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小説小説

書けども成らず、書けども成らず

作者: 北田啓悟

一ヶ月半かかったけど書くことができました。


 朝。

「あ、感想着てる……」

 わたしはベッドで横になりながら、安堵して、微笑みました。

 ここ最近、わたしは目を覚ますと、起き上がるよりも先にスマートフォンを手に取るようになりました。

 何故かというと、それは投稿した小説の感想が着たかどうかを確かめるためです。

 今日は感想が着てくれました。

 寝ぼけ眼をこすって、わたしは『書かれた感想一覧が更新されました。』という赤い文字を指で押します。

 感想ページに飛んで、

「あぁ、やっぱりこの作品かぁ……」

 と、半ば予想通りのそれに溜息めいた吐息を漏らしました。

 いや溜息をつくようなことじゃないのは重々承知なんですけど。

 嬉しいは嬉しいんですけど。

 わたしは感想を読んで、その内容に元気をもらった後、スマートフォンを枕の横に置きました。

 仰向けになって、天井を見ます。

「んんぅ……」

 なんだかもどかしくなったので、体をもぞもぞ。

 反対側へ寝返り(?)を打って、お布団を抱き枕のように抱きしめました。

 わたしは呟きます。

「みんな期待してくれてるんだよね……」

 それはアンニュイな呟きでした。

 ――わたしは『小説家になろう』というサイトで小説を投稿させてもらっている十七歳の女子です。昔から創作することが好きで、それを誰かに読んでもらいたいと常々思っていました。

 その創作意欲をぶつけるためにわたしは細々ながら小説を『小説家になろう』に投稿している身なのです。元々はブログのほうでも小説を書いていたのですが、やはり投稿サイトのほうが目に付きやすいので『小説家になろう』にも投稿し出しました。

 けれども――

 ぶっちゃけたところ、投稿した作品はぜんぜん評価されてません。

 わたしは連載小説や短編小説を数多く『小説家になろう』に投稿してきました。自慢ではないんですけど、わたしはそれなりに速筆な方なのです。それでいろんな作品を『小説家になろう』に投稿してきたわけですけど……まったくもって読まれません。

 ランキングにも感想にも縁のない毎日。

 虚しさと戦うばかりの日々です。

 トホホなのです。

「…………」

 でも実は、それはつい先日までの話なのです。

 というのが、昔投稿した短編小説の一作が、一ヶ月近く前にいきなり評価されはじめたのです。ほんとうに突然の出来事でした。投稿した直後には評価されなくても、ある日とつぜん評価され出すことってあるものなんですね。しかも短編小説で。

 その短編小説は、瞬く間に総合評価が上がっていき、なんとなんと週間文学ランキングで一位を取るほどまでに評価されてしまいました。

 感想もたくさん着て、今のところは三日に一回くらいのペースで感想が書かれます。

 わたし自身、それについてはありがたいばかりで、感想は一つ一つ楽しく読ませていただいています。

 毎日楽しみにしていて、だから朝起きるとまずは感想が着ていないかを確かめるようになってしまったのです。

「…………」

 昔投稿した短編小説というのは――簡単に言ってしまうと、作家志望の苦悩を描いた作品でした。

 主人公の青年は、人気ジャンルがどうしても書けないという悩みを持っています。その悩みのせいで主人公の小説はまったく評価されず、まさしく作家志望の底辺をさまよっています。主人公は劣等感や嫉妬や虚しさのあいだで葛藤するのです、『こんなことじゃ小説を書いていても無駄なんじゃないか?』と――あらすじを説明するとだいたいそんな感じですね。

 この短編小説を書くことのできた要素は、わたし自身の経験によるところ大きいです――苦悩している主人公というのはほとんどわたし自身のことで、自分を参考にして書いた小説といっても過言ではありません。

 作家志望の苦悩。

 それは、作家志望のわたしだからこそリアルに書けるもの。

 そう思ってわたしはその短編小説を書きました。

 そのリアルさが読者にウケたらしく、リアルさを褒めてくれる人がけっこういます――そこを評価されたくてわたしは書いたので、ほんとうに光栄の至りなのです。

 この苦悩を分かち合ってくれる読者がたくさんいてくれて、わたしとしても苦労……いえ、苦悩が報われました。

 そういうわけで。

 わたしは――その短編小説の、『続編』を書こうとさいきん思い始めたわけなのでした。

 『続編』です。

 ええ。そうです。その通りです。

 この流れに乗ってしまおうというわけです。

 『続編』を投稿して、またも評価を得ようという魂胆なのです。

 浅ましいですか? 浅ましいでしょう。浅ましいことは認めます。でも、小説家なんてみんなこんなものだと思いますよ? とくに作家志望はことさら評価に飢えているものです。みんな評価されることに必死なのです。

 だから書く気持ちはぜったいに捨てません。

 書けば、きっとまた評価される。

 わたしはそう信じています。

 評価されたいのです。

「…………」

 けれども。

 けれども……。

「それが書けないんだってば……」

 わたしは、体を折りたたむように布団へ倒れ込みました。

 ぼふ。

 顔面に広がるお布団の感触。幸せ。

 ――そうなのです。わたしは『続編』を書こうと思っているわけなのですが、それがどうしても書けない今日に至るわけなのです。

 みんなの期待に応えたい。

 そう思えば思うほどやる気は空回り。

 小説の残骸は日に日に貯まるばかり。

 もう十個くらいは、完結できなかったものを量産してきました。文字数にして、五万文字くらいでしょうか?

 その度に負ぶさってくる無力感。

 辛いです。

 辛い毎日です。

「はぁー……」

 わたしは上半身を起こして、深い深い溜め息を吐きました。最近では癖になりつつある溜め息です。

 『続編』を書こうと思い立って――もうどれくらいが経ったでしょう。

 評価され出したその日から書こうと思ったわけだから――一ヶ月近く前のことになりますか。

 一ヶ月近く経ったのに、未だ書けていない。

 空いてしまったブランクはかなり長い。

 ほんとうはもっと早くに投稿したかったのですけども……。

 どうしても書けなくて、今日にまで至ってしまいました。

 今日もまた書けなかったらどうしよう……?

 …………。

「はやく書かなくちゃ……」

 感想を貰えて嬉しいのですけど、今日も今日とて焦燥に苛まれながらの起床。

 焦燥が一日のスタート。

 そんな毎日です。

「ん、しょ」

 わたしは布団を抜けます。

 寝ぼけ眼を擦ります。

 髪の毛を整えます。

 そうして部屋から出ました。

 さて、今日こそは書くことができるのでしょうか?

 ……いい加減にこの『書けない』という苦悩から解放されたいものです。



 昼。

「ぶぇー……。ただいまぁー……」

「あ、姉さん。お帰りなさい」

 わたしには姉がいます。

 二十歳の大学生です。

 姉は家に帰ってくるなり、アルコール臭のする口をだらしなく開けました。

「うぷっ……。ちょ……。ごめんだけど、リビングまで連れてって……」

「もう。またですか? こんなお昼時から……」

「仕方ないじゃない……。みんな飲みたいっていうんだから……」

「姉さんはみんなにいい顔しすぎなんですよ。断るときはちゃんと断ってください」

「んー。でも私自身もけっこうお酒好きだしぃ」

「…………」

 救えません、このバカ姉。

 自業自得じゃないですか。

「妹ちゃん、お願い……。胸がムカムカして……なんか妊娠してるみたいなのぉ」

「妊娠なんてしたことないでしょ」

 わたしは、姉の腕を肩に回しました。

 そうして引きずるようにしてリビングへと姉を連れていきます。

 重たいです。

 やれやれです。

 姉をリビングに連れてきて、ソファにごろんと寝かせます。

 それからわたしは浄水器のつけてある水道水をコップに注ぎ、姉のもとへと持っていきました。

 水を差し出します。

「ほら姉さん。水ですよ」

「ありがとう……」

 姉は起き上がって座り、水をゴクゴクと飲みました。

「んっ……く……ごく……ん……。ぶぅぇー! 生き返るぅぅー!」

 姉は気持ちよさそうに水を飲み干して、叩きつけるようにコップを机に置きました。

 姉は二十歳になってからお酒を飲み始めたのですが、お酒を飲んで帰ってきたときは決まってお水を飲みます。しかもすごく美味しそうに飲み干します。酔い覚めの水千両と値が決まりというものでしょうか? わたしにはわからない感覚です。

 姉は幸せそうな顔をしながら言います。

「はぁぁぁぁー。妹ちゃんは優しいねぇ」

「べつに。玄関で酔いつぶれられのが嫌なだけですよ」

「ふふ、ツンデレちゃん」

「違います」

 言って、わたしはソファに座りました。姉から見て左側のほうこうに座りました。

 それから言います。

「で、今日はどうですか?」

「ん? どうって?」

「愚痴ですよ。愚痴。なにかわたしに聞いてほしいこととかあるんじゃないですか? 今なら聞いてあげてもいいですよ」

「おー。ほんと? いやいやぁ、ほんっと優しいねぇ」

「べつにそんなんじゃないですよ」

 わたしは姉の愚痴を聞くことがよくあります。姉自身はそれを優しさだと言ってくれますけど、実を言うと小説のネタを集めるために聞いているというのが理由です。だからべつに無償の優しさというわけではなく、一種のギブアンドテイクなのです。

 身近な人の体験談って、かなり使えますからね。

 それが愚痴ならなおさらです。

「愚痴かぁ。そうだなぁ……。やっぱ音楽サークルの先輩なんだけどねぇ」

「またその人ですか」

 姉は音楽サークルに入っています。使っている楽器はアコースティックギター。けっこう本気でやっているようで、「将来的にはCDも出したいなぁ」とわたしに呟いたこともあります。姉のことは正直言ってあまり尊敬していませんけど、その夢についてはすなおに応援しています。

 姉は言います。

「もう……さっ! いい加減にしてほしいのよ!」

「なにがですか?」

「楽器屋に行くたびにピアノで千本桜を弾くの! あんた何回それ弾くんだよと! もう、ほんと……いいから!」

「あぁ……。前も言ってましたね。その先輩、また楽器屋でピアノ弾いてたんですか」

「そーなの! もうねぇ……、誇らしげな顔しちゃってねぇ……。見てるこっちが恥ずかしくて恥ずかしくて」

「それは恥ずかしいですねぇ」

 姉は顔をふるふると振るわせて、呆れた顔をしました。

 それから言います。

「はぁぁぁ……。その人ったらさぁ、ぜんぜん練習しないから未だに千本桜しか弾けないんだよ……。でね、終わったらこっち振り向いてね、『どう?』みたいな顔してんの……うぐぇぇぇぇ!」

「ああ。そういう人っていますよね」

「『どう?』じゃねーよ! 千本桜くらい私だってアコギで弾けるっての! そんなんで自慢げな顔すんなよ! ――っていうかクラシック練習しろよクラシック! そんなんだからいつまでたっても千本桜しか弾けないんだよぉ!」

 姉は「んもー!」と言いながら足をバタつかせて、溜まりに溜まった鬱憤を表現しました。

 姉はけっこう本気で音楽活動をやっているので、こういう中途半端な人にたいしては厳しい傾向があります。それを当人の前で口に出すことはありませんが――ここらへんは妹であるわたしともちょっと似ているところだと思います。

