クラスメイトその壱
「あんたさ、やらずに後悔するよりもやって後悔した方がいいって言葉、どう思う?」
彼女が出し抜けにそんなことを聞いてきたのは、高校2年の−−つまりは、進級してからそう日も経っていない、4月終わりごろ、とある日の昼休みのことであった。
「どう思う? どういう意味?」
「そのままの意味」
彼女の座っている席は僕の目の前、つまり一番窓側の列、後ろから3列目である。そこから真後ろを向いて自分の椅子の背もたれに肘をかけ、まっすぐに伸びた足を組み、僕の内側まで映し出すような黒曜石の瞳でじっと僕を見据えながら、そうしてやや尊大な調子で話し掛けるのだ。
「努力は好き?」
あえてゆっくりと唇を動かしているのだろうか。その短いセンテンスを噛みしめるように彼女は言った。
「好きかどうかは別として、しなきゃいけないことではあるんじゃないかな」
「へえ。どうして?」
求めていた答えと違う、とでも言うように彼女は挑発的に言う。
「物事にはプロセスってものがあるだろう。火のないところに煙は立たないってやつ」
「随分使い方が違うような気がするのだけれど」
「いいだろ、別に。物の例えだ」
僕はそう言ってから机の上に置いていたパックのコーヒー牛乳を一口飲んだ。組んでいた足を解いて、彼女は音を立てて両足で地面を叩いた。タン、という小気味いい音がタイル張りの教室に響く。
「私も喉乾いた。買ってくるわ」
そう言ってひらひらと教室から出ていった。長く伸ばした栗色の髪と言い、ボタンを開けたブレザーと言い、本当にひらひらと出ていった。
古典の授業は退屈だった。伊勢物語。在原業平。狩の使い。歌物語。古めかしい単語が右耳から入ってきては、左耳から抜けていく。集中力が維持できなかった。
結局彼女は授業が始まっても、戻ってくることはなかった。誰もそれを気に留めることはない。先生ですら、その空席を認めても何も言わない。それは決して珍しくないことだったからだ。僕もいつもならそうだっただろうが、今日は違った。
努力。
さきほどの昼休みに彼女が僕に言ったことを、声に出さずに反芻する。そして彼女の顔は何よりも雄弁に努力の無力さを物語っていたことを思い出す。
−−そりゃ天才には縁遠い話かもしれないな。
天才という言葉を使うとき、多くの場合はそれより大きな才能を持つ人間がいるだろうから使うのは気が引ける、というのが僕の持論ではあったが、しかしその例に当てはまらないほど、彼女の天才は紛れもない代物らしかった。らしかった、というのはその才能が発揮される分野が、僕が全く知らないと言って良いものだったからである。
彼女が音楽室で弾いていたピアノの音色を思い出す。僕はクラシックはさっぱり聞かないし、ピアノにも小学校の音楽の時間以外触れたことがない。ましてや音符なんてただのオタマジャクシの群れにしか見えないという、音楽に対して全くの無知蒙昧な人間であった。そんな素人の僕からするとただの「ピアノがうまい人」の域を出ない彼女であるが、見る人が見ると違うらしい。何とかという賞を史上最年少で獲ったとか、海外でコンサートを行ったとか、そういう話を何度か聞いたことがある。そのすごさは何となく分かったので、立ち聞きとはいえ彼女の生演奏を聴いたことは誰にも言わずにいる。
彼女にも。
もったいないから。
そんなことを主不在の空席を眺めながら考えていると、不意に眠気が襲ってきた。春の日差しにあてられたのだろうか。黒板では随分と授業が進んでいるような気がしたが、どこまで進んだのか追いかけるのも億劫だった。幸いにも教師からの信頼はそれなりにある。僕は睡魔の襲い来るまま、腕を枕にして瞼を閉じた。教師の声がすこしうるさい。これがピアノ曲だったらもっと安らかに眠れるのだろうか。
両目がひりつく感覚に目を覚ました。コンタクトが随分と乾いてしまったようだ。少しぼやける視界に手探りをするようにして目薬を手にする。両目に注すと、清々しい感覚とともにさっきとは違うひりつきを感じた。時計を確認すると、ずいぶん長く寝ていたことが分かった。
外からは運動部の掛け声、校内のどこかからは、吹奏楽部の楽器の音色が漏れ出して聞こえていた。教室には誰もおらず、窓からは新緑の山を黒く見せる見事なコントラストを成すオレンジ色の空が見えた。
17時半。実に4時間の睡眠だった。
これは夜眠れなさそうだな……と考えつつ、前の座席を見る。彼女の机から鞄が消えていた。どうやら鞄を取りに教室まで戻ってきたらしい。親切心で起こしてくれても良かったろうに。椅子から立ち上がって背筋を伸ばすと体に悪そうな音が聞こえた。
