第一章 異郷 8
8
クシナらの言う「マツリ」とは、一年の実りを土地にあまねくひそむ「モノ」に感謝し、次の年もつつがなく実りをくださるようにと願う、その一連の行動のことである。
なにせ二千年――2500年以上も前のことであるゆえ、神道すらろくに体系づけられておらず、マツリもおそらく、「宗教的祭祀」と呼ぶにはほど遠いものであったと思われるが、それでも「祈り」はおそらく存在した。
大いなる自然の中で自らが「生かされている」ことを実感し、その僥倖に感謝し、これからもこの世の片隅に自らが長らえ続けられるよう、いただいた恵みの幾分かを捧げ、そしてその恵みを皆でいただく……そんなかたちでの「祈り」は、ヒトがサルから別れ、猛獣に狩られる側から狩る側へと傾きはじめた数万年前から、おそらくあったはずだ(ラスコーやアルタミラなどの洞窟壁画などが、雄弁にそのことを物語っている)。
中でも、酒は重要だった。
なぜ、酒が重要なのか。
たとえば、こんな話がある。
今から一万年ほど前、メソポタミア地方。
農耕がはじまったとされるこの時代、他の作物とともに小麦は最初期の栽培植物として、畑で育てられていたことが、発掘により分かっている。
意外なことに、この時代の小麦は、栽培に非常に手間のかかる植物だった。
小麦の原種はメソポタミア地方に自生していた「ヒトツブコムギ」「フタツブコムギ」と呼ばれるもので、これらの小麦は、現在の栽培種とは違い、種子が生育するとともに一粒ずつ、あるいは二粒ずつ、自然に穂から離れ、地面に落ちてしまうのだそうだ。
考えてみれば、実った種子をいつまでも穂につけたままにしていても、植物にとって何のメリットもない。実がなり、成熟した端からどんどん植物本体から切り離し、種子を撒布した方が、生存する可能性が上がる。鳥やサルなどといった動物に果実を食べさせ、種子を運ばせる植物以外のほとんどがこの戦略を採用していることからも明らかなように、種子は実ったら速やかに地面に落とした方が、生存戦略上、有利なのである。
ところが、栽培する側にとっては、これ以上面倒な性質はない。
穂先は早く、穂の根元はそれに遅れて熟するようになっていたため、種子が熟した頃を見計らって、小麦本体を一挙に刈り取り収穫する、という方法だと――発掘された石器から、この時期の人類も、このような収穫法を採用していたこと分かっている――先に熟した穂先の種子は、既に地面に落ちてしまっているか、あるいは収穫している最中にちょとした衝撃でバラバラと地面に落ちてしまうのだ。
収穫後には「落ち穂拾い」――地面に落ちた種子を拾い集めるという作業をしたと思われるが、実った種子のうち、かなりの数が落ちてしまっているため、それらを拾い集める手間は、相当なものであったに違いない。
しかも、当時の小麦はそれほど穂先が大きいわけでもなく、手間暇かけて栽培したとしても、それほど多くの食料が得られるわけでもない。その上、ようやく育て上げた種子が、そよ風とともに片端から地面にこぼれ落ちてしまい、後からそれらを手間暇かけて拾い集めなければならない、というのでは、むしろ育てるだけ無駄、その分の労力を他の植物――例えば、当時既に実っても穂先から種子が離れない性質を獲得していたオオムギ――にかけた方が、よほど多くの食糧を手に入れられるはずである。
にもかかわらず、当時のメソポタミア人たちは、オオムギとともに、小麦をも栽培し続けた(おかげで、千年ほど後、穂先から種子が離れない性質を持った品種が見つかり、人類の主力作物の一つになっていくのだが……それはさておき)。一体なぜ古代メソポタミア人は、栽培にこれほど手間のかかる小麦を見捨てることなく、粘り強く栽培し続けたのか。
その謎に応える有力な仮説の一つが「ビール」である。
古代メソポタミア人たちは、小麦から醸造酒――ビールを造っていた。そして、そのビールを得るために、手間暇のかかる小麦を栽培し続けていたのではないか、というのである。
なぜ、それほどビールが重要だったのか。
