天使たちの箱庭
0. 箱庭の法則
双子――ベネットとコレットは、生まれた瞬間から奇妙な静寂をまとっていた。
産声はなく、ただ透き通った瞳で世界を見渡し、母の腕の中で同時にまばたきをした。
生家であるブラックフォード侯爵家では「神の祝福か」「いや、災いの子か」と囁かれたが、双子自身はそんな風評を気にも留めなかった。
彼女たちにとって世界とは、最初から“動かすもの”だったからだ。
幼い指先で玩具を落とす。使用人がそれを拾う。
祖父の小言を聞き流す。祖父は苛立ち、祖母がそれを宥める。
その一連の連鎖反応は、精巧なオルゴールの歯車が噛み合う様子に似ていた。
(こう動けば、こう動く……)
侯爵家という広大な屋敷は、彼女たちにとって最初の実験場であり、箱庭だった。
母の死に目に涙をひと粒浮かべれば、使用人たちも涙を流す。
父が転落したと少し声を張り上げれば、大人達が狼狽して駆け寄ってくる。
祖父に助けを求められた時、あえて沈黙を守ればどうなるか。
逆に、祖母にただ微笑み返すだけで何が得られるか。
双子は観察し、分析し、予測し、そして楽しんだ。
そこにあるのは「悪意」ではない。
彼女たちにとって、生きるとはすなわち“世界の法則を理解すること”と同義だったのだ。
1. 天使たちの取引
その朝、ベネットとコレットは本館奥の小広間で向かい合っていた。
薄絹のカーテンを透かした朝の光が、二人の蜂蜜色の髪を淡く縁取っている。同じ角度でティースプーンを置き、全く同じタイミングで湯気の立つカップを口元へ運ぶその仕草は、鏡合わせのようだった。
紅茶は隣国産。香りは芳醇だが、後味は軽い。
双子にとって、これは優雅な休息ではなく、一日の始まりを確認する“調整作業”にすぎない。
そこへ、足音を殺した使用人が現れた。顔色は紙のように白く、組まれた両手は小刻みに震えている。
「お、お嬢様方……あの……王都ブラストン商会の商会長様がお見えで……」
双子はカップを置く動作すら止めず、視線だけを上げた。
その無機質な瞳に射すくめられ、使用人は喉を鳴らした。
「……直々に、本日……お二人に“商談”があると……御当主様もアネット様もご不在で……その……客間に……」
「商談?」とベネット。
「私たちと?」とコレット。
「は、は、はい……“ぜひお二人を愛人に”と……そのような、恐れ多いことを……っ」
使用人の声は恐怖に消え入った。
恐ろしいほどの美貌を持つとはいえ、まだ十四歳の令嬢に対してあまりの無礼。常識ある者なら怒りで失神してもおかしくない提案だ。
しかし双子は、微かな驚きすら示さなかった。
ただ同時に、カップを静かにソーサーへ戻した。カチャリ、と硬質な音が一つだけ響く。
「まあ、いいわね」
「退屈していたところだもの」
それは、午後のお茶菓子を決めるような軽さだった。
双子は椅子から滑るように立ち上がり、歩調を揃えて客間へ向かった。
廊下を歩くその姿はあまりに対称的で、長年仕える者ですら、どちらが姉でどちらが妹かを見失うほどだった。
***
客間の革張りソファには、肉付きの良い男が沈み込んでいた。
金糸の刺繍が施された上着は腹部で張り詰め、太い指には下品なほど大きな貴石がいくつも嵌められている。
だが、何より異様だったのはその目だ。
そこには知性ではなく、稀少な獲物を前にした捕食者の、濁った欲望が宿っていた。
双子が入室した瞬間、男の瞳孔が開いた。
「……おお……まさしく……噂通りだ……」
彼は立ち上がり、大仰に礼をした。
「お噂はかねがね。あまりのご美貌に、居ても立ってもいられず参上しました。ぜひとも我が屋敷にお迎えしたい――愛人として」
控えていた執事が息を呑み、使用人たちは凍りついた。
だが双子は、瞬き一つしない。
「愛人に?」
「私たちを?」
コレットが足音もなく近づき、首を傾げた。
ベネットはその半歩後ろで、彫像のように微笑んだ。
「その“商談”、詳しく聞かせてくださる?」
