住み込み先は幽霊公爵家!? 〜義妹に奪われ追い出されましたが、溺愛の予感とハッピーエンドが待っていました〜
八年前、愛のない夫婦生活に疲れた母が舞台役者と駆け落ちし失踪した。
六年前、父が再婚して継母と二歳下の義妹ができた。
そして今、ディアナ・ガランド十八歳。
義妹と浮気した婚約者から、婚約解消を告げられた。
*
「ディアナお義姉様、ごめんなさいね? でも、ワイリーは婚約者であるお義姉様のことよりも、私のほうが好きなんですって」
琥珀色の瞳をニヤニヤと細め、赤いウェーブヘアの毛先を弄りながら義妹……アンジェリカはディアナに告げた。
言葉では謝っているが、アンジェリカの表情も態度も、ディアナを見下していることを隠そうともしない。
「けどね、ワイリーのお家との婚約条件は『ガランド伯爵家の娘であること』だったでしょう? だから、お義姉様じゃなくて私でも同じ……ううん、むしろ愛があるぶん、私がワイリーと結婚したほうがみんな幸せになれるって気がついたの。とってもいい案じゃない?」
確かにアンジェリカの言うとおり、ワイリーとディアナはろくに話したこともないような、形だけの婚約者だった。
(昔から私のものをなんでも取らなきゃ気が済まない子だったけど、まさか婚約者まで欲しがるなんて)
ディアナの好物のお菓子も、お気に入りのドレスもリボンも本も。
出会ったときからずっと、数え切れないくらいアンジェリカはディアナから奪っていった。
ものを欲しがるだけじゃない。
ディアナの内側から輝くような金の髪と、瑞々しい若草に似た緑色の瞳が、他人から褒められることが気に入らないと癇癪を起こしたこともあった。
『お義姉様ばっかり褒められてずるい! 私が赤毛だからって、お義姉様はバカにしてるんだわ!』
ディアナが褒められるたびにアンジェリカが泣き喚くものだから、執事もメイドも、誰もディアナを褒めることはなくなった。
婚約者のワイリーに至っては、アンジェリカの『お義姉様にバカにされていじめられている』という言葉を信じ込んでいた節さえある。
(お母様の髪色と瞳の色を受け継いだ私の顔を、お父様は前から好きじゃなかったしね)
ディアナとワイリーの婚約がそうであったように、父と母も貴族同士の政略結婚だった。
元々愛のない夫婦関係。父の浮気グセ。そこに重なった、見目麗しい役者との運命的な出会い。
当時十歳だったディアナを置いて、母はあっさりと姿を消した。
そんな母と同じ色彩をしたディアナを、父が疎むのも無理はない。
父は実の娘のディアナよりも、血の繋がらないアンジェリカのほうを優先し溺愛していた。アンジェリカが癇癪を起こしたときなど、彼女を諌めるどころかディアナを厳しく叱責したくらいだ。
そして当然のように、継母もディアナを快く思っていない。
このガランド伯爵家に、ディアナの味方は一人もいなかった。
(ワイリーと私の婚約解消と、アンジェリカが新しく彼の婚約者になることは、もう決定事項ってわけね)
継母とアンジェリカの趣味の家具や調度品で固められた居間の中。
父、継母、アンジェリカの三人からの圧力を感じながら、ディアナはため息を吐いた。
「いいわ。ワイリーの婚約者を、私ではなくアンジェリカにしてちょうだい」
どうせアンジェリカは欲しいと言い出したら手に入れるまで気が済まない。
今となってはワイリーとほぼ交流のなかったことに逆に感謝したいくらいだ。
貴族の娘なら十代のうちに結婚するのが一般的なこの国で、十八歳で婚約が白紙になることは少々痛いが仕方がない。
諦観したディアナが婚約解消を了承すると、そのあっさりした態度が気に入らなかったのか、アンジェリカが鼻に皺を寄せた。
(私の悔しがる姿が見たかったのかもしれないけれど、ワイリーのことは勝手に決められた婚約者としか思っていなかったもの。ご期待に添えなくて残念ね)
なんなら、幼い頃に宝物だった外国製の童話集を取られたときのほうが悲しかったくらいだ。
しかし、ディアナはアンジェリカが自分へ向ける憎悪を甘く見ていたと思い知ることになる。
「……それでね? ワイリーにフラれて婚約を解消したお義姉様は、この土地にいづらくなっちゃうでしょう?」
原因は自分にもあることを棚に上げ、アンジェリカはニヤニヤと顔を歪める。
何がそんなに楽しいのか。アンジェリカのあまりに醜悪な表情に、ディアナの背中にぞくりと悪寒が走った。