しかしこんな時間になってしまっては、部活に入っていない僕は完全に学校の部外者と言って良い存在になってしまう。ふぅと息を吐いて、鞄を背負う。自転車通学の僕はスポーツデザインのバックパックを通学鞄としていた。ちなみに彼女は小さ目のボストンバッグを使っている。自由な校風なのだ。
教室の電気を消して、夕日の反射する深緑の廊下を歩く。この階はどの部活も使っていないのだろうか。この学校は文科系の部活動もそれなりに多いはずだが、つい最近部活棟が本格的に整備されたおかげで大半の文科系部活動はそちらで活動しているようだ。名目上、そちらを部活棟、こちらは新校舎と呼ばれている。もう一つ、来年建て替えられるらしいコンクリ剥き出しの古めかしいものは旧校舎と呼ばれている。もっとも、僕たちの代にはほとんど縁のないものなのだが。
下駄箱に向かって歩いていると、上の階から微かにピアノの音が聞こえた。多分、ピアノだったと思う。聴いたことのある曲だった。曲名までは分からないが、僕が知っている曲なのだ。相当に有名な曲なのだろう。
−−彼女が弾いているのだろうか。
しばらく階段で立ち止まって耳を澄ましてみたが、当然彼女かどうかなんて判別はつかない。僕は単純な興味から、階段を上り始めた。
…………おかしい。
4階を過ぎて、さすがに違和感を覚えた。この校舎は4階建てで、しかも屋上は施錠されているのだから、ここから上にピアノなど置いてあるはずがない。踊り場にピアノは多分、入らないと思う。しかし階段を昇れば昇るほど、その音色は大きくなっていく。僕は小学校の頃読んだ、学校の怪談、そのひとつである深夜の学校で誰もいない音楽室からピアノの音がするという話を思い出していた。
怪異。
これは、怪談なのだろうか。階段でそんなことを考えた。音を立てないように階段を上る。踊り場に差し掛かっても誰もいない。しかしなおも曲は頭上から聞こえてくる。この階段を昇り切ったとき、僕は何かとんでもない秘密を知ってしまうのではないかという好奇心が足元から上がってきた。
頭上、正確には階段は折り返すのだから事実上後頭部から響くピアノの旋律を聴きながら、ついに僕は最後の一歩を踏み出した。
折り返した階段の向こう、屋上へと続く最後の十数段は途方もなく長い坂道に見えた。今や旋律は僕の前面から押し寄せてくる。顔を上げると、
「え?何?どうしたの?」
積み上げられた机にだらしない座り方をした彼女が、大型コンポとともに待ち構えていた。
僕が彼女の名前を出さずにずっと『彼女』と言い続けていたのには、特に明確な理由は無い。敢えて言うなら、僕は彼女の名前を、フルネームを知らなかったのだ。フルネームを知らないのに、知っている名字だけで彼女という個人を表すのは、何だか失礼なことをしている気分になりそうだったから、ここまで『彼女』と軟派者のような呼び方をしていたのだ。だから彼女に「私のフルネーム、知ってる?」と聞かれたときは「NO」と答えざるを得なかった。
「名字なら知ってるよ」
「あ、そう」
彼女はつまらなさそうに言った。
今僕は、彼女が腰掛ける乱雑に積まれた机をある程度片付け、斜め前の机に座っていた。
「あ、そうって……。知っていて欲しかったのか?」
「別に、そういう訳じゃないけど」
そういって彼女はそっぽを向いた。機嫌を悪くしてしまったのだろうか。しかし知らないものは知らないのだ。無い袖は振れないと言うだろう。
「当ててやろうか」
「当たらないよ」
気怠そうに言う。
「やってみなきゃ分からないだろ」
「分かるって」
鬱陶しそうに言う。
「んー、音楽やってたよね。琴何ちゃらとか」
「違う」
随分ときっぱりと言った。
「じゃあ何だよ。自分から話振ったってことは何か話したいんだろ?」
彼女は「変な人」と呟いてから
「カノン」とさらに小さく呟いた。
「カノン」僕は復唱する。頭の中で漢字を当てはめる。ノンはオンの変化で、多分「音」だろう。だとしたらカは……佳?花?香?
僕が決して多いとは言えない漢字知識を総動員して考えている間、彼女は少し興味深そうにこちらを見ていた。
「降参。降参だよ。どういう字当てるの?」
僕が両手をあげて降参のジェスチャーをすると、彼女はまた読み取りにくい表情に戻って、薄く埃を被った机に人差し指で字を書いた。それはこちらからは逆さになっていたので首を少し捻って見る必要があった。
『奏音』。机にはそう書いてあった。
上ノ瀬奏音。
今思うと、そのときこそが僕が初めて彼女、上ノ瀬と友人になった瞬間だったのかもしれなかった。