「退屈なのは嫌いなの」
商会長の厚い唇が震えた。
それは恐怖ではなく、恍惚。自身の歪んだ願望が、現実の手触りを持って迫ってきたことへの歓喜だった。
「……はい……! あなた方のように美しい至宝を……私は……」
彼は熱に浮かされたように語り始めた。
ただ屋敷に囲い、着飾り、人形のように愛でたいのだと。
夜の相手など必要ない、ただ美しくそこに在り、呼吸をしてくれればいい。対価としての金なら幾らでも払う、と。
言葉が熱を帯びるにつれ、周囲の空気は重く淀んでいく。
だが双子は――むしろ、退屈そうに視線を交わした。
その男の望みは、あまりに単純で、底が浅かったからだ。
一通りの熱弁が終わると、ベネットがぽつりと呟いた。
「……あら、いいわね」
間髪入れず、コレットが継ぐ。
「行きましょう。ちょうど暇していたところだもの」
商会長の呼吸が止まった。
「……っ……! そ、そんな……あっさりと……!」
双子は商会長に見向きもせず、使用人たちへ矢継ぎ早に指示を出した。
「準備はいらないわ」
「すぐに行けるもの」
「お兄様とお姉様がお帰りになられたらお伝えして」
「ええ、迎えは必要ないわって」
「後で手紙を送りますって」
「「今までお世話になりましたって」」
そして躊躇なく歩き出した。
まるで本当に、朝の散歩へ向かうかのように。
残された者たちは、ただ呆然と、美しい双子の背中を見送ることしかできなかった。
***
商会長の屋敷に到着したのは、西の空が紫に沈みかける頃だった。
その邸宅は豪奢というより、異様なまでの“隙のなさ”を誇っていた。外壁は染み一つなく磨き上げられ、庭木の枝葉は定規で測ったように整えられている。
過剰な秩序は、時に狂気を感じさせる。
出迎えた使用人たちは一様に目を伏せていた。
何かを見てはいけないと、長年の恐怖で刷り込まれているかのように。
「こちらが……お部屋でございます」
案内されたのは、南向きの広い一室だった。
採光は完璧だが、家具はすべて壁際に退けられている。
中央には、背もたれの高い椅子が二脚――まるで美術館の“展示台”のように、ポツンと置かれていた。
ベネットとコレットは部屋を見渡し、視線だけで会話を交わし、頷きあった。
すぐに商会長が現れた。
手には宝石や最高級のビロードのリボンが詰まった木箱を抱えている。
「さあ……どうか、ここに座ってくれないか」
双子は命じられるまま椅子へ腰掛けた。
すると商会長は数歩下がり、胸元を抑えて深く、震える息を吐いた。
「……完璧だ。まるで、陽の光に命を与えられた最高級の人形だ……」
彼の眼差しに情欲の色はなかった。
あるのは“蒐集家が、生涯最高のコレクションを手に入れた時の陶酔”だけ。
夕闇が部屋を満たすまで、男はほとんど言葉を発さなかった。
ただ、陶器の少女たちを眺め、ため息をつき続けた。
夜になると豪奢な衣装が運び込まれた。薄絹、天鵞絨、真珠飾り。
双子はそれらを身にまとい、ひっそりと佇む。
食事も別室。双子が空腹を覚える前に軽食が運ばれ、また静かに下げられる。
使用人たちは舞台裏の黒衣のように気配を消していたが、時折、哀れむような視線を双子に向けていた。
翌日、双子たちの兄であるブラックフォード侯爵家当主、エドマンドが乗り込んできた。
荒い足音で部屋に入った兄は、豪奢なドレスを着せられ、無表情で座る妹たちを見て深くため息をついた。
「帰るか?」
双子は動かなかった。沈黙こそが肯定であり、拒絶だった。
エドマンドは、手切れ金を渡そうとする商会長を一瞥し、冷たく言い放った。
「金はいらん。本人たちが望んだことだ」
商会長は予期せぬ幸運に、下卑た笑みを抑えきれない。
エドマンドは侮蔑を隠そうともせず、目を細めた。
「……しかし、これだけは宣言しておく。今後何があっても、侯爵家は貴殿を助けない。何が起きても、だ」
***
奇妙な生活が三日続いた。
窓辺で商会長の外出を見送った後、双子は初めて口を開いた。