「だから私、お義姉様が住み込みで働ける場所を探してきてあげたの!」
「………………は?」
さすがに予想外過ぎる展開に、ディアナの口から貴族令嬢らしからぬ声が漏れる。
「デイビーズ公爵家が、メイドを募集してるんですって! デイビーズのお屋敷なら『多少の事情』がある人間でもすぐにクビにしたりしないでしょうから、お義姉様にピッタリでしょう? そんな素晴らしい職場を、お義姉様なんかのためにわざわざ探してきてあげるなんて、私ったらなんて優しいのかしら!」
大げさに自画自賛するアンジェリカと、そんな娘を窘めさえしない両親。
きっと両親はディアナが行かされる場所を先に知っていたのだろう。
(まさか、嫌がらせのためにデイビーズ家への就職まで用意してるとは、さすがに思わなかったわ)
デイビーズ家は、呪われていると有名な公爵家だ。
*
(なんかもう、外観からして『出る』って感じだったけど、室内も昼間なのに薄暗くてジメジメしてる気がする……)
ガランド伯爵家よりも、三倍は広そうなデイビーズ公爵家の屋敷。
しかし、その立派な屋敷はどんよりと不気味な空気が充満している。
それはディアナの気分的なものだけでなく、実際にデイビーズ家の屋敷の周囲だけ黒く分厚い雲に覆われているのだ。
季節を問わず、デイビーズ家の周囲は天気が急変しやすく、雷雨になることも珍しくないという。
このおかしな天候は十年前……当時のデイビーズ公爵と夫人が事故で亡くなってから始まったらしい。
そのせいで、デイビーズ家は呪われているという噂が急速に広がった。
(現在は亡くなったご夫婦のご子息が爵位を継いでいるらしいけれど、社交界には滅多に姿を現さないからどんな方か知らないのよね……)
けれどたとえ本当にこの屋敷が呪われていようと、雇い主になる公爵がどんな男だろうと、もうディアナにはここで働く以外の道はない。
ガランド伯爵家のディアナの私室だった部屋は、きっと今頃アンジェリカの物置きにされているだろう。
ディアナにはもう、形ばかりの婚約者の存在も、帰れる場所も何もない。
「――確かに、伯爵家からの紹介状のようですね。本日から当家のメイドとして、よろしくお願いしますディアナさん。私は四十年近くデイビーズ家に勤めさていただいてる、セスと申します」
アッシュグレーの髪をオールバックにし、口髭を生やしたグレーの瞳の執事は、セスという名前らしい。
年齢は五十代後半くらいで、落ち着いていて有能そうな印象だ。
「伯爵家のお嬢さんなら、礼儀作法などは改めてお教えしなくても大丈夫そうですね。貴女には旦那様のお茶のご用意や部屋の掃除の他、私やメイド頭の仕事の補佐など様々な雑用も手伝っていただくことになります。なにせ当屋敷は深刻な人手不足なもので」
「はい。お茶の用意もお掃除もなれていますし、洗濯も自分でしていたのでお任せください」
ディアナの返事を聞いて、セスが意外そうに片眉を上げた。
伯爵家の令嬢が掃除や洗濯になれていると思わなかったのだろう。
ガランド家ではアンジェリカが癇癪を起こすことを避けるため、使用人たちは極力ディアナに近づかないようにしていた。
だからディアナは身の回りのことはほぼ自分でこなしてきたため、掃除も洗濯の仕方も身についているのだ。
ワケありのデイビーズ家に務めるセスは、ディアナにもまた何かワケがあることを察し頷いた。
「そうですか……。では、当主のヴィクター様へご挨拶に行きましょう」
「かしこまりました」
「ヴィクター様のお顔を見て驚くことがあるかもしれませんが、ご病気などではないので心配しないでください」
「はぁ……?」
セスに真面目な表情で不思議なことを言われ、ディアナはつい淑女らしからぬ声を漏らしてしまう。
しかしヴィクターと対面し、すぐにセスの言葉に納得する。
「ヴィクター様、失礼いたします」
執務室へ入り、これから自分の雇い主になるヴィクターの顔を見たディアナは思わず息を呑んだ。
青い夜の月光のような銀髪と水宝玉の瞳。すらりとした長身は、神に愛された彫像が命を得て動き出したのかと思うほどの造形美だ。
間違いなく、ディアナが今までの人生で出会った男性の中で一番の美丈夫がそこにいた。
しかし、ディアナを驚かせたのは彼の美しさではない。
(も、ものすごく顔色が悪くて、ものすごく濃い隈が目の下にできてる……!)