 わたしも中途半端な気持ちで書いてる人は、好きじゃないですからね。

 本気でやってるんですよ。

「あぁ……」姉はうなだれます。「こんなんじゃ来月のライブもコケちゃうよ……」

「来月? ライブやるんですか?」

「あれ。言ってなかったっけ?」

「聞いてませんよ」

「そっか――うん。来月ね、ライブやるんだ」

「そうなんですか」

「うん」

 姉は深く頷きました。

 それから言います。

「いつもはポップスでいくんだけど、今回は私の要望でロックにしてもらったんだー」

「へぇ。ロックですか」

 ロック――ロックンロール。社会にたいする不平不満を歌にした音楽ジャンル。熱情的な曲調と心に突き刺さる歌詞がウリ。

 姉は、ロックンロールが好きです。ふだんはどちらかというと適当そうな性格をしていますけど、カラオケなどでロックンロールを歌うときはかなり熱唱します。それだけ好きということなのでしょう。

「うん。ロックはいいよ――やっぱ音楽ってのはねー、弾いてるこっちがまず気持ちよくならなくちゃダメだと思うのよ」

「どうしてですか?」

「だってさ、私が楽しいって思えてなくちゃ、楽しいって気持ちを伝えられないじゃない」

「あぁ。確かにそれはそうですね」

 感情を伝えるためには、自分がその感情を経験する必要がある。

 これは小説を書いているわたしにもよくわかる話です。

 よく笑う人なら、よく笑うキャラを書ける。

 よく泣く人なら、よく泣くキャラを書ける。

 なぜよく書けるのかというと、そこにはリアリティが宿るからです。自分自身を元にすれば、キャラクターはとても活き活きとするものでしょう。感情が豊かな人は、感情を上手く書けるものなのです。

 ……だからわたしの小説って、クールキャラとか無気力キャラでいっぱいになるんですよね。

 姉は言います。

「私はねぇ、ポップスを上手く弾けないのよ」

「上手く弾けない?」

 それはどういう感覚なのでしょう。

 姉は言います。

「いやね、コードの通りに弾くくらいならできるのよ。それくらいならね」

「コードの通りに弾けてれば、それはもう弾けてるってことなんじゃないんですか?」

「違うよ」

 バッサリでした。

 姉には一家言があるようで、意見を続けます。

「ポップスってさ……なんていうか、楽しい曲って感じがするじゃない?」

「まあ、そうですね」

「楽しい曲っていうのは楽しい気持ちで弾かないと、心に響かないの」

「まあ、わかります」

「だから弾けないの」

「ん? ん?」

 わたしはちょっと混乱します。

 話の流れを掴み損ねてしまいました。

「えっと?」

「つまりね――今の私は、楽しい気持ちで生きてないのよ」

「あぁ……。なるほど」

 そういうことですか。

 わたしは理解しました。

 楽しい気持ちで生きてないから、楽しい曲を上手く弾けない。

 楽しい気持ちがないと、その曲には感情が宿らない。

 感情のない曲。

 作り笑いの曲。

 曲に感情が宿らなければ、感動を与えることはできない。

 音楽ではなく――それはただの無機質な音の散らばり。

 それはまるで――リアリティのない小説のようなもの。

 作者がそれを持ってないのだから、それを持っているキャラクターの心情を上手く書けないのは当たり前。

 経験に基付かず、想像で書いたものはどうしても浅くなってしまう。

 そういうことなのでしょう。

 姉はそこに拘っているのでしょう。

「でもね――だからこそロックなら弾けるのよ」

 姉は言います。

「今の私はポップスを弾けないけど、その代わりロックが弾ける。だってロックって、今の私みたいな人に向けた曲なんだから」

 ロックンロール――それは社会にたいする不平不満。

 確かに。

 愚痴の多い姉にはぴったりなジャンルでしょう。

 わたしは言います。

「そう……ですね。そうですよね」

「うん。そうなのよ。だからロックってのはいいんだよ――綺麗じゃないものを隠さずに伝えてくれるから、好き」

「…………」

「私もそういう曲を作りたいんだ」

「……頑張ってくださいね」

「うん!」

 姉は笑いました。

 わたしは、なんだか安心した気持ちになりました。

「う……頭痛い」

「大丈夫ですか?」

「うん……。まあ大丈夫――いや、ちょっと寝るわ」

「そうですか――階段上れますか? なんならまた肩を貸してあげても……」

「あ、ほんと? じゃあ甘えさせてもらおっかな。足がまだちょっとフラついてるし」

「はい。じゃあ行きましょうか」

「んー」

 わたしは姉をつれて、姉の部屋へと向かいます。

 その間の廊下で、姉は言いました。

「ありがとね」

「いいんですよ」

「大好きぃ」

「はいはい」

 そうして階段を上りあげて、姉を部屋まで送り込みました。

「じゃ、おやすー」

「おやすみなさい」

 扉は閉じました。

 しばらくすれば姉は寝るでしょう。

 わたしも自分の部屋に戻るとしましょう。

「……ふぅ」

 自分の部屋に入り、扉を閉じて、一息。

 そうして歩いて、パソコンの前に座ります。

 そこで一言。

「わたしも読者に伝えたいな……」

 『頑張れば小説は書ける』――そのことを読者のみんなに伝えたい。

 この『書けない』という苦悩を乗り越えてみせたい。

 姉さんも頑張ってるんだ。

 わたしも頑張らなくちゃ。

「よし!」

 わたしはパソコンの電源をつけて、小説を書き始めました。



 夕。

「はぁぁ……」

 お風呂場で、癖になりつつある溜息をわたしは吐きました。

 湯船にむかって俯き。

 溜息は波紋になって広がります。

 …………。

 ――ダメでした。

 どれだけ書いてみても、途中で詰まって、完成させることができませんでした。

 もうほんとうに嫌になってきます。

 頭も重たい。

 体も重たい。

「…………」

 お湯をすくって、鎖骨の辺りにわたしはかけます。

 それから撫でます。

 なでなで。

 温かくて気持ちいい。

 手を撫でおろして太もものあたりへ持っていき。

 そうして三角座りになって、わたしは呟きます。

「どうして書けないんだろう……」

 苦悩。

 小説が『書けない』。

 いくら書いても……書けない。

 わたしは――もしかしたら小説の書き方を忘れてしまったのでしょうか。

 以前までは速筆であることを自負できるほどにいろいろと書けていたわたしなのに、最近ではまったく小説が書けなくなっています。書こうと思い立って、それから一ヶ月近くも経ったのに投稿できていないことがその証拠です。

 どうして小説が書けないんだろう……。

 どうやって小説を書いていたんだろう……。

 ここまで落ち込むと、昔の自分を羨ましく思っていまいます。

 …………。

「スランプなのかな……」

 スランプ――甘えっぽいのであまり使いたい言葉ではないのですけど……、何ごとにも停滞期というのは存在するもの。

 何をやっても書けない時期というのは、やはりあるものなんでしょうか?

 ……認めたくないものですね。

 わたしは、起きているうちはいつでも小説のことを考えていたい。それだけ小説にたいしては本気で取り組んでいます。それなのに書けないというのは……耐え難い苦痛なのです。

 ――わたしにとって、小説は生き甲斐。

 ――もはやわたしにとっては、書いている時こそ生きている時。

 ――だから書いてない時って、半ば死んでいるようなものなんですよね。

 そんなわたしが小説を書けないというのは、もう、息ができなくなるような苦痛なのです。

 上手く呼吸ができない、そんな気分なのです。

 死んでいる、気分なのです。

「…………」

 わたしは湯船で口を隠して、息を吐きました。

 ぶくぶく。

 泡がいくつも浮かびます。

「ぶばびばぁ……」

 つらいなぁ……。

 この辛さから逃れるために一刻もはやく小説を書けるようになりたいです。

 どうしたら小説は書けるのでしょうか?

 いっかい考えてみましょう。

「べべっぼ」

 ええっと。

 まず――書きたいものは用意できていますか?。

 誰かに言いたいこととか、読者に伝えたいこととか……言うなれば小説の核というべきテーマがちゃんとあるかどうか確かめましょう。それは小説の中身と呼ばれるものだから、いちばん大事なところです。

 大丈夫、テーマは決まっています。

 わたしが書きたいテーマは『頑張れば小説は書ける』ということ。それを読者に伝えたいのです。

 その一言を伝えるためだけに小説を創る覚悟が、わたしにはあります。

 大丈夫です。

 その点には問題はありません。

 では――そのテーマを見栄えさせる環境は用意できていますか?

 ただ単純に『頑張れば小説は書ける』といっても説得力は薄くなりますよね。説得力を強くするためには、頑張りというものを上手く見栄えさせたり、頑張るということがどういうことなのかを描写する必要があります。

 例えば……そうですね、アリとキリギリスを引き合いに出せばわかりやすいかもしれません。アリさんはコツコツと頑張ったから冬をしのぐことができました。それの対比として、頑張らなかった結果としてキリギリスさんは冬に死んじゃいます。

 頑張った結果を見栄えさせるためには、頑張らなかった結果も書く必要があるのです。

 頑張った結果と頑張らなかった結果の両方を書くのです。その対比が大切なのです。

「ああ」

 頭の中で、何かが光ったような感覚がしました。

 大事なことに気付けたというような、そんな感覚。

 ああ。

 そうですよ。

 対比が大切なんですよ。

 そうでした。そうでした。

 伝えたいテーマがあるのなら、その反対のことも書かなくちゃいけないんです。

 そうじゃないと説得力が薄くなるんです。

 伝えたいテーマだけを書くと、それは独善的な作品になる。考えの浅い作品になる。反対のことも書いてこそ、伝えたいテーマが見栄えるようになる。――そのことをわたしは小説を書いているうちで学んできたはずでした。

 わたしはこれを『対比理論』と名付けて呼んでいました。

 この『対比理論』を組み込んで小説をよく書いていたのでした。

 わたしは、そういう書き方をして小説を書いてきたのでした。

 そうでした。

 忘れていました。

 思い出せました。

 ああ。もしかしてこの『対比理論』を忘れていたからわたしは小説を書けなかったのでしょうか?

 独善的な考えに陥っていたから、小説が書けなかったのでしょうか?

 だとしたら……。

 そこに気付けたということは……、

「これでスランプ脱却だ……」

 わたしは湯船から顔を上げて、そう言いました。

 光明が見えました。

 小説を書けそうな気分になれました。

 ……やっぱりお風呂はいいですね。頭も体もリラックスさせてくれるから、いい考えが浮かびやすいです。アルキメデスじゃないですけど、まさにユリイカという感じです。

 ありがとう、お風呂さん。助けられました。

 わたしはもう書けます。

 きっと書けます。

 よし、今度こそ書こう。今度こそ大丈夫。

 書けなかった理由がわかったんだから、今度こそ書ける。

 わたしは立ち上がって、宣言します。

「よしっ、書くぞぉ!」

 いざ、小説を書きに行きましょう!

 『頑張れば小説は書ける』――そのことを証明してやりましょう!