「ねえコレット」
「分かってるわ、ベネット」
「この屋敷は、私たちを飾るためだけに形を保っているの」
「そしてあの男は、理想を飾るためだけに生きているね」
「でもその理想、きっと脆いわ」
「ええ、ガラス細工よりも儚いわ」
二人の声音は淡々としていた。あくまでも観察し、分析する響き。
けれど、退屈はしていなかった。
この歪んだ美意識の城は、彼女たちにとって“暇つぶしに値する実験場”だったからだ。
だが、この“生きた鑑賞会”を、黙って見ていられない者がいた。
商会長夫人である。
その日の夕刻、夫人は耐えきれないように扉を押し開き、双子の部屋へ踏み込んできた。
豪奢なドレスの裾が怒りに震え、金糸の刺繍が明かりを乱反射する。
夫人の頬は紅潮し、目元は涙と怒りで潤んでいた。長年の苦悩が澱のように瞳を濁らせている。
「……あなたたち……っ!」
絞り出された怒声。
しかし双子は、儀式の最中に来客を迎えたかのように、優雅な動作で立ち上がった。
「まあ、奥様」
「あら、いらしたのね、奥様」
左右対称に並び、軽く会釈をする。
その完璧さが、夫人の神経を逆撫でした。
「憤怒で瞳が揺らいでいるわ」
「とても美しいわ、暖炉の炎みたい」
「……っ、黙りなさい! あなたたちのせいで、夫は……あの人は……っ!」
言葉は形をなさず、嗚咽混じりの叫びとなる。
気品ある夫人の仮面が、無残に剥がれ落ちていく。
「私たちを憎んでいるのでしょう?」
「ええ、それは正しい反応だわ」
双子は淡々と受け止める。
そこには侮蔑も同情もなく、ただの「確認」があった。
「……っ!」
夫人は息を呑んだ。双子は一歩も動いていないのに、部屋の空気が冷たく張り詰めていくのを感じたからだ。
ひどく静かで、ひどく綺麗で、そしてひどく恐ろしい。
「でも、奥様。貴女の願いは本当にそれなの?」
ベネットの声は柔らかかった。
なのに、夫人の背筋が粟立つほど冷徹だった。
「私たちには分かるわ」
「ええ、とってもよく分かるわ」
コレットの声が重なる。
二つの声が一つの意志となって響く。それは共鳴というより、和音だった。
夫人はよろりと後ずさった。
足の力が抜け、ドレスが床を擦る音が虚しく響く。
「な、何を……何を知っていると言うの……」
「きっと近いうちに、望みは叶うわ」
「安心して」
「安心して」
双子はゆるやかに、分度器で測ったように同じ角度で微笑んだ。
それは精巧なビスクドールが、機械仕掛けで唇を動かしたような――無機質な完璧さだった。
「「私たちが叶えてあげる」」
その瞬間、夫人の中で何かが決壊した。
感情の堰が切れ、恐怖とも安堵ともつかぬ絶叫が溢れ出る。
「あ、あああああっ!」
夫人は逃げるように走り出し、袖で顔を覆いながら廊下の角へ消えた。
残された双子は、その背中を静かに見送る。
室内の空気は、何も知らぬまま、ただ澄んでいた。
***
それから数日後――王都の中央広場は、突如として悲鳴に包まれた。
昼下がりの陽光は穏やかで、いつもと変わらぬ商人の呼び声が満ちていた。
そんな平和な空気を切り裂くように、甲高い絶叫が響いたのだ。
「きゃあああああっ!」
人々が振り向くよりも早く、重い音が石畳に叩きつけられた。
広場の中心、大階段のふもとに――商会長の体が、無残な姿で転がっていた。
目撃者によれば、彼は大階段の最上段から、まるで糸が切れたように転げ落ちたという。
転落の拍子に金のボタンが弾け飛び、高価な上着が裂け、最後はゴミのように石畳へ沈んだ。
即死であることは、誰の目にも明らかだった。
「早く警備隊を呼べ!」
「一体どうして……供も連れずに……」
「最近、大きな商談に失敗したと聞いたぞ」
「自殺か!?」
「寝不足じゃないか? 目の隈が酷かったし……」
群衆は口々に“理由”を作り始めた。
自殺か。事故か。病か。
それとも――。
――それとも、誰かの切なる願いが、通じてしまったのか。
