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18.第三章プロローグ

俺の家は貧乏だった。

 クズで借金だらけの父と離婚し、シングルマザーとなった母は、その身一つで必死に働いて俺と妹を育ててくれた。しかし、正社員ではなくパートしか選択肢のなかった母の給料は雀の涙ほど。さらには、父が作った借金も返しながらになるので、もっと生活は苦しくなる。


 それでも母は俺たちを捨てる選択は取らず、毎日笑顔で必死に働いてくれた。たが、限界はあるもので俺が中学生になった頃には、生活保護を受けながら暮らす事となった。


 今でも生活保護という制度には感謝してもしたりない。

 高校を卒業する頃には、余裕ができ生活保護に頼ることはなくなったが、その制度によって俺たち家族は救われたのだ。


 しかし、正直に言えば俺は貧乏が嫌いだった。

 その原因である父はもっと嫌いだったが、笑顔でもやつれていく母を見るのが苦しかった。

 だから、俺は学をつける事を一番にした。

 少しでもいい学校に行って、給料のいい企業に就職し、家族に楽をさせてやるためだった。


 幸いにも俺の頭は出来が良かった。

 勉学に励めば励むほど、その知識を吸収した。

 そのおかげで大学に推薦も貰い、タダで行けた。


 そこからはトントン拍子だった。

 大学を卒業し、大企業に就職した俺はこれまでの人生で見た事もないほどの金をもらうことが出来た。

 それを母に見せた時の笑顔が今でも忘れられない。

 頑張ったねと言われた時は、これまでの全てが報われたような、そんな気がした。


 俺はその会社でも頑張った。

 先輩のノウハウを吸収し、それを実践し、時には失敗しながらもそれも糧にして。


 気付けば俺を慕う部下たちが沢山いた。

 これはいけると思った俺は独立を決意し、ついてきた部下たちと会社を起こした。

 経営などやった事はなかったが、先人たちの知恵を借りどうにか軌道に乗せて、目が飛び出るほどの金を得るほどになった。


 それから家庭も手に入れた。

 俺の伴侶となってくれたのは、貧乏な頃から俺を好いてくれた幼馴染だった。

 彼女は俺が金を手に入れた後も、決して贅沢はせずどちらかというと質素な暮らしを好む、そんな女性だ。


 母に結婚を報告した時は、泣いて喜んでくれて俺の大好物の里芋の煮っ転がしを振舞ってくれた。

 親孝行が少しは出来たかと、俺も嬉しかった。

 だが、それから俺の会社は忙しくなり母と顔を合わせる機会も減ってしまって。

 子供が産まれ、顔を見せに行ったのを最後に俺は母と会える時間がなくなってしまった。


 もちろん社会人になってから続けていた仕送りを絶やすことは絶対にしなかった。

 だが、俺はその仕送りを後悔することになる。

 そして、その機会は意外と早く訪れることとなった。


 仕事がほんの少し落ち着いて、会社の社長室で一息ついていた時、ポケットの中の携帯が震えた。

 見るとそれは妹からの電話。

 珍しいなと思いながら出てみると、電話先の妹の声はひどく震えていた。


「お兄ちゃん……! お兄ちゃん……!」

「どうした?」

「お母さんが! お母さんが倒れたの!!」

「は……?」


 母が倒れた。

 その知らせに俺は仕事を放り出して、母が搬送されたという病院へと急いだ。

 荒くなる呼吸を必死に抑えて、母がいる病室に駆け込めば、そこには俺が最後に会った時よりも痩せた母がいた。


 その姿に俺が呆然している間にも時間は進み、妹と一緒に別室へと通される。

 そこで医師から告げられたのは、母が末期の癌であり、余命幾ばくもないということだった。

 意味がわからなかった。脳みそがその言葉を理解することを、拒んでいたのかもしれない。


 医師は静かに残された時間を出来るだけ一緒にいてあげて欲しいという慰めの言葉だけを言って、この場を終わらせようとした。

 俺は懐に手を突っ込んで、あるだけの札束を医師に握らせた。これで母をどうか治して欲しいと。

 もちろん足りないだろう。大丈夫だ、金ならいくらでもある。欲しい額を用意すると。

 しかし、医師の顔は変わらなかった。


「――さん、お金ではどうしようもないんです。今の医学では貴方のお母さんを救う手立てはありません」


 冷静に俺に金を返しながら、医師はそういった。

