230:夏季合宿六日目・帰路の船上にて
「……」
夏季合宿六日目……より正確に言えば、中止となった夏季合宿の場から学園へと帰る途上。
戌亥寮の生徒たちを乗せたホープライト号は、若良瀬島から本土に向かってゆっくりと進んでいた。
予定では明日の朝には本土の港に到着し、そこからは通常の日程通りより少し早めになるが、バスで学園まで戻る事になる。
つまり、今日がホープライト号で過ごす最後の夜と言う事になる。
「さて、どうなるでしょうか」
そんな夜に、イチはデッキ上のプール近くにあるフリースペースで一人立っていた。
その表情は物憂げで、悩みの色を隠せていないものだった。
「何がどうなるんだ?」
そこへナルが現れて声をかける。
その表情は落ち着いたものではあるが、少しだけ気が張っているものでもあった。
「ナルさん。どうしてここに?」
「どうしても何も、今日も体術訓練はあるんだろう? まあ、刑事さんたちから疑いの目とか向けられても困るから、だいぶ緩くしないと拙いだろうけど」
「そう言えば……そうでしたね」
ただ立っているだけのイチに対して、ナルは軽い準備運動を始める。
「悩み事か?」
「……。悩み事と言うよりは心配事でしょうか。今回の一件では、イチは護衛として満足に働けたとは言えませんので」
「あの状況でやれることはやったと思うけどな、俺としては」
「ナルさん、それにスズたちならそう言ってくれるし、本心からそう思ってくれるのは分かります。けれどこれはイチの心と……天石の家、それと日本国の諜報を司る一派の評価の話なので」
「……」
ナルは準備運動を止めると、真剣な顔をして、次に紡ぐべき言葉を考え始める。
その表情をイチが窺う事は出来ない。
イチの視線はホープライト号の舳先へと向けられていて、ナルに対しては背を向けているからである。
「最悪の場合、イチはナルさんの護衛から外されるかもしれません。もしもそうなったら……」
「じゃあその時は天石の家か、日本の諜報を司る一派とやらか、とにかく責任者の所へ殴り込みだな」
だからイチの言葉は遮られた。
自信満々で、躊躇いなど何処にもない、もしもその時が来たのなら本気で事を起こすと、その意思を魔力によって音に乗せたナルの言葉によって。
「ナルさん!?」
「そうならなければやらないから大丈夫だ。なったらやるけどな。スズもマリーも……なんなら護国さんもきっとその時は協力してくれるだろう。誰も手伝ってくれなくてもやるけどな」
「なんで……」
「なんでって……入学から今までずっと付き合いがあるんだぞ。今更イチ以外に体術を教えてもらおうとは思えない。護衛や防諜についても、イチはこれまで自分がそういう存在だと匂わせはしても、俺に実感させないように仕事を全うしてくれていた。これだけの仕事が出来る人間が他にそういるとは思えない」
ナルは指折りしながら言葉を紡いでいく。
「と言うか、単純な話として、見知った相手が居なくなると言う時点で多大なストレスになるからな。それも本人にはどうしようもない理由で以って、嫌々にだぞ。もしも、それを良しとするような組織なら、後の為にもぶん殴らないと、何をしでかされるか分かったものじゃない」
「それは……そうかもしれませんね」
「そういう訳だから、イチ。俺はイチが自分の意思で離れていくわけでないなら、断固として反対の立場を取らせてもらう。もしも今回の件で何か文句を言う奴が居るのなら、じゃあお前らはあの状態のツインミーティア相手に何が出来るんだと、決闘でぶん殴ってやる」
ナルの目算であるが、黒い魔力を纏っている状態のツインミーティアたちは、それぞれが魔力量にして2000近い魔力を持っていた。
それは魔力量甲判定の中でも有力な人間……護国並みの魔力量になる。
そんな相手が四人同時に襲い掛かって来たのだ。
これを一人でどうにか出来ると言った人間がもしも居たのなら、その人物は間違いなく周囲から鼻で笑われる事だろう。
とは言え、今回の綿櫛たちがそうだったように、世の中には思いもよらない人間も居る。
今回の件でナルも、イチも、この場には居ないスズとマリーもそれは理解させられた。
だからこそのナルの言葉であった。
「イチ。俺は守りたいものを守るぞ。そして、その中にはイチの事ももう含まれている。だから、何か困った時は遠慮なく俺の事を頼れ。何でも出来るわけじゃないが、出来る範囲では必ず助けるからな」
ナルはイチに近づいて、手を差し出す。
「……。はい。もしもそうなった時はよろしくお願いします」
イチは振り返ると、ナルの手を握り、笑顔で返した。
「それではナルさん」
「ん?」
「折角ですので、今日の体術訓練を始めましょうか」
「分かった。よろしく頼む」
月明りとデッキ上を照らす照明の中で、イチとナルはまるで舞い踊るように、お互いの動きを確かめるようにゆっくりと技を交わし合う。
その様子は師弟のようでありながら、仲のいい男女が踊っているかのようだった。
「……」
そうして訓練を積み重ねていく中でイチは思う。
もしも今回の件で実家とその周辺が何かを言いだしてくるのなら……その時はナルたちと協力して、徹底的に事を起こそう、と。