ヴィクターの顔は紙のように真っ白で、反対に目の下は濃い隈で真っ黒だったのだ。
そのせいで、二十五歳という実年齢よりも疲れて見える。
(セスさんが言っていたのは、このことだったのね)
人の顔を、それも雇い主の顔を不躾にジロジロと見るものではない。
平静を取り戻したディアナは、淑女らしい所作でヴィクターへ挨拶をする。
「ディアナ・ガランドと申します。本日より、よろしくお願いいたします」
しかし、ヴィクターは氷のような瞳でディアナを見下ろす。
彼はディアナよりも頭一つぶん以上背が高いから、かなりの威圧感だ。
「うちは『諸事情』で使用人が長くもたないんだ。君は簡単に辞めないでくれると助かる」
「はい。もちろん誠心誠意、お勤めさせていただくつもですわ」
「誰でも最初はそう言うんだ。まぁ期待しないでおくが、精々頑張ってくれ」
ディアナは笑顔で答えるが、無表情のヴィクターは興味がなさそうに冷たく吐き捨てた。
*
ディアナに与えられた部屋は、物書き机とベッドと姿見だけでいっぱいになってしまうような、小さな個室だった。
アンジェリカのせいで肩身の狭い思いをしていたとはいえ、ガランド伯爵家のディアナの私室の半分もない広さだ。
それでもディアナは構わなかった。
ほぼ中身の入っていない鞄を置き、スゥッと息を吸い込む。
「…………あーーーー! 清々したわーーーーーー! 今後もうアンジェリカと暮らさなくて済むなんて、嬉しすぎるぅぅぅっ!」
自室が半分以下の狭さになっても、メイドとして働くとこになっても。
今のディアナは解放感でいっぱいだ。
「自分で働いて稼げるなんて、最高ーーーーーー!」
父と結婚するまで平民だった継母とアンジェリカは、貴族なら何もしなくても一生散財して暮らせると思っていたようだが、ディアナはお金の大切さを理解していた。
何故なら、母が駆け落ちしたあとから引き継ぎ、父の再婚後もガランド家の帳簿をつけていたのはディアナだからだ。
「たとえ嫁き遅れても、ガッツリ稼いで自立して生きていくわよ〜〜!」
幼い頃から父が何人もの愛人を囲い、その父と添い遂げると教会で誓ったはずの母は別の男と失踪し、自身も婚約者に裏切られたディアナは悟った。
大切なのは、愛なんかでなく、お金だと。
「稼げて寝る場所があるなら、どんな場所でも大歓迎よっ!」
狭い一人用のベッドに寝転がり、枕を抱きしめる。
枕はぺちゃんこだったが、今後はもう、突然来襲して奪っていくアンジェリカを警戒しなくていいのだ。なんて素敵なんだろう。
「仕事を始めるのは明日からでいいってセスさんに言われてるから、今日は休ませてもらおう……」
さすがに気を張っていたのか、横になると一気に疲れと眠気が襲ってくる。
瞼を閉じれば、あっという間に眠りの世界だ。
だから、深く寝入ってしまったディアナは、屋敷の『異変』に気がつかなった。
翌日。
メイド服に着替えたディアナを指導してくれたのは、エリヤというメイド長だ。
四十代半ばくらいだろうか。茶色の髪と瞳で、ふくよかな体型をしている。
「うちの屋敷は万年人手不足だから新人が来てくれて本当に助かるよ! 昨日はよく眠れたかい?」
「はい。ぐっすり」
「……変な物音がしたり、窓がガタガタ揺れたりしなかった?」
「? はい。特には……?」
「初日だから手加減したのかねぇ……。まぁよく眠れたのならよかった! じゃあまずは玄関ホールの掃除から教えるよ」
「よろしくお願いします」
エリヤから一通り掃除の仕方を教わったディアナは早速ホウキを手に取る。
忙しいエリヤは他の場所に行ってしまったから、この広い玄関ホールを掃除するのはディアナ一人だ。
「まぁ、やっていればいつか終わるんだから、どうってことないわね」
塵をはき集めて捨てたあとは、磨き粉を布につけ床を磨く。
無心で磨いていると、不意にポツン……と何かがディアナの目の前に落ちてきた。
見れば、赤っぽい水滴が床に垂れている。
「雨漏り……?」
思わず上を見るが天井にそれらしきシミはないし、屋敷の周りは曇っているとはいえ、雨は降っていない。
なら、この液体はどこからきたのだろう?