一つには、それが栄養を豊富に含んだ「栄養剤」的な飲み物であり、あまり飲用に適した水が得られないこの地方では、飲料として重宝されたから、ということがある。が、それよりも大きな理由として、ビールは、人間関係を円滑にするのに必須であったから、ということが挙げられている。
農業は、一人ではできない。
集落を養うに足る広い面積の畑を耕し、種をまき、水をやり、雑草を抜き、害虫をつまみとって収穫にこぎ着けるには、どうしたって大勢の人間が協力して当たる必要がある。そして、大勢の人間が集まれば、当然そこには、いざこざの種が生まれてくる。仕事の割り振りが不公平であったり、メンバーの誰かの働きが悪かったりすれば、当然不満が出てくるし、その逆に、誰か一人が飛び抜けて有能であっても、周りの人間にやっかまれたりする。これらの人間関係を調整し、何とか集団をシステムとして機能させていこうとしたことが、後々人類の文明化、都市化につながっていくのだが……この「人間関係の調整」の際、大きな武器となったのが、ビールだったのである。
誰だって、なるべく自分の負担を減らしつつ、多くの収穫を手にしたいと願っている。しかしながら、誰かが辛い作業を担当しない限り、作物は実ってくれない。「領主」や「王」といった特別な権力を持つ人間が存在しなかったこの時代、これらの役割分担を決めるには、集落の成員がとことん話し合っていくしかなかったのだが……ともすればギスギスしがちなこれらの席が、ことビールを飲み交わしながら、であれば、実にスムーズに話が進むことに、人々は気づいていたのである。
心地よい飲み心地、滅多に口にすることができない甘い舌触り――当時のビールは、ホップが添加されていなかったため、かなり甘かったらしい――そして、アルコールによる酩酊感。それら全てが人々の殺気だった雰囲気を和らげ、切羽詰まった気分をほぐし、おおらかで浮き立った気持ちをかき立てる。これにより、殴り合いや殺し合いに発展することなく、話し合いを進めることができた、というのである。
なんのことはない、現代の――一昔前の?――サラリーマンが仕事帰りに居酒屋で一杯引っかけ、上司の愚痴や仕事の相談などを語り合い、互いの考えを交換し合う、いわゆる「飲みニケーション」を、古代メソポタミア人たちも大いに活用していた、ということだ。
そしてこの「飲みニケーション」、集落内の話し合いだけでなく、農業に必須の水を集落間でどう分けるか、集落の境界線をどこにするかなどといった、集落同士の話し合いの席でも、大いに役に立った。
集落内のいざこざも深刻な問題ではあったが、それ以上に、集落間のいざこざは、成員全てのその後の運命を決定する重大事であったがゆえに、より深刻で、重大な争いごとに発展する可能性をはらんでいた。その、ヒリヒリするような話し合いの席でも、ビールがその席の間を行き来することによって、村同意の争い、殺し合いに発展することなく、なんとかとりまとめることができたのだという。
このように、人間と人間、集落と集落の関係を潤滑にするために、ビールは必須であり……だからこそ、人々は、多大な苦労がつきまとう、と分かっていても、小麦を作り続けたのである。
古代人にとって、それほどまでにビールは……酒は、重要な「戦略物資」であったのだ。
同じことは、当然ながら、古代日本にも当てはまる。
豊穣の時代であった縄文海進期以後、後期、晩期の縄文人たちは、ムラを構成する各人が飢えぬよう、より広範囲の野山を経巡り、食糧収集に努めなければならなくなったのだが……その際、他のムラの者とかち合わせたりすることもあったはずである。互いが互いを警戒するそのような状況下で、争いに発展することなく、食糧を分配し、以後の土地利用の方法を決定する際、酒が大いに役に立ったであろうことは、想像に難くない。
まして、弥生時代に入り、田畑で作物を作って定住する時代になれば、古代メソポタミア人と同じく、里の成員同士での争い、里と里の間の土地争い、水争いなど、いざこざが争いに発展する前の火消し役として、ますます酒は必須のものとなっていっただろう。
