2.
俺は卒業後、予定通り南部へ向かった。
南部の気候は穏やかで、空気もどこかのんびりしている。
家が営む商会に籍を置き、日々、帳簿とにらめっこ。地味な仕事だ。
けど、前世で経理をやっていたこともあって、その知識を活かせば意外と役に立つ場面も多い。支部の体制を立て直しつつ、時には、ディーリットの役に立ちそうな物資や情報を帝都に送ったりもしていた。
それに、今、この時代において、商人という立場は思った以上に都合が良かった。
特に、裏から情勢を見るにはこれ以上ないポジションだった。
帝都の空気は、常に俺の耳に届いてくる。
「最近、貴族同士の会合が増えている」
「治安維持隊が、妙に下町の動きを警戒している」
「港で火薬の原料が盗まれた」
──どれも、ゲームで見たことのあるフラグばかりだ。
……ついに、始まったらしい。
(あいつ、本気でやるつもりか……まぁ、やるんだろうな。そういうシナリオだ)
ディーリットの顔が脳裏に浮かぶ。あの、幼い頃の笑顔。手を伸ばしてきた小さな指先。
けれど、復讐を遂げる過程で、あいつが傷つくイベントも知っている。
だから、本当は止めたかった。
けれど俺は、ゲームの中ではモブ悪役で──それを回避したとしても、シナリオは変わらなかった。
ほんとは、帝都に残って、本部で働くこともできたはずだ。
でも──あの時、俺には、お前の隣に立つ覚悟がなかった。
俺なんかがそばにいたら、足を引っ張ることになるかもしれない。強くもない、何の力もない俺が、隣に立つなんて……それを考えるほどに、怖くなった。
だから俺は、南部に逃げるようにやって来たんだ。
たまにディーリットから送られてくる手紙は、他愛のない内容が綴られていた。そりゃ機密事項は俺に話すわけがない。けれど、端々にほんの少しだけ滲んでいたのは、兄さんが側にいればよかったのに……なんて言葉が綴られている。
それを読んだ俺は、一人残してきてしまった事にほんの少しだけぎゅっと胸が締め付けられた。
そして数か月後、帝都が揺れた。
「皇家の第一皇子が拘束された」
「議会の中枢が襲撃された」
それは単なる暴動じゃない。
明確な意志と計画をもって実行された、革命だった。
(あぁ……うまく、エンディングを迎えたんだな)
そう思った。
俺のいる南部には結局、一度も遊びに来なかったけれど。
でも、それでいい。
あいつはこの先、皇帝に擁立され、大陸を統一していく。世界を塗り替える主人公として、物語の頂点に立つ。
もう、俺はディーリットと会うこともない。
ほんの少しだけ寂しくて、ほんの少しだけ誇らしくて。そして――ほんの少しだけ、やっぱり寂しい。
そう、思っていた。が、そんな俺の手元に、一通の手紙が届いた。
「兄さんへ。帝都に来て。──ディーリット」
「……ん?」
え、まさか今から縛首にされるってこと?
いやいやいや、革命政権って最初に粛清する感じゃん!?
とっさに背筋が冷え、手紙を取り落とした。
(やばい……詰んだ? 俺、詰んだ? え、どこで? それとも家族がやらかした?)
動揺しながら手紙を拾い上げる手が、ちょっとだけ震えていた。
……いや、待て。
ディーリットのことだ。もしかしたら──
「迎えに行くから。待ってて、兄さん」
あの言葉を、ふと思い出す。
……いや、多分、会いたいって意味だけだよな? まさか、縛首なんてことには──ならないよな……?
そんな不安が拭いきれず、俺は冷や汗をかきながら、帝都へ向かう馬車に揺られていた。
もし処刑されることになったら、俺、多分ディーリットの前でみっともなく泣きながら土下座する。
そういう光景が脳内で再生されて、めちゃくちゃ怖い。道中も生きた心地がしなかった。
久しぶりの帝都は、戦乱の痕跡こそ残っていたが、それ以上に生気に満ちていた。
帳簿の数字からも景気の良さは感じていたけど、こうして街を目にすると、それが実感として迫ってくる。
貴族たちがふんぞり返っていた頃より、ずっと健全に見えた。……まぁ、ゲーム的には善政ルートって感じかな。
この先どういうイベントあったっけ? なんて思いながら風景を眺めているうちに、俺の乗った馬車は皇宮の門をくぐった。
かつて皇族が暮らしていた白亜の宮殿──。
俺は一度も足を踏み入れたことがなかったけれど、想像以上に美しくそしてどこか非現実的だった。こんな場所が、少し前まで血で汚れたなんて信じられないくらいに。
馬車を降りると、すでに騎士たちが整列していた。
……え、出迎え?
