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観測者  作者: 天宮湖山
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第一章 善良な教師

ここは東京にある偏差値 65の進学校の

青稜学園高校だ、そこに勤務する理科教師

赤杉竜二は朝のチャイムより少しだけ早く教室に入る。

それが彼の流儀だった。


窓際のカーテンを半分だけ開け、黒板にチョークで今日の日付だけを書く。

文字に癖がない。几帳面というより、余計な感情が混じらない線だ。

理科室から漂うわずかな薬品の匂いが、彼には心地が良かった。

世界は、今日も正確に始まっている。


「おはよーっす、りゅうちゃん先生!」


廊下から声が飛ぶ。赤杉は振り返り、片手を軽く上げた。


「おはよう。朝から元気なのはいいけど、廊下は走らない。

運動エネルギーはグラウンドで消費しよう」


くすっと笑いが起きる。

この学校で、赤杉の言葉はだいたい笑いに変換される。


彼は若すぎず、老けすぎず、背が高く、姿勢がいい。流行を追っているわけではないが、

着ているシャツやジャケットはいつも清潔で、無駄がなかった。

生徒たちはそれを「かっこいい」と呼び、同僚は「感じが良い」と評した。


要するに、赤杉竜二は信用されていた。


「理科ってさ、暗記科目だと思ってる人、手を挙げて」


授業が始まると、彼は唐突にそう言った。数人が恐る恐る手を挙げ、

周囲の目線を気にしてすぐ下ろす。


「まあ、正直だね。でも違う。理科は――」


彼はチョークを置き、教壇から一歩降りた。

「世界はどうしてこうなっているかを、ちゃんと説明できる科目だ。

理由がわかると、暗記する必要がなくなる。覚えるのは、理解した結果だけでいい」


その言葉に生徒は頷いたり、首をかしげたりする。

全員が理解しなくても構わない。赤杉はそう思っていた。大切なのは、説明できる世界が存在すると信じさせることだ。


彼の授業はテンポがいい。難しい話の前に必ず例え話があり、冗談が挟まる。失敗談も話す。

「昔、大学の実験で派手に失敗してね」と言うと、生徒たちは身を乗り出す。

教師が間違える姿は、なぜか安心を生む。


「先生、天才なんでしょ?」


誰かがそれを言うと、赤杉は肩をすくめる。


「天才だったら、ここにはいないよ。もっと静かな場所で、誰にも会わずに暮らしてる」


笑いが起きる。

その場の空気は、いつも正確に制御されていた。


放課後、理科準備室で器具を片付けていると、同僚の佐藤圭介が顔を出した。


「赤杉先生、相変わらず人気者だね」


「人気は観測者の主観ですよ。測定条件も変われば、結果も変わりますよ。」


佐藤は笑ったが、その笑顔はどこか硬かった。

最近、職員室には微妙な空気が流れている。高野先生が数日前から学校に来てない。

連絡もつかない。理由は「体調不良」だと生徒たちには言っているが、

本当のところはわからない。実際、高野先生のご両親が行方不明届を先日出したところだ。


「高野先生のこと、何か聞いてる?」


佐藤の問いは、雑談の形だった。

赤杉は手を止めずに答える。


「聞いてない。大人には、大人の事情があるんでしょう。」


それ以上、佐藤は踏み込まなかった。踏み込めなかった、という方が正しい。


赤杉は準備室を出て、校舎を歩くと夕焼けの光が、床に本来の静けさを取り戻していく。


彼は思う。世界は静かなときほど正しい。


家に帰り、シャワーを浴び、簡単な食事を済ませる。ニュースを流しながら、

明日の授業の流れを頭の中で組み立てる。

無駄を省き、要点だけを残す。説明は簡潔に。誤解の余地を減らす。


誤差は、できるだけ小さく。


それが、教師としての信念だった。

そして それは、教師であること以外の場面でも、同じだった。


ベットに入る前、赤杉は一度だけ考えるのをやめた。

考えすぎは、判断を鈍らせる。睡眠は、最も公平なリセットだ。


電気を消す。

闇は何も語らない。

語らないからこそ、信頼できた。


赤杉は最高の教師だ。

赤杉の経歴は職員室では半ば伝説のように語られていた。

二年前、この青稜学園高校に突然、欠員補充という形で雇われた教師。

年齢の割に落ち着きすぎていて、履歴書の行間が妙に静かだった。


出身は灘高校。

そこから東京大学理科一類。

卒業後、渡米。

進学先は、マサチューセッツ工科大学 MIT。


ここまでは、誰もが息をのむほどに美しい経歴だった。


だがその先が続かない。


MITの欄には、短い文だけが記されている。

「中途退学」。

理由の記載はなかった。


同僚の誰かが冗談めかして言った。

「向こうのレベルが合わなかったんじゃない?」

別の誰かは、「逆だろ」と笑った。


赤杉自身は、その話題になると、決まって話を切り上げた。

否定も、肯定もしない。ただ、「いろいろあって」と言うだけだ。


そうして誰もが、その空白から目を逸らした。

それが、どれほど致命的な誤差になるかも知らずに。

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