 ふざけるなと思った。じゃあ、何のために金があるのか。

 俺は貧乏を抜け出したい、いや家族の、母の笑顔を見るために金を稼いできた。


 金はこれまで全てを解決してきた。

 それなのに、絶対に欲しいものは金では手に入らないとほざきやがる。

 これまでの努力が全て消えた瞬間だった。

 俺はおぼつかない足取りので、母が眠る病室へと向かった。


 母は変わらずそこに寝ていた。

 身体中にいくつもの管を生やしながら、あの頃の眩い笑顔の影の形もなく。

 俺は妹と一緒に、ずっと母のそばにいた。


「母さん……」


 思い出すのは子供の頃の母の姿ばかり。

 そういえば、俺は社会人になってから母とどれくらいの時間を一緒に過ごしただろうか。

 仕事ばかりで実家に帰る事は、ほとんどなかった。


 母の笑顔だって、思い出すのは子供の頃に見ていたもの。

 大人になってから見た母の笑顔は、指で数えるくらいしかない。

 俺はとんだ親不孝ものだ。こんな事になるなら、もっと母といる時間を大切にすべきだった。


 だがもう後悔しても全てが遅すぎた。

 母は目が覚めることなく、時間は刻々と過ぎていく。

 俺は母との最後の時間を過ごすために、会社のことは部下に任し、長期の休みを取った。

 幸いにも部下たちは優秀であり、昔からの戦友だ。

 会社のことは任せておけと、送り出してくれた。


 俺はずっと母のそばにいた。妹も一緒に。

 目が覚めた時、一番最初に目に入るのが俺たちであるように。


 それからどのくらいの時間が経った頃だっただろうか。

 母は目を覚ました。

 今でもしっかりと思い出すことが出来る。満月の夜のことだ。妹が飲み物を買ってくると、病室を出たすぐの事だった。


 握りしめていた母の手が僅かに動いたのだ。

 俺は驚きながらも今までより更に強く握って、母を呼んだ。


「母さん! 母さん……!!」


 俺の呼びかけが聞こえたのか、母はゆっくりと目を開けて、俺に気づくと微笑んでくれた。

 慌ててナースコールを叩いた。

 母が目を覚ましたんだ、眠気などどこかへ行ってしまった。

 そして、妹にこの事を伝えようと立ち上がろうとした時、ぎゅっと弱々しい手が俺の腕を掴んだ。


「待って、巧……」

「でも、」

「お願いよ、ね?」

「わかったよ……」


 昔から母のお願いには弱かった。

 俺が座り直すと、母はゆっくりと話し出した。

 母の口調は丁寧で、いつにも増して明るかった。


 語り出したのは昔話から、それから今までのこと。

 俺と妹との思い出をつらつらと話す。

 あんたは夜泣きが酷かったとか、妹は静か過ぎて怖かったとか。

 とてもたわいのない事ばかり。

 そんな話を母は本当に楽しそうに話してくれた。


 妹が帰ってきてもそれは続いた。

 むしろそれからが本番のように、昔話で盛り上がる俺たち。

 でも、それはきっと母のから元気だったのだろう。

 俺たちを心配させまいとしたのかもしれない。

 母はあー満足した!と笑って、俺たちに最後こう言った。


「巧、優子、私の子供に生まれてくれて本当にありがとうね。あんた達は宝物よ。それだけは忘れないでね」


 その言葉を最後に母はもう二度と目が覚めることはなかった。


 数日後、母が火葬されるまでの時間。

 俺は外で昼空を見上げながら、ぼうと立っていた。

 理解はしていた。人はいずれ死ぬ。けれど、それが突然過ぎて、葬式を終えて火葬されている間も、母がもうこの世にいないという事が信じられなかった。

 もしかしたらこれは全部夢ではないかという気さえした。


「お兄ちゃん、これ……」


 そんな俺に妹は震える手で何かを差し出した。

 よく見ればそれは通帳と一枚の手紙だった。

 俺はそれを受け取って、三つ折りになった手紙をゆっくりと開いた。


「巧と優子へ

 この手紙を読んでいるという事は、私はきっとこの世にはいないということね。

 そう考えるととても悲しい。もう二人の顔を見れないという事だもの。でも、この手紙を残したのはあなた達に伝えたい事があったから。どうか最後まで読んで頂戴ね。


 実は私はもう長くないことを少し前にお医者さんに言われていたの。でも二人にはどうしても伝えられなかった。だって、そうしたら二人とも自分のことを疎かにしてしまうでしょう? 自慢じゃないけど二人とも本当に母親想いのいい子達だから。