そんな声なき疑惑が、広場の風に薄く溶けた。
その刻、商会長邸の二階。
開け放たれた窓辺で、双子は同じ角度で首を傾げ、風に乗って届く喧噪に耳を澄ませていた。
遠くから響く悲鳴とざわめき。
だが双子の表情に揺らぎはない。
「どちらでもいいわ」
「結果は同じだもの」
これは予測された結末。
箱庭の不要なパーツが取り除かれただけ。
双子はカーテンを指先でつまみ、ゆるりと揺らした。
春風が入り込み、蜂蜜色の髪を優しく撫でる。
遠くで弔いの鐘が鳴り響いた。
双子は、満足げに目を細めた。
***
商会長の葬儀が終わった夜、屋敷には奇妙なほど深い静寂が漂っていた。
喪章をつけた使用人たちは足音を殺し、何かに怯えるように仕事をこなしている。
だがその中心で――商会長夫人だけが、憑き物が落ちたように落ち着き払っていた。
夫人は黒いレースの喪服を引きずり、ゆっくりと、しかし迷いなく双子の部屋へ入った。
燭台の火が揺れ、双子の影が壁に長く伸びる。
「……ねえ……いるのでしょう……?」
夫人は声を落とした。
それは神殿に踏み入る巡礼者の、敬虔な祈りに似ていた。
「まあ、奥様」
「あら、夜更けにいらしたのね、奥様」
双子は窓辺から同時に振り返った。
喪服の黒と、透き通るような白い肌。
整いすぎた造形美が、蝋燭の灯りの中で妖しく浮かび上がる。
夫人はその姿を見た瞬間、糸が切れたように膝を折った。
「……ああ……やはり……貴女たちは……」
震える手で胸元を押さえ、這うように部屋の中央へ進む。
「夫が……あの人が……とうとう……」
言葉の端に涙が滲む。だがその声色は、悲嘆ではなく歓喜に震えていた。
「事故は……突然で……けれど……その……」
夫人は双子の足元で平伏した。
ドレスの裾が黒い花弁のように床へ広がる。
「……あれは、貴女たちが……?」
その問いは、答えを求めているのではない。
救済への感謝を捧げているのだ。
「奥様、望んでいたのでしょう?」
「ええ、ずっと……あの人がいなくなることを」
夫人の肩が跳ねた。
双子はそっと、慈悲深い女神のように彼女を覗き込む。
「可笑しな趣味に囚われ、少女を買い集め」
「人形のように飾り、理想から外れると捨てていた」
「それを止めたかったのでしょう?」
「いっそ亡くなれば……と、心の中で何度も殺していたのでしょう?」
夫人は両手で顔を覆い、小さく嗚咽した。
それは罪悪感の涙ではなく、呪縛から解き放たれた魂の震えだった。
「……ええ……ええ……そう……なの……。でも……まさか……こんな形で……こんなに早く……」
双子は軽く微笑んだ。
その笑みは、無垢であるがゆえに無慈悲で、それゆえに神々しかった。
「耐えていたのね、奥様」
「頑張られたのね、奥様」
「素敵な使用人が教えてくれたわ」
「ええ、商会長は危険ですって」
「どうか逃げて下さいって」
「奥様が雇われた方なのね」
「素晴らしい目をお持ちなのね」
「私たちはただ、願っただけ」
「ええそうよ、法則に従って願っただけ」
「奥様の願いを叶えて欲しい」
「奥様を苦しめる歪な異物を、取り除いて欲しいと」
「願っただけよ」
「それだけなのよ」
紡がれていく双子の言葉を、夫人は身体を揺らしながら聴いていた。やがてピタリと動きを止め、顔を上げ、すがるように双子の冷たい手を取った。
「……天使……」
その囁きは、確信に満ちていた。
「貴女たちは……私を地獄から救いに来てくださった天使……。どうか……この家に……ずっと……いておくれ……」
双子は互いに目を合わせ、ほんの一瞬だけ肩を揺らした。
「望むなら」
「ええ、貴女が望むなら」
「「ここにいて差し上げるわ、奥様」」
夫人は、双子の手を額に押し当てた。
その表情は、もはや夫を亡くした未亡人ではない。
奇跡を目撃した崇拝者の顔だった。
こうして夫人は、自らの暗い願いを叶えてくれた双子を――天使として、救世主として、その手で養子に迎え入れた。
