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第1話 ユノ

 錆びた看板。消えかけた横断歩道。コンクリートから伸びる雑草。誰ともすれ違わない。

 学校の授業が終わって家へ帰るとき、わたしは通学路を守らずに近道を使う。急がないといけない習い事があるわけでも、見たいテレビがあるわけでもない。最初はほんの気まぐれで通った道だった。

 そろそろ夕日と呼んでかまわないほど傾いた太陽が、電信柱の細長い影をでこぼこの道路の上に落とす。それは影を踏まずに帰る一人遊びの道具。影を飛び越した足が道路脇に積もった砂利を踏むたびに、小石とアスファルトとのこすれ合う硬い音がする。―――近くの空でカラスの鳴き声がした。

 見上げると、電信柱のてっぺんに一羽とまっている。夜の闇に染められたような黒い翼。ゴミ置き場でビニール袋に穴を開けて残飯を食べてしまう大きなくちばし。

 カラスに見とれて影を踏む。一人遊びのやり直し。

 近道はさびれた団地の敷地を通る。コンクリートの色そのままの四角い建物が四列に並んでいる。錆びた自転車。壊れた郵便受け。伸び放題の雑草。住んでいる人を見かけない。

 団地の一番外れの建物へ上がる階段で、制服姿の女の子が座って携帯電話をいじっている。隣町の学校へ通っていて、わたしと同じ学年のユノさん。ユノさんはここに住んでいる人じゃないけれど、この時間はいつもここにいる。そしてそれは、わたしの近道の理由。

 影を踏まない遊びはやめて、気づかれないように忍び寄ってみた。抜き足差し足、音を立てずに歩いたけれど、階段まであと四歩で彼女の顔がこちらを向いた。

「!? ……って、驚かさないでよぉ」

 一瞬大きく見開かれた目が細められ、引きつった唇が緩む。猫を思わせる切れ長の目と薄い唇がユノさんの特徴で、彼女の先祖には猫がいるんじゃないかとわたしは時々想像する。

「うちらさ、今日も無事に生きのびられてよかったよね」

 ユノさんの大げさな言葉にわたしは微笑みを返した。

「だってさ、うちら子供って、いつ人食い鬼に食べられちゃうかわかんないんだよ?」

 そう言いながらユノさんは制服のポケットへ携帯電話をしまい、代わりに取り出した白いビニール袋の中身をわたしへと見せる。消しゴムくらいの大きさの白く尖った物が三つと、細長いこげ茶色の物が一つ。

「また見つけた。鬼の牙と食べられちゃった子供の指」

 ユノさんの落ち着いた声が袋の中身の正体を告げる。こうやって鬼の牙と子供の指を見せられるのはもう四度目で、たぶん嘘だと思うけれど本物なのかどうか確かめたくはない。もし本物だったら……。牙はともかく指は……。

「さっき携帯でインターネットの掲示板を見たけど、人食い鬼のことが書いてあったよ」

 白い袋は無造作にポケットへしまい込まれ、再び携帯電話がユノさんの手に握られた。

「人食い鬼は夜になると現れて、ひとりぼっちの子供を狙う。狙われた子供は絶対に逃げられず、朝になる前に食べられてしまう。そして、鬼は食べた子供になりすます―――。だから、見た目以上に人間の数は減っちゃってるんだって。街の様子がおかしいの、そのせいなんだって」

 ここで会うとユノさんはいつもこの話をする。この場所にいるのは、鬼かもしれない人間のそばにいたくないからなのだそうだ。

 鬼から身を守るために必要だから、わたしも携帯電話を持つようにってユノさんは言う。でも、わたしが携帯電話を持つことをお父さんとお母さんは許してくれない。

「うちらは食べられないようにしよう? 一人きりになると鬼が来るから、これからも学校が終わったらここで会おうよ、ね?」

 そう言って見つめてくる視線へうなずきを返しながら、わたしはユノさんの隣へ座った。

「ふふっ、ずっと一緒だよ?」

 ユノさんはわたしに体を寄せ、その薄い唇をわたしの首筋へ近づける。息がかかり、くすぐったさでわたしは首をすくめる。相手が女の子とはいえ誰かに息のかかる距離でじっと見られているという意識と、吐息の柔らかな刺激が合わさって、鼓動が速くなり顔が火照ってくるのがわかる。