 巧は会社が、優子には家庭がある。私の事で心配はかけたくなかったの。わがままなお母さんでごめんなさいね」


「母さんが謝る事じゃないよ……」


「残された時間をどう過ごすのか。私はたくさん考えたわ。でも、はっきりとした答えが出せなかった。

 素直に書くけどね、やっぱり怖い。死にたくない。でも、だからこそ私がいたという証を残したかった。


 今まで二人には苦労ばかりかけたわ。普通の家庭ではなかったし、辛い思いばかりさせてしまった。でも、私には言葉しか残せない。


 大好きよ、私の子供でいてくれてありがとう。二人のかわいい子供がいて、私はすごく幸せだった。

 私の人生は貴方達がいたからこそ、輝いていた。

 だから、長生きするのよ。私よりもずっと。

 もしこっちにすぐ来ちゃうようなら、追い返してあげるからね。


 さようなら巧、優子。愛してる」


 その手紙の字は普段の母のものとは思えないほど乱れていて、そして温かいものだった。

 俺はずっと我慢していた涙が溢れ出して、止まらなかった。妹と抱き合いながら、子供の時のように泣いた。


 それから骨壷に母の骨を入れて、お墓に持っていき納骨。

 あれほど偉大だった母はすごく軽かったのを強く覚えている。


 母が居なくなっても時間は残酷に進んでいく。

 そして日常へと戻っていこうとする自分がとても怖かった。母の姿が声が俺の中から掠れて消えていく。

 それが怖くてたまらなかった。


「パパ、大丈夫……?」


 ある時、まだ幼い息子が一緒に遊んでいると俺の顔を覗き込んで、そう言ってきた。


「大丈夫だけど、どうしたんだ?」

「だってパパ、ずっと悲しい顔をしてるから……」

「そ、そうか?」

「うん、ぼくと遊ぶの楽しくないのかなって」

「そんなことないぞ! うん!」

「そっか。良かったあ……」


 俺の言葉に息子は満面の笑みを浮かべて、遊びを再開する。俺はそんな息子の頭を優しく撫でた。

 そうだ。俺には家族がいる。

 人間には寿命がある。時間には限りがある。

 だからこそ、その時間を大切に使わなければならない。


 母さんは俺に大切な事を教えてくれた。

 時間の尊さと儚さ。そして、家族の大切さだ。

 思えば今まで仕事仕事で、家族と過ごす時間があまり無かったように思える。

 そうだ、これからは思い出を増やしていこう。

 俺が死んだ時、目の前にいる息子が誇れる父親になろう。

 俺はそう決意した。

 その後、公園に妻が迎えに来た。


「貴方、大丈夫なの? 無理はしてない?」

「大丈夫だよ。そうだ、来週の週末、家族で旅行に行かないか?」

「どうしたのよ急に。それに来週って、貴方仕事は?」

「しっかりと終わらせるさ。そうだ、加奈子あの温泉旅館覚えてるか? 俺たちが初めて二人で行った旅行先の」

「ええ、覚えてるわ。忘れるわけがないでしょう」

「実はずっと考えていたんだ。あそこに家族で行ってみたいって。どうだろう?」

「もちろんいいわよ。楽しみね」

「ああ、そうだな」


 そういえば妻とまともに会話したのもいつぶりだろうか。そう考えてしまう自分が恥ずかしい。

 俺は妻の顔がまともに見れなくて、そうしていると笑われてしまった。まるで初めて会ったときみたいねと。


「あら、一緒に帰らないの?」

「歩いて帰るよ。ちょっと頭を冷やしたいんだ」

「そう。気をつけてね」

「ああ、加奈子もな」


 そうして妻が運転する車が去った後、俺は近くのコンビニに向けて歩き出した。

 ちょっとした買い物がしたかったのだ。

 ただ、それだけだったのだ。

 それなのに俺はこの選択をした自分が今でも憎くてたまらない。


 向かいにあるコンビニに向けて、青になった横断歩道を渡っていた時、俺は猛スピードで侵入してきた車に跳ねられて死んだのだ。

 ぐにゃりと自分の身体が砕けていく感覚は忘れたことがない。最後の光景は自分の腹から飛び出した臓腑が、道路に飛び散る瞬間だった。


 ともかく俺は死んだ。

 死んだはずだった。

 それなのに俺は生きている。

 いや、より正確に言うならば生まれ変わったのだ。

 ある夫婦の息子として、巧から拓海へと。


 そして、今俺は小学校に通っている。

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