息子が、父の急死と母の変貌に薄寒いものを覚えながらも、忙しさを言い訳にして目を逸らしてしまうほどに、その変化は劇的だった。
王都一の大商会は、いつしか双子の箱庭となった。
屋敷の空気は静かに、しかし確実に、双子を中心に回り始めていた。
2. 箱庭の外側にて
商会長の死から月日が流れ、ようやく家中の騒ぎが収まりつつあった頃。
亡き父の跡を継いだ若き商会長――双子達の義兄は、ようやく「今の家族」の異様さを真正面から見つめ直す余裕を得た。
母は、驚くほど元気になっていた。
父が生きていた頃よりもずっと、肌には艶が戻り、憑き物が落ちたように笑うようになった。
ただひとつ、致命的な問題があった。
母が“天使”と呼んで離さない存在――あの双子だ。
母は、かつて父の人形だった少女たちを、今は生ける聖像のように崇め、大小問わずあらゆる判断を委ねていた。
その光景は異様だ。
だが奇妙なことに、双子が選ぶ答えはいつも合理的で、商売にとっても有益だった。母の精神が安定しているのも、間違いなく双子の“統治”のおかげだ。
――それでも、この依存は異常だ。
義兄は執務室で何度も考え込んだ。
(このままでいいのか? いっそどこかへ嫁に出した方が……いや、誰が引き受ける?)
重い頭を抱え、眉間を揉みほぐしながらリビングへ向かう。
扉を開けると、そこには花畑のような光景があった。
「天使たち、こちらのお嬢さんはどうかしら?」
「強欲そう」
「でも演技は素晴らしいわ」
「ええ、清楚な笑顔の下で金貨を数えている目が素敵」
「まあ! ではやめましょう。それなら、こちらのご令嬢は?」
「傲慢」
「穢らわしい」
「男を知っているわ」
「両手の指では足りないくらいね」
「ひぃ! なんてこと……! 即刻お断りだわ!」
三人はテーブルいっぱいにお見合い写真を広げ、母は一喜一憂していた。
(……俺の婚約者探しか)
ため息が胸の底から漏れる。
その瞬間、双子が同時に、寸分の狂いもない動作でこちらを振り返った。
「あら、お義兄様」
「まあ、お義兄様」
義兄の背筋が粟立った。
この二人の“同時性”は、何度見ても慣れない。生物としての本能が警鐘を鳴らすのだ。
「お嫁さん、見つかった?」
「私たちも協力するわ」
「……結構だ」
吐き捨てるような拒否も、今の母には届かない。
「何を言うの! 天使たちの眼力なら間違いないわ! 変な女に捕まったらどうするの!」
「……母さん。双子に依存しすぎるのは、やめてくれ」
何度目か分からない忠告。
だが母は「何を失礼な」とでも言うように顔をしかめ、また双子の素晴らしさを説き始めた。
頭痛が悪化する。胃液がせり上がる。
耐え切れず回れ右をした、その時だった。
「あら、お義兄様」
「好きな方がいらっしゃるのね?」
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。
振り向くと、双子は天使の仮面を被って微笑んでいた。
あまりに美しく、あまりに冷たい、氷の彫像のような笑み。
「ま……まあ! そうなの!?」
母が椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がる。
「い、いない! そんな人……!」
義兄は狼狽した。
しかし、双子は逃がさない。
「まあ、嘘は良くないわ」
「ええ、嘘でも否定はいけないわ。脈が乱れておりますもの」
「な、何なんだよ……何なんだよ、お前たちは!!」
恐怖に後ずさる義兄。
双子は穏やかに、諭すように告げる。
「私はベネット」
「私はコレット」
「それだけよ」
「ええ、それだけよ」
その言葉の奥にある深淵を、理解してはいけない気がした。
義兄が逃げようと身を返した瞬間、双子の声がふわりと背中に降り注いだ。
「何の心配もいらないわ」
「ええ、お義兄様の好きな人は、とっても良い人よ」
「明るい光が差し込むわ」
「暖かな風が吹き込むわ」
「安心なさって」
「安心なさって」
