうか。一瞬得体の知れない不安感が襲う。しかしそう思ったのもつかの間、次に発せられた少女の躊躇いながらの声に少しだけ僕は安堵した。
「人間、名前は?」
そして問いを聞いて表情が硬直しそうになった。まぁ、僕の表情のレパートリーなんぞは高が知れているのだけれど。少なくとも常人のそれよりは遥かに少なく、変な方向において多いが。
うぅ。この少女は妙な方向に勘がいいのだろうか? いや、そんなことではないだろう。僕が神経過敏なだけなのだ。
少しだけ乾いてきた口を開けて喉から声を無理やりひねり出すように発声する。しかし声はやはりノイズ混じりの掠れ声のようなものになってしまった。
「……ゆ、結城誉」
自分の名前も僕はあまり好きではなかった。むしろ毛嫌いしている。折角両親が心を込めて付けたものだとは理解しているのだが。
第一、誉なんて名前は僕には荷が重過ぎる。何かを成し遂げられるような子になるように? そんな子にはなれなかった。それどころか結局今の僕に出来ているのは何かを成し遂げることではなく、自分の殻の中に閉じこもって人様に迷惑をかけることだけなのだ。自宅警備員とか人生脱落者とかの方が僕にはお似合いだ。
「ん」
少女が初めて僕の顔から視線を逸らした。それが次に向かう先は真っ紅な真っ紅な林檎飴。何だ、何だ。今日は厄日なのだろうか。それとも僕は林檎飴に呪われでもしているのだろうか。
一日のうちに何度も林檎飴を見てしまったショックからか、視界の中の林檎飴がドロドロと溶け出すような錯覚を覚える。ドロドロどろどろドロロロどろりどろり。鉄臭い独特な血の匂いが鼻をつき、僕は無意識的に唇を噛み締めていた。右手首の細い幾つもの無造作に付けた傷が鈍く疼く。思考の暴走、記憶がいらぬ情報を垂れ流し、僕はまたいつも通り精神の自傷の嵐に翻弄される。それはいつも僕が体験する何百倍といっていいほどの密度を持っているから正確には記憶通りではないのだろうけど。いろいろなモノに焦点が合わなくなり、あぁ狂っていく、その事しか考えられなくなる。
血の匂い、血の匂い、血の真っ紅な色、『あれ』の匂い、『あれ』の色、血の匂い、僕が僕であろうとする瞬間、血の色、血の匂い、僕が僕でなくなる瞬間、『あれ』の匂い、真っ紅な血の匂い、安心安堵の瞬間、不安恐怖の瞬間、血の色、血の匂い、血の匂い色、訳の分からない興奮と快感と少しの疑惑と苦痛、血の匂い、噎せ返るほどの血の匂い、鮮やかな紅色、こんなんじゃまだまだ全然足りないという欲求、血の匂い、目に焼きつく紅い紅い色、血の匂い、血の色匂い、こんなにも敏感になってしまって、血の匂い、血の匂い、あぁこんなにも紅い紅い、血の匂い、血の紅い紅い紅、血の匂い、狂おしいほどの真っ紅、血の匂い、血の紅色、血の匂い、もう戻れない、血の匂い、血の匂い、血の色、血の匂い、血の色、血の色、血の匂い、血の匂い地の匂い知の匂い智の匂い値の匂い治の匂い、血の色地の色知の色智の色値の色治の色、血の地の知の智の値の治の、あぁ違う、違う、血の匂い、血のにおい、血のニオイ、血の色、血のいろ、血のイロ、僕の匂い、ぼくの匂い、ボクの匂い、僕の色、ぼくの色、ボクの色、それはそう、僕が生きているという証、僕が存在するという証、生の証明、存在の証明、充満して、充満して、一杯いっぱいイッパイ沢山たくさんタクサン、あぁ僕は生きている生きることができている、そして僕はここにいる存在している存在できている、そう此処にここにココにいる、僕は、そう、僕ボクぼくは、痛くてもそれは、だって、ねぇ、皆はそれを僕に与えてはくれなかった、僕は与えてもらえなかった、それどころか、あははは、皆は君達は僕から奪っちゃって、もう全然ないのにねぇ、皆に君達に奪われちゃって、奪われちゃって、残り滓はほんの僅かしかなくて、いやそれすらないのかも、ふぁははは、何で欲しがったの? 