心臓がひときわ大きく跳ねた。
歓迎されてる? 本当に俺で合ってる? ねえ誰か確認して。
戸惑っていると、その列の先に、ひときわ背の高い青年が立っていた。
「兄さん」
──ディーリット。
変わらない笑顔。
でも、もうあの頃のディーリットではなかった。
その姿、堂々としていて、自信と覚悟を全身からにじませていた。
ああ、主人公ってこういう奴のことを言うんだろうな……と、改めて思う。
「ディーリット……さ、ま?」
駆け寄ってきた彼を見上げながら、俺がそう呼ぶと、ディーリットはふっと寂しげに微笑んだ。
「様なんていらないよ。……昔みたいに呼んで」
「でも……今のお前の立場でそれは……」
ちらりと騎士たちの列を見る。
彼が気安く俺のことを兄さんなんて呼んでいていいのか、正直不安だった。
「気にしなくていい。みんな、わかってるから」
そう言うと、ディーリットは迷いなく俺を抱きしめた。
俺の背なんか簡単に包み込めるくらい、でっかくなっちまって。
「ごめんね、本当は……迎えに行きたかった。でも、今はちょっと無理だったから、呼びつけるみたいにしちゃって」
囁くような声が、耳元で優しく響いた。
……うん、それは分かってた。
お前が帝都を変えたことも、必死に立ち回ってきたことも、全部知ってるから。
でも、なんで俺をここに呼んだんだよ。
(まさか本当に処刑フラグ回収じゃないよな?)
そんな不安がよぎって、体が少しだけ強張る。
その反応を見たディーリットが、少し身体を離して首を傾げる。
「どうしたの?」
「……え、いや。俺……場違いすぎるだろって思ってさ」
本音を言えば、逃げたって思われるのが怖かった。
お前を置いて、南部でぬるま湯に浸かっていた俺が──ディーリットが一番、大変な時にそばにいてやれなかったことが、ずっと引っかかっていた。
「ほら、事情は帝都からの電報でなんとなくわかってたけど……お前が大変な時、側に居てやれなかったろ?」
視線を逸らし、ほんの少しだけ情けなく笑うと、ディーリットは静かに微笑んだ。
「むしろ、俺は……兄さんが安全な場所にいてくれて良かったって、思ってたよ」
その声は穏やかで、優しくて、けれどどこか奥に影を落としていた。
何かを背負ってしまった人間の、それでも笑おうとする時の、あの独特の静けさ。
昔の、無邪気なだけの笑顔とは違う。
(……お前、ほんとに遠くに行っちまったんだな)
俺だけが、まだ置いてきぼりみたいな気がして、胸が少しだけ痛んだ。
「そうだ、これから一緒に住むんだし、中を案内するよ」
「……ん? え?」
思わず聞き返してしまった。
今、なんて言った?
唖然として言葉を失っていると、ディーリットは当然のような顔をして歩き出す。
「こっち。兄さんの部屋はもう用意してあるから」
「ちょ、ちょっと待て。住む? なんで俺が……? いや、あの、商会の仕事とか……あるし?」
「うん、それはちゃんと引き継ぎしてくれる人がいるから大丈夫。でも、兄さんは自分の仕事放り投げる人じゃないって知ってる。だから、いま抱えてる仕事は帝都支部に移しておいたよ。南部との連携も引き継ぎ済み。報告書、見てないの?」
──見てねぇよ!!
思わず心の中で叫んだが、口から出たのは「……マジかよ」という情けない一言だけだった。
案内された部屋は、帝都の実家にいたときよりも、南部にいたときよりも格段に広くて、日当たりもいい。
窓から差し込む光は柔らかく、調度品はすべて高級品。けれど不思議と緊張感はなく、どこか落ち着いた空気が漂っていた。
……いや、落ち着いてる場合じゃない。
俺は額に手を当てた。
にこにこしながら部屋の扉を開け放つディーリットが振り返る。
「兄さんの書斎の机は、特別にオークの中でもいちばん目の詰まったやつを選んで、職人にいちからから彫ってもらったよ」
そう言ったディーリットは、まるで自分が作ったみたいに得意げだった。確かに、机は凝った細工が施され、調度品としても美しかったが、普段使うにも良さそうで……。
「それと、奥はクローゼット。その奥にバスルームと……あとこっちは続き扉で俺の部屋と繋がってる」
部屋が繋がってる?