 …………。

「……くしゅんっ!」

 寒くて、くしゃみが出ちゃいました。



 夜。

 お風呂から上がって体がホカホカになり、気分もだいぶんリラックス。

 落ち着いた気持ちで部屋に入ります。

 肩にかけたタオルで横の髪を拭いて、パソコンの前に腰を下ろし。

 スタンバイ完了。

 机の横には、板チョコと牛乳入りのコップ。

「いただきます」

 合掌。

 わたしはチョコレートを食べて糖分を補給し、牛乳を飲んでカルシウムを摂取しました。

 小説は頭脳労働ですからね。頭の働きは良くしておいたほうがいいのです。

 そうして本番。

「ん」

 パソコンの電源を入れました。

 起動して、わたしはデスクトップ画面で右クリックを押し、テキストドキュメントを新規作成します。

 それをクリックして、開きまして。

 全角にしまして。

 『A』を押してちゃんと『あ』と入力されるのを確認してから。

 最初のスペース――段落を置き。

「さあ、書こう」

 わたしは冒頭の一文を書き始めました――



 わたしは小説を書く時、あまりプロットを作りません。

 書きたいことはほとんど頭に入っているのです。

 たまにスマホなどでメモを取ることもありますが、基本的にはぶっつけ本番で書く事が多いですね。

 もちろんわたしはただの凡才なので、ミケランジェロみたいに『初めから全てが完成している』とまでは豪語しませんけど。

 でも、ある程度の方向性とアドリブ力があれば小説ってかんたんに書けちゃうんですよ。

 かんたんに書けちゃうんですよ。

 書けちゃうんですよ。

「…………」

 誰が?

 誰がそんなふざけたことを言ったんですか?

 ――昔のあなたが言ったことですよ。

「あぁ……」

 昔のわたし……。

 昔のわたしはどうやって小説を書いていたのでしょう。

 昔のわたしはどうして小説をかんたんだと言えていたのでしょう。

 わからない……、わからない。

 今のわたしにはわからない。

 今のわたしには――小説の書き方がわからないんです。

 わからなくなってしまったんです。

「う、うぅ……くぅぅぅ……」

 小説を書き始めてから、一時間が経ちました。

 『対比理論』を思い出せたから、わたしは小説を書けるはずでした。

 スランプを脱却できたはずでした。

 でも、どうして?

 わたしの目の前には、いつもどおりに『途中まで』があるばかり。

 完成したものは出来上がらない。

 結果が昨日となにも変わっていない。

 進んだ気がしていただけで――実際はまるで進んでいなかった。

 つまり――また書けませんでした。

 また今日も小説が書けませんでした。

 書けない。

 『書けない』。

「どうして……。どうして……――書けないの?」

 なにがいけないと言うんですか?

 教えてくださいよ。

 どこにダメなところがあるんですか?

 教えてくださいよ。

 いったい、なにがダメで、わたしは小説を書けないっていうんですか?

 教えてくださいよ。

 誰か教えてくださいよ。

 教えろよ。

「ダメだ……。ダメだダメだダメだダメだ……」

 諦めちゃダメだ。

 ここで諦めちゃダメなんだ。

 ここでわたしが諦めたら、証明できなくなっちゃうよ。

 『頑張れば小説は書ける』――そのことを証明するためにわたしは立ち上がらなくちゃ。

 せっかく光明が見えたんじゃないですか。

 今日こそきっと小説が書けるはずですよ。

 ここで諦めちゃダメですよ。

 ――そう。

 あの主人公のように。

 わたしの書いたあの短編小説の主人公のように。

 ――立ち上がって、這い上がらなくちゃいけないんだ。

 ――今のわたしは、まさにその状況にあるんです。

 ――だから、何がなんでも頑張らなくちゃ。

「何としてでも……。な、何がなんでも……」

 書いてやる。

 どんな小説でもいいから、書いてやる。

 どんなにつまらない小説でも、それでいいから書いてやる。

 わたしは考えます――

 小説。小説。わたしの書ける小説。ってどんなものでしたっけ。忘れました。忘れましたじゃないですよ、思い出してください。ええと、ええと。なんだっけ、なんだっけ。思い出さなくちゃ。ええっと。

 ……ああそうだ。だから、作家志望の苦悩を描きたいんだ、わたしは。それが書きたいんだ。

 それが書きたくていまわたしはパソコンの前にいるんだ。

 その小説を書くために、いまわたしはここにいるんだ。

 思い出せました。

 もう書けますよ。

 大丈夫。大丈夫。

 難しいことなんて何もないんです。

 だって小説を書くのは、かんたんなんですから。

 そうですよね、わたし?



「…………」

 さらに十分が経ち。

 募るのはイライラばかり。

 できない。できない。できない。

 どこまでいっても小説が書けない。

 おかしい――どうして?

 テーマははっきりとあるし、見栄えさせる方法だって思い出せたじゃないですか。

 どうして書けないんですか?

 ねえ、どうして書けないんですか、わたし?

「知らないよ……。わたしが教えてほしいくらいだよ……」

 なに弱気なこと言ってるんですか。

 ほら、また何かを思い出してくださいよ。

 今のわたしは、大事なことを忘れてるだけなんですって。

 ちょっと考えれば、きっと書けますって。

 ね?

 だから、ほら、頭を働かせてください。

 糖分が足りないんですか? チョコレート、もっと食べたいんですか? いいですね。いっぱい食べちゃいましょう。太っちゃうかもしれませんけど、そんなことは気にしてられませんね。だって――

 小説を書けないあなたに、価値なんて無いんですから。

 そうでしょう?

 だったらおデブさんになってでも小説を書けるようになるべきですよ。それがあなたがここに居られる大義名分です。それがあなたの存在意義です。

 小説を書けさえすれば、それでいい。

 それがあなたのアイデンティティー。

 だからはやく書いてください。

 小説を書いてください。

 ほれ。

 書け。

 アバズレ。

「……うぅ、くぅ……」

 焦燥感のせいか、指が震えてしまいます。

 今すぐにでもパソコンの前から逃げ出したい。

 情けない気持ちが胸に蔓延していて――どんどん大きくなっていきます。

 諦めたい、という気持ちが膨らんでいきます。

 諦めたい……。

 諦めたいんです……。

「……無茶、言わないでよ。もう……――う、うぅ」

 わたしがどれだけ頑張ってきたと思ってるんですか……?

 たくさんたくさん書いてきたじゃないですか。

 速筆だったし、多作だったじゃないですか。

 いつだって本気でやってきたじゃないですか。

 確かにこの一ヶ月近くは小説を書けていませんけど――でも、これでもわたしなりに頑張ってきたほうなんです。

 だったら少しくらい休んだっていいじゃないですか。

 休ませてくださいよ……。

 書いても書いても形にならない時期はあるんですって。

 スランプ。停滞期。

 しょうがないじゃないですか……。

 許してくださいよ。

 書けないわたしを許してくださいよ……。

 …………。

 ――は?

 バカじゃないの?

 今までの頑張りは重要じゃない。今重要なのは、今ここであなたが立ち上がるかどうか。

 それだけよ。

 ほら。

 自分を貫き通しなさい。

 生きるために書きなさい。

 そういえば、あなたって、口癖みたいによくこう思ってるわよね。

 ――わたしにとって、小説は生き甲斐。

 ――もはやわたしにとっては、書いている時こそ生きている時。

 ――だから書いてない時って、半ば死んでいるようなものなんですよね。

 ね?

 あなたって、そんなことを恥ずかしげもなく思ってるじゃない?

 小説がないと生きていけないって平気で思ってるじゃない?

 ねえ。

 それって本気で思ってることなの?

 本気で小説がないと生きていけないっていうの?

 へー。

 そうなんだー。

 すごいねー。

 あなたって生粋の物書きなんだねー。

 まさに小説を書くためだけに産まれてきた最高の逸材だねー。

 将来は大物になるだろうねー。

 うん。

 すごいすごいー。

 ――って、そう言われるのを待ってるんでしょ?

 そう言われたいから、小説は生き甲斐だって思ってるんでしょ?

 だったらとっとと書きなさいよ。

 書いている時が生きている時なんでしょ?

 書いてない時は死んでいる時なんでしょ?

 あなたが自分で思ってることでしょ?

 ほら、つべこべ言わずに書きなさいよ。

 言い訳ばっかり言って逃げるんじゃないわよ。

 休むんじゃないわよ。

 書きなさいよ。

 でないと死ぬわよ?

 死にたくないでしょ?

 なに? もしかしてあなた死にたいの?

 ん?

 どっち?

 答えてくれないとわからないよ?

「わ、わたしは……」

 それともあれってただのポーズ?

 自己陶酔からくる世迷い言なのかしら?

 あなたには小説しかない、そう誰かにいってほしいだけなのかしら?

 そう言われたくて、あんなふうにストイックな姿勢をアピールしてるのかしら?

 うーわ。

 さっぶ。

 浅ましすぎて哀れすぎるんですけど。

 そんな風にしか自分をアピールできないなんて、惨めでちゅねー。

「わたしは……」

 わたしは……。

 答えます――

「し、死にたくなんか、ない。生きるために、書きたい――ほ、本気でやってるんです」

 あっそ。

 えらいえらい。

 じゃあ、書きましょう?

