NHKのない世界
ルナの声を聞いた。
ヒデキは目を開けた。
目の前に、ルナの顔があった。身を屈めたルナが、ヒデキを覗き込んでいた。前髪をさらさらと揺らし、大きな目をきらきらさせていた。
ヒデキは身を起こした。ルナのあまりの可愛さに、堪えきれなくなった。今すぐ抱き締めてあげたい。そう思って、立ち上がった。
立ち上がってみると、どうしたことか、バランスを失った。足がぐらついた。
「きゃん」と鳴いて、ヒデキはルナに倒れかかった。その拍子に、ルナへ伸ばしていた手が、ルナの胸をタッチした。
あ、やべえ。
ヒデキは目を瞑った。わざとではないが、エッチなことをしてしまった。平手が飛んでくることを予想し、ヒデキは身を固くした。
ところが、どうしたことか、ルナはヒデキを殴ったりはしなかった。
それどころか、
「可愛い」
そんな言葉を口にしながら、ヒデキの頭をなでなでした。
ヒデキはぽかんとした。どういうこと?
理由はすぐにわかった。ルナの胸をタッチしている自分の手を見て、そうと気づいた。その手は、ちっちゃくて、毛むくじゃらであった。ヒデキは犬になっていた。
「ヒデキちゃん」ルナが、ヒデキの顔を両手で包み、「いいのよ。もっともっと、甘えてね」そんなことを言った。
ルナの猫なで声を聞きながら、ヒデキは思った。
なんだ、また、夢を見てるんだな。
自分の変わり果てた姿に気づいても、ヒデキは慌てなかった。犬になった夢を見るのは、初めてではなかった。
むしろ、ヒデキは喜んだ。いつもならできないことも、平気でできる。ぼくは犬だもん。許してくれるよね。
ヒデキは、無邪気なふりをして、ルナの脚に取りついた。この日のルナは、ホットパンツであった。それをいいことに、むき出しの太腿をぺろぺろと舐めた。こいつはいいやっ! 心の中で快哉を叫びながら、ヒデキはむちゃくちゃに舐めまくった。
「いやん、ヒデキちゃん」ルナがヒデキを抱き上げた。「くすぐったいから、もう、だめよ」色っぽく言って、ルナはヒデキの顔にチュウをした。
これもたまんねえぜっ! ヒデキはまたも、快哉を叫んだ。「くうん」と鳴いて、お返しにルナの頬をぺろぺろした。
「あはは」笑いながら、ルナはヒデキを居間から連れ出した。
抱かれながら、ヒデキはこれからの楽しみを夢想した。
へへ。ルナをどうしてやろうか。
心の中で舌なめずりをしたヒデキは、犬らしく、実際に舌を垂らし、はあはあと息を荒くした。
ヒデキを抱いたまま、ルナは長い廊下を歩いた。長い長い、廊下であった。ここ、いつもの家と違うな。ヒデキが思い始めると、ある部屋の前で、ルナが立ち止まった。襖を開け、中へと入った。
見たことのない部屋だった。畳張りで、部屋の奥には、仏壇があった。
ルナは、ヒデキを畳の上に下ろした。「ここにいてね」優しく言うと、仏壇の前に歩み寄り、正座をした。
どうして、仏壇なんか……。
ヒデキは、夢であることも忘れ、不思議に思った。
と同時に、不安も感じた。何やら、嫌な予感がした。
ヒデキは、「くうん」と鳴いて、ルナの気を引こうとした。撫でてもらって、安心したかった。
けれど、ルナは撫でてはくれなかった。「ヒデキちゃん、大人しくしててね」そう言うと、傍らに置いてあった紙袋に手を入れ、中から何かを取り出した。見るとそれは、DVDのケースであった。
ケースを仏壇に供えると、ルナが手を合わせた。そして、
「あなたが大好きな巨乳ちゃんのビデオ、買ってあげたよ。これを見て、楽しんでも、いいよ……」
ルナはそんなことを言った。言うや否や、手で口を押さえ、嗚咽を漏らした。