「……待て待て、なんで部屋くっついてんだよ!? お前、まさか……これ、元皇后の部屋じゃねぇのか?」
「うん。だから兄さんにちょうどいいかなって」
「いやいやいや、だからの意味がわからん! ……ちょっと待て、ディーリット。今の状況を整理させてくれ」
思わず声が上ずる。
わからない、というより──理解したくなかったのかもしれない。
「ディーリット。お前……皇帝になるんだよな?」
「うん。もうほとんど決まってるよ。戴冠式はまだだけど、ね」
そう答えたディーリットの顔には、なんの迷いもなかった。
皇帝になる。それが当然であるかのような、静かな確信。
「じゃあなんで俺が、こんな、なんか、特別待遇なんだよ……」
吐息混じりにそう尋ねると、ディーリットはふっと微笑んだ。
どこか誇らしげに、それでいて、妙に柔らかい表情で。
「当然でしょ。兄さんだよ?」
そう言って、ゆっくりと近づいてくる。
「俺が一人のときも、俺のこと支えてくれてた。南部にいた時だってこっそり物資とか、情報とか送ってくれたりしたでしょ。すごく嬉しかった……ずっと、好きだった」
言葉とともに落ちる視線は、どこか甘くて、熱を帯びていた。
けれどその熱が、どんな種類のものなのか──俺はまだ気づけていなかった。
「でも、周りがうるさいんだ。妃を迎えろって」
吐き捨てるように言ってから、ディーリットはもう一歩、俺との間合いを詰めた。
あ、そうだ、そんなイベント(妃選び)あったね…………。
「だから、言ったんだ。兄さんじゃないと嫌だって」
「…………は?」
思考が止まる。
え? あれ? それはつまり、どういう……
「兄さんだって、俺のこと好きでしょ?」
囁くような声に、心臓が一拍遅れて跳ね上がる。
いやいや、確かに好きとは言った。弟として、家族として、大切で、可愛くて……でも、お前が言ってる好きって、それとは──違う。完全に違う。
(やばい…)
そう気づいたときには、もう遅かった。
そっと俺の頬に添えられた手が、俺の顔を包み込む。
指先は温かく、ゆっくりと俺の顎を持ち上げていく。
逃げようと思えば逃げられる。けれど、なぜか身体は動かない。
そして──俺の瞳に映ったディーリットの顔は、ルビーの瞳は、子供時代の無垢さとは違う。
けれどその目はひどく真っ直ぐで、ひどく……欲深かった。
「兄さん、俺のこと…本当に好き?」
その声は低く、甘く、まるで逃げ道を塞ぐように響く。俺は喉が詰まり言葉を失った。
心臓がうるさいほどに跳ねている。
「ディーリット、待て、俺は……その、弟として……」
慌てて弁解しようとするが、ディーリットの唇がわずかに弧を描く。
「弟? でも、俺はそんな風に思ってなかったよ。ずっと…兄さんのこと、こうやって触れたかった」
ディーリットの手が、頬から首筋へ、ゆっくりと滑り落ちる。温かい指先が俺の襟元に触れ、旅装束のボタンを一つ外す。
「ディーリット!?」
一歩、後ずさろうとするが、背後には壁。ディーリットの腕がその両側に伸び、逃げ場を奪った。
「逃げないで、兄さん。俺、ずっと我慢してたんだから」
ディーリットの声は囁きに変わり、耳元で熱い息が感じられる。俺は顔が熱くなるのを感じ、目を逸らす。だけど、ディーリットの指が再び顎を捉え、強制的に視線を合わせさせる。
「俺がどれだけ兄さんのこと考えてたか、知ってる?」
その言葉に、俺は子供時代のディーリットを思い出す。あの純粋な笑顔、クッキーを抱きしめた小さな手。
なのに、今のディーリットは…あまりにも近く、あまりにも熱い。
「ディーリット、お前……皇帝になるんだろ? なんで……俺なんかと……」
「だから、兄さんが必要なんだ」
ディーリットの手がテオドールの腰に回り、引き寄せられれば背がわずかに反り、ディーリットの胸に押し付けられる。
「俺のそばにいて。ずっと……俺のものになって……」
ディーリットの顔が近づき、俺は思わず目を閉じた。
(やばい、俺、完全に選択肢ミスった……?)
そんな考えが頭に過った瞬間、ゆっくりと唇が塞がれた。
お読みいただきありがとうございました!