現在の日本史の定説では、この時代、日本人は「くちかみの酒」をのんでいた、とされる。
くちかみの酒とは、米をはじめとした穀物やイモ類、果実などを口の中に入れて咀嚼し、唾液――に含まれている消化酵素のアミラーゼ――と混ぜ合わせることで、デンプンを糖化(デンプンを分解してブドウ糖などの糖にすること)。それらを吐き出して、瓶などにしばらくためておくと、野生の酵母が入り込み、糖を発酵してアルコールを生成、酒になる、というものである。
このくちかみの酒、縄文時代には既にこの方法で酒が造られており、その後、奈良時代初頭に大陸からカビを用いた醸造法が伝播してくるまで、長く使われてきた、とされているのだが……僕はこの説に疑問を抱いている。というより、はっきり言ってしまえば、おそらくこの説は誤りであろうと考えている。
もちろん、弥生時代のことゆえ、歴史学が重視する「文献による記載」は残っていない(この頃、まだ日本に文字は伝わっていないのだから、当然だが)。だが、いくつかの状況証拠を考えあわせると、弥生時代のかなり早い時期には既に、日本でカビを用いた、いわゆる醸造酒が作られていたとしか思えないのである。
詳しく説明していこう。
まず、なにゆえ「奈良時代初頭に醸造酒の製法が日本に伝わった」という説が定説となったかだが、その根拠は、ちょうどその頃に成立した「播磨国風土記」の記載であるようだ。
「風土記」とは、当時大和朝廷の命により編纂された、その地方の名産品や地名の由来、神話や言い伝えなどが記載された「地方ガイドブック」のようなものであり、中央政府はこれを元に地方統治を行ったとされる。
その風土記のうち播磨国のことについて記した一冊に、以下のような記載がある。
庭音の村。本の名は庭酒なり。大神の御粮、枯れて糆生えき。即ち酒を醸ましめて、庭酒に獻りて宴しき。故、庭酒の村と曰ひき。今の人、庭音の村と云ふ。
「播磨国風土記 宍禾郡庭音村」
ざっくり現代語訳すると、「庭音村は、元の名を庭酒といった。神に捧げた糧食がダメになり、カビが生えた。それで、これを元に酒を醸させ、神に奉り、宴を開いた。それで、庭酒の村と言ったのだ。今の人は、庭音の村と言っている」となる。
文献資料に麹を用いた酒の記載が「はじめて」出てきたのであるから、この時期に醸造がはじまったのであろう、とするわけだ。
だが、よく見てほしい。
この部分は、地名の由来――それも、この当時、既に使われなくなっている「古地名」の由来を述べた部分である。
地名は『言葉の化石』と呼ばれることがある。そのぐらい、長い年月を経ても変わらずに伝えられていることが多いとされている。とすれば、この「庭酒」という地名も、この時代よりもはるか過去から伝えられてきたものである可能性が高い(なにしろ『奈良時代初頭において、既に「古地名」である村名の由来なのだから)。
だとするならば、その地名の由来である醸造酒造りも、奈良時代より遙か昔から伝えられていたもの、ということになる。「はじめて文書に記載されたから」この時代に醸造がはじまったとする説は、甚だその根拠が薄弱だ、といわざるを得ない(研究者の中には、はっきりこの時代に伝わった、とは言わないものの、このような解釈を採用し、「稲作伝来以後、しばらくして醸造法も伝えられたと思われる」などとしている方もいらっしゃるようだ)。
では、次に問題になるのは、一体いつ頃から、日本で「麹を用いた酒造り」が行われていたか、ということになる。
これについては、先ほども述べたように、はっきりとした証拠は見つかっていない。だが、いくつか「状況証拠」と見なしてもよい事実はあるように、僕には思われる。
その、まず一つ目として挙げられるのが、縄文人と弥生人の「あごと歯の違い」である。
ご覧になった経験のある方も多いと思うが、歴史博物館などに足を運ぶと、古代の展示物の中に決まって「縄文人と弥生人の骨格の違い」について説明がある。
その内容をざっくり述べると、