「まぁ、そういうこともあるわよね」
他にもやるべき仕事はたくさんある。
水滴を拭き取り、ディアナはまた床磨きに集中した。
「――――あ〜! よく働いたから、クタクタ!」
寝間着になったディアナは、机にぶつからないよう気をつけながらベッドに倒れ込む。
まる一日働いた身体はあちこちが筋肉痛だ。
「でも、毎日お風呂を使っていいって言うんだから、ヴィクター様は太っ腹よね」
ガランド家では使用人に温かい風呂などもったいないと、両親は冬でも使用人たちにお湯を使うことを許さなかった。
デイビーズ家の使用人が使う浴室は清潔で、まかない料理もボリューム満点で美味しい。
「それなのに使用人がいつかないなんて、みんなそんなに幽霊の噂が怖いのかしら……」
今のところ、ディアナにとってデイビーズ家は常に薄暗いだけの屋敷だ。
「それに、幽霊よりもよっぽどうちの両親やアンジェリカのほうが厄介よ」
ウトウトしかけながら呟いたディアナは、この屋敷もまた『厄介』な場所であることを、このあと思い知ることになる。
シンッと屋敷が静まり返った深夜。
突如、奇妙な笑い声とうめき声がディアナの部屋に響いたのである。
「な、なに……?!」
何重にも聞こえる、ケタケタと常軌を逸した笑い声。
地の底から這い上がってくるような低いうめき声。
まるで大勢の人間がディアナを取り囲んで笑ったりうめいたりしているようなのに、狭い部屋にはディアナしかいない。
もしかしたら、廊下や窓の外にいるのだろうか。
扉やカーテンの向こうに蠢く死霊たちの姿を想像してしまい、ゾッと冷たいものが全身に走る。
「いや……!」
外を確かめる勇気がないディアナは布団を頭まで被り、朝が来るまでその体勢で過ごした。
「――すっ……ごい隈。まるでヴィクター様みたい」
翌朝。姿見に映る寝不足の自分は、顔色が悪く目の下の黒い隈が目立っている。
隈を指でつつきながら、ディアナは初日に挨拶したきりのヴィクターのことを思い出した。
「なるほど。これが『呪われた公爵家』の洗礼ってわけね」
きっと今まで辞めた使用人たちは、この怪奇現象が原因で逃げ出したのだろう。
「まぁ、私はこれくらいじゃ辞めないけどね。……すっごく眠いけど!」
昨夜は布団を被ってやり過ごすことしかできなかったが、結局ディアナが身体的な危機に陥ることはなかった。
声や揺れでうるさいくらいなら、どうにかなれることも可能だろう。
しかし、その後もディアナの周りで不可思議なことは起こり続けた。
拭き掃除をすれば、例の出どころ不明の赤っぽい水滴が何度も床に垂れてくる。
ロングギャラリーの調度品を磨いていれば、鏡や窓に不気味な人影が横切る。
図書室の整理をすれば、誰も触れていないはずの本棚の本がバラバラと床に落ちた。
幾度となく怪奇現象に仕事を邪魔されたディアナは、昨日よりも疲労度の蓄積が段違いなのを感じた。
(もう、今日は静かに眠りたい……)
クタクタになってベッドに倒れ込んだディアナの願いも虚しく、今夜も部屋に正体不明の笑い声とうめき声が響く。
しかも今日はベッドや机が地震のように揺れるというオマケつきだ。
最初は昨夜のように布団を被って耐えていたディアナだったが、二日連続で睡眠を邪魔され、ついに我慢の限界が訪れた。
ブチンッと何かがディアナの中で切れる音がする。
「――――だぁぁぁぁぁっっっ?!?!?!?!?!?!」
布団を跳ね除けたディアナが頭を掻きむしりながら叫ぶと、声と揺れがぴたりと止んだ。
怪奇現象を起こしている存在……おそらく幽霊たちも、突然のディアナの行動に驚いたのかもしれない。
(なんだ、これくらいで静かになるんだったら、最初からこうすればよかった)
この方法は有効だ。
確信したディアナは何もいない天井あたりを指差し、まくし立てる。