何が欲しかったの? 何がしたかったのさ? 何がしたいのさ? くくく、だからそう、もうこうするしか、こうして僕を保つしか、うぁはは、はははは、あぁもう解らない分からない判らないワカラナイわからない、ねぇやっぱりこれは僕のせい君達のせい僕のせい僕のせい皆のせい僕の僕の僕の僕僕のせい? ねぇ答えて応えてコタエテこたえて教えてオシエテおしえてよ。もう遅いけど。うん。遅い遅い手遅れだ。くすくすくす、ただだけどもそれは、そう、あはは、何処までも何処までもそれは、血の血の、くふふふ、あぁそう、ひたすらにひたすらのそれはまぎれもなく、血血の血の、血塗れ血まみれ、嘘だけどウソだけど? 本当だけどホントウだけど? 本当だけど嘘だけど? ウソだけどホントウだけど? ただそれは事実、鉄のそれにとても類似いや酷似している血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血、
錆びた鉄のような、血の味。
ふと我に返ると唇に血が滲んでいた。どうやらうっかり強く噛み締めすぎたらしい。思考の自傷癖の暴走、恐るべき。流石僕の思考だと褒めるべきなのか自嘲すべきなのか諦めるべきなのか。そんなことすらすぐに判別が付かないほど僕は疲れ切っていた。そう、慣れきるほど僕は異常に長く浸かってきたわけじゃない。まぁ、これによって記憶の大げさなフラッシュバックが止まったことは喜ぶべきことなのだろう。唇は微かに痛いけれど。
いつの間にか僕へと視線を戻した少女の狐面が無表情に、心配そうにこちらを覗き込んでいた。矛盾した表情である。しかし少女のそんな表情が僕には心地よく、懐かしく、しかし不相応だった。あぁ、その表情は望んではいけない、そしてそのことに苦しんではいけない、だって、なぜなら、僕が全部悪いのだから。
突如、少女の色白を通り越してむしろ蒼白い華奢な左手が僕の頬に触れた。ビクッと少し身構えてしまう。けれど少女の手は躊躇わず、揺るがない。僕はただ狐面の奇妙な笑みをたたえた口許を凝視するしかなかった。
「お前は、そこから、逃げたいのか?」
狐面の奥から不思議な声がした。
言っている内容も僕の心情を見透かしたとしか思えないことだったからそちらにももちろん吃驚した。しかし、それよりも僕にはその声のほうがずっとずっと気になった。
少女の声自体はあまり変化したわけではない。ただそこに含まれている響きがいろいろなモノを詰めすぎたようになっていて。
自嘲と憐れみと蔑み、安堵と嬉しさと喜び、突き放したような冷たさと心配をしているような温かさ、理解と理解しがたいモノへの困惑、言葉にすら出来ないようなそんなような数々の『色』が見え隠れしている、そんなような響き。あぁ、しっくりとくる表現方法が見つからない。
少女のヒンヤリとした、生きているモノとしては冷たすぎる指先が僕の頬を軽くなぞる。心地好いと共にそれは少しこそばゆかった。
僕の返事を待たずに少女は問いかけを独り、続ける。
「それともお前は、そこに、立ち向かいたいのか?」
どんな感情によって歪んだのかはわからなかったけれど、狐面が歪んだ気がした。目の真っ暗な空洞部分、その奥にあるだろう瞳が揺らいでいるそんな気もした。少女が一瞬年下の一人の女の子に見えた……気がした。
「覚悟が、お前にはあるのか?」
