第4話 鬼
呼吸が荒くなってしまっていてすぐに声が出せないので、走るのをやめて息をととのえる。
ユノさんはうつむいて、わたしに背を向けている。ひりひりするのどから声を絞り出して名前を呼んだけれど、ユノさんはこっちを向いてくれない。歩いて近づきなからもう一度声をかける。やっぱりこっちを向いてくれない。
手が届く距離になったので背中にそっと触ってみた。
振り向いたユノさんはわたしの知っているユノさんじゃなくて、大きく開いた片目は完全に白目をむいていて、もう片方の目があるはずのところには黒い穴があって目の玉はなくて、鼻は潰れていて赤黒い血にまみれていて、唇はいくつもの傷でずたずたに裂けていて、唇の間からは黄色い牙のような歯がのぞいていて、歯の間からはあごの下までだらりと舌がのびていた。
小指がなく甲の骨の見えている右手がわたしをつかんで、指が一本もない左手が殴りかかってきたので、わたしは目をつむって両手でユノさんなのか人食い鬼なのかわからないものを突き飛ばして、つかんでいる手を振り払って、家の玄関の扉を開いて飛び込んだ。
手は震えるし扉はすごい力で叩かれるので時間がかかったけれど玄関の鍵をかけて、靴を脱いで家に上がり、手当たりしだいに明かりのスイッチを入れて、リビングのテレビの電源ボタンを押したけれど画面は暗いままで、いつもだったら耳障りなくらい笑い声ばかりするはずなのにどのチャンネルのボタンを押しても何も写らず何の音もしないので怖くなって、とりあえず全部の部屋の電気をつけてからお父さんとお母さんに電話しようと思って、まだ明かりをつけてなかった台所へ行くとテーブルの上にお父さんとお母さんが横になっているのが目に入ってきた。
お父さんは紺色のスーツと白いワイシャツを着て青いネクタイをしていて、お母さんは白いブラウスを着て薄い黄色のスカートをはいていて、テーブルの上に横たわってたくさんのカラスについばまれていて、黒いくちばしがつつくたびに体がビクンビクンとけいれんして血が噴き出して、白いワイシャツやブラウスが真っ赤に染まっている。
一羽のカラスがわたしに気づいてこちらへ顔を向けて一声鳴くと、ほかのカラスもいっせいにわたしを見て鳴きだして、それで目が覚めたみたいにお父さんとお母さんも顔を上げてわたしを見るので、わたしは何が起きているのかわからないけれどとにかく怖くなって、台所から走り出てリビングのガラス戸を開けて家の外へ逃げた。
裸足だったけれどかまわずにどこへ行くかも決めず走り出して、全力で足を動かしたけれど全然前に進まなくて、カラスの鳴き声がわたしの家からだけじゃなくて空一面から聞こえだしたから見上げると、大きな月に照らされて木にも屋根にも電線にもカラスがいっぱいとまっていて、お腹をすかせたそいつらはわたしのことを食べるための肉としてしか見ていなくて、立ち止まったらユノさんやお父さんやお母さんみたいにされてしまうだろうから走り続けた。
気がつくとユノさんと会っていた団地にいて、いつもは誰も住んでいないみたいなのに今夜は明かりのついた部屋がたくさんあって、開いた窓からたくさんの大人や子供の顔が外を見ているからわたしは助けてもらおうと思って立ち止まって叫んだのだけれど、よく見るとどの顔も血まみれで目がなかったり鼻がなかったり耳がなかったり口が裂けたりしていて、わたしに気づくと窓から這い出して頭から人形のように地面へ落ちてきて、頭がへこんだり顔がひしゃげたりしてもかまわずにゆっくりと立ち上がってわたしを取り囲んだ。
わたしを取り囲んだどの顔もわたしを食べるための肉としてしか見ていないのがはっきりわかって、わたしは食べないで食べないでわたしは食べるための肉じゃないの人間なのって叫んだけれど全然聞いてもらえない。
食べないで食べないで食べないで、この体は食べるための肉じゃないの、生きている人間の体なの、お父さんとお母さんが産んでくれた体なの、笑ったり泣いたり怒ったり誰かを好きになったりする心をもった体なの、あなたたちが食べるための肉じゃないの、そんな風に見ないで、そんな風に食べようとしないで、食べないで食べないで食べないでって叫んだけれど、わたしを取り囲む輪は小さくなって、何十本もの手がわたしに向かって伸びてきた。
わたしはもうだめだって思って目をつぶったけれど、わたしの体がつかまれることはなくて、わたしを取り囲んだ輪が遠くなるのを感じたから目を開けると、たくさんの猫がわたしを食べようとしていたやつらの顔に飛びついて、前脚の爪でひっかき、後ろ脚で蹴飛ばし、小さな口でかじりついていた。なかでも一番大きな猫はあの子猫と同じ灰色に黒い縞の入った毛の色をしていて、大きな鳴き声を上げながらわたしを守ってくれていた。
わたしを食べようとしていた人食い鬼が猫に気をとられているすきに逃げ出して、ともかく団地の敷地の外へ行こうと走ったら、団地の一番外れのユノさんがいつも座っていた階段と子猫のお墓のあるところに着いた。
階段に子猫を抱いたユノさんが座っている―――。
わたしは立ち止まり、ユノさんはわたしが来るのを待っていたように子猫を抱いたまま立ち上がった。
子猫は最後に見た時と同じように手足がなくて頭にもお腹にも赤黒い穴が開いてしまっていて、ユノさんも片目がなくて鼻は潰れて唇は裂けてしまっている。
でも、この場所で会ったってことは、たとえ死体であってもわたしの知っている子猫とユノさんなので、わたしは逃げたりせずにユノさんが近づいてくるのを待った。
指のない左手が子猫を抱き、骨の見える右手がわたしを抱く。
子猫はお腹がすいているのか、わたしの胸に口をつけて服の上からミルクを吸うような仕草をするけれど、お母さんじゃないからおっぱいは出ないので、わたしはごめんねって心の中で謝る。
ユノさんもお腹がすいているみたいで、わたしの首筋に黄色い牙のような歯を近づけてくる。わたしは一瞬、突き飛ばして逃げだそうかと考えたけれど、今夜逃げても結局いつか人食い鬼に食べられてしまうのだから、どうせ食べられるならユノさんがいいと考え直した。
ユノさんはすぐにかじりついたりせず、いつもふざけてするように耳に唇を何回か当ててから耳たぶを口に含んだ。見た目は変わっちゃったけれどやっぱりユノさんだ、ユノさん優しいって思った瞬間に耳たぶが食いちぎられて、わたしの顔や上着に血が飛んでしょっぱい鉄の味がした。
ああ、このままわたしはユノさんに体をみんな食べられちゃうんだなって思って、怖いような嬉しいような気分にひたっていると、東の空に太陽が昇った。太陽は異常なくらい明るくて、あたりに光が満ちて見えるものすべてが白く塗りつぶされて、何も見えなくなってしまって―――。
わたしは病院の白い蛍光灯の光の下で目を覚ました。