444:水園、水底、語り合う
年の瀬も迫る中。
その日、スズは『ナルキッソスクラブ』のある階に設けられたアビスの神殿に、自身の仮面体を模した衣装を纏って訪れ、祭壇の前で跪いていた。
周囲にスズ以外の人影は無く、音も空調などの機械の音が響くだけの状態。
「本日はお時間を割いていただき、誠にありがとうございます。アビス様」
そんな中でスズは口を開き、アビスに対する挨拶をした。
それに対するアビスの返事は……。
『え、どうした? 水園涼美。悪いものでも食べたのか? それとも、あの女神の恩寵著しい男に悪い虫でも着いたのか? 精神攻撃は受けていないようだが……いったい、なにがあった?』
困惑に満ちた物だった。
それも、心の底から理解できないというのが、声だけでも伝わるくらいには迷いに満ちていた。
「……。アビス、偶には真面目に応じようかなと考えただけなんだけど、そんなに合わなかった?」
『他の普段から敬虔な者がやるならば、我としても素直に受け取れるが、貴様がそれをやると、正直に言って困惑が勝る。普段通りにしろ』
「分かった。じゃあそうしようか。あ、悪いものは食べてないし、ナル君周りについては何もないよ。精神攻撃は分からないけれど」
『そうか』
アビスの反応を受けて、スズは直ぐに普段通りの態度に戻す。
『それで何の用だ?』
「基本的にはいつも通りの定期的な交流みたいなものかな。ただ、先日の『ペチュニアの金貨』の件でアビスは悩んでいて、その悩みの形がある程度まとまったかなと思って声をかけたのもあるね」
『そうか。確かにちょうどいいタイミングではあるな』
アビスの存在感が話をしやすいようにと、祭壇上の水槽へと集まっていく。
スズも座り方を少し崩して気安い雰囲気を作り出しつつ、しっかりと話を聞くつもりがあると示すために水槽を正面から真っすぐに見つめる。
『『ペチュニアの金貨』の件の後に女神が語った事を、我は我なりに検証し、検討し……あの言葉に嘘は無かったと判断した。我の身を構築しているのは魔力だ。そして、今この世界において魔力とは人間が発したもの以外にない。だから、我と『ペチュニアの金貨』の意思、奴は……少なくとも人間よりはよほど我に近い存在なのは分かった』
「うんそうだね。でも……」
『ああそうだ。我は人間を害そうとは思っていない。そこは大きな違いだ。人間に対して報復の感情を抱こうとも思っていない。ただ人間を守るもの、水園涼美のようにコミュニケーションが取れる相手なら少し贔屓をしようかなと思うくらいだ』
アビスの言葉を聞きながらスズは考える。
アビスとペチュニアには人間に対する感情に大きな違いがある。
それはきっと、二人が生まれるまでに得た魔力の差に由来するものなのだろう。
アビスは誰の者でも無くなった魔力が深海と言う場所に集う事によって自然に生まれた。
だから、自分の存在を守るために、人間なら誰でも守ろうと考えるのかもしれない。
信徒を贔屓するのは……まあ、コミュニケーションが取れる相手と取れない相手なら、取れる相手を優先してしまうのは、自然な事だとは思う。
ペチュニアはガミーグの常識や考え方、それにペチュニア・ゴールドマインに対する意思を核として、『ペチュニアの金貨』にされた人たちの魔力によって無理やり生み出された。
だから、そこには人間に対する害意が満ちている。
それこそ、見た目は少女であったけれど、中身は殆どガミーグのコピーだったのかもしれない。
『ただそうして知識を得たからこそ思う。さて、我以外の神は何処に居るのだろうか、とな。少なくとも海の中には神は居ない。我だけだ。地上には……時折それらしき気配を感じる事はある。だが、我どころか『ペチュニアの金貨』の意思ほどの強度を持つ者すら稀で、次に近くを探った時にはもう何もない場合も多い』
「そこの知識は……残念ながら私には無いかな。一度人間が魔力を発する力を失った間に、神々は何処かへ行ってしまったのではないか。と言うのが主流の学説ではあるみたい」
『何処かに、か。我が把握している限り、痕跡すら全くないのだがな。人間たちの神話を見る限り、綿津見神、ポセイドン、ティアマト……海の神はそれなりに居るはずなのだが、神話通りの規模なら残っているべき残滓すら無いのはどうなっているのか……』
「……。それ、地上も同じ?」
『我が感知する限りでは同じだ。今この世界はあのいけ好かない女神を一番上としているが、その次に来る実力者は我が感知する限りでは我になってしまう。他の神々は残滓すら感じない。神殿と呼ばれる場所ですらだ。だから我はこの点についても女神が何かをしたと考え、訝しんでいるわけだが……』
「……。ゴメンアビス。その件については私は何も分からないかな。でも燃詩先輩には伝えておくね」
『分かった』
続くアビスの言葉にはスズは困惑するしかなかった。
あるべきものが無いというのだから、何かが起きている事は間違いないのだけれど、スズの知識では相談に応じる事も出来そうになかった。
「でもこうして話をしていると、やっぱりアビスは『ペチュニアの金貨』の意思とは似ても似つかないね」
『そうなのか?』
「うん。アビスも『ペチュニアの金貨』の意思も素直と言えば素直だけれど、アビスには自分の意思があるというか、おかしいと思った時におかしいと返せるだけの意思と知性があるよね」
『そうだな』
「それは自分がしっかりあるという事。覚えておいて、他の全てが怪しい物であっても、それを考えているアビス自身は明確に存在している。って」
『なるほど。覚えておこう。ところでそれは……『我思う故に我あり』と言うものではないか?』
「うん、それだよ。いい言葉だよね」
『まあ、いい言葉なのは認めよう』
だからスズはアビスの存在が不確かになる事だけは無いように、それの手助けとなるような言葉や考え方をアビスに伝えていく。
アビスの目的は女神の支配を終わらせる事、少なくとも抗えるようになる事。
今の女神頼りと言う、あまりにも不健全な世界の状況を変える事。
その目的が達成できるようになれば、ナルの安全にも繋がると考えて、スズは言葉を重ねていき、情報を集めていく。