 ――そうね。

 『泥臭くても生きていこうね』。

 どんなに辛くても全うしようね。

 その先があるんだから、あなたのその手で、もぎ取らなくちゃね。

 誰にも頼らずにもぎ取ったハッピーエンドは――誰のものでもない、あなたのハッピーエンドとなるのだから。

 だから書きなさい。

 これも――あなた自身の言葉よ。

 昔のあなたの言葉よ。

「う。う……。うぅぅ……」

 自分の言葉が重たい。

 過去の自分が、今のわたしを押しつぶしている。

 出来ていたころの自分が――出来ないいまの自分を押しつぶしている。

 圧死させられる。

 助けて。

 押しつぶされる、助けて。

 助けて――なんて言ったって。

 誰も助けてなんてくれないんだって。

 わたしが自分で助かるしかないんだって。

 いつだってあなたは独りで戦ってきた。

 いつだってわたしは独りで戦ってきた。

 ――小説は、独りで創るものだから――

 だから、だから、わたしは、こう言うしかない。

 この言葉を言うしかない。

「や、やろう……っ!」

 わたしは書くしかない。

 どんなに辛くても、さらに頑張るしかない。

 書かなければわたしは、死んでいるのと同じなんだから。

 ……死にたくは、ないんだから。



 お腹がグルグルと鳴りだした。

 ストレスが原因だ。

 カルシウムを摂って気分を落ち着けなくちゃ。

「はぁ……。も……くそくそくそくそ……」

 牛乳パックを持つ手が震える。

 牛乳をコップに垂らして注ぐ。

 少し溢れる。

 構わず。拭かず。

 ゴク、ゴク、ゴクゴクゴクと飲む。

 コップを叩きつけるように置いた。

 ――そしてまた書き出す。

「あぁ……。もう、次は……」

 今のわたしは執筆マシーン。自分に幾重にそう言い聞かす。書くこと以外はなにもしなくていい。

 ただ書きさえすればそれだけでいい。

 それだけでいい――のに。

 それだけが、出来ない。

 肝心なところが不完全。

 書きたいものがあるのに、書けない書けないどうしても書けない。

 『頑張れば小説は書ける』。

 それを証明するために。

 わたしは、わたしは、わたしは――

 さらに、もっともっと、頑張るんだ。

 頑張る必要があるんだ。

 頑張らなくちゃいけないんだ。

 そうだ。

 『頑張れば小説は書ける』――じゃないんだ。

 『頑張らないと小説は書けない』――なんだ。

 だからもっともっと頑張らなくちゃいけない。

 わたしはどこまでも頑張り続けないといけない。

 たとえ頑張りが実を結ばなくても、それでも頑張り続けなくちゃいけない。

 だって、わたしがやめてしまうまで、それは結果じゃないんだから。

 頑張り続ける限り――書き続ける限り、それはどこまでいっても過程なんだから。

 だから書くの。

 『書けない』で終わらせないために。

 『書けた』で終わらせるために。

 勝ち逃げするために。

 わたしは負け試合を、何回だって、何回だって、何回だって、何回だって、何回だって、何回だって、何回だって、何回だって、何回だって――続けなくちゃいけないんだ。

「こんな……、こんな無様な終わり、認めない……! ぜったいに……書いてやる……っ!」

 既に今日だけで小説の残骸は五つも量産した。

 それらはすべて書き終えることのできなかった『途中まで』。

 わたしの力量不足で完成させることができなかった小説らしき物たち。

 ――ああ、そういえばわたしってこんなことも言ってたよね。

 ――小説は自分の子供みたいなものだって。

「ふ、ふふ」

 とするとあれかな。

 今のわたしって、たくさんの子供を産み出しまくってるようなもの。

 で、その子供たちを一人たりとも育て上げることができなかった。

 みんなみんな育児放棄して、そのまま野垂れ死にさせちゃったわけか。

 あらら。

 滑稽だねぇ。

 産んでは殺し、産んでは殺し。

 まるで妊娠したら堕胎を繰り返す売女みたい。

 今のわたしはまさしく肉便器。

 小説を産み出すただの機械。

 それを一つたりとも完成させることのできない出来損ない。

 そして愛情もなにもなくかんたんに捨て去る最低。

 意志なんて無い。

 人間らしさなんて無い。

 ただただ書ければそれでいい。

 セックス中毒のクソビッチ。

 小説を書くのは気持ちいい。

 なのに――

「なんで……、そのそれだけが出来ないのぉっ!」

 バン!

 わたしはキーボードをぶっ叩いた。

 あー、もう、どうしてどうしてなんでなんでなんでなんで書けない書けない書けない書けない。

 焦りが背中をせっついてくる。コンパスの針で背中をしつこくチクチク刺されているみたいで、いつグサリと押し込まれるのかわからない。早く書け、という幻聴さえ聴こえてくる。

 頭も靄がかかっているようでぜんぜん冴えない。頭の中では不安が埋め尽くされていて、思考力がどんどん落ちていく。糖分を摂るためにチョコレートを食べるけど、モヤモヤは一向に晴れない。

 最悪のコンディション。

 こんなんで小説が書けるか。

 ねえ。

 教えて。

 こんなわたしに生きてる価値ってありますか?

 小説を書く機械が、小説を書けないなんて、そんなことが許されますか?

 そんなものにどんな価値があるというんですか?

 生きる権利すら無いんじゃないですか?

 っていうか小説を書けない時点で、わたしは既に死んでいるようなものなんですよ。

 死んでるんですって。

 結局――そういうこと。

 小説が書けなかったら、わたしには生きている価値なんてない。

 アイデンティティーを保持できない。

 存在意義を果たせない。

 わたしは不必要な存在。

 もう死んでいる。

 死んでいる。

 死んでいる。

「死んで……」

 死んだ。

 今、死んだ。

 今、正しく、死んだ。

 わたしは死んだ。

「あぁ……」

 わたしは腕を下ろした。

 キーボードを打鍵する気力が、ついに失われた。

 小説を書く気力が、無くなった。

 書けなくなってしまった。

 つまり――死んだのだ。

 わたしは死んだ。

 今まさに死んだ。

 死んでしまったんだ。

 死んじゃったんだ。

「あ、う、うぅぅ……」

 死んだ死んだ死んだ死んだ。

 わたしは死んだんだ。

 書けないから死んだ。

 完成させられないから死んだ。

 もうわたしは死んでしまった。

「あぅ……」

 救えない。

 もう何も残らない。

 誰もわたしを必要としない。

 誰もわたしを救ってくれない。

 暗闇にまで落ちてしまい。

 もがいてももがいても這い上がれない。

 どこにも光は存在しない。

 光明なんて幻覚でしかない。

 始めから動いちゃいない。

 このままずっと歩き出せない。

 このままずっと留まるばかり。

 手は止まり。

 頭も止まり。

 動かそうとしても体が拒否。

 途中までで今日も野垂れ死に。

 凍死するように心が凍り。

 ほんとうにほんとうにどうしようもない。

 見失ってしまった光り。

 ここにいる実感も曖昧。

 立ち上がれない原因は蒙昧。

 強烈なまでに意識する独り。

 生きるだけで晒している醜態。

 完成を迎えられずに締めくくり。

 伝えられなかった頑張り。

 この上なく生々しい臨死。

 否、死。

 無い、意味。

 無い、意義。

 無い、意志。

 いい加減にしてほしい。

 人生。

 無意味。

 辛い暗い苦しい死にたい。

 出来ない出来ない、なにもかも一切。

 意気消沈。

 バカみたい。

 わたしはゴミ。

 停滞。

 もういい。

 ばいばい。

 終わり。

 つまり――死。

 死。

 死死死。

 死。

 死死死死死死死死。

 死死死死。

 死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死。

 死死死死死。

 死死死死死死死死死死。

 死死。

 死死死死。

 死。

 死。

 死。

 死死死死死死死死死死死死死死死死。

 死死死死死。

 死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死。

 死死死死死死死。

 死死死死。

 死死。

 死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死。

 死んだ。

「…………」

 はぁ……。

 もういいや。

 疲れた。

「死にたい……。死に、たい……」

 無力感。

 虚無感。

 焦燥感。

 孤独感。

 全部がないまぜになってわたしを苦しめる。

 苦しくて苦しくて、苦しすぎるから――ここから逃げたい。

 生きることから逃げたい。

 つまるところ――死にたい。

「……あぁ」

 死にたい?

 死にたいっていうか……。

 もうわたしは死んでるんだよ。

 小説を書く機械が、小説を書けなくなったんだから、それは死だよ。

 わたしは死んだんだ。

 もう死んだんだ。

「……死んでないけど」

 死んでないよ。

 作家志望としては死んでるけど。

 人間としてはまだ死んでない。

「…………」

 でも――それにどんな違いがあるっていうの?

 何も違わない。

 そこに差異はない。

 だってわたしって、小説を書く以外になんの取り柄もないもの。

 唯一の取り柄さえまっとうできないってことは、もう存在として不必要だよね。

 え?

 っていうかなんで生きてるの?

 生きていい理由、ないじゃん。

 ここにいちゃダメじゃん。

 うん。

 そうだね。

 わたし、生きてる必要ないね。

 生きてたらみんなの迷惑になるだけだよね。

 そうだよね。

 よし。

 わたし自身を終わらせてしまおう。

 死んじゃおう。

 殺してしまおう。

 自殺してしまおう。

 自分の首を絞めて死のう。

「く……」

 わたしは、自分の首を絞めた。

 両手で首を握り締めて、鷲掴みにする。

「ぐ……ぅぇっ……」

 そしてそのまま――

 グッ、と。

 両手の親指を押し込む。

 爪まで食い込ませる。

 喉を圧迫させる。

 酸素を供給できなくさせる。

 窒息死させる。

 殺す――

「う……ぅ……く……ふっ……」

 息ができない。

 苦しい。

 痛い痛い痛い。

 でも――なんだか、気持ちいい。

 息ができないって、気持ちいい。

 喉が押しつぶされてるこの感じ、なんとなく快感。

 わからないけど、快感。

 ふつうに気持ちいい。

 悪くない。

 むしろいい。

 幸せといっても過言じゃない。

 オナニーしてるみたい。

「え、ぇ……へっ……! け……こっ……!」

 白目を向く。

 舌が突き出される。

 気が狂いそうになる。

 ってもう気なんて狂っちゃってるか。

 わたしはすでに気狂いだ。

 誰がどうみても気狂いだ。

 メンヘラですね。

 精神的にアウトの人ですね。

 どこからどうみても危ない人ですね。

 生きているだけで迷惑をかけちゃう類の人ですね。

 よーしっ。

 気狂いなんて殺しちゃえー☆

 えいっ。

 グゥゥゥゥゥ。

「え……ぐぇっ……。か、けへっ……」

 絞まる。どこまでも絞まる。

 酸素が供給できない。

 喉の筋肉がおかしな形になる。

 ヤバい。……ヤバい。

 意識が遠くなってきた。

 身が悶える。

「おえっ……! お、くぉぇっ……!」

 全身がぶれる。

 おかしなダンスを踊っているみたい。

 上半身がぐるんぐるんと暴れ狂う。

 足をバタバタとさせる。

 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。

 あ。

 ダメ。

 もうほんと。

 死ぬ。

 これ以上喉を締めていたら――

「かっ……、か、かっ……!?」

 え。

 嘘。

 ちょっと。

 待って。

 ヤバい。

「っ!? ……!?」

 指に力が入らない。

 力を調整できない。

 首から指が――離せない。

 うわ。

 待って待って。

 死ぬって。

 ほんとうに死ぬって。

 なんで動かないの。

 わたしの指でしょ。

 なんで?

 え?

 脳が信号を送れてないの?

 酸素をストップさせてるから、脳の活動がおかしくなっちゃってるの?

 ちょ。

 ふざけ。

 待っ。

 え、え、え。

 あ。ああ、あああ、あ、ああ。 

 これ、ほんとうに死んじゃう。

 ほんとうに自分を絞殺しちゃう。

 ま、ま、まっ、ま。

 や。

 やだ。

 や、ヤダ。

「か、か、かか、が……っ!!」

 死にたくない。

 死にたくなんかないよ。

 やだ。

 やだよ

 助けて。

 誰か、助けて。

 生きたい。

 わがままいってごめんなさい。

 小説を書かせてください。

 わたしを生きさせてください。

 わたしに息させてください。

「かふっ……! か、き、きっ……!!」

 あ。

 これ。

 無理っぽい。

「ぎ……ぎぎっ……!!」

 わたしは。

 この時――もうすでに謝り始めていた。

 自分の人生にたいして、謝り始めていた。

 ごめんなさい。

 みんな、ごめんなさい。

 わたしは期待に応えられませんでした。

 わたしは、どれだけ頑張っても小説を書けませんでした。

 『頑張れば小説は書ける』を、証明できませんでした。

 『書けない』ばかりでした。

 『頑張っても小説は書けない』、でした。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめん、なさい。

「う、ぐ……――ぐぷっ」

 窒息死。

 誰もいない。

 独り。

 後悔。

 憐憫。

 わからない。

 書けない。

 何者にもなれない。

 小説家になろう――いいえ、小説家にはなれない。

 終わり。

 続きがない。

 始まりもない。

 ばいばい。

 怖い。

 ……嫌。

 ……死にたくない。

 誰か。

 誰か――

「……っ!」

 …………。

 ……………………。

 …………………………………………。

 お姉ちゃん。

 …………………………………………。

 ……………………。

 …………。

「……っ!」

 がぶっ。がぶっ。

 不意に溺れそうになる。

 何?

