231:激昂する深淵
「ぶはっ!」
ナルたちがホープライト号に乗って本土へ向かっていた頃。
本土のとある海岸にて、人目を避けるように一人の男が海から這い上がった。
「はー、しんどいですね。私の歳で遠泳などやるものではありませんね」
男の名はハモ。
所属は『ノマト産業』と言う『コトンコーム』社の参加企業の一つであり、『コトンコーム』社が関わった揉め事を解決するための人員。
ホープライト号の船内で綿櫛たちにデバイスパーツを与えた後、とある方法で以ってこの場まで逃げて来た男である。
綿櫛が『コトンコーム』社の社長の孫娘であり、社長から溺愛されているにも関わらずだ。
「さて、これからどうしましょうか。『コトンコーム』社は確実に荒れるわけですし、これを機に日本政府にでも……」
『そうですね。政府に貴方の技術を持ち込めば、確実に貴方の身の安全を保障してくれる事でしょう』
そんなハモに声をかける人物……否、存在が居た。
「これはまた、大物が出てきたもので。私のような木っ端な小物相手なら、手の者に任せてもよかったでしょう? 女神様」
『こんにちは。なみ……いえ、ハモ』
女神である。
その肉体は変わらず太陽のように輝いていた。
だが、自身がここに居る事をハモ以外の人間に教えないようにするためか、その光は途中で闇に飲まれ、周囲には行き届いていない。
『しかし、木っ端な小物とは……謙遜も過ぎると嫌味ですよ』
「実際嫌味ですよ。ええそうですとも。何処からともなく現れて、私の本名も知っていて、それでいて通称の方を気遣ったかのように敢えて呼ぶような、得体の知れない存在である貴方を嫌わない理由が無い」
『これはまた、嫌われたものですね。そして自棄の類ですか? 私に貴方を処分するつもりはありませんよ』
「処分する気が無い?」
女神の言葉にハモは眉根を顰める。
ハモは自分が真っ当な人間でない事を認識している、厳密に法に照らさずとも牢に入れるには十分な行いをこれまでしてきたと言う自覚もある。
だから、女神が自分の前に姿を現したのなら、その時は自身の終わりと思っていたのだが……あろうことか、女神は処分する気が無いと宣言した。
『と言うより、処分する理由がありません。むしろ感謝を伝えたいくらいです。貴方のおかげでアビスの成長は間違いなく加速する事でしょう。ありがとう、ハモ』
女神はハモに微笑を向ける。
それに対してハモは自分の懐に入れてある、自分用に作った深藍色の宝石を無意識的に触り、どのようなものかを思い出していた。
ハモはアビスの力を借りて、深藍色の宝石を作り出すことが出来る。
その宝石は言わばアビスとの仮契約ツールであり、相性もあるが、マスカレイド発動と同時に自身の魔力を2倍から3倍程度に増やし、圧倒的とも言える力を一時的に得る事が出来る。
デメリットはアビスから借りた魔力を利子付きで返済するまで魔力が回復しなくなることに、大量の魔力を無理やり流す事によるデバイスの破損、大量の魔力を得たことによる全能感や多幸性に理性が飛んだり依存してしまう可能性がある事。
これらは決して軽いデメリットではない。
ハモはそう考えていた。
だが、ハモがそう考えている事を知った上で女神は本心から言い切る。
『ええ本当に。本当に貴方は素晴らしいものを作りました。誇ってください。貴方の発明は素晴らしいものです』
心の底からの称賛を。
譲れない物を賭けて戦う決闘を、その程度のデメリットで制する事が出来るのなら些細の問題である。
なんならもっとデメリットを重くしたって私は問題にしない。
そう言わんばかりに。
「ぺっ、本当に……本当に気に入りませんね。結局そう言う事ですか。私たち人間が血反吐流して醜く争うのを見たくて見たくて仕方がないのですね。邪神め」
『私は自分が善なる神だと名乗った事は一度もありませんよ。そして、私程度で邪と言われるのも心外です。決闘が好きなのは事実なので否定しませんが』
ハモは軽蔑の視線を女神へと向ける。
対する女神は少し困ったように言葉を返す。
空気は張り詰め、一触即発と言っても過言ではないものになる。
勝算はない。
けれど、傷一つくらいは付けて見せると、ハモはマスカレイドの発動準備を始める。
『まあそれはそれとして、今日私がここに来たのは、その宝石の褒美代わりに、貴方に情報を渡すためです』
「情報?」
そうして張り詰めた緊張感は……。
『貴方が唆した者たちはマスカレイドを利用した殺人未遂を起こしました。どうやら、一人が先制攻撃するべきだ、殺すのが分かり易いと言う形で更に唆したようですね』
「……」
ハモの、何をしてんだ、あのバカお嬢様たちは、と言いたげに天を仰ぐ動作と共に霧散した。
『幸いにして、その攻撃は凌がれました。その後、四人ともに拘束。現在、更に唆した一人以外は目を覚ましています。ただ、状況が殺人未遂となってしまったので、あの四人を唆したことになっている貴方にも警察の手が回る事になっていますね。当然、『コトンコーム』社とその関連企業も捜査対象です』
「……」
ハモは頭が痛くなってきていた。
と同時に、そう言えば、結界を張ってから攻撃を仕掛けるように、とは言ってなかったなと思い出す。
『殺意については彼女たち自身のものである。私は証言を求められれば、そう出します。事実ですので。決闘の範疇で済ませなかったのは、彼女たち自身の問題です。さて、この情報を知って貴方はどうしますか? ハモ』
「……。当初の予定から少しズレますが、身を隠させてもらいます。その、今はまだ捕まるわけにはいきませんので」
『そうですね。それが良いでしょう。ではこれを。この国の諜報機関と繋ぎを取るための手段です』
「受け取らせてもらいます。他ならぬアビス様の為にも」
『貴方の今後の活躍にも期待していますよ、ハモ』
女神はハモにメモ用紙を渡すと、そう言い残してその場から消え去った。
「はぁ……今回の件は私個人としては完全な失敗ですね……。もしも、あの場で死人が出ていたら、私の振る舞いでアビス様を邪なるものにしてしまうところだった……」
『……』
「ええ、分かっています。言葉として理解できずとも、気遣っていただけているのは分かります。ですが、貴方様が女神に対抗するための力を得るためにも、魔力さえあれば何をしても許されると思っている連中を打ち倒すためにも、私は前に進みます。地べたを這いずろうが、泥水を啜ろうが、前へと」
そして、ハモもこの場を去っていく。
残されたのは、海水で出来た足跡だけだった。