背を震わせながら、ルナが涙声で言った。
「私ね、ワンちゃんを飼うことにしたの。名前はね、ヒデキちゃん」
ルナはヒデキの方を振り返った。手招きをして、「おいで」と言った。
ヒデキを膝に乗せると、ヒデキの背中を撫でさすりながら、
「ヒデキちゃんがいるから、少しだけ、元気になったよ。でもね……」
そこまで言うと、ルナはまた、口を押さえた。嗚咽を漏らし、やがて、泣き始めた。
ヒデキの背に、ぽとりと、涙が落ちてきた。
ヒデキは驚いて、仏壇の写真に目をやった。
写真に写っている人物は、ヒデキであった。
どえらい、ヘビーな夢だな。
初めヒデキは気楽に考えた。早いとこ夢から覚めたいなと願うだけであった。
しかし、いつまで経っても、夢は終わらなかった。
寝て起きれば、いつもの日常が戻っているはず。そう信じて眠りに落ちるものの、何度目覚めても、犬のままであった。
それどころか、前日の記憶と、目覚めてからの状況に、まったく齟齬がない。まさに、現実そのものであった。そうと気づいたヒデキは、途方に暮れた。
不意に、ヒデキはお地蔵様のことを思い浮かべた。犬となったヒデキは、ルナと言葉を交わすことができなかった。それゆえ、ルナに相談するわけにはいかなかった。ならば、頼れるのはお地蔵様だけ……。
ヒデキは、ルナとの散歩の途中、隙をついて逃げ出した。「行かないで」というルナの声が聞こえたが、ヒデキは立ち止まらなかった。ルナを置いていくことは辛かった。ぼくがいなくなったら、ルナはどんなにか悲しむだろう。ましてや、ヒデキを失った痛手がまだ癒えていないというのに……。そう思ったが、ヒデキは後ろを振り返らず、懸命に走った。人として、ルナと暮らしたい。そして、元の日常に帰りたい。それだけを望み、必死になって、お寺に向かった。
お地蔵様の前に駆け寄ると、ヒデキは、
「きゃん、きゃん」と吠えた。
いかん。これじゃ、いかん。
ヒデキは吠えるのをやめた。
今度は心の中で、お地蔵様に話しかけてみた。
――これはいったい、どういうことなんですか?
すると、意外にもあっさりと、お地蔵様が答えてくれた。
――手違いがあったみたい。
――手違いって、なんすか。
――おまえの魂を、並行世界の方へ、やっちゃったみたい。
――並行世界?
――説明してやろう。おまえの住む世界と並行して、別の世界が存在してるんだよ。それが並行世界だ。仮に、おまえの世界をA、並行世界をBとしよう。A世界におまえやルナがいるのと同じに、もう一つのB世界にもまた、ヒデキやルナは存在している。
――二つの世界は、同じなの?
――同じじゃないな。同じ人間のように見えて、考え方も生き方も違ってるね。伴侶だって、違うのが普通だよ。珍しいんだよ、おまえやルナは。どちらの世界でも、一緒に暮らしてる。どちらのルナも、趣味が悪いんだな。まあ、本質は変わらないっていうことかな。
ヒデキが睨みつけていると、お地蔵様はこほんと言った。そして、話を続けた。
――でな、そのB世界のヒデキが、この度、お亡くなりになったんだ。そんでな、そのヒデキの魂を犬に移してやろうとしたんだ。ルナを見守れるようにね。そうしたらな、なんか、間違って、A世界にいるおまえの魂を、B世界にいる犬に移してしまったみたいだ。……まあ、そういうわけなんだよ。
説明を終えると、お地蔵様は、くくくっと笑った。
――笑いごとじゃないでしょ。
ヒデキは、ぐるるるっ、と唸った。そして、
――じゃあ、B世界のヒデキの魂が、A世界のぼくの身体に入ったの?
――うん。そういうこと。
――交換、できる?
