表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第2話 子猫

 学校が終わって、いつもの近道、いつもの団地、いつもの階段。

 ユノさんはいつものように座っていて、脇にミカンの段ボール箱が置いてあり、か細い小さな鳴き声が箱の中から聞こえてくる。

 わたしに気づいたユノさんは、こちらへ笑いかけながら何も言わず箱の中を指さした。のぞき込むと、灰色に黒い縞の入った毛色の子猫が体を震わせながら鳴いていた。

 生まれたてではないけれど、まだ母猫から引き離されるには早すぎることがすぐにわかる。弱々しいながらも必死な鳴き声は、不安と空腹で母猫を呼び続けているのだろう。

「今日ここに来たら置いてあったの。捨て猫だよね。ちっちゃいなぁ。かわいいなぁ」

 うっかり触れると崩れてしまう砂の人形を扱うように、ユノさんは人差し指で子猫をそっとつついている。

「―――ねぇ、この子、わたしたちの赤ちゃんにしようよ」

 しばらく無言で子猫をつついてから、ユノさんは意を決したのか口を開いた。逃れる力がなく、母猫が自分をみつけてくれることをただひたすら願い続けている子猫は、つつかれるがままになっている。

「うちら二人でこの子のお母さんになるの。名前を決めて、食べ物を買ってきて、育てるの」

 上目づかいで反応を見られたので、わたしは微笑みながらうなずいてみせた。

 おこづかいは無駄づかいをしないで貯めてあるので、キャットフードを買うくらいのことはできる。わたしの家で飼うのも、ユノさんの家で飼うのも無理だろうけれど、ほとんど誰も住んでいないこの団地になら子猫を置いていても怒られないだろう。

「うれしい! うちら二人でこの子を育てる“夫婦”になろうね!」

 ユノさんは立ち上がると喜びで抱きついてきたので、母親になるにしては膨らみのない二つの胸が重なり合った。

「どっちもおっぱいは出なそうだから、牛乳買ってこないとだね」

 考えたことは一緒だったようで、ユノさんが笑いながら言う。

 お互いの鼓動を制服越しに相手へと響かせて、わたしたちは二つの心臓を持つ一つの体のように抱き合う。

 ユノさんがわたしの肩に頭をのせた。わたしとは違う体の香りを鼻の奥に感じる。今日のユノさんは人食い鬼の話をしない。それはここで出会ってから初めてのことかもしれなかった。



※※※※



 放課後、通学路にあるコンビニエンスストアへ寄って、ミネラルウォーターと牛乳とキャットフードを買った。そこから通学路をそれて近道へ入り、急ぎ足でいつもの場所へ行く。

 今日はまだユノさんは来ていない。段ボール箱は昨日のまま置いてある。子猫の家にしては大きすぎるミカンの空き箱。よく見ると箱は子猫が中にいるにしては不自然な動きをしていて、昨日あれほど聞こえてきた鳴き声が聞こえてこない。

 思わず走り寄ると、その足音に反応して黒い小さな頭が箱から伸び上がった。不吉な闇の色の羽毛と草刈りの鎌のようなくちばし。カラスだ。ビニール袋から取り出したキャットフードの缶を投げつけると、カラスはあわてることもなくゆっくりと飛び去っていった。

 恐る恐る段ボール箱をのぞき込む。

 元は子猫だった肉片が、赤黒く変色して固まった血の中に転がっている。毛の色からお腹だったとわかる部分に大きく穴が開けられており、引き出された内蔵が飛び散っている。手足は見当たらず、目があったはずのところにはくぼみしかなく、耳のあったところから頭がい骨が割られて中身が見えている。

「うそ……。まだ、名前もつけてあげてなかったのに……」

 いつの間に来ていたのか、ユノさんの呆然とした声がわたしの後ろから聞こえてきた。

「鬼だ。子猫は鬼に狙われて、食べられちゃったんだ。鬼はお腹がすいたら、人間でも猫でもかわまず子供を食べちゃうんだ。きっと、これは人食い鬼の……」

 両手を胸の前で強く握りながら、震えた声でユノさんはつぶやいている。食べたのはカラスだと教えてあげても聞いてくれない。

「人食い鬼は夜になると現れて、ひとりぼっちの子供を狙う……。狙われた子供は絶対に逃げられず、朝になる前に食べられてしまう……。子猫は狙われてたんだ。だから、きっと、まだ近くに鬼が……」

 不意に言葉を切ってユノさんが顔を上げた。これ以上無理なほど目を大きく見開いて、何かを凝視している。

「あ、あ、あ……! あそこに鬼がいる! こっち見てる! うちのこと見てる! あ、あ、あ……狙われちゃった! うち、人食い鬼に狙われちゃったよ! どうしよう! どうしよう! どうしよう!」