 あ、あ、あ。

 お腹が……。

 お腹が急激にグルグルって言ってる。

 グル、グルル、グルグルグッルグルッルルルグッルグル。

 え?

 何?

 内蔵から何かが押し寄せてくる。

 お腹の筋肉がとんでもない動きをしている。

 破裂するような感覚。

 上り詰めてくる感覚。

 うわ、あ、あ、あ、あ。

 ――ストレスだ。

 最高潮にまで達したんだ。

 あ。

 食べたチョコが。

 飲んだミルクが。

 あ。

 あ、あ。

 ストレスが。

 押し寄せてきてる。

 体の中で滝登りが起きてる。

「え、えぅ……えぅっ……」

 首を絞めていた指が――押し出された。

 喉の筋肉が強制的に――開いた。

 それを押し出すために――大きくなった。

 出る。

 出る……。

 吐き出す……。

 気持ち悪い。気持ち悪い。

 死ぬほど気持ち悪い。

 そう思ったその瞬間――

「……ぶごっ!?」

 外れるくらいに顎が開いて。

 雪崩のように流れ出てきた。

 それが――

「……う、うご……っごぶるるるるるろろろろぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉおおぉおおおおおぉぉぉぉぉっ!! うぶぼぼぼぼろろろろろろろえるるるるるろろろろろおろぉぉぉぉおおおおおぉぉぉっ!!」

 わたしの中から、出てきてしまった。

 汚い。

 きったない。

 どんどん出てくる。

 止まらない。

「げ、ご、がふ……えぶっ……! おぉぉぉぉぉ……! おぶるろろろろろえれれれれろうるるるるれぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 びちゃ。

 びちゃ。

 と口から垂れる。

「か、はぁ……。はぁー……」

 ――わたしはゲロを吐いた――

「は、はぁ……あ、あぁぁ……」

 吐き出された吐瀉物が、床にびちゃびちゃと滑り落ちる。

 ぬらりとしたものが足元で漂っている。

 えげつなく汚い。

 っていうかグロい。

 見てよこれ。

 消化不全のチョコレートと牛乳がぐっちゃぐちゃに混ざってる。

 それがわたしの口から流れ出てきて、納豆のような粘ついた糸を引いちゃっている。

 涎の糸。

 つぶつぶの泡も密集するように増えたり消えたり。

 目にするだけですごく不快。

 黒と白と黄土色。

 鼻水だってぐっちゃぐちゃ。

 鼻にも口にも、粘ついた液がまとわりついていて呼吸しにくい。

 まだ吐き気も残ってるし。

「かはぁ――! かはぁ――!」

 必死に酸素を欲している。

 息をするのが気持ちいい。

 生きている感覚が堪らなく心地いい。

 久しぶりの空気――最高に美味しい。

「ほんと、ほんと……」

 ほんとうに……死ぬところだった。

 まったく――バカなんじゃないの?

 ほんとうに自殺しちゃうところだったよ。

 自分を殺してどうするの。

 バカバカバカバカバカ。

 わたしのバカ。

 死なないでよ、もう……。

「う、うぅぅぅ……」

 涙が滲む。

 鼻水が垂れる。

 気力が衰える。

 筋肉が弛緩する。

 わたしは――倒れる。

「う……っ!」

 椅子にもたれた。

 と思ったら、重心がブレて、椅子から転げ落ちた。

 ドン、と。

 大きな音が部屋中に響く。

 痛い。

 でも起き上がる力もない。

 なすがままに横になる。

「あ……。うぅ……」

 眠っているような感覚。

 で、横たわりながら壁を見つめる。

 生きている感覚がものすごく希薄。

 なんというか、つまらない。

 鬱っぽい。

 眠りにつきたい。

 そんな感覚。

「…………」

 もう何もかもがどうでもいいや。

 終わりだ終わり。

 小説は書けなかった。

 それでいいや。

 うん。

 それでいいよ。

「……あぁ、そうか」

 そうなんだ。

 わかった。

 ようやくわかった。

「ふ、はは……」

 そっかそっか。

 そりゃそうだ。

 わたしが小説を書けなかった理由、ようやくわかった。

 足りなかったんだ。

 リアリティが足りなかったんだ。

 そうだそうだ。

 やっと気付けた。

 テーマでも対比理論でもなかったんだ。

 わたしに必要だったのは、リアリティだったんだ。

 そうだった。

 リアリティがなかったから書けなかったんだ。

 そりゃそうだ。

「…………」

 小説を書けないわたしが、どうして『小説は書けるよ』って言えるの?

 そんなの嘘にしかならないじゃない。

 わたしは小説が『書けない』の。

 どうしても小説が『書けない』の。

 小説が『書けない』わたしが、『頑張れば小説は書ける』なんて証明できるわけないんだよ。

 できてない人が、できるって言い張れるわけないんだよ。

 それ、ただの嘘だよ。

 リアリティーがいっさいないよ。

 そっかそっか。

 もう……テーマの時点から間違ってたんだ。

 わたしは小説が『書けない』。

 そのことをやっと自覚した。

 わたしは小説が書けない。

 だから『頑張れば小説は書ける』は書けない。

 そうなんだ。

 笑えない人が、『笑える』を書けないように。

 泣けない人が、『泣ける』を書けないように。

 書けない人は、『書ける』を書けないんだ。

 わたしは小説が書けない。

 書けない。

 だから、もう……。

 ね……。

「はぁ……」

 諦めた。

 もういいや。

 終わり。

 これでほんとうに終わり。

 もう何もかもを放り投げよう。

 あれだけ頑張ったのに書けなかったんだ。

 『頑張っても小説は書けない』が真実だったんだ。

 それが結果だったんだ。

 だからもう、終わりでいいよね。

 うん。

 終わりでいいよ。

 わたしはよく頑張ったよ。

 頑張って頑張って、それでも書けなかったんだよ。

 これ以上の先はないよ。

 ここが行き止まりだよ。

 だから終わろう。

 お疲れ様。

 おやすみなさい。

 ばいばい。

 寝よ。

「…………」

 わたしは目を閉じる。

 諦めとともに眠りにつく。

 終わりゆく。

 小説が書けないままで、終わらせようとする。

 ――おやすみなさい――

 わたしがそう思った――刹那。

 不意に、声が入ってきた――

「妹ちゃんっ!!」

 ――部屋の扉がいきなり開いた。

 扉が開くなり、声が飛んできた。

 え。

 何。

 誰。

 え、え?

「な、なに!? どうしたの!? ちょ、ちょっとちょっと!!」

 あ。

 お姉ちゃんだ。

 お姉ちゃん……。

 なんで?

 あー。

 そっか。

 椅子から落ちた音が、部屋の外まで伝わったんだ。

 大きな音がしたからね。

 その音が、お姉ちゃんにまで聞こえたんだ。

 それでお姉ちゃんが来てくれたんだ。

 心配して、来てくれたんだ。

 あぁ。

 そっかぁ……。

 そうなんだぁ……。

 …………。

 嬉しいな。

「あぅ……」

「妹ちゃんっ!?」

 わたしは。

 目を閉じた。

 もう限界だった。

 疲労困憊だった。

 安心して眠りにつくように――わたしは、目を閉じたのでした。



「ただいま」

「…………」

 姉が部屋に戻ってきました。

 わたしは今、姉に連れられて、姉の部屋にいます。

 姉のベッドに座らせてもらっています。

 ちょこんと、萎縮するようにして。

 座らせてもらっています。

 姉の部屋で、わたしと姉との二人きり。

 …………。

「ちゃんと綺麗にしておいたから心配ないよ」

 姉は、わたしの横に座って言いました。

 わたしは申し訳なくなって、俯きます。

「済みません……」

「いいのいいの」

 姉は、今しがたまでわたしの部屋を掃除してくれていました。

 言うまでもなく、あの吐瀉物を掃除してくれたのです。

 ……恥ずかしい。

「で」

 姉は、俯いたわたしの顔を覗き込むようにして問いかけます。

「何があったの?」

「…………」

 わたしは口をつぐみました。

 ……たとえ家族が相手とはいえ、軽々に言えることではないと思うのです。いえ、家族が相手だからこそ言えることではないでしょう。

 焦燥感に追い詰められた挙句、何をトチ狂ったのか自分の首を絞めて、ついにはストレスが最高潮にまで達してしまい嘔吐しただなんて誰が言えるというのでしょう?

 家族が相手だからこそ、心配はかけたくありません。

 姉にだって、言えることではありません……。そんな自傷行為じみた奇行を打ち明けたら、ぜったいに頭がおかしいと思われますから。

 それはリストカットした傷跡を見せるようなものですから。

 心配されるに決まってますから。

 ……心配されたくないのです。

 姉は言います。

「言いづらいこと?」

「…………」

 わたしは無言で頷きました。

 言いづらいことというよりは、言えないことといったほうが正確ですけど。

 姉は、わたしの頭に手を乗せて、優しく撫でました。

 そうしながら言います。

「なにか辛いことでもあったのかな?」

「…………」

 察されてはいるようです。

 そりゃあ酔っ払いじゃないんですから、嘔吐するには嘔吐しただけの理由があるとわかるものでしょう。

 わたしは黙り続けます。

 姉は言います。

「もしかして……小説に関係してる?」

「…………」

 ……さすが姉妹というべきなのでしょうか。

 かなり核心に迫った質問を繰り返してきます。

 隠しても無駄ということなのでしょうか……? 黙っていてもわかってしまうものなのでしょうか……?

 このまま黙っていてもわかってしまうくらいなら――いっそ自分から言ったほうがいいのでしょうか……?

 わかりませんけど。

 言うだけ言ってみましょうか……。

「あ、の」

「ん?」

「そう、ですね……」

「そう、って……、小説に関係してるってこと?」

「はい……」

「小説のことでなにか辛いことがあったんだ?」

「……はい」

「そっかぁ」

 なでなでされました。

 何となく緊張が解けてきます。

 ……言いたい、という気持ちがなぜだか強くなってきます。

 ――そうですね。

 この姉が相手なんですし、べつに吐露したって大丈夫なのかもしれません。もしかしたら笑い飛ばしてくれるかもしませんし、もし引かれたら嘘にしておけばいいですし……。

 言うだけ言ってみましょう。

 わたしは言います。

「その……」

「うん」

「実は……、小説が書けなくなってしまいまして……」

「小説が書けなくなった……。あぁ……」

 姉は神妙に頷きました。

 それから言います。

「それは……辛いよね」

「……はい」

「焦って焦って、結局なにもできなくなっちゃうよね」

「そ、そうです。そうなんです……」

 姉も音楽サークルで曲作りすることがあるからでしょうか、この気持ちには理解があるようです。

 創作者の苦悩。

 書いても書いても形にならないこの苦悩に――共感してくれているようです。

 ありがたい。

 となると、話は早いかもしれません。

 姉は言います。少し興味深そうに、

「どんな小説を書こうとしたの?」

「えっと……」

「うん」

「『頑張れば小説は書ける』ということを……テーマにしたものを書こうとしまして……」

「頑張れば……。あぁー。なるほど、確かにそれはいい話だね」

「……ありがとうございます。それはもう、わたし自身も面白くなるかなって思ってるところで……」

「うんうん」

「ただ……その……」

「うん?」

「なんていうか、プレッシャーを感じてしまいまして……」

「プレッシャー……。あぁ……。そっかぁ……」

 姉と会話をしている内に、自分の気持ちが少しずつ見え出してきました。

 ああそうか。

 手探りで姉さんと話しているけど――そうか、わたしの感じていたものはプレッシャーだったんだ。

 プレッシャーのせいで小説が書けなかったんだ。

 そこに気付けた。

 そこに気付けたから――じゃあ、もうわたしは小説を書けるようになったかな?

