203:夏季合宿三日目・深淵の邂逅
時は少々遡って。
ホープライト号船内にある、マスカレイド用デバイスのメンテナンス設備前。
スズが偶々そこを通りがかった時だった。
「例の物の調子はどうですの?」
「順調です。予定通りになら、お渡しは出来ると思います」
綿櫛とその取り巻きたち、そしてハモと名乗っているメンテナンススタッフが、ブースの一つを使って堂々と会話をしていた。
ブースと言っても、衝立を立てて、左右からの視線を遮るだけの簡易的なものであり、会話を遮る事は勿論の事、誰が居るかも隠せないようなもの。
だから、偶々通りかかったスズが綿櫛たちに気づくのも、その会話が聞こえてくるのもおかしな事ではない。
しかしと言うべきか、けれどもと言うべきか、だからこそと言うべきか、スズは面倒事の気配を察した。
綿櫛とその取り巻きたちの誰か一人でも自分の存在に気づいたのなら、騒ぎ立てそうだと。
だからスズは別ルートを通ってナルの下へと向かおうとした。
「ではお願いします。くれぐれも遅れないように。もしも遅れたら、その時は覚悟しなさい」
「ええ、分かっています。ですから、くれぐれもお嬢様方も騒ぎ立てないようにお願いします」
だがその前に綿櫛がブースから出て来る。
そして、スズと目が合って……。
「分かっていますわ。行きますわよ」
認識すらせずに去っていく。
残ったのはほんの微かな魔力の残り香、それもスズにとっては良く見知ったものだった。
これだけで、スズにとっては今の綿櫛がどんな状態にあるかを察するには十分な証拠だった。
「ハモさんだっけ」
「ええそうです。此処のメンテナンススタッフの一人で、ハモと言います。あっちで話しましょう」
加えて、以前の『パンキッシュクリエイト』の件で調べた時に得た情報がスズの手元には存在している。
それも合わせれば、誰がしたのかまで明らかだった。
「貴方もアビスの信徒で、しかも『扇動』の類を綿櫛に使った感じ?」
「流石にバレてますか。ええまあ、『説得』はしました。女神もお目こぼししてくれている程度なんで、貴方も見逃してくれますと助かります。同じ信徒として」
スズとハモは個室に移動して話を始める。
まず確認し合ったのは、お互いがアビス信徒である事。
「うんそうだね、見逃すのは私としても構わないよ。あのお嬢様相手だと、そうでもしないと落ち着かせることなんて出来やしないだろうし」
「ご理解いただけて何よりです」
次に、ハモがアビスの力を利用して綿櫛に何かしている事をスズが見て見ぬフリをするかどうか。
これについて、スズは頭の中で出来るだけ冷静に計算をして……先ほどの様子を見る限りでは、ハモの力の影響下にあった方が誰にとっても安全であると判断、見なかった事にするとした。
『珍しいな。水園涼美が燃詩音々以外の我が信徒と会っているなどと。コイツは……』
不意にアビスの声がスズとハモの二人にだけ聞こえるように音量を絞られて響く。
「アビス。それ以上は無し。信徒の個人情報は同じ信徒だからと言って容易に明かしていいものじゃないって、前に言ったよね?」
『む? そうだったか?』
「先に言っておくけど、彼が何をしようとしているのかも明かさなくていいから。神様だからこそ、信徒から受け取った願いは秘密にしないと。あまりにも口が軽いと、信じてもらえなくなるよ」
『そうか。では話さないようにしておこう』
が、アビスがその先を語る前にスズが止める。
その口ぶりはまるで母親や姉が幼子に言い聞かせるような物。
「水園さんはアビス様の声がはっきり聞こえるんで?」
「ん? はい、そうですけど?」
「羨ましい事で、私は既に十年以上アビス様に仕えていますが、御声をはっきりと聞くことは叶っていませんので」
「そうなのですか」
そんなスズの語り口を聞いたハモの口調はどことなくトゲがあり、嫉妬が滲んでいるものであると同時に、アビスへの敬意は明らかな物。
スズはそこからハモと言う人物は狂信者ほどではないけれど、アビスに傾倒気味ではある人間だと認識する。
「ええ。だいたいのニュアンスは伝わっていますし、恩恵も授かっていますが、細かいところまでは分からないのです。魔力が足りないのか、素質の問題なのか……とにかく、我が身の不徳と申すしかありませんね」
「……」
『何故だろうな。どうにも伝わりやすい奴と伝わりにくい奴がいる。人間からの想いは魔力と共に伝わってくるのだが……』
ただ、女神の怒りに触れる事、法に反する事をきちんと嫌っている点からして、一線を越えるような振る舞いをしないだろうとも判断する。
現に『パンキッシュクリエイト』の件では、極めて合法的に事を進めていた。
綿櫛のせいで色々とご破算にもなったようだが。
「アビスとの仲介、あるいは翻訳の類でもした方がいいですか?」
「いいえ、不要です。私は、私の力とアビス様の御力で目に物を見せてやりたいので」
「そうですか」
スズの提案をハモは一蹴する。
その目に浮かんでいるのは、やはり嫉妬あるいは渇望の類であり、どことなくほの暗いものでもある。
「私のしようとしている事を止めようと思わないので?」
「女神の引いた一線を越える気はないのでしょう? だったら、私は止める必要が無いと判断します」
「それはどうも。なら予定通りにやらせてもらうんで、受けて……吠え面をかいてください。盛大に」
「やれるものならやってみせてください。私は受けて立ちますから」
ただそれでも破滅的なものでは無く、建設的なものであるとスズは判断。
だから、スズはこの場を後にして、予定より遅れてしまったが、ナルの下へと向かう事にした。
『うーん、我が信徒同士が争ってしまっているように見えるのだが、こういう時はどうすればいいのだろうか?』
「どちらにも乞われた程度に助力すればいいと思うよ。それで負けたからと神を恨むのは筋違いもいいところだし」
『乞われた程度にか……』
「ギブアンドテイクは徹底するべき。与え過ぎも貰い過ぎもよくないってのは、神様も人も変わらないはずだから。アビスの最終目標も考えるのなら、なおの事。力を蓄えるためにも、自分も相手も満足するように動いた方がいいよ」
『ふむふむ……』
なお、向かう道中でスズはアビスに対して語り続け。
「ふうむ。メリットを伸ばすべきか、デメリットを減らすべきか……。相手があのナルキッソスですからね……。少しでも勝ち目を得るためには……」
その場に留まったハモは深藍色の宝石に機械をくっつけたパーツを前に唸っていた。