「怪奇現象だか幽霊だかなんだか知らないけどねぇ?! 夜中にガタガタガタガタうるさいのよ! こっちは労働で疲れてんだから、寝なくてもいい死んでる人間のほうが生きてる人間に配慮しなさいよ! 人の仕事の邪魔ばっかりして! どうせ出すんなら血みたいな水じゃなくて蝶とか花とか出してみたら?! 赤い水だの不気味な人影だの、どこでも聞く怪談じゃない! アンタたち、オリジナリティがないのよオリジナリティが!」
一日仕事を邪魔された鬱憤を一気にぶちまけると、部屋はシンッ……と静まり返った。
しばらく待ってみても、再び笑い声や揺れが起こることはなかった。
満足したように頷いたディアナは、ベッドに戻り布団をかけ直す。
(やられたら好きに言い返せるんだから、アンジェリカよりも幽霊のほうが可愛いくらいね)
おかげで、この日はぐっすりと眠ることができた。
そして翌朝。
起きた瞬間、ディアナの視界に飛び込んできたのは色とりどりの花弁と七色の蝶が舞う光景だった。
「えっ?」
ディアナが戸惑った声を上げると、花弁と蝶は空気に溶けるように消え、代わりに一枚のメッセージカードがひらひらと手元に落ちてくる。
名刺サイズのそれには『ごめんね』と書いてあった。
昨日のディアナの「どうせ出すなら花や蝶を出してみろ」という言葉を実践したのかもしれない。
「……なんだ、幽霊でも話せばわかるじゃない」
この日から、ディアナと幽霊たちとの奇妙な交流が始まった。
*
「――うん、そうそう。そこの棚。その一番上の段に、この本をしまってくれる? 私じゃなかなか届かなくて」
デイビーズ公爵家で働き始めてから五日。
幽霊たちの存在にすっかりなれたディアナは、彼らに仕事を手伝ってもらうようになっていた。
「ありがとう。あなたたちのおかげで今日も順調に仕事が終わりそうよ」
見えない相手にディアナがお礼を言うと、クスクスと嬉しそうな声が聞こえる。
夜中のけたたましい笑い声には辟易したが、こういう声なら大歓迎だ。
「――驚いたな。まさか、怪奇現象にあって逃げ出さないばかりか、幽霊たちを手懐けるなんて」
「ヴィクター様……!」
いつの間に図書室に来ていたのか、振り向けば扉のところにもたれかかっているヴィクターがいた。
相変わらず彼は凄まじい美形だが、顔色は蒼白く、目の下に隈ができている。
「お恥ずかしい話なのですが、なんだか叱ったら妙に懐かれちゃったみたいで。それで手伝いもしてくれるようになったんです。仕事が効率よくまわるなら、猫の手でも幽霊の手でもなんでも借りればいいかなって」
ディアナの言葉を聞いて、水色の瞳を見開いたヴィクターが思わずといった様子で吹き出し、やがて朗らかな声で笑い始めた。
よほど面白かったのか、腹を抱えて笑う彼の長いまつ毛には涙まで溜まっている。
(ヴィクター様って、実は笑い上戸なのかしら)
無表情だったヴィクターが笑うとギャップが激しくて、ディアナはなんだか自分の胸がそわそわするのを感じた。
「はぁ、こんなに笑ったのは久しぶりだ。君のおかげだよ。……そうか、幽霊でも話せばわかるんだな。考えたこともなかった」
「はい。ヴィクター様のその隈も、騒音による寝不足が原因ですよね? 幽霊たちに静かにするように言えば、ちゃんと伝わると思います」
「そうだな。今夜、試してみるよ。ありがとう」
翌日。
久しぶりに深く眠れたというヴィクターの顔色は血色がよく、目の下の隈も薄くなっていた。
彼の顔を見て思わず笑顔になってしまったディアナに、ヴィクターも視線を合わせて微笑んでくる。
初めて挨拶したときにはなんて冷たくて嫌味な男だろうと思ったが、思ったよりも悪い人ではないのかもしれない。
ヴィクターの笑顔を見て、ディアナの胸にやる気が漲ってきた。
(なんだか、私ここで上手くやっていける自信が出てきたわ……!)