 プレッシャーを感じないようにすれば小説は書けるかな?

 …………。

 いや。

 いいや。

 今はまだ。

 ……お姉ちゃんと話していたい。

 お姉ちゃんと――

 わたしは、お姉ちゃんと話をします。

「あの、姉さん……」

「うん?」

「たぶん、そうなんですよ。プレッシャーを感じてたんだと思います」

「うん。そうだよねぇ……」

「はい……」

「だからあんなふうにゲロをぶちまけちゃったんだよねぇ……」

「…………」

 ぶちまけたって。

 もう少し綺麗な表現はなかったんでしょうか。

 ……まあどんな表現で取り繕っても、ゲロはゲロなんですけど。

 姉は言います。

「自分を追い込んじゃってたんだね」

「はい……。自分を追い込めば書けるかなと思って……」

「んー」

「でも、どれだけ自分を追い込んでも書けないものは書けないんですよ……。何をどう頑張ったって無理なことはあるんですよ……」

「…………」

「あれだけやって……、ゲロを吐いて……、ようやく悟りました。もうわたし、書けないんです。ダメなんです」

 わたしは書けない。

 もうそれは認めざるを得ない事実です。

 その上でまた無理をして書こうとしたら、ぜったいに体が壊れてしまう。

 だから、もう、諦めます。

 わたしは無力な人間だから。

 どうしようもないくらいの役立たずだから。

「妹ちゃん――」

 姉は。

 ベッドから腰を浮かせて、わたしと対面するように移動しました。

 しゃがみこんで、下から顔を覗き込んできます。

 え? え……? なんですか?

 姉は、そうして言います。

「また自分を追い込んじゃってるよ」

「…………」

「ダメって言っちゃダメ」

「……そう、ですね」

 姉の注意によって、わたしは自虐的なほうに考えがいっていたことに気付きました。

 ふと思います。

 ――もしかしたらこれもわたしの癖なのかもしれません、この自虐的な心理傾向は。

 気付けば、いつだって自分を追い込んでいる。

 わたしは自分に厳しすぎるのでしょうか?

 ……いや、そんなことは無いと思います。

 わたしは小説が書けていません。それは言い換えれば、結果を出せていないということです。

 結果を出せていなないということは、すなわち努力が不足していることにほかならないのです。

 そうでしょう?

 結果が出てないということは、即ちわたしは努力できない人間ということなのです。

 結果が出ないのは、努力が足りないからです。努力が足りないのは、自分に厳しくしないからです。つまりわたしは、むしろ自分に甘いくらいなのです。

 わたしは自分に甘いのです。

 甘ちゃんなのです。

 だから人よりも多く自分を叱咤激励しなければならないのです。

 そうしなければ……わたしは小説を書いてくれないのです。

 いつまでも怠けるから……こうやって自分を追い詰めないと、小説が書けないのです。

 一ヶ月近くも怠けていたのですから、自分には厳しくしないと――

「妹ちゃん。目を逸らさないで」

「あ、う……」

 姉に両手首を掴まれました。

 顔を近付かれて、至近距離で目を見詰めてきます。

 じっと見詰められて。

 わたしは、目を、右に、逸らし、

「う、あ……」

「……お姉ちゃんがそんなに怖いの?」

「あ、う、う……」

 言葉に詰まります。

 何も言えなくなります。

 頭が真っ白になります。

 どうしたらいいのかわからなくなります。

 ――怖いです。

「う……。ぃ、いや……。ご、ごめんなさい……」

 わたしの両手は、自然と頭に向かっていきます。

 まるで叩かれるのを恐れる子供みたいに、頭を守ろうとします。

「…………」

 手首を掴まれているといっても、姉の手にはほとんど力が入っていません。

 だからわたしが少し動かせば、手は頭に持ってこれます。

 わたしは頭を守ります。

 そのまま、自然と体を丸めるようにします。

 怖い……。とにかく怖いのです……。

 そんな目で見ないでください――姉さん。

「……ふぅ」

 姉は目を瞑って、溜息を吐きました。

 その動作に、わたしは、とても怖くなります。

 失望されたかのような心持ちになります。

 失望。

 わたしの最も恐れている感情――失望。

 リアルで生々しい人間という感触に、逃げ出したくなる衝動にかられます。

 人の期待に応えられないという罪悪感が、わたしの心臓を刺すようにつつきます。

 痛い。チクチクとして痛い。心臓から血が噴出しそうになります。

 あぁ。

 もう、泣きそう。

 無表情を保っていられません。どんどん憐れなものに崩れていきます。

 いま喋ったら、ぜったい涙声になる――そんな理解だけが頭を覆い尽くしています。

 喋っちゃダメだ。喋っちゃ……ダメだ。

 喋ったら、すべてが崩れてしまう……。

「うん……。わかる。わかるよ」

 姉は手を離して、自分の膝下に置きました。

 それからわたしに諭すように言います。

「お姉ちゃんもね、そうやってよく自分を追い込むの」

「……っ。……っ」

 わたしはまだビクビクとしていて、相槌を打つことすらままなりません。

 姉は、構わず、わたしに言い続けます。

「人の期待に応えようと頑張ってるのに、努力は空回りするだけで……。これじゃダメだって思えば思うほどズブズブ嵌っていっちゃって――」

「……っ……っ」

「気付くと、できていたはずのことすらできなくなっちゃう。そうなったらもう、鬱みたいになっちゃうよね。何をする気力もわかないの」

「…………」

「お姉ちゃんもよくあるよ、そういうこと」

「……」

 わたしは。

 少し、体の緊張が解けていくのを感じます。

 どうしてなんでしょう。

 なぜか……、心が安らいでいくような気持ちになっていくのです。

 姉は言います。

「そういうときってね、たいてい人の目を気にしてるときなんだよね。ダメな自分を見せたくないって気持ちがどんどん増幅していくの。で、連鎖的に、自分の粗がどんどん見えてくる」

「…………」

「そうなったらもう自分を全否定しちゃうよね」

 言われてみれば。

 確かに、わたしは人の期待にばかり囚われていたのかもしれません。

 人の目を気にしすぎて――ダメな自分を否定していたのかもしれません。

 姉は言います。

「でもねぇ、他人から見れば粗なんてべつにたいしたことないんだよねぇ。ちょっとおかしなところがあったって、そんなの笑って許してくれるものなんだよ。むしろダメなところがあったほうが人間らしくて、逆に好感が得られるよ」

「…………」

 そういうものなんでしょうか。

 そういうものなのかもしれません。

 他人の気持ちなんてよくわからないものです。それが画面の向こう側の他人となればなおさらわかりません。

 もしかしたらわたしを押しつぶす目的でむやみに期待してくる人だっているかもしれないし、その逆に、文字では厳しいことを言いつつもいつまでも信じ続けてくれる人だっているかもしれません。

 人の気持ちなんて、わたしにはわかりません。

 けど、きっと、少々の粗なんて、笑って許してくれる。

 姉に諭されると、なんとなくそう思えてきます。

 誤字脱字とか、ストーリーの矛盾とか、ちょっとのご都合主義とか、たぶん笑って許してくれるんでしょう。

 そう思えてきます。

 少なくとも、そうだったらいいな、くらいには思います。

 ――でも――

 姉は言います。

「待ってる人は、きっと待ってくれるから。だから力を抜いていいんだよ」

「……姉さん」

 わたしは口を開きます。

 ようやく、言いたかったことが、言えます。

 確かに待ってくれる人は待ってくれるかもしれません。

 でも……、

「姉さん……。そ、それでもわたしは……評価されたいです」

「……評価されたいの?」

「は、はい……」

「どうしてかな。どうしてそんなにも強く期待に応えたいって思うのかな?」

「だ、だって……、あんなに評価されたのって初めてなんです……。わたし、ほんとうに、今までは底辺をさまよっていたんです。そんなわたしの作品が、たくさんたくさん評価されて……。たくさんの人に読んでいただいて、ランキング一位にまで上り詰めたんです……」

「んん……。それはすごいね……」

「すっごくすっごく嬉しかったんです……」

 読者がどれだけ優しくしてくれるとしても、わたしにだってわたしの気持ちがあるんです。

 ランキングに入らなくてもいいじゃない。

 マイナーでもいいじゃない。

 出来なくてもいいじゃない。

 そんな優しい言葉をかけてくれる人だっているのでしょう。

 でも。

 わたしは。

 言います。

「ね、姉さん……――人から評価されたいっていう気持ちは、ほんとうに捨ててもいいんでしょうか?」

「…………」

 わたしは。

 評価されたいのです。

「人の目を気にしすぎたら書けなくなっちゃいますけど――でも、人の目を気にしなかったらそもそも書く意味そのものが無くなっちゃうと思うんです……」

「あぁ……。うん」

「創作って、やっぱり、人に見せるものだと思いますから……。誰にも見せないままで創り続けたって、意味がないと思うんですよ……」

「うん。そうだね」

「そうですよね……?」

「うん――それは妹ちゃんの言うとおりだ。人の目を気にしないっていうのも正しくはないよね。やっぱり創作っていうのは、人に見せること前提でしなくちゃね」

「はい……」

 評価されたい、それがわたしの気持ち。

 だからわたしは『続編』を書こうと思い立ったのです。

 また評価されたい――そう思ったからこそ、書きたくなったんです。 

 姉は言います。

「……でも、それで妹ちゃんは書けなかったんでしょう?」

「…………。……はい」

「じゃあ、ダメじゃん」

「……………………」

 バッサリでした。

 それはそうなんですけど……。

 ――ほんとうに。

 かんたんに言ってくれますよね。

 まったく。

 嫌になりますよ。

 わたしは言います。

「じゃあ、どうしたらいいっていうんですか……? わたしはどうしたら小説が書けるっていうんですか……っ?」

 バッサリと言われたからでしょうか。

 自分の語気が荒くなるのがわかります。

 落ち着いて言うことができません。

 八つ当たりするように、あるいは助けを求めるように、わたしは強い口調で言います。

「人のことを気にしたら書けなくなって、人のことを気にしなかったら書く意味がなくなる……。それじゃあわたしはどうしたらいいんですか……っ? それってつまり、わたしはどうあがいたところで、今後一切、小説が書けないってことなんですか……っ!?」

「妹ちゃん」

「ほんと、いい加減にしてほしいんですよ……! 書いても書いても書いても書いても形にならない……、もううんざりなんですって……っ! いい加減……、いい加減この苦悩から解放されたいんですよっ」

「妹ちゃん」

 書けども成らず、書けども成らず。

 書けども、書けども、夢なれば、書けども、成り難し。

 その苦悩を分かち合いたいのに。

 共感してほしいのに。

 いつだっていつだって、途中で詰まるから出来上がらない。

 けっきょく完成させられない。

 思いを伝えることができない。

 こっちだって、期待に応えたくて、自分をこれでもかと痛めつけながら書いてるんですよ。

 それでなお書けないんですよ。

 なんですか?