――できるよ。二つの世界のヒデキが、お互いに納得してくれればね。
そこまで言うと、お地蔵様がまた、こほんと咳ばらいをした。ヒデキに微笑み、
――実はね、B世界のヒデキもな、おかしいと思ったのか、先日、相談に来たよ。そんでね、今の説明をしておいた。そろそろ、あやつが来るよ。この時間に来るように言っておいたんだ。
――どうして、ぼくがこの時間に来るって、わかったの?
――B世界のルナとヒデキは、いつも同じ時間に散歩していたもんだ。きっとルナは、犬のおまえを連れて、同じ時間に散歩に行くだろう。したがって、おまえが逃げ出して私のところに来るなら、丁度こんな時間だろうと、予想していたんだ。どうだ、私の推理は。
お地蔵様は、今度はドヤ顔をした。ふふんと鼻で笑って、
――そうれ、言った通りだ。あやつがやって来た。
ヒデキは振り返ってみた。ぼく、なの? 自分を見るのが照れ臭かったが、そうも言っていられなかった。
ところが、門からの道を見ても、誰もいなかった。
――誰もいないじゃん。
ヒデキが心の中で文句を言うと、お地蔵様が、
――まあ、待っていなさい。
そう答えてから、
――この土地は、二つの世界が重なり合う特異な場所なんだ。とは言っても、それぞれの世界の者は、自分と違う世界にいる人間は見えない。見えたら、大変だろ。だから、おまえには、A世界にいるヒデキの姿が見えないんだ。
――見えないままじゃ、話し合えないじゃん。
――慌てるな。今から、お互いが見えるようにしてやろう。重なり合う世界の、重なり合う者たちが、お互いを見ることができるよう、そして、言葉を交わし合えるよう、少しの間だけ、私が異空間を作ってやる。
お地蔵様がいきなり、「えいやあっ」と叫んだ。
途端に、周りの空間が歪んだ。
そして、歪んだ空間に、一人の人間がぼんやりと出現した。
徐々に、輪郭がはっきりとしてきた。霧が晴れるようにして、ヒデキが現れた。
現れたヒデキは、黒いダウンジャケットを着ていた。
それを見て、犬のヒデキは焦りを感じた。そのダウンジャケットは、見慣れないものであった。ルナに買ってもらったのだろう。そうと気づいたヒデキ犬は、自分の世界にすっかり溶け込んでいるらしいブラックヒデキに嫉妬し、早く入れ替わらなくてはと思った。
ヒデキ犬は、お地蔵様の方を振り返った。
「お地蔵様!」思わず言った。言ってから、あ、しゃべれるぞ、と喜んだ。勢い込んで、
「どういう儀式をしたら、二人は入れ替わるんですか?」そう訊いた。
「あ、犬がしゃべってる」ブラックヒデキが目を見開いた。
そんなブラックヒデキには構わず、ヒデキ犬はなおも言った。
「早く、やり方を教えてください」
ヒデキ犬はもどかしくなり、きゃんきゃんと吠え立てた。
お地蔵様が答えた。「別に、儀式なんていらないよ」
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
「二人が心の中で思えばいい。元の世界が良かったなあ、ってね」
「わかりました」
ヒデキ犬は、きゃんきゃんと、また吠えた。吠えてから、
「戻りたいよお」
ルナの顔を思い浮かべ、会いたいよお、と叫んだ。
ところが、何も起こらなかった。
ヒデキ犬は、きっとして、ブラックヒデキを睨んだ。
「きみも、戻りたいって、思ったの?」
訊かれたブラックヒデキは、「ううん」と首を横に振った。
「どうしてだよ」
ヒデキが吠えると、
「うん。……戻りたいかどうか、よく、わからなくて」
煮え切らないことを言い出し、ブラックヒデキはもじもじした。
苛立って、ヒデキ犬はぐるるると唸った。かみ殺してやる。本気で思い、飛びかかろうと身構えた。