「「懸念はすべて、排除できたでしょう?」」
最後の言葉だけが、温度を失っていた。
義兄は今度こそ、悲鳴を噛み殺して屋敷を飛び出した。
***
――排除。
その単語が、呪いのように胃を締め上げる。父の死に様が脳裏をよぎる。
勢いのままに通りを彷徨い、足がもつれて路地裏で膝をついた。通行人の視線が刺さるが、立ち上がる気力もない。石畳の冷たさが掌に伝わり、呼吸が荒く乱れる。
(俺はいったい……何に巻き込まれている……? あの家は、何なんだ……)
視界がぐらぐらと揺れ、限界を超えた吐き気が喉元まで込み上げた。
「だ、大丈夫ですか!?」
頭上から、鈴を転がしたような声が降ってきた。
霞む視線を上げると、そこにいたのは――
義兄が密かに、ずっと想い続けてきた、大衆食堂の看板娘だった。
彼女の姿を認識した瞬間、「よりによって今か」という絶望と、「彼女でよかった」という安堵が同時に押し寄せた。
彼女は義兄の顔色を見るなり息を呑み、
「動かないでください!」
と駆け寄り、膝をついて背中をさすってくれた。
その直後、義兄は堪えきれず胃の中身を吐き出した。
「大変……! 誰か、お水とバケツを……!」
看板娘は顔をしかめることもなく、近くの店主に声をかけて走り回り、戻るとまた甲斐甲斐しく背をさする。
その手は温かく、傷ついた獣をあやすように優しかった。
(こんな……こんなに優しい子を――あの魔窟に関わらせられるわけがない)
胸が締め付けられる。
涙が勝手に溢れ出した。
看板娘は、その涙を「事情」があると察したようだった。
「……お父様が亡くなられたばかりですもの。お疲れが出たのですね。我慢せず、心のままに悲しんでください……」
(違う……違うんだ……そんな綺麗な理由じゃない……)
それでも、その勘違いごとの優しさが心に染みて、義兄はまた泣いた。
娘も周囲の人々も、ただ心配そうに、温かく見守っていた。
「ご心配をおかけしました……」
しばらくして、掠れ声で謝ると、「気にするなよ」「無理するな」と励ましの声が返ってきた。
――この街が、好きだ。
あの冷え切った“箱庭”とは違う、雑多で温かいこの世界が。
袖で涙を拭い、看板娘に礼を言うと、彼女は春の日差しのように笑った。
「いいんです。でも……良ければ、少し一緒に歩きませんか? その……わたし、ちょうどお屋敷の方へ行く用事があって」
屋敷方面への用事など、あるはずがない。
まだ足元の覚束ない自分を気遣っての、優しい“嘘”だ。
だから義兄は、その好意に甘えることにした。
「……ぜひ。ご一緒させてください」
二人は並んで歩いた。
他愛もない会話を交わすその時間は、傷ついた心に薬のように染み渡っていく。
(……やっぱり、好きだなあ)
そう再確認した時には、無情にも屋敷の門に着いてしまっていた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「ふふ。持ちつ持たれつですよ」
看板娘が笑う。まだ別れたくない。
そう口を開こうとした瞬間――。
「「お帰りなさい、お義兄様」」
――門の内側から、あの声が響いた。
そこには、門扉の左右に完璧な対称形で立つ、双子の姿があった。
義兄の背筋から血の気が引き、冷や汗が噴き出す。
「え?」
看板娘が双子に気づいた。
どう説明する? 逃がすべきか? 義兄が混乱の極みで口を開きかけた、その刹那。
「かっ……可愛いーーー!!!」
通りに絶叫が響き渡った。
「え?」
義兄が固まる。双子もわずかに目を見開いた。
看板娘は両手で頬を押さえ、感動に打ち震えている。
「この子達は!? な、なにこの……! お人形さんみたい! 可愛い……!!」
「え、と、養子……で……」
「初耳ですよ!? こんなに可愛い妹さんがいたなんて! もっと早く会いたかった!!」
義兄が呆然とする横で、双子は顔を見合わせ、首をこてんと傾げた。
「お姉様は、私たちをどうしたいの?」