 結果が出なければ、努力は無意味なんですか?

 無意味なんでしょうね。

 だって、それって、人の目に出てないってことなんですから。

 人の目に出ないのであれば、そりゃあ傍から見れば怠けてるようにも見えましょうよ。

 そうですよ。

 結果が出てないから、わたしは怠け者なんですよ。

 知ってますよ、それくらい。

 わたし自身がいちばんよくわかってるんですよ。

 まったく。

 笑えない。

 泣けもしない。

 だから書けるわけがない。

 わたしは。

 わたしは、

「こんなことならねぇ、小説なんてやめちゃえばいいんですよ……! ほんと、バカなんじゃないかな……!? あーあ、才能なんてないし、努力だってロクにできないし……」

「ねえ、妹ちゃん」

「こんなわたしなんて、もう、生きてる価値がない……。っていうか死んだほうがいいんですって。そうしたら、ほら……読者様がわたしに期待してくれることもないでしょう……? ――期待っていうものが、いったいどれだけ怖いものなのか、読者様にはわからないんですよ……」

「妹ちゃん、聞いて」

「もういいですよ。わかりました。わたしはダメなんです……。だからもう終わらせてください……。死にたい。はぁ。もう死にたいな。死にたい死にたい。っていうか死んでます。小説を書けない時点でわたしは死んでます。死、死」

「…………」

 わたしは溜息を吐きました。

 そうして言います。

「はぁ……。もう死んでください、わたしも読者もみんな死ね――」

「――っ」

 姉は。

 手を挙げました。

「あ――」

 しまった、と思った。

 はたと気付いた。

 やってしまった。

 言いすぎた。

 弱音を吐きすぎた。

 酷いことを言いすぎた。

 死ねとか。

 死にたいとか。

 言いすぎた。

 我慢しなくちゃならなかった。

 不満を口にしちゃいけなかった。

 怒られる。

 ぶたれる。

 頬を思いっきりぶたれる。

 やだ。

 怖い。

 痛いのはいや。

 やめ、やめて……。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 ゆ。

 許して。

「妹ちゃんっ!!」

「――っ!」

 姉は。

 挙げた手で。

 わたしの頬をぶった。

「…………っ!?」

 ――のではなく。

「妹ちゃんっ! 妹ちゃんっ!!」

 むしろ。

 わたしを。

 いきなり。

 強く。

 抱きしめました。

 え?

 え?

 なに?

 どうして?

「もう……、もうやめて! そんなふうに自分をいじめないで! もう、ほんと……そんなふうに追い込まなくてもいいから……っ!」

 ぎゅう、と。

 強く強く抱きしめられます。

 服がしわくちゃになり。

 抱きしめる力も強いから、苦しいです。

 まるで、姉自身の辛さをわたしに投影しているかのように。

 強く強く共感されて。

 強く強く抱きしめられます。

 苦しくなるほどに強くて、強すぎるから苦しすぎる。

 締め付けられる体もさることながら――それ以上に、胸が苦しくなってくるのです。

 あ。

 ダメ。

 ダメ……。

 そんな強く抱きしめられたら、わたし、わたし。

 ダメなんですって。

 離して、ほんと、ダメなんですって。

「妹ちゃん……っ! 妹ちゃんっ!」

 気付けば姉は涙声になっていました。

 いや、もう泣いているのかもしれません。

 声は震えているし、強く抱きしめてくるし。

 そして姉は言いました。

 こう、言ったのでした。

「書けなくなっちゃうくらいなら、みんなの期待なんか裏切ってよ!」

 それは。

 それは。

 まさに。

 目から鱗というのか。

 盲点だったというのか。

 気付かされたというのか。

 ……ああ、ダメだ。

 言葉が出てこない。

 この気持ちを表す言葉が、探しても出てこない。

 自分の感情なのに、これがなんなのかわからない。

 強いて言うなら感動でしょうか。

 感動なのでしょうか。

 わかりません。

 上手く言い表せません。

 強く、深く、心をすくい取られるかのようなこの感情を――わたしは言い表すことができません。

 ただ。

 確かなことがあるとすれば。

 ――わたしも、姉のように、泣いてしまいました。

「そんなふうに……、正直な気持ちを殺さないで……っ! みんなのためにいい顔しようとしないで……っ! そっちのほうが、辛くなるからっ……!」

 見栄とか。

 体裁とか。

 張らないで。

 できないことはできないと言って。

 やりたくないことはやりたくないと言って。

 お願い。

 できないことをできると言い張らないで。

 やりたくないことをやりたいと嘘つかないで。

 見てるほうだって辛いんだよ。

 こっちだって、もっと楽しくやってほしいだよ。

 期待を、そんなふうに受け取らないでほしいんだよ。

 決して辛くさせたいわけじゃないんだよ。

 私は、嬉しんでほしいんだよ。

 だから。

 ありのままを書き出してよ。

 正直な気持ちを、書き出してよ。

 それこそを、私は、読みたいんだよ。

「ぅ、あ、あ……あぁ……」

 わたしは。

 わたしは。

「あ、ああ……ああぁぁぁ……っ! あああぁぁぁぁあぁ……っ!」

 わたしは。

 わたしは。

 わたしは。

 わたしは。

 もう。

 ダメだった。

「う、う……あ、ああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁっ! あああああああああああああぁぁぁぁあっ! あああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 完全に、泣いてしまった。

 保っていた無表情が、崩れてしまった。

 崩壊した。

 もうダメだ。

 あぁ。

 止まらない、止まらない。

 止められない。

「ああああああああああああっ! あうっ! あぅぅぅぅっ! う、う……、うあああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあああああああああぁぁぁぁあぁぁっ!」

 わたしは放心して、泣き叫んだ。

 もう心をせき止めることができなかった。

 泣くがままに泣いた。

 赤子のように泣いた。

 心に溜まっていたわだかまりを、すべて姉に託すように放心して。

 泣いて、泣いて、泣いて、汚れたものがぜんぶ浄化していった。

 こんな感覚、忘れていた。

 生きていてよかったと思えるような、そんな気持ちだ。

 死ななくてよかったと思えるような、そんな気持ちだ。

 ああ。

 そうか。

 ようやく、わかった。

 自分の気持ちが、ようやくわかった。

 姉の言葉を聞いて、自分の正直な気持ちが、やっと見えだした。

 そうなんだ。

 そうなんだ。

 言いたくなかったこの気持ちは。

 隠し続けていたこの気持ちは。

 押し殺してしまったこの気持ちは。

 わたしは。

 わたしは。

 わたしは。

 わたしは。

 わたしは。

 この、わたしは――

「わ、わたしは……、わたしは……、――『書きたくなかった』んです……っ!」

 わたしは――書きたくなかったんだ。

 期待に応えるための『続編』を。

 評価を得るのための『続編』を。

 わたしは、書きたくなかったんだ。

 書いても書いても形にならなかったのは。

 わたしがそれを望んでいなかったからだ。

 そうだったんだ。

 『書けない』じゃなかった。

 『書きたくない』だった。

 わたしは続編を――『書きたくなかった』んだ。

 それが正直な気持ちだった。

「ううっ……! あ、あぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 でも。

 そんなことを言いたくなかった。

 読んでくれた人がありがたくて。

 評価されたことが嬉しくて。

 感想をもらえたことに心が躍って。

 そうしていつしか――自分の気持ちがどんどんおかしくなってしまったんだ。

 みんなの期待が、嬉しくて。

 みんなの期待に、応えたかったから、

 みんなの期待が――重たかった。

 だからわたしは『書きたくない』なんて言えなかった。

 だからわたしは『書けない』と言い張った。

 『書きたくない』を隠すために――『書けない』と言い張っていたんだ。

 本心を隠すために、不可抗力であるのだと言い張っていたんだ。

 『頑張れば小説は書ける』だとか。

 評価された小説の『続編』だとか。

 そういう人の期待に応えるためのものを――ほんとうは書きたくなかったのに。

 書きたくないものを、書こうとし続けていたんだ。

 そう、だったんだ。 

 人の期待に応えようとしすぎて――自分の気持ちが無くなっていた。

 自分の書きたいものを抑えていた。

 自分の気持ちを押し殺していた。

 醜くて浅ましい自分を――隠してしまったんだ。

 だから――書けなかったんだ。

「あ、あぅぅぅぅぅ! う、う、! うああああああああああああっ! ――お、お姉ちゃん……っ! お姉ちゃぁぁあぁぁんっ! ああああああああああああぁぁぁぁぁあああああああぁぁっ!」