この日、ディアナは幽霊たちの手伝いもあっていつも以上にテキパキと仕事をこなした。
「――幽霊たち、俺が黙るように言ったら本当にピタッと静かになったんだ。もっと早く言えばよかったよ」
ディアナが公爵家で働き始めてから三週間。
ヴィクターとはすっかり打ち解け、気楽に雑談をする仲になっていた。
今も彼の執務室を掃除しながら、和やかに会話をしている。
「目の下の隈もすっかり消えましたものね。ヴィクター様がよく眠れているようでよかったです」
「君のおかげで、十年来の寝不足が解消されたよ」
「あの怪奇現象が起きるようになったのは、もう十年も前なのですか?」
「あぁ。……俺の両親が亡くなって、数ヶ月経った頃から屋敷で奇妙な出来事が起きるようになったんだ」
ヴィクターの説明によると、最初は亡くなった彼の両親……公爵夫妻の姿が使用人たちに目撃されることから始まり、実際に彼ももうこの世にいないはずの両親に何度か会ったのだという。
「父も母も、とても悲しそうな顔をしていた。きっと俺が当主としてちゃんとやっていけるか心配で天国に行けず、屋敷に囚われてしまったんじゃないかと思う」
「そんな……」
「父と母の姿が見えるだけのうちはまだマシだったんだが、そのせいで、他の霊たちもうちの屋敷に集まって溜まり場になってしまったんだ」
「怪奇現象を起こして使用人たちを追い出したのは、ご両親とは関係ない幽霊たちなんですね」
「あぁ。他の霊が現れ始めてから、両親の姿を見ることはなくなってしまった。……俺が不甲斐ないせいで、デイビーズを呪われた家にしてしまったから、きっと両親は俺に失望したんだろうな」
声を震わせ、ヴィクターは泣きそうに顔を歪めた。
彼の悲しげな表情にディアナの胸まで痛む。
思わずヴィクターに近づき、彼の大きな両手を自分の両手で包む。
「不甲斐ないなんてこと、ありません……!」
「ディアナ?」
「ヴィクター様は、そりゃ最初はなんて無愛想な方なんだろうって思いましたけど、本当は優しくて思いやりのある方で努力家です! 私が重い物を持っていたらすぐに気がついて手伝ってくださるし、いつも遅くまでお仕事されてるのも知っていますっ」
ディアナの勢いにヴィクターが驚いているのを感じるが、かまわずディアナは続ける。
「ヴィクター様がセスさんやエリヤさんのことを家族のように大切にされているのも見ていてわかります。だって、ヴィクター様の笑顔と瞳からはお人柄の温かさが伝わってくるもの。だから、ご自分を責めないでください……!」
少しでも、ディアナの気持ちが伝わってほしい。
ヴィクターの瞳を見つめながら、彼の両手を包む自分の手に力を込める。
「……ありがとう。君がそう言ってくれて、心が軽くなったよ」
「また自信がなくなりそうになったら、いつでもおっしゃってください。何度だって、ヴィクター様の素敵なところを言ってみせます!」
ドンッと自分の胸を叩くディアナを見て、ヴィクターがクスクスと笑う。
少し前から、ディアナはヴィクターの笑顔を見ると自分の鼓動が高鳴るのを自覚していた。
「それに、ご両親はたぶんヴィクター様に失望なんてしてないです」
「君がそう言ってくれる気持ちが嬉しいよ」
「いえ、慰めで適当に言ってるわけじゃないんです」
「えっ?」
「ヴィクター様のご両親って、お父様はヴィクター様と同じ銀髪と水色の瞳で、青のアスコットタイを着けてる方。お母様は淡い金髪で琥珀色の瞳、月桂樹と小花を模した銀の髪飾りを着けてる方ですよね?」
ディアナの言葉に、ヴィクターは驚きの表情を浮かべる。
「……君は、霊を見る力が強いのか?」
「以前は霊感なんてありませんでした。でも、このお屋敷に来て幽霊たちに仕事を手伝ってもらっている間に、時々彼らの姿が見えるようになったんです。だからご両親らしき方たちが、時々ヴィクター様を抱きしめたり頬にキスをしているのが見えました」
「青のアスコットタイと髪飾りは、事故の直前に俺が贈ったから、肖像画にも残ってないんだ。……そうか、父も母も、怒ってなかったんだな」