 ユノさんはしゃがみ込んでしまい、自分の手で自分を抱きしめたまま震えている。わたしには何も見えないから大丈夫だよと肩を抱いてあげたけど、震えは止まらない。

「今までは人食い鬼からうまく逃げてたのに! 子猫が呼んじゃったんだ! 子猫のことなんて放っておけばよかった! どうしよう! どうしよう! 助けて! 助けて!」

 夜になる前に家へ帰って、誰かのいる明るい部屋にいればきっと大丈夫だよ。そう言っておでこに口づけをしてあげると、ちょっと落ち着いたようで震えが止まった。

 もう一度、今度はほっぺたへ口づけをすると、独り言も止まり、代わりにしゃくり上げながらユノさんはわたしの手を強く握ってきた。

「うん、そうだね……。夜に……ひとりぼっちにならなければ大丈夫かも……。インターネットにそう書いてあったもんね……」

 泣きながらだけれど、ユノさんは立ち上がった。

「ありがと。ちょっと落ち着いたかな」

 そう言いながら、ユノさんはおでことほっぺたを触っている。

「キスしてもらったのって初めてかも。うふふ。じゃあ、暗くなる前にうちは帰るね」

 まだ瞳は涙に濡れていても、笑顔は心からのものだと伝わってきた。自分の唇でこんなに喜んでもらえるのは不思議な感じがする。胸の奥に暖かいものが生まれたような不思議な感じ。

 見えなくなるまで何度もこちらへ手を振りながらユノさんは帰っていった。

 ユノさんを見送った後、わたしはあまり気が進まなかったけれど、そのままにしておいたらまたカラスのエサになってしまうので、もう使われていない団地の花壇に手で穴を掘り、もはや子猫とはとうてい思えない死体を埋めた。お墓代わりに大きな石を探してきて、牛乳とキャットフードの缶をお供えとして置いた。段ボール箱はたたんで、団地のゴミ置き場らしき所へ立てかけた。

 あんなに小さい子猫が必死に鳴いて母猫を待っていたのに、今は肉片となって土へ埋まっている。あまりにも残酷な仕打ちだ。神様に文句を言ってやりたい。

 でも、いるかいないかもわからない神様に文句を言ったところでしかたがない。私の生きているこの世界は、こういう残酷な世界なのだ。

 だから、わたしも暗くなる前に家へ帰らなければ、肉片にされてしまうかもしれない―――。



※※※※



 合い鍵でドアを開けて家へと入る。今日も、お父さんはお仕事で、お母さんはどこかへ出かけてしまって、遅くまで帰ってこない。だから、この家には自分以外に誰もいない。

 食欲はなかったけれど、夜中にお腹がすいて起き出したりしたくなかったので、食事の準備を始めた。戸棚から食パンを取り出し、マーガリンを塗ってからトースターへ入れて焼く。焼きあがったパンにたっぷりハチミツを塗る。冷蔵庫のアルカリ水をコップへ注ぎ、マルチビタミンサプリメントをコップのそばに並べる。食欲があってもなくても食べられる、いつもの晩ご飯。

 食べ終えてコップとお皿を洗い、お風呂とトイレを済ませて自分の部屋に入り、ベッドへ横になった。

 冷たいお布団の中で、子猫のことを考える。

 あの子猫も今は冷たい土の中で眠っている。でも、子猫はもう死んでしまっているから、冷たいとか暗いとか感じることはない。

 何も感じないというのは、どんな感じなんだろう。死んでしまってそれが永遠に続くというのは、どんな感じなんだろう。

 永遠。百年、二百年とかじゃない。千年、二千年でも全然短い。人間が地球上に誕生してから七百万年。恐竜が絶滅してから七千万年。生命が地球上に現れてから四十億年。宇宙が誕生してから百億年。それでもまだ永遠じゃない。永遠はもっと長い。終わりがないのだから、長いとか短いとかで言い表せないのかもしれないけれど。

 この世界が始まってからわたしが生まれるまでに、そして、わたしが死んでからこの世界が終わるまでに、どれくらいの時間が―――。

 電話が鳴った。

 まだお父さんもお母さんも帰ってきていない。夜の電話には出なくていいと言われていて、留守番電話になっている。

 でも、ユノさんのことが頭をよぎり、わたしは布団を出て電話の子機に手を伸ばした。

「……たす……て……。た……けて……。……す……て」

 電波が弱いところから携帯電話でかけてきているようで、途切れ途切れで何を言っているのかよくわからない。誰がしゃべっているのかもよくわからない。そのうち、切れてしまった。

 ユノさんからだろうか? でも、間違い電話かもしれないし、いたずら電話かもしれない。それに、ユノさんからの電話でどうしても話さなくちゃいけない用事だったら、もう一度かかってくるだろう。

 わたしはお布団へ入り直した。わたしが眠ってしまうまで、電話はもう鳴らなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