260:女神アビスとは
「……。聞いたことは無いはずだ」
俺はスズの『アビスと言う神様の話を聞いたことがあるか』と言う質問に素直に返す。
俺の知識にある神様と言うと、世界的に有名な宗教の中でも有名な話が精々で、その中にアビスと言う名前は存在していない。
後は……女神だな、今の世界でもっとも有名な神と言ってもいい神様だろう。
「一応確認しておくが、アビスと言うのは、女神とはまた別の神様って事でいいんだよな?」
「うんそれでいいよ。ついでに言えば、女神がアビスの事をどう思っているかは分からないけれど、アビスは女神の事を不倶戴天の敵くらいには思ってる。ただ、アビスが人間の味方である事も確かだよ」
「なるほど」
スズは……まあ、全部は話していないだろう。
元々、厄介な話と言っているような案件なのだから、漏らすわけにはいかない話とかも混ざっているはず。
だから、俺も迂闊かつ無闇に深入りはしない方が良いだろう。
しかし嘘は言っていないと思う。
今ここで嘘を吐く理由は見当たらないし、スズが俺に嘘を吐く事も考えづらいからな。
よって、アビスは女神の敵であるけれど、人間の味方である、と言う立場であることは疑わなくていいと思う。
「それで……うーん、何処から話せばいいんだろう? 色々と裏側の話なんだよね……」
「そう言う事なら、スズ、綿櫛たち、縁紅が使ってた力の件について頼む。今ここで話題に出して、力の根っこが同じだと言うのなら、あの三件はどれもアビスの力だったと言う事なんだろ?」
「うん、それについてはナル君の言う通り。ただ、詳細はそれぞれちょっとずつ違うけどね」
スズ曰く。
あの黒い魔力はアビスから借りた魔力であるらしい。
どれだけの量が借りられるかは人それぞれであるが、借りたものである以上は当然ながら返済義務が存在する。
そうであるから、スズや綿櫛たちはマスカレイド解除後にしばらく魔力が回復し無くなったり、気絶したりすることになったようだ。
まあ、これは当然と言えるな。
「私は……正規ルートと言えばいいのかな? アビスと具体的な取り決めをして、ギブアンドテイクで行けるようにしている形だから」
「なるほど」
で、スズは特に問題ないようだ。
こうして話していても、不安や心配があるようには感じられない。
本当にギブアンドテイクが成立しているらしい。
「縁紅は?」
「縁紅はたまたまアビスの囁きを聞いて、銃弾一発分の魔力だけ偶然借りた感じかな。だから、返済も一瞬で終わったし、その後のアビスとの付き合いは無いと思うよ」
「ふむふむ」
縁紅は偶々と言うか、気まぐれみたいなものだったらしい。
確かにその後、あの黒い弾丸を使った姿は見ていないし、アビス側の気まぐれみたいなものだったのだろう。
まあ実際、スズと縁紅の件については、社会的には何の問題もないんだろうな。
真っ当な決闘の最中に、本人が了承した範囲で、女神が問題視しない外部からの助力があった、ぐらいの話だろうし。
「綿櫛たちは?」
問題は綿櫛たちの件だ。
他の件と違って、この件は殺人未遂だ。
被害者の俺が口に出すまでもなく、普通に問題である。
「あの件は……たぶん、仲介があったんだと思う」
「仲介?」
「うん。そもそも綿櫛たち自身はアビスの声が聞こえていないし、存在も認識していない。だから、本来ならばアビスの力を借りる事も出来ないの。これは確実」
「なのに若良瀬島では使ってきたな」
「うん。実を言うとね、あの場に居たハモと言う男もアビスの信徒の一人だったの。だから、ハモを仲介人とする事で、アビスの存在を知らない人間でも力を借りられるようにしたんじゃないかな。だから仲介なの」
「なるほど」
ハモか……あの男もスズと同じように、アビスと言う神様の力を借りられる人間だったのか。
そして、何かしらの技術を以って、アビスの力を綿櫛たちも借りられるようにした、と。
「ただ……綿櫛たちが結界を張らず、殺意も露わにしてナル君に襲い掛かったのは、ハモとしても想定外だったんじゃないかな? アビスは確かにナル君の事を嫌っているみたいだけど、殺意を示すほどじゃないし」
「え……」
なんか色々と衝撃的な事を言われた気がする。
いやでも、アビスは人間の味方だと言うのなら、俺が死ぬような行動をさせるには確かにおかしい。