今度こそ、ヴィクターの瞳から涙が流れる。
感情を溢れさせた彼の姿に、ディアナの胸も揺さぶられる。
「……亡くなったあとも自分を側で見守ってくれるご両親なんて、正直羨ましいです」
「確か、君の家は少し事情が複雑だと言っていたな」
「はい。母は駆け落ちして出て行きましたし、父は母に似ている私を疎んでいました。義妹の癇癪を恐れるあまり、ガランドの屋敷では使用人たちも私に距離を置いていました。優しく見守られるどころか、褒められたことも温かく接してもらったことも、父が再婚してからはない気がします」
ヴィクターの感情に触れたからだろうか。
今まで気丈に振る舞っていたディアナも、誰にも言うことのなかった心の声を打ち明ける。
(そうか私、寂しかったし、悲しかったんだわ)
感情と共に、ディアナの瞳からも涙があふれる。
「やだ、ごめんなさい。涙が出たら、止まらなくなっちゃった」
懸命に泣き止もうとするディアナを、ヴィクターが力強く抱き締める。
彼の腕は逞しく温かい。こんなふうに誰かに抱き締められたことなど、子供のときにだってなかったかもしれない。
ヴィクターの体温を感じ、ディアナの瞳からますます涙がこぼれた。
「――俺が守る。これからは俺が、君を守る……! 君の素敵なところを、何度だって俺が伝えるから……っ」
「ふふ。これじゃあ、さっきと逆ですね」
それがなんだかおかしくて。
ディアナは微笑みながらヴィクターの広い背中へ腕を回した。
*
「――ディアナは本当に可愛い。可愛いだけじゃなく、気が利いて知性的で人柄もいい。ディアナがいると、屋敷がぱっと明るくなる気がする」
ディアナがデイビーズ家で働き始めて一ヶ月半。
ヴィクターがディアナを褒めちぎる光景は、デイビーズ家の当たり前の日常になっていた。
「ヴィ、ヴィクター様! ただ図書室の本棚を整理してるだけのときに、そんな褒めちぎらないでください」
「照れる顔も可愛いな。だって、これからは俺が何度でも君の素敵なところを伝えると言ったじゃないか」
「でもだからって……!」
そんな二人の様子を揶揄うように、本棚の本がカタカタと揺れる。霊たちの仕業だ。
最近では、ヴィクターにも両親の姿が見えることが増えてきたという。
本来の明るさを取り戻したヴィクターとディアナを、セスとエリヤが微笑ましそうに見守っている。
しかし、そんな温かく平和な時間に招かざる客がやって来た。
なんの前触れもなく、突然アンジェリカがデイビーズ家の屋敷に押しかけて来たのである。
玄関ホールで喚き散らすキンキンとした声に気づきディアナが駆けつけると、そこには怒りと憎悪に顔を歪ませるアンジェリカの姿があった。
「ディアナ! よくも騙したわね!」
「騙したって、一体なんのことを言ってるのアンジェリカ」
「ガランド家の財政が火の車だなんて聞いてないわ! あんなんじゃ欲しい宝石一つ買えないじゃない!」
「それは何度もお父様に言ったのに、聞いてもらえなかっただけで……」
ガランド家の帳簿の管理をディアナに押し付け、見向きもしなかったのは父やアンジェリカたちのほうだ。
なのにアンジェリカはそのことを棚に上げ、つばを飛ばしながらディアナに怒鳴り散らす。
「しかもそのせいでワイリーが浮気したのよ! 『ガランド家の財政がそんな状態なら、結婚する意味はないね』って! よりによって庶民の女なんかと裸で同じベッドの中にいたのよ! 全部アンタのせいよ!」
アンジェリカの言い分は完全な八つ当たりだ。
あまりの話の通じなさに眩暈がする。こんな相手をどうやって落ち着かせればいいのか。
「とにかく、そんな大声を出したら迷惑がかかるから、少し声を抑えて……」
「ハァ?! なんでアンタにそんな偉そうに指示されなきゃいけないのよ?!」
ディアナの言動の全てが気に入らないのか、何を言ってもアンジェリカはヒステリックになってしまう。
悪態をつき続けるアンジェリカの姿にディアナは途方に暮れた。
(せっかく離れられたと思ったのにここまで押しかけて来るなんて、もうどうしたらいいの……!)