「え?」
「私たちを可愛がりたいのでしょう?」
「着せ替え人形?」
「それともショーケースに飾りたい?」
その問いには、いつもの冷徹な分析が含まれていた。人間は皆、自分たちを“モノ”として扱う。その確認作業だ。
だが、看板娘はきょとんとして、即座に言い放った。
「何言ってるの! そんなことさせないわ! あなたたち、人間なんだから!」
双子の瞳がぱちくりと瞬く。
――義兄は息を呑んだ。双子が“純粋に驚いている”のを、初めて見たからだ。
「あ、でも……そんなに可愛いんだもの。素敵なドレス姿はたくさん見たいから……着せ替え人形“ごっこ”はしてみたいかも……?」
看板娘が照れくさそうに付け加えると、双子の無表情な仮面に、ピキリと亀裂が入った。
そして――。
「ふふふ……」
「ふふ……あはは……あはははは!!」
屋敷の門前に、銀鈴を振るような笑い声が響いた。
それは氷が解ける音に似ていた。
「いいじゃない、ごっこ遊び」
「やりましょう、ごっこ遊び」
「お義姉様になってくださるのでしょう?」
「いつでもしましょう」
「遊びましょう」
「えっ?」
看板娘が固まり、遅れて言葉の意味を理解すると、顔が林檎のように赤く染まった。
「わーー!! うわわーー!! ちょっと、まだそんな話じゃ……!!」
義兄が慌てて誤魔化そうとするが、もう遅い。
騒ぎを聞きつけた母が、満面の笑みで現れたのだ。
「まあ!! この方が好きな人なの!? まあまあまあ!! 天使たちが招いたのね!」
「あああ……もうおしまいだ……」
義兄が頭を抱えてうずくまる。
その横で、双子がぽつりと呟いた。
「一緒に家に来たのにね」
「まだ気持ちを伝えてないなんて」
「予想外だわ」
「ええ、初めて予想が外れたわ」
双子は口元に手を当て、
“初めての計算違い”に、胸の奥がくすぐったく揺れるのを感じていた。
***
そしてその後――。
義兄はついに看板娘へ想いを告げ、正式に婚約が結ばれた。
結婚式の日、双子は珍しく子供のようにはしゃぎ、式場の飾り付けにまで口を出して周囲を驚かせた。
初めての義姉。
初めての「対等な家族としての他者」。
そして数年後。
義姉の妊娠、出産。
甥が生まれた日。
双子は生まれたばかりの小さな赤子を前にして、人形のような無表情の奥に、確かな熱――暖炉の火のような温かいものを灯した。
“予想外”という名の嵐が、確実に、双子の心の形を変えていった。
3. 天使は羽を切り落とす
義兄が選んだ女性は、裏表がなく、優しくて、少し泣き虫な娘だった。
双子はその義姉を、飽きもせず“観察”した。
些細なことで泣いて夫に抱きつく姿も。
必死に帳簿と格闘し、家業を覚えようとする姿も。
夜泣きする子をあやすため、自らも船を漕ぎながら、それでも諦めずに揺すり続ける姿も。
――なぜだろう。
これまでの“法則”では計算が立たなくなる場面が、少しずつ、しかし確実に増えていった。
胸の奥がざわつく。
“感情”という名の得体の知れない波が、小さく、けれど絶え間なく押し寄せてくる。
決定的だったのは、初めて甥を抱かせてもらった時だ。
赤子の、紅葉のように小さな手が、恐る恐る差し出した双子の指を、ぎゅっと――迷いなく握り返してきた瞬間。
「……離さないわ」
「……こんなに、温かいのね」
言葉は囁きのように消えたが、胸の内側で何かが熱く膨張した。
視界が滲み、世界の輪郭が柔らかく溶けていく。
その日から、双子の時間はゆっくりと速度を変えた。
赤子がよたよたと二歩三歩歩き出した瞬間を、義母と義兄夫婦と共に歓声を上げて喜び、
ひとつ言葉を覚えるたび、頬が勝手に緩んだ。
あんなに大泣きしていたのに、抱き上げれば安心して眠るその重みに、思わず顔を見合わせた。
――なんて愛おしい生き物なのだろう。
「私たちも……こんなふうになりたかったのかしら」
「そうね……きっと……ずっと、ずっと……願っていたのかもしれないわね」