だから、ハモにとっても、アビスにとっても、あの事件は想定外だったと言う言葉は……分からなくもない。
しかしそうなると、俺は綿櫛に殺されるほど怨まれて……いるなぁ……。
自分より美しいものなど死んでしまえとか、あの一件の時に言っていた気がする……。
と言うか、だからこそ綿櫛たちは殺人未遂で捕まっているのか……。
いや、綿櫛なんてもう捕まっている人間はこの際どうでもいいな。
それよりもだ。
「俺、アビスに嫌われてるの?」
どうして俺がアビスに嫌われているのか、こちらの件について知る方が重要だ。
神様に嫌われるだなんて、洒落にもならない。
「嫌われてる。何なら今も『女神の寵愛著しい者の分際で……』とか言いながら、グルグルと唸って、ナル君に威嚇してる声が聞こえてきてる」
「ええ……俺、何かしたか?」
「うーん、これについてはナル君が初めてマスカレイドをしてからなんだよね。心当たりは?」
「そう言う事なら思いっきりある……」
でもその原因が初めてのマスカレイドの時に女神に会ったからっぽい、となると……どうにもならないです、はい。
「まあでもアレだよな。嫌われているだけで、特に不利益はないよな」
「うん、それはないはず。色々と勘違いしたのが決闘を仕掛けてくるのが精々だと思う」
「そ、そうか……」
つまり、今後もアビスの助力を得た人間から決闘を挑まれる事は少なからずある、と。
あー、でも、考えようによっては、それが来ることを前提に立ち回れるようになるから、今ここで知れたことは悪い事じゃないか。
うん、そう言う事にしておこう。
「その、ナル君。アビスの事はナル君としては思うところも色々とあると思うんだけど……」
「あー、それは大丈夫。神様なんだろう? だったら、人の論理を無理に当てはめようと言う方が無理があると思う。それに聞いている限りでは、公平な取引をしてくれるし、人の死を好まない神様みたいだしな。そう言う神様なら、俺個人との仲は反りが合う合わないの範疇の話で、そう言う相手も居るで終わりだよ」
「ナル君……」
で、アビス個人? いや個神様? まあ、個人にしておくけど、アビス個人については、特に思うところはない。
と言うか、スズから話を聞く限りでは、極めて真っ当な部類の神様に思える。
比較対象が古代の、生贄を求める神とか、戦乱を求める神とか、女を浚うためなら何でもするような神とか、街一つ容赦なく滅ぼすような神とか、だからなのかもしれないけれど。
しかしこうなると逆に疑問が湧くな。
「なあスズ。どうしてアビスの名前が知られていないんだ? 女神と敵対していても、これだけ真っ当な神様なら、もう少し名前が知られていてもおかしくないと思うんだが」
「うん。ナル君もそう思うよね。その辺り、私も詳しくはないんだけど……現状で広められないのは、アビスの名前を勝手に使って自分の欲を満たしている連中が居る、と言うのがあるかな」
「あー……なるほど」
どうやら、勝手に名前を使っている連中が居るらしい。
魔力を使った犯罪なら、女神が速攻で処罰しているのだろうけど、それが行われていない辺りに、本当にアビスの名前だけ勝手に使っている気配が凄くする……。
後、今の言葉の最中のスズの様子からして、たぶん、もう少し詳しい事情をスズは知っているな。
スズが話さない方が良いと判断した情報だから、問わないでおくが。
「でもそう言う事なら、体育祭の後に言った……」
俺は体育祭の後に言った、後遺症があるような力は無しだと言う話を部分的に撤回しようと思った。
が、そんな俺の言葉を遮るように、スマホにメールの着信があった。
「あ、待ってナル君。緊急のメールみたい」
「みたいだな。俺の方にも来た」
それも普通の着信ではなく、緊急の要件である事を示す、特別な着信音だ。
この緊急と言うのは、授業中なら授業を途中離脱しても許されるレベルのものなので、確認しない訳にはいかないだろう。
だからスズも俺もメールに目を通して……目を見開く。
「緊急の決闘要請って……」
「国からの依頼。しかも特別な事情が無ければ断れない奴だね」
メールの内容は、国を依頼主とした決闘への参加命令。
しかも……。
「一時間後とは、幾らなんでも急すぎる」
この後すぐに行われるから、急いで決闘場所へ来るようにと言う指示付きだった。