「縄文人は、背が低く、全体にがっしりとした体格だったのに対し、弥生人は比較的長身だった。顔だちも大きく違い、縄文人はラグビーボールのような頭蓋骨をしていて、彫りが深く、がっしりとしたあごと、上下がしっかりかみ合う歯を持っていた。それに対し弥生人のあごはほっそりとしており、現代人と同じく、上あごの歯が下あごの歯を覆うような歯並びをしていた。これは、固いものを常食にしていた縄文人と比べ、柔らかいものを食べるようになった弥生人のあごが小さくなったためだと思われる。縄文人の奥歯がひどくすり減っていることからも、そのことが分かる」
まあ、大体このようなものになる。
確かに、縄文人の奥歯は大変すり減っているものが多いし、あごはがっしりして、いかにも力が強そうだ。かみ合わせも強力そうだし、さぞ固いものを多く食べていたのだろうな、大変な生活だったんだな、と思わず納得してしまう、説得力のある説明である。
だが、この説明を読んだ後で、もう一度「縄文時代」のブースに戻り、そこで「縄文時代の人々の食事」を確認すると、どうか。
そこにはたいがい「縄文時代の人々は、シイやカシの種子であるドングリやクルミ、栗などを主食としていました。それ以外にも、季節によってさまざまな動植物を採集し、現代人と変わらない、豊かな食生活を送っていました」的な説明がなされているはずだ。
いかがであろう。なにか、違和感を感じないだろうか。
そうなのだ。
これら二つの解説を重ね合わせると、「現代人同様の豊かな食生活を送っていた」はずの縄文人が「固いものばかりを食べていた」ことになってしまうのである。
いや、食べていた食糧の種類は豊富だったけれど、それを調理せず、固いまま食べていたのでは、と思われるかもしれない。しかし、火も知らず、貧弱な道具しか持たなかった猿人、原人ならいざ知らず、かなりの切れ味を誇る石器と、煮炊きの道具として使える土器を持ち、住居内にかまどまでしつらえていた縄文人が、固いものをそのままゴリゴリ食べていたとは、到底思えない。
少し歴史に詳しい方であるならば、ニヤニヤ笑いつつ、
「縄文人はドングリを粉にし、水で練って焼いた『縄文ケーキ』と呼ばれるものを常食していたんだよ。これが、非常に固くて食べにくいものでね。歯がすり減るのも当然なんだ。それに、当時の縄文人は、狩猟で得たシカやイノシシの生皮を、奥歯でかんでなめす、という方法を採っていてね。そんなふうに、多くの作業に歯を使っていたから、すり減るのが早かったんだよ」
という説を開陳なさるかもしれない。
だが、この「固いものを主食として食べていたから奥歯がすり減った」「皮なめしを歯でかんで行っていたから、奥歯がすり減った」という説、よくよく考えていると、どちらもかなり疑わしい。
まず、「固いものを常食していたからすり減った」説だが……縄文時代には「抜歯」の風習があった。
抜歯とは、ある年齢に達した人間が、意図的に健康な歯を引き抜く、というもので、世界の狩猟民族には、割に広く見られる風習であるらしい。縄文人もその例外ではなく、成人年齢に達したほとんどの人間が犬歯――いわゆる糸切り歯を抜き、そして、年齢が上がるに従い、主に門歯――前歯を、数本抜いていた。中には、下の4本の門歯全てを抜いてしまった頭骨まで、出土しているのである。
意図的に悪くもない歯を抜くなど、現代人の我々にとって信じられない悪習であるように思われるが、当時の人々には、おそらく大きな意味があり、成人儀礼や結婚、服喪等の機会があるたび、抜歯を行っていたのではないか、と推測されているのだが、その動機はともかく、縄文人が日常的に抜歯や、門歯をギザギザの形に削る「研歯」と呼ばれる風習を長く保持していたことは、出土した人骨から、間違いなく確認できる。
とすると……もしも、歯がすり減ってしまうほどに固い、カチカチの瓦せんべいのようなものを常食していたのだとしたら、その「せんべいを小さく食いちぎり、口に収める」役割を果たす前歯を、果たして抜いてしまうものだろうか?下の前歯全てを抜いてしまったりしたら、食事が取れず、飢え死にする――とまでは言わないものの、食事に相当の煩わしさが生じたのではないだろうか?