ヒデキ犬を宥めるように、「まあまあ」と、お地蔵様が言った。そして、ブラックヒデキに対して、「そっちの世界が、気に入ったの? 幸せなの?」と優しく訊いた。
訊かれたブラックヒデキは、少しの間、何も言わなかった。やがて、口を開くと、
「幸せといえば、幸せ、かな。でも、不幸せっていえば、不幸せ、かな」ヒデキ犬をちらっと見てから、そんなことを言った。
「どういうことだよ」
ヒデキ犬が唸ると、ブラックヒデキは話し始めた。
「だって、こっちのヒデキときたら、てんで駄目なやつじゃないですか。小説を書いてるとこは、ぼくと同じですけど、まるでつまんないものばかり書いて……。それだけならまだいいんですけど、収入もない、髪もない、おまけに、難病なんかにかかって、健康でもないなんて……。こっちの世界のルナが、可哀そうですよ。ルナを幸せにできないなんて、こっちの世界のヒデキは、ほんと、不幸せな、不出来なやつですよ」
ブラックヒデキがまた、ヒデキ犬をちらりと見た。すぐに視線を逸らし、
「でもね」と言った。「ルナと会って、話が出来る。これは、最高に幸せなことですね。……いや、それだけでも、十分かも。そう思うと、戻りたくないなあって……」
そこまで言って、ブラックヒデキは言葉を濁した。もじもじしながら、「どうしようかな。決められないなあ」などと、男らしくもない言葉を口にした。
ヒデキ犬はまた、殺意を感じた。目の前のブラックヒデキをかみ殺せば、自分の魂の行き場を失う。そんなことにも気づかず、やってやる、と本気で考えた。
そのときだった。
不意に、ルナの声を聞いた。
声は、門の外から聞こえてきた。「ヒデキちゃーん」声は必死になって、ヒデキ犬を呼んでいた。
「まずいぞ」お地蔵様が言った。「ヒデキくん、隠れなさい」
言われたので、ヒデキ犬はお地蔵様の後ろに隠れた。ところが、
「おまえじゃない」お地蔵様はそう言った。そして、
「隠れなきゃならないのは、おまえの方だよ」ブラックヒデキに対して、「今やって来るルナは、おまえの世界のルナだ。彼女にとってのヒデキはもう、死んでいるんだから、姿を見られてはいかん。隠れなさい」お地蔵様は、さあ早く、と促した。
素直に、ブラックヒデキはお地蔵様の陰に隠れた。
そうしているうちに、ルナがお寺の門に姿を現した。「ヒデキちゃん、どこなの?」声を張り上げながら、境内に入ってきた。「お願い、出てきてよ」何度も何度も、ヒデキの名を呼び続けた。
それを見て、ヒデキ犬は胸が張り裂けそうになった。
自分が逃げ出したばかりに、ルナはあんなに、悲しんでるんだ。
ヒデキ犬は、ブラックヒデキの方を見た。
「きみが嫌なら……」そこで少しばかり躊躇った。が、思いきって言った。「ぼくが、あのルナの、傍にいる。あんなに打ちひしがれてるルナを、ぼくは放っておけないよ」
お地蔵様が言った。「それで、いいのか? 犬のままだよ」
「いいんです。誰かが、彼女の傍にいてやらなくちゃ。……ルナがまた、幸せそうな顔を見せてくれるよう、ぼく、精一杯、頑張ります」
ヒデキ犬は、もう一度、ブラックヒデキに目を向けた。
「じゃあね」くうんと鳴いて、「A世界のルナを、大事にしてね。きみに、任せたよ」そう言ってから、視線を逸らし、お地蔵様の陰から飛び出て行こうとした。
すると、ブラックヒデキがヒデキ犬を抱き締めた。ぎゅうと抱き、
「待ってよ」と言った。
「どうしたの?」自分に抱き締められ、気持ち悪くなったヒデキ犬は、もがいて逃げようとした。
そんなヒデキ犬を抱いたまま、ブラックヒデキが言った。「ぼくが、行くよ」
「え」
「やっぱり、ぼく、元の世界に、戻るよ」
「いいの? 犬、だよ」