頬に触れた時と同じぐらい唐突に、少女が鋭さを帯びた。
言葉にも、そして頬に触れている指先にも。
冷たい少女の爪が僕の頬に食い込んでくる。不意に放たれた言葉に心を抉られる。だが不思議とどちらにも痛みは感じなかった。
「私達は酷く気まぐれな存在だ。だから気まぐれついでにお前に選択肢を与えよう。此処は妖かしの祭り、一夜限りの宴。此処にあるものは皆お前達人間の想いの欠片によって出来ている」
全くに展開についていけない僕に苛立ったように爪が今度は軽く頬を引っかく。
「あぁ、あぁ、お前は理解しなくとも良い。人外のものの気まぐれだといっているだろう? 理解できるわけがない。ただ、お前は私の言うことを選べばいいのだ」
少女の左手が、離れる。
器用にも右手に二本持っていた林檎飴の一つを僕の頬に触れる代わりに掴む。
「理由なぞ、強いて言うなら林檎飴の素材がお前の想いの欠片だった、ということなのだから」
そして何の躊躇いもなく僕の目の前に林檎飴の片方を突きつける。
「選べ人間。このような選択を迫られることを恨むでない。このような選択が出来ることを感謝するでない。お前はただ選べばいいのだ。私はお前の選択を早めただけのこと」
真っ紅な林檎飴が視界の真ん中に映っている。発作よりも混乱のほうが勝っているのか、思考の暴走は始まらない。
「選べ人間。逃げるのか、立ち向かうのか。この林檎飴を食し私達の仲間となるか、何も見なかったことにして此処から立ち去るのか。お前は選ばなければいけない。意思ある人間よ、お前はどうするのだ?」
?マークが頭の中を侵食していく。
僕は少女に何を、どうすればいいのか。何が正解なのか。
いきなり選べと言われても困る。
僕の心を見透かしたのか、少女はフ、と鼻で嗤うような音を立てた。
「選べ人間。お前はその過去から逃げて楽になりたいのか、それとも現在の現状に立ち向かって普通に戻りたいのか。さぁ、選べ。お前への虐めに屈して此方の世界へくるか、虐めに立ち向かうのか」
あ、
え、なんで、
知って……る?
僕の、虐めのことを……!
と、言うか
さっきまでの問い掛けは、
僕に、そう、そう、 を。
ほぼ無意識の内だった、と思う。
僕の左手は真っ紅な林檎飴を少女の左手ごと力強く、払っていた。
落下した林檎飴は細かな飴の破片を撒き散らしながら、道に寝そべっている。さっきまでの艶やかさはいつの間にか失われていた。
少女の狐面がニマリと奇妙に笑った、気がした。
「立ち向かうんだな」
「ひっ、あ、あ、あ」
「種明かしをしようじゃないか」
金縛りにあったように体が動かない。得体の知れない恐怖に囚われている僕の目の前で少女はもう片方の残った林檎飴を弄ぶ。
「最初から最後まで、此処はお前が見た一夜の幻。臨死体験ともいえるだろう。さぁ、行け。お前はお前に戻る。戻ったらおそらく病院だろう。そしてお前はこのことは全て忘れるんだ」
少女が何の躊躇いもなく僕の胸を強く押す。
「さぁ、お前は生きなければならない。立ち向かわなければならない。
それをお前が選んだのだから。『あれ』は程々にな。じゃあ、」
足が縺れよろける。体が後ろ側へ倒れる。
「さようなら」
少女の囁き声だけが耳元に残る。
△▽
目を開けると白い天井が見えた。
傍にいて僕が起きたと知ると大騒ぎし始めた母親に後から聞いたところによると、僕はどうやら『あれ』による自殺未遂をしたらしい。
らしい、というのは僕には全く自覚がなかったからだ。
ぼんやりと記憶が混濁している気がする。何か忘れてはいけないことを忘れてしまったようなそんな気分だった。