 そりゃ、そうだ。

 だって、そうなんだ。

 自分が『楽しい』と思えてないなら、『楽しい』という気持ちは伝えられない。

 自分が『書きたい』と思えてないなら、『書きたい』という気持ちは伝えられない。

 思えてないものを、伝えることはできない。

 だから書けなかったんだ。

 わたし自身が『頑張れば小説は書ける』を書きたくなかったから、上手く書くことがどうしてもできなかったんだ。

 自分がそう思ってなかったから――どうしてもリアリティが宿らなかったんだ。

 評価された小説の『続編』を『書きたくない』。

 『頑張れば小説は書ける』を『書きたくない』。

 『書きたくない』こそが、まさしくそれこそが、わたしのほんとうの気持ちだったんだ。

「お、お……うぅぅ……うぅぅぅぅうううううううううぅぅぅっ……! うっ! うぅっ!」

 わたしは、そんなものを書きたかったわけじゃない。

 期待に応えるために小説を書いていたわけじゃない。

 評価のためとか。

 感想のためとか。

 読者のためとか。

 そんな、読ませることを第一に考えたものを書きたかったわけじゃない。

 読んでもらう気持ちは、二の次だった。

 正直な気持ちはそうだった。

 そんな気持ちでわたしは書いてきた。

 そうなんだ。

 わたしは、読者に迎合したかったわけじゃない。

 自分を殺してまで、読者に媚びたかったわけじゃない。

 そんな気持ちで、小説を書いていたんじゃない。

 わたしは。

 わたしは、ただ――


 好きだから、小説を書いていたんだ。

 書きたいものを、書きたかったんだ。


 昔からそうだったじゃないか。

 それがわたしだったじゃないか。

 それでよかったんじゃないか。

 そうやって小説を書いてきたんじゃないか。

 いつだってそうやって小説を書いてきたんじゃないか。

 あの短編小説だって、そうやって書いたんじゃないか。

 あぁ、そうだ。

 自分の気持ちを抑圧せずに書いていたから、小説をかんたんだと言えていたんだ。

 思ったままに、伸び伸びと、軽い心持ちで書いていたから、上手く書けていたんだ。

 だから小説が好きだったんだ。

 小説でなら正直になれるから、小説が好きだったんだ。

「う、うぅぅ……! お姉ちゃんっ……! お姉ちゃん――大好き……っ!」

 隠さなくていいんだ。

 好きだっていえばいいんだ。

 大好きだっていえばいいんだ。

 本心を打ち明けることができたから――わたしは小説を書くのが大好きだったんだ。

 小説でなら、正直になれるんだ。

 その小説で人の目を気にしてどうするの。

 正直になれるところで、見栄を張ってどうするの。

 正直になれるところで、体裁を装ってどうするの。

 そうじゃないんだよ。

 隠さなくていいんだよ。

 ダメなところも、自分の気持ちも、隠さなくていいんだよ。

 醜さも、浅ましさも、書いちゃっていいんだよ。

 正直な気持ちを見せ付ける――そうやって書けばいいんだよ。

 そうやって書けば、気持ちよく書けるし、読む人は読んでくれるんだよ。

 きっとそうだよ。

 正直になることがなによりも大切なこと。

 作者にとっても、読者にとっても、大切なこと。

「お姉ちゃんっ……! お姉ちゃん……っ!」

「うん。よしよし……妹ちゃん。大丈夫だよ。よしよし……、お姉ちゃんがこうしててあげるから、なにも心配はいらないよ――安心して、安心して」

「あぅぅぅぅぅっ! お姉ちゃんっ……! お姉ちゃぁんっ!」

 読者に引かれても構わない――だから好きだと言おう。

 読者に嫌われても構わない――だから好きなように書こう。

 期待を裏切ってしまっても構わない――だから書こう。

 正直な気持ちを――書こう。

 人の目を気にせずに書いたものを――人に見せつけよう。

 正直な気持ちの吐露。

 それこそが、わたしの『書きたい』と思えるもの。

 『好きなように小説を書きたい』――それこそが、わたしの『書きたい』と思えるもの。

 それで、いいよね。

 それでも、いいよね。

 『頑張れば小説は書ける』は書けないけど。

 『好きなように小説を書きたい』を書けばいいよね。

 それで、いいよね。

 それなら証明できるから。

 それなら主張したいと思えるから。

 だから、

 いいよね。

 好きなようにして、いいよね。

 好きなように書いても、いいよね。

 ――わたしは言います。

 姉に、言います。

「好きなように……小説を書いても、いい、ですか……っ?」

 わたしの言葉に。

 姉は言いました。

 優しく、微笑みかけて、答えてくれました。

「うん――好きなように書いて、いいよ」



 翌日。

 姉といっしょに入っていた布団の中で、わたしは目を覚まします。

 姉のベッドでいっしょに寝ていたのです。

 幸せな時間でした。

「んぅ……」

 わたしは寝ぼけ眼で、姉のほうを向きます。

 姉はすでに起きているようで、腹這いになりながらスマホをいじっていました。

 カーテンから漏れる光りからすると、朝のようです。

 気持ちいい朝。

「……姉さん」

 わたしは寝ぼけ眼のまま、とりあえずは起きたことを知らせるために名前を呼びました。

 姉はスマホからわたしへと視線を移して、にこりと微笑みます。

「お、おはよー」

 そうして頭をなでなでしてくれます。

 気持ちいいです。

「どう? 心のモヤモヤは晴れた?」

「はい……。だいぶん気が楽になりました――今なら小説が書ける気がします」

「へぇ。どんなものを書くの?」

「『書きたくない』を書きたいです」

 わたしはそう答えました。

 わたしはこれまでずっと小説を書きたかったのです――けれど書けなかった。

 それは、わたしの気持ちがほんとうは『書きたくない』だったからです。

 ずっとずっとそこで葛藤して、悩まされてきました。

 その苦悩と長いこと格闘してきました。

 ならば――わたしはその苦悩を、リアルに書けるはず。

 もがいてももがいても『書けない』という苦悩と、ほんとうは『書きたくない』という気持ちを、書けるはずなのです。

 『書けない』のは『書きたくない』から。

 この苦悩をこそ、わたしは、純粋に書きたいと思います。

 それがわたしの正直な気持ちですからね。

 わたしは言います。

「いろいろと固く考えすぎていたのかもしれません。続編となると、いろいろと制約がかかっちゃいますから」

「そうだねー。登場人物とか思想とか、引き継がなくちゃいけないもんね」

「はい」

 そうなのです。

 思えばわたしは、そこにもずいぶんと悩まされてきました。

 続編であるからには、キャラクターを引き継がなければならない。だけど前作と同じことをしすぎたら、それはそれで面白みがない。ただの二番煎じになってしまう。

 続編では、どんなオリジナリティーが必要になるのか――そこに悩んできました。

 わたしは言います。

「だからわたし、続編では、かなり違った感じで書いちゃおうと思います」

「お、ほんと。例えば?」

「例えば――、男主人公ではなく、女主人公にしたいと思います」

「へぇ」

 それ以外にも。

 地の文を敬体にしたり。

 ガールズラブの要素を入れたり。

 お姉ちゃんをモチーフにしたキャラクターを出したり。

 そんなふうに――わたしの好きなものをたくさん取り入れてみようと思います。

 そうしたらもっともっと書きたいって思えますから。

 小説がさらに大好きになりますから。

「あまり固く考えず、好きなように書いていきたいと思います」

「そっかぁ。いいね」

「はいっ」

 『続編』を書くときは、そうだなぁ――主人公と、お姉ちゃんをモチーフにしたキャラクターとの絡みを多くしたいなぁ。

 それで、ラブラブな感じにしちゃったりして……。

「むふっ」

「?」

 考えただけでにまにましちゃいます。

 ああ、はやく書きたい。

 わたしは言います。

「でも、ほんとうにこんな好き放題に書いちゃってもいいんですかね……?」

「んー?」

「こんな気持ちを見せつけたら、もうみんな失望して誰も読んでくれなくなるかも……」

「ふふっ、やっぱりそこは不安なんだ」

「……情けないですけど、正直な気持ちを書き出したら、やっぱりその気持ちを受け入れてほしいって思っちゃいますね」

「大丈夫だって」

 姉は、わたしの頭にポンと手を乗せました。

 そうして言います。

「綺麗じゃないものを隠さずに伝える――それはぜったいにいいことだから。少なくとも私はそういうの、大好きだから」

「……そうですねっ」

 そうでした。

 べつにいいんですよね。

 笑えなくたって。

 泣けなくたって。

 書けなくたって。

 そういう負の感情をありのままに書いちゃってもいいんですよね。

 ロックンロールってことで、いいですよね。

 ――きっとみんなの期待には応えられないでしょう。

 『頑張れば小説は書ける』は書けなかったんですから。

 わたしは、けっきょく自分勝手な作品しか書くことができない。

 わたしにはそうすることしかできない。

 読者にはほんとうに申し訳ない。

 心が痛い。

 でも――


 それでもわたしは小説が書きたいんです。


 だからどれだけ期待外れだろうとも。

 失望されようとも、失笑されようとも。

 引かれようとも、嫌われようとも、見放されようとも。

 拙くても、おかしくても、前作を超えることができなくても。

 わたしは、わたしの書きたいものを書くんです。

 『頑張れば小説は書ける』は証明できなかったですけど――『好きなように小説を書きたい』なら主張できます。

 そして必ず――

 『好きなように書けば小説は書ける』のだと、証明したいと思います。

 必ず。

 必ずです。

 姉は言います。

「それにさ、『書ける』って気持ちより『書けない』って気持ちのほうがよっぽど共感できるものだと思うよ?」

「そうですかね?」

「そうだよ。強い人が勝つ展開よりも、弱い人が勝つ展開のほうが盛り上がるじゃない? ――負の感情っていうのはね、そんなふうに、人を強烈に感動させるものなんだ」

「……なるほど」

 幸せな人じゃないと笑えない。

 でも、不幸せな人は怒れるの。

 怒りだって、共感できる感情なんだよ。

 そして怒りのほうが、強く共感できる感情なんだよ。

 姉は言います。

「実際、前作だってその苦悩をこそ評価されたんでしょ? だったら今回もいけるって」

「そうですよね……、そうですよね……!」

「だから隠さない方がいいよ。むしろ強力な武器になるんだから」

「はいっ!」

「ロックはね! ポップスよりもすっごく心に響くんだから!」

「そうですよね!」

 あぁ。

 なんだか楽しいなぁ。

 正直な気持ちを分かち合えて、気分がとても晴れ晴れとしている。

 隠さないって、ほんとうに、気持ちいい。

 それを受け容れてもらうのはもっと気持ちいい。

「んー! お姉ちゃん、大好きー!」

「んぁ。あらあら」

 わたしは、お姉ちゃんに抱きついた。

 お姉ちゃんは、嫌な顔一つせずに頭を撫でてくれた。

 はぁ。

 幸せ……。

 お姉ちゃんといっしょのお布団にいられて、ほんとうに幸せ……。

 大好き。

 大好きぃ♥

 姉は言います。

「きっとね、妹ちゃんの書きたいもの――『書きたくない』って気持ちも、読者に受け容れてもらえるよ」

 姉はそう言いました。

 わたしは、本心からその言葉を信じられました。

 きっと受け容れてくれる――そう思えました。

 ……とても勇気が湧いてきます。

 背中を押されて、もうわたしは、書きたいという気持ちでいっぱいです。

 この正直な気持ちを、読者に伝えたい。

 いてもたってもいられない。

 『書けない』を書きたい。

 『書きたくない』を書きたい。

 書けそうだから、書きたい。

 それが正直な気持ちだから、今すぐに書きたい。

「よしっ!」

 わたしはベッドから出て、立ち上がりました。

 そうして振り向いて、姉に言います。

「小説、書いてきます! 書きたくて書きたくてしょうがない気持ちです!」

「うん――妹ちゃんならぜったいに書けるよ」

「はいっ!」

 わたしは歩きます、部屋の扉まで。

 ――評価されるのは確かに気持ちいいことです。

 ――でもそれで自分の気持ちを押し殺してはいけません。

 正直な気持ちで書く。それが小説を書くコツ。

 それさえ押さえていれば、小説はかんたんに書けるものなんです。

 評価のためではなく、読者のためではなく、自分が正直になるために書く。

 そしてその正直な気持ちを伝える。

 それでいいんです。それがいいんです。

 わたしは、部屋の扉を開きます。

 そして、姉に言いました。

「頑張ってきます!」

「うん、無理しないようにね」

「はいっ!」


10


 こうして、わたしは、『続編』を――一ヶ月半かかったけど書くことができました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かったです。 言葉にできないけど、泣けました。
[良い点] 前作と同じく小説を書く事の苦悩を題材にしていながら、前作とはまた違った悩みが描かれていて、とても面白く読ませていただきました。 [一言] 前作に引き続き読ませていただきました! 女主人公に…
[一言] これはガールズラブ?ただの姉妹ボンディングじゃない?まあ、どっちでもいい。 面白かった。やっぱり、作家とは自分の書きたいものだけを書くが必要ですね
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