7.かなりやばいかもしれない
3時間後。
稲荷塚家に着いた僕たち。
以前来たときは感じなかった威圧感みたいなものを感じた。近いづいただけで、泥を体全体に塗りたくられているような気持ち悪さ。
今すぐ逃げ出したかったけど、家の机の上にある分厚い封筒の存在がそれを許してくれなかった。
「飛鳥さん……?」
でも大丈夫。こっちには飛鳥さんがいる。
神様が頭を下げるくらいの人なんだ。
きっと笑顔で大丈夫だと言ってくれる。
と思ってとなりにいる飛鳥さんをみると、汗をダラダラ流して震えていた。
「助手君。私は読み間違えてしまったみたいだ……」
「え?」
「かなりやばいかもしれない」
飛鳥さんの焦った声。
会ってから初めて聞いたその声は、僕の中にあった不安を大きくするには充分なものだった。
怖いなぁ、逃げ出したい。なんで僕はこんな事に巻き込まれてるんだろう。
不安という文字が僕の中でぐるぐる回る。
そんな僕を見た飛鳥さんは、ぎこちない笑顔を浮かべてごめんねと言った。
「ごめんね、怖いでしょう。でも君には見ていて欲しいんだ、私の姿を」
「……」
「行こうか。……愛、お願い」
「かしこまりました」
僕たちは愛さんを先頭に前に進む。
玄関の扉に手をかけるが、ぴくりとも動かない。
鍵がかかっている。当然のことだった。
「愛」
「お任せくださいお嬢様」
飛鳥さんの言葉に愛さんは答えると、次の瞬間スカートを捲し上げて扉を蹴り飛ばした。
粉々に破壊される扉。
ぽかんとする僕と満足そうに頷くふたり。
これって器物破損というやつじゃないだろうか。
「こくとくん。今は緊急事態なんだ、少々のことは目を瞑らなくてはならない」
「はぁ……」
「さぁ急ごう。道は開かれた」
僕たちはさっきと同じく愛さんを先頭に、稲荷塚家へと足を踏み入れる。器物破損に不法侵入。学校でならった犯罪を2つもしてしまった。すっごい悪いことをしてるはずなのに、2人は顔色ひとつ変えずにまっすぐ前を見て進んでいく。
僕はバケモノとは別の意味で怖くなった。
「え……」
そしてリビングに足を踏み入れた時、僕は本物の恐怖を知った。
「お嬢様、これは国土様には刺激が強すぎるのでは」
「いや、見るべきだよ。こくとくん、これが呪いだ」
「これが、呪い……?」
僕の目線の先には人がいる。
でも、それは人のようなナニカと言った方がいいのかもしれない。
例えるなら黒カビが人の形となって、人間の口をセロハンテープでくっつけたような変なモノ。
それがリビングの中心にいて、床に座り込んだ文世さんを見下ろしていた。
ただそれだけ。それだけなのに、僕は身体がプルプルと震えて止まらない。
ふいに文世さんと目があった。
長い前髪の隙間から、どんよりとした目が僕を見つめて離さない。
かさかさに乾燥した口が動いて、言葉を編み上げる。
「……たすけて」
細くて小さくて擦り切れた声。
その声に僕の身体は反応した。
首が熱い。ジリジリと焼けるように、あの時の鼻につんとくる臭いがする。
今の文世さんはあの時の僕だ。だから、行かないといけない。助けないといけない。
そうやって足を踏み出そうとした僕を、隣にいた愛さんが止めた。
「駄目ですよ」
「でも、あのままじゃあ文世さんが」
「大丈夫です。ね、飛鳥様」
「……任せてくれたまえ」
飛鳥さんはとんと胸を叩いてそう言うと、ポケットから茶色い革手袋をだして両手にはめた。
よく見ると手袋には赤い模様なモノが書かれている。
不思議と目を惹かれた。でもそれ以上に僕は飛鳥さんの行動が不思議に感じた。
さっきまで僕と同じで震えていたはずなのに、それはぴたりとやんで鋭い目つきでバケモノを見据えている。でもそれが泣いているように見えるのは、なんでなんだろう。
僕に愛さんが話しかける。
「しっかりと見ていて下さいね。あれが飛鳥様です」
そう言われたので僕はしっかりと見ていた。
でも、それは一瞬の出来事だった。
バケモノの前に仁王立ちになった飛鳥さんは、軽いステップを踏むと、拳を斜め後ろに引いて。
「鉄拳――」
バケモノの懐に入り込み、人間なら心臓があるところへ。
「――制裁!!」
その拳をぶち当てた。
きっとバケモノも反撃をしようとしたんだと思う。
でも、それが叶わないくらいの速さで振るわれた拳に何も出来なかったのかも知れない。
そして、飛鳥さんはバケモノの身体から黒く光るナニカを抉り出して、握りつぶした。
「終わりましたね」
愛さんは安心したように、そして飛鳥さんは僕に向かってVサインを送っている。
その後ろではバケモノが僅かに口を動かした後、風船が破裂するようにぽんっと音を出して消えた。
あっという間に終わった出来事に、僕の思考回路はエラーを吐き出しそうだった。
「よいしょっと」
飛鳥さんがぐったりとした文世さんを抱えて、僕らの方へ帰ってくる。
心なしかさっきより文世さんの顔は穏やかになっているような気がした。でも、それに対して飛鳥さんの顔はとても険しかった。
「愛、この子をすぐに車へ。そのまま病院へ連れて行って」
「かしこまりした」
飛鳥さんから文世さんを受け取ると、愛さんは風のような素早さで外へと駆けて行った。
病院……、たしかに飛鳥さんはそう言った。
もう呪いは消えたはずなのに、文世さんを救えたはずなのに。
飛鳥さんの顔は険しくなるばかりだ。
「飛鳥さん……?」
僕は質問する。きっとこれでハッピーエンドなんだという正解が欲しくて。
でも……。
「前回……」
「え……?」
「前回、来た時はこんな事はなかったんだ」
そう語り出した飛鳥さんは全身の力が抜けたみたいに、どんとその場に腰を落とす。
「たしかに家全体が淀んでいた。母親も精神に異常が出ていた。しかし、それだけだ。きっと神様の結界、そして加護がこの家と家族を守っていたんだろう」
「これくらいなら私にもなんとか出来ると思った。事実、神様のお墨付きすら貰ったからね。なんて簡単な依頼だろうと嬉しかったほどさ。でも」
「……これは駄目だ。呪いはカタチを取り、言葉を話すまでになっていた。それほどまでに呪いの力が増していた」
ぎゅっという音がした。
飛鳥さんの手袋に血が滲んでいた。
「私はなんて無力なんだろうね」
「な、なにを言ってるんですか!飛鳥さんはあのバケモノを倒したんですよ!」
「あぁ、そうだとも。だからこそ君に見といて欲しかったんだ。力を持っていても万能でないとね」
力なく笑う飛鳥さんの言葉を意味を知るのは、数日後。
文世さんが病院の屋上から飛び降りたという知らせを受けてからだった。