「いいよ、それでも。いや、そうしたい。だって、ぼくが今まで愛し続けたルナは、一人だけで、他のどの世界にもいないんだ。ぼくは、そのルナの、傍にいたい。ずっとずっと、見守り続けたい」
ブラックヒデキは、自分に言い聞かせるように、そう言った。
言い終えると、目を瞑った。何事か、心の中で、念じているようだった。
次の瞬間、ヒデキ犬は眩暈を感じた。ぐるぐると、世界が回り始めた。
酔っちゃうよお。
ヒデキ犬は、目を閉じた。目をぎゅうと瞑り、
ルナ、助けてよお。
心の中で、ルナにすがりついた。そして、
君に会いたいよお。
ヒデキは幾度も、心の中で叫び続けた。
心の中で叫んでいたら、不意に、ルナの声がした。
「あっ、ヒデキちゃん」
ルナは、明るい声で、そう言っていた。
ヒデキは恐る恐る、目を開けた。
見ると、「やっぱりここにいたのね」と言いながら、ルナが一匹の小犬を抱き締めていた。
「ここに来るなんて……。ヒデキさんと、一緒だね」ルナが言った。小犬を抱き締め、嗚咽を漏らし始めた。
けれど、長くはそうしていなかった。立ち上がると、
「さあ、おうちに帰ろうね」
ルナは言った。犬の方をうかがい、「おいで、おいで」と言いながら、門の外へ向かって、歩き始めた。
小犬は、きゃんきゃんと鳴きながら、ルナの足元にまとわりつくように、飛び跳ねた。そうしてから、ルナの後に、大人しく従った。
とことこ歩きながら、小犬が、ヒデキの方を振り返った。
が、すぐにルナの方を向き、消えていった。
門の外へ、ではなく、霧に包まれるようにして、ルナと小犬は、ヒデキの目の前から消えていった。
ヒデキは無性に泣けてきた。込み上げてくる感情を抑えられなくなった。ついには、「ふえーん」と、声を上げて泣き始めた。
自分はどうして泣いているのだろう。よくわからなかった。
犬として生きなくてはならない者の、その境遇を憐れんだのか。
犬になってもなお、愛する人の傍を離れず、見守り続けようとする者の、その姿に感動したのか。
それとも、愛する人を失ってもなお、前を向いて懸命に生きようとし続ける者の、その健気な姿に胸打たれたのだろうか。
「なんで、泣いてるの?」お地蔵様がヒデキに訊いた。
「わかりません」ヒデキは素直に答えた。
それでも、いつまでも涙を零し続けていることが恥ずかしくなり、ヒデキは話題を変えた。
「B世界のヒデキくんは、どうして、死んじゃったの?」
お地蔵様があっさりと言った。「暗殺されたみたい」
「え、だれに?」
「うん。NHKに」
「へ?」
ヒデキは言葉を失った。
お地蔵様が笑いだし、「あっちの世界じゃ、よくあるんだよ」
「どうして?」
「あっちの世界のNHKは、受信料を払わない者を容赦なく扱うんだよ。まあ、それだけでは、まさか消されることもなかったんだけど……。B世界のヒデキは作家として名を成し、コメンテーターなんかやっててね、派手にNHK批判を繰り返してたのよ。そんで、消された」
「う、うそだろ……」ヒデキは声を震わせた。「こっちの世界のNHKとは、だいぶ違うんですね」
自分の言葉を疑わず、ヒデキはそう言った。
ルナの声を聞いた。
声はヒデキを呼んでいた。
懐かしい声だった。これまで聞き続けていた声に違いない。そうと確信したヒデキは立ち上がった。頬の涙を拭い、
「ここだよ」
お地蔵様の背後から、ルナに言った。
「やっぱり、ここにいたんだ」
ルナが駆け寄ってきた。前髪を風に揺らし、ヒデキの傍らに立つと、少しもじもじしてから、
「ごめんね、さっきは」と謝った。
「何が?」
ヒデキが訊くと、
「ひっぱたいちゃったことよ」ルナが答えた。「ほんと、ごめんね」照れくさそうに、もう一度謝った。