「真っ赤になってる」

 耳に軽く音を立てて唇が当てられ、唇はそのまま耳たぶをはさみ、上唇と下唇の間でユノさんの舌がわたしの耳たぶを転がす。耳たぶの感覚は鈍いので感触が気持ちいいわけじゃないけれど、誰かに自分の柔らかい部分を舐められているという事実は淡く暖かい恥ずかしさのようなものを胸の内に湧き出させるので、わたしの心は薄い桃色の霧に包まれてユノさんに身をゆだねてしまう。

 しばらして、唇が耳たぶから離れると、濡れた舌は少しだけ這い上がって耳の穴をくすぐりだした。

「柔らかいなぁ。かわいいなぁ」

 耳の穴へ吹き込むようにささやかれ、そよ風に撫でられた草むらのように首筋の鳥肌が立ち、鼓膜の震えは水面へ落ちた木の葉の波紋のように意識までも震わせるので、わたしは朦朧として……。首筋へ唇が当てられても……それ以上は…………。



※※※※



 日が落ちて夜が来る前にユノさんとさよならをして、急ぎ足で家へと帰ってきた。本気で信じていなくても、友達から人食い鬼の話なんてされると夜が怖くなってしまう。

 合い鍵でドアを開けて家へと入った。自分の部屋に学校の荷物を置いて台所へ行く。天井に埋め込まれた蛍光灯が、半球形の白いカバーを通して淡い光を食事用のテーブルに落としている。材木の木目がそのまま模様になっているテーブルの上には何も置かれていないので、蛍光灯の光がきれいに照り返されている。

 お父さんはお仕事で、お母さんはどこかへ出かけてしまって、二人とも夜遅くまで帰ってこない。だからテーブルの上には何もない。

 テーブルよりも少し暗い色をした木目の戸棚から食パンを取り出し、マーガリンを塗ってからトースターへ入れて焼く。焼きあがったパンにたっぷりハチミツを塗る。近所のスーパーで配っているアルカリ水が冷蔵庫に冷やしてあるのでコップへ注ぎ、おこづかいで買ったマルチビタミンサプリメントを取り出す。これで晩ご飯の支度が終わる。

 晩ご飯を食べ終えてコップとお皿を洗い、お風呂とトイレを済ませて自分の部屋に入り、ベッドへ横になる。

 冷たいお布団の中でユノさんの唇を思い出し、ユノさんの言葉を思い出す。


 ―――人食い鬼は夜になると現れて、ひとりぼっちの子供を狙う。


 わたしは今、この家にひとりぼっちだ。


 ―――狙われた子供は絶対に逃げられず、朝になる前に食べられてしまう。


 今、わたしが狙われたら、逃げることも抵抗することもできずに食べられてしまうだろう。

 生きながら食べられて、わたしはわたしでなくなってしまい、バラバラの肉の破片になってしまうだろう。

 わたしが泣き叫んでも鬼は聞く耳をもたず乱暴に手足を引きちぎり、容赦なく鋭く太い爪を立ててお腹を切り裂き、真っ赤な血をわたしの肌やシーツや絨毯の上に飛び散らせ、わたしの体の奥へ大きな牙を突き込み、直接まだ脈打っている内臓をむさぼるだろう。


 ―――そして、鬼は食べた子供になりすます。


 わたしは死んでしまい、わたしになりすました鬼がわたしの人生を引き継ぐ。わたしは存在を消されて、何も感じずることができず何も考えることのできない闇の中へ永遠に閉じ込められてしまう。

 闇の中へ。

 ちょうど今、入っていこうとしている眠りの世界のような闇の中へ。


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