そういえば未遂をして以来、どういったわけか『あれ』をしたいとは全く思わなくなっていた。それは多分、僕にとって良いことなのだと思う。ただ、その代わりに時々訳の分からない空耳に襲われることが多くなった。聞き覚えがない少女の澄んだ声で別れの言葉だけを告げられるという。
△▼
道に力なく転がったままの林檎飴を名残惜しそうに見つめながら少女は物憂げにもう片方の林檎飴を舐めていた。祭り会場から溢れかえらんばかりの人数に肥大化した誰か達の群集は器用にも少女と林檎飴を避けながら流れていく。
「まさか、人間の魂が迷い込む何てな」
元の体に戻したからよかったものを、と音を消して唇が続きの言葉を紡ぐ。
人間、確か誉といったか、が迷い込んできてしまったのは少女にとって全くの不測の事態だった。最後に選択を迫ったのも半ば賭けの領域で、内心では留まることを選択されたらどうすればいいのかと冷や汗をかいていたのだ。
「まぁ、過ぎたことは良しとするか」
物事に拘り過ぎない。こういったところは実に彼女が妖かしらしい一面であった。
もちろん人間に言っていたことの大方は虚偽やでまかせで、真実といえば彼女らがかなり気まぐれな者だということぐらいだった。そもそも選択権というものを彼女自身が他人に与えることなど出来ない。彼女は妖かしであっても、神様ではないのだから。
「宴もたけなわ、夜ももうすぐ明ける頃合」
少女の黒塗りの下駄が何の躊躇いもなく道上の林檎飴の上へと置かれる。パキリと軽い、硬質な音を立てて林檎飴の飴があたりに飛び散った。昇天できなかった想いの欠片は再び誰かの元へと旅立っていく。無感動に狐面はそのさまをを眺めていた。
「さァさ、さァさ、皆々様お開きのお時間だ」
少女の黒髪が風もないのに揺らぐ。まるでそれは意思を持った暗闇かなにかのようだった。
パンパンと少女が手を打った。いつの間にか食べ終えていたのかそこにもう一つの林檎飴は見当たらない。
少女の手を打つ音を合図としたかのように周りの誰か達は暗闇に溶けるように次々と消えていく。祭りの熱気やお囃子の音色の代わりに静寂が、提灯の柔らかな光の代わりに冴え冴えとした星明りと冷たい暗闇が、大勢の群集の代わりに独りきりの静けさが、おんぼろな神社へと帰ってくる。
祭りの跡形もなくなった神社に独り佇んでいた少女は少しだけ億劫そうに薄汚れた狐の像の上、自分の寝床へと帰っていく。カラコロとどこか寂しげな音を黒塗りの下駄がたてる。緋色と純白と漆黒の組み合わせは少女に人形めいた神聖な印象を纏わせる。
「あぁ」
少女が溜息とも感嘆ともつかないような声をそっと静かに吐き出す。
華奢な手の指を絡み合わせ吐息のような声で儚い言葉を紡ぐ。
「何て良き日。祭りを、祭りを」
ニヤッと、寂しげに動くはずのない狐面が笑ったように見えた。
境内に辿り着いた少女の蒼白い手が神社の鳥居、境内またそこに続く階段へと向けられる。
「祭りを、終えようではないか」
さっきとは打って変わった凛と響く鈴のような声が誰もいない神社で寂しく響く。
「そう、この祭りは」
少女は完全に物理法則など無視した動作で狐の像に飛び乗る。
狐面はいつも通り、ただただ不気味なだけの表情を浮べて神社の鳥居、境内またそれに続く階段を見渡す。
「『それはきっと誰かが見た、一夜の幻』なのだから」
少女が狐面のその切れ長な目の隙間の暗闇の中で目を閉じる。
夜は去っていく。
朝がやってくる。
少女は独り、眠りに憑かれて。
人間は皆に立ち向かうために、目醒める。
この小さな噺とも呼ぶのすらおこがましい噺がだれかの目に触れることを祈って