こんなふうにデイビーズ家に迷惑をかけたら、この屋敷にいられなくなってしまうかもしれない。
今更アンジェリカの言葉に傷つくことはないが、デイビーズ家の人々……ヴィクターと会えなくなってしまうかもしれないと思うと、ディアナの胸が苦しくなる。
しかし、そんなディアナの肩を力強い手が抱き寄せた。
「――それ以上、俺の婚約者を理不尽に責め立てるのはやめてもらおうか」
「ヴィクター様……!」
見上げれば、ヴィクターが毅然とした態度でアンジェリカを鋭く睨みつけている。
ディアナを抱き寄せた彼の手は温かく頼もしい。
「ハァ?! 婚約?! アンタはメイドでしょう?! どういうことよ!」
おそらくディアナを守るためについたであろうヴィクターの嘘が、ますますアンジェリカの癇癪を悪化させる。
もう、アンジェリカの顔色は怒りでどす黒く見えるほどだ。
「俺と結婚したら、ディアナは公爵家の人間だ。たとえ義妹でも伯爵家の者が気安く話しかけられる立場じゃない。彼女に免じて今回の無礼な振る舞いは不問にしてやるから、さっさとお引き取り願おうか」
ヴィクターの放つ空気と声色は氷のように冷たく、絶対的な強者が持つ威圧感があった。
見下していた義姉が、自分より上になったことをアンジェリカは悟った。
「なんでっ、なんでアンタのほうが幸せになるのよ……っ!」
アンジェリカがヒステリックに叫び、近くに飾られていた花瓶を掴む。
こちらへ投げつけるつもりだ。
そう理解できても、ディアナは咄嗟に動くことができなかった。
「ディアナ!」
ヴィクターがディアナを庇うように抱き締める。
――が。
ディアナの顔を狙い投げられた花瓶は、彼女を守るヴィクターに当たる手前でピタリと静止した。
空中に浮かぶ花瓶に、アンジェリカは愕然としている。
(幽霊たちがそばにいるんだわ……!)
最早デイビーズ家にとっては当たり前になった怪奇現象。
けれど、部外者のアンジェリカを恐慌状態に陥らせるには充分だった。
「なっ、な、どういうことよっ! やっぱりこの屋敷は呪われてるってわけ……?!」
腰を抜かし震えるアンジェリカへ追い打ちをかけるように、ケタケタと調子外れの笑い声が響き、窓やテーブルがガタガタと揺れ始める。
『去れ……去れ……騒がしい娘よ……』
『呪ってあげる! 呪ってあげる!』
『アンタも呪ってあげる!』
地の底から響くような不気味な声と、呪いの言葉。
何重にも聞こえる哄笑と共に、宙で止まっていた花瓶がアンジェリカのほうへ勢い良く向きを変える。
「ひっ、ひぃぃっっ!!!」
ばしゃんっ!
四つん這いの姿勢で逃げ出そうとしたアンジェリカの頭へ、花瓶の水が降りかかる。
それでもなりふり構わず、アンジェリカはずぶ濡れの髪のままデイビーズ家の屋敷から去って行った。
ディアナはその後ろ姿をなんとも言えない気持ちで見送る。
(これに懲りて、アンジェリカもお父様も変わってくれるとよいのだけど……)
いつの間にか幽霊たちの哄笑は止み、代わりにディアナを慰めるように蝶の幻が舞っている。
「怪我はないか? 君を守るのが遅くなってしまってすまなかった」
「ヴィクター様はちゃんと守ってくださいました。ありがとうございます。……それに、その、婚約者だなんて嘘までつかせてしまって、こちらこそ申し訳ないです」
「……さっきの言葉を本当にさせてほしいって言ったら、君は困るかなディアナ」
「……え?」
驚いて見上げると、ディアナを見つめるヴィクターの瞳は甘く蕩けるように優しい。
「ディアナ。俺と、結婚してくれませんか」
「っ、はい……!」
求婚を受け入れたディアナの唇へ、ヴィクターの唇が重なった。
周囲には、祝福するように色とりどりの花弁が舞う。
花弁のカーテンの向こうに、嬉しそうに微笑むヴィクターの両親の姿が見えた。
その後、アンジェリカがデイビーズ家の悪評を吹聴するかもしれないと心配していたディアナだったが、それは杞憂に終わった。
実際、デイビーズ家が幽霊の出る呪われた屋敷だというのは本当だったと、アンジェリカは騒ぎに騒いだ。
しかしその結果、なんと逆に見物人が押しかけ、デイビーズ公爵領の観光に好影響をもたらしたのである。
更には、いい意味で有名になったデイビーズ家で働きたいという人までが殺到。一気に屋敷の人手不足が解消することになった。
「……まさか、こんなことになるなんて驚いたな」
「本当に人生って何が起こるかわからないですね。おかげで私はメイドの仕事がなくなってしまって、ちょっと暇です」
「君にはデイビーズ公爵夫人という仕事があるだろう。俺の可愛い大事な奥さん」
ヴィクターはディアナの耳元で甘く囁き、彼女の頬へキスをした。
*
お読みいただきありがとうございました!
お気に入りユーザ登録、ブクマ、評価(★のことです)とても励みになります♪
SNSでの読了やレビューも大歓迎です!