そう言われて、ヒデキは頬に手をやった。手をやってみると、なんだか、ひりひりしてきた。
痛みに顔を歪め、ヒデキはなおも訊いた。「どうして、ぼく、ひっぱたかれたの?」
嫌味を言われたと思ったのか、「もう、やだ」と、ルナが拗ねたように口を尖らせた。
「意地悪言って、私を、いじめるの?」ルナがヒデキを睨んだ。
「いや、そういうわけじゃ」
言いかけて、はっとした。ヒデキは思い出した。薄らとした記憶の中で、「ぼくなんか、死んじゃえばいいんだ」とヒデキは叫んでいた。その途端、ルナの平手が飛んできたのだった。
「どうして、ぼく、そんなことを……」
ヒデキは自分に問いかけた。
そうしてみると、記憶が手繰り寄せられた。
NHKの受信料のことで、ルナと言い争った。
「そんなもの、払わなくてもいいよ」
吐き捨てるように言ったヒデキに、ルナが言い返した。
「どうせ、私が払うんだから、ヒデキさんには関係ないでしょ」
その言葉に、ヒデキはかっとなった。
確かに、光熱費やら家賃やら、生活に必要なお金は、ほとんどルナが出していた。何しろ、ヒデキの十倍以上、ルナは稼いでいた。
ヒデキは、普段は意識しないように努めていた。意識すれば、自分に情けなさを感じてしまい、耐えられなかった。
それなのに、目を背けたい事実なのに、無理矢理ルナに突きつけられた。そんなふうに感じてしまったヒデキは、頭に血が上り、そして……。
その先は、感情的になり過ぎたからか、記憶になかった。
それでも、ルナを失望させ、悲しませる言葉を口にしたことは、確かだった。
ヒデキは恥じた。そして、後悔した。
「ぼくこそ、ごめんね」今度はヒデキがもじもじした。「あれ、本気で言ったわけじゃないんだ」
「そんなの、わかってる」ルナがきらきらした目をヒデキに向けた。「でも、ヒデキさんが死んじゃったら、私、生きていけなくなっちゃうからね」
「そんなこと、言っちゃだめだよ」
「ううん、言う。……だから、ずっと、永遠に、生きててね」
ルナは顔を背けた。頬に手をやると、それを誤魔化したかったのか、
「じゃあ」と言った。「じゃあ、受信料、払ってもいいのね」
「いいよ」
「ほんとに、ほんと?」
「もちろんだよ。払わないと、殺されちゃうもん」
「え」ルナが目を見開いた。「まさか、いくらNHKでも、そこまでしないでしょ」
「うん。そうだね。こっちの世界は、違うよね……」
そう言ったものの、ヒデキは不安になった。先ほどのお地蔵様の言葉が引っかかった。
ヒデキはお地蔵様を見つめた。
この数日の出来事は、果たして夢だったのか。ヒデキは心の中で、お地蔵様に問いかけてみた。
けれど、お地蔵様は何も答えてはくれなかった。心なしか、微笑んでいるように見えるばかりであった。
ヒデキがぼんやりしていると、ルナが言った。
「ねえ」ヒデキの顔を覗き込み、「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
「なんか、変」ルナが怪訝そうな表情をした。「ここ数日のヒデキさん、なんか、変だよ」
「そうかな」
「そうだよ」ルナが表情を変えた。いたずらっぽい目をヒデキに向け、「一番、変だと思うのは……」そこで、怒らないでね、と言ってから、「面白い小説を書いたこと」
「え」
「ほら、昨日、見せてくれたじゃない。あの小説、すごく面白かったよ。まるで、ヒデキさんが書いたものじゃないみたい」
ヒデキが黙っていると、ルナが「ごめんね」と謝った。「でもね」と言葉を継ぎ、
「でも、今までのヒデキさんの作風とあまりに違ってたから……」
ルナがうっとりとした目を、ヒデキに向けた。
「やればできるんだね」ヒデキさんって、すごいね、とルナは言った。
〈了〉