気づいてしまった。
怖いほど、痛いほど、はっきりと。
本当はただ――。
誰かに愛され、誰かを愛せる“人間”として、生きたかったのだと。
***
ある冬の夜。屋敷は雪に閉ざされ、静寂に包まれていた。
炉火の爆ぜる音だけが響く部屋で、双子は寄り添うようにソファに座っていた。
「ねえ、コレット」
「なあに? ベネット」
「私たち……幸せ、なのよね」
「ええ。きっと、もう十分すぎるほど」
ふたりが生きた十数年は、長さの割に空白が多かった。
“箱庭”と呼ぶしかない閉じた世界で、ただ観察と実験、そして排除を繰り返すだけの日々。
そのすべてが、あの小さな手のぬくもりと共に、上書きされていく。
モノクロームの記憶に、ひとつひとつ色が差していくように。
――どうして、もっと早く知らなかったのだろう。
胸の奥で、微かな悔恨と、それを上回る救済の喜びが混じり合う。
「ねえ、ベネット。あの子が大きくなるのを……ずっと見ていてもいいかしら」
「もちろんよ、コレット。だって私たちは……もう、家族なのだから」
冬の夜気が小さく窓を震わせた。
揺らめく火の赤は、双子の頬の上で穏やかに踊り、まるで祝福のようにきらめいた。
そのぬくもりを前に、双子は初めて心から微笑んだ。
――“観察する天使”としてではなく、“愛する人間”として。
4. 羽のない天使
季節がいくつも巡るあいだに、双子のガラス細工のような身体は確かに細り、指先の温度さえ昔のようには戻らなくなっていった。
不思議なことに――それと歩調を合わせるように、長く彼女たちを信仰し、守ってきた“母”もまた、静かに老いへと身を委ねていった。
その夜、屋敷は降り始めた雪のように、しんと静まり返っていた。
母はもうほとんど動けず、寝台で薄い毛布に包まれて横たわっていた。
その枕元に、双子はゆっくりと膝をついた。
「……お迎えかしら?」
「ええ。静かで、優しいお迎えだわ」
かすかに母の白くなったまつげが揺れた。
双子は、その枯れ木のように細くなった手を、両側からそっと包み込む。
「よく……頑張られましたわ、奥様」
「本当に。どれほどの苦労をなさったことでしょう、お義母様」
「もう、大丈夫ですの」
「これからは、どうか穏やかでありますように」
母は息を整えるようにゆっくり瞬きをし、濁りの消えた瞳でふたりを見つめた。
そこにはかつての狂信はなく、ただ穏やかな凪があった。
「……いいえ……天使たち……私こそ、幸せだったのよ……」
掠れた声が、静寂に溶けていく。
「あなたたちが……そばにいてくれたから……毎日が……どれほど心強かったか……」
言葉は途切れ途切れだったが、そこにある愛情だけは、最期まで確かに灯っていた。
双子は、はじめて聞くその“ひとりの母としての本音”に胸を満たされながら、涙ぐむように微笑んだ。
「……そう。ならば、もう何も思い残さなくていいのよ」
「ゆっくりお休みなさい」
そしてふたりが、最後にそっと言葉を重ねた。
「――もうひとりの、大切なお母様」
その呼びかけに、母の瞳からたまらず光が溢れ出した。
零れた涙は、小さな雫となって皺深い頬を伝い、枕へと静かに染みこんでいく。
やがて呼吸は波が引くように静まり、母はそのまま、深い安息の眠りへと帰っていった。
”母の為の天使”としての役割は、これで終わった。
……いいえ、もしかしたら、あの日義姉と出会い、家族になった瞬間から、その役割は終わっていたのかもしれない。
走馬灯のように、賑やかで温かい日々が蘇る。
立派に育った甥や姪たち。
子と孫達に囲まれた生活は、きっと母の心に「信仰」以上の、確かな「幸福」を与えたはずだ。
双子はしばらく、冷たくなっていく母の手を離さなかった。
窓の外では、雪が世界を白く染め上げている。
その夜、ひっそりと幕を下ろしたのは、
双子が外界にて最初に得て、育て、愛し、そして最後に見送った――
小さくて、温かくて、かけがえのない“箱庭”の物語だった。