そもそも、ドングリを粉にし、焼いて固めたものが固いのであれば、それを水やお湯につけ、ふやかして食べればいい。その程度の知恵も働かせず、固いものを固いまま、しかも、歯のない状態で、奥歯でゴリゴリかじり、食べていたとするのは、彼らの知恵に対する冒涜ではないだろうか。
最近では、ドングリの粉の食べ方として、縄文ケーキの他に、山菜や肉と一緒に鍋で煮込んだ「山菜粥」のようなものもあったのではないかと推測され、再現されるようになりつつある。これならば抜歯をした人間でも、楽々食べることができる。海や川、山野から採れる幸を存分に活用して生きていたとされる縄文人には、こちらの姿の方がより似つかわしいのではないか。
そしてもう一つ、「皮なめしを奥歯でかんで行っていたから歯がすり減った」説だが、こちらはさらに、根拠があやふやだ。
確かにこの時代、アジア大陸の北方にすむ部族の間では、狩猟で得た皮をかんでなめす、という方法が、日常的に行われていたらしい。だが、それは、皮をなめすのに使う植物材料が手に入りにくかったためであろう、とされている。
実際、生皮をなめすのは、皮に残った肉や脂をきれいに取り去り、木の棒や石でよく皮を叩いてほぐした後で「植物から抽出した液体に漬け」しっとり柔らかく仕上げるというのが、一般的な方法であったといわれている。
今も高級皮革などで用いられている「柿渋なめし」「タンニンなめし」という方法である。
それで、である。
先ほど、縄文人はドングリなどを常食していた、と書いた。これは遺跡などから得られた証拠から、間違いない。
で、このドングリだが、食べるのに非常に手間がかかったようだ。
まずは実をつぶして固い皮を除去し、その後、粉になるまで叩くなり挽くなりする。
その後、それらの布の袋や目の詰んだ編み籠などに入れ、水に長いこと漬ける。そうやってアク抜きをしないと「渋くてとても食べられたものではなかった」らしい。
さて、もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが……この、ドングリの「アク抜き」作業で除去される「渋み」物質こそ、植物体を使ったなめしで用いられるタンニンそのものなのである(なめしに使ったのは渋柿をつぶして得た「柿渋」なのではないか、という疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない。が、柿には糖分が多く含まれているため腐乱しやすく、皮を漬けるとその皮自体も腐ってしまうため、実際には用いられなかったのではないか、と思われる(「かわのはなし」 川村通商株式会社 鍛治 雅信氏の記載から類推))。
このタンニンなめし、紀元前3000年頃には既に行われていたのではないか、といわれている。
森の木々について、現代の植物学者顔負けの知識を持ち、また、丸木舟でもって遙か遠く後まで出かけ、交易を行っていた――つまり、諸地域に伝わる知識を手に入れやすい立場にあった――縄文人が、自分たちの主食を作り出す過程で生まれる液体が、皮なめしに有用なものだともしらず、ずっと奥歯でかんでなめしを行っていた、などということが、あり得るだろうか?
定説となっている「縄文人は歯でかんで皮をなめしていた」説だが、どうも僕にはこの説、後付けで考えられたもののように思われてならない。
つまり、縄文人の奥歯がすり減っている→何か理由があるはずだ→そういえば、大陸北方に住んでいた旧石器時代人は奥歯でかんで皮をなめしていたため、奥歯がすり減っていた→わかった、縄文人も、きっとその方法を使っていたんだ、だから奥歯がすり減っていたんだ……などといった、短絡的な思考で唱えられたものであり、さまざまに検討を重ねた結果得られたものではないのではないか。
手に入るところに材料が豊富にあり、しかも、その技術の知識を手に入れられる立場にあった以上、少なくとも縄文時代後期、晩期の縄文人たちは、タンニンなめしを行っており……歯でかんで皮をなめすという方法は、採用していなかったと、僕は強く思われるのである。
……ということで、話は振り出しに戻る。
なぜ、縄文人たちはおしなべてあごの力が強く、奥歯がすり減っていたのか。
今まで述べてきたことから分かっていただけたと思うが、その原因を「食物の固さの違い」「奥歯を皮なめしなどの作業に用いたこと」に求めるのは、かなり無理がある。では、一体どういう理由から、縄文人は奥歯をすり減るまで酷使し、その結果、がっしりとした下あごを持つに至ったのか。
僕はこれを、「くちかみの酒」造りが原因ではなかったか、と考えている。
沖縄では、近代までこの「くちかみの酒」を醸す風習があり、少女時代に酒造りに参加したことのある女性が、貴重な証言を残している(「醸界飲料新聞」昭和55年2月26日付け記事「ばあは口噛酒を造った~新垣カナさん(90歳)~」なお、現在ネットでその記事を参照できるので、興味のある方はご確認を)。
この記事によると、神事の際、村の処女で美しい者が集められ、数時間水につけた「生米」を、口に入れてはかみ砕き、唾液と混ぜて吐き出す、という作業を数時間行うことで、くちかみの酒は造られたという。
注目すべきは、その作業の過酷さだ。なにしろ、生米を口の中でかみ砕くのだから、必要なあごの力たるや相当なもので、噛んだ翌日はあごが痛くて口もきけず、食事もできなかったそうである。
元東京農大教授で発酵学の大家である小泉武夫氏も、その著書『日本酒の世界』の中で、くちかみの酒を研究室で実作した時のことや、同じく沖縄でくちかみの酒造りに参加した女性の話を紹介している。これらの体験談は、生米ではなく、蒸した米を噛んだものだが、参加した女性はやはり、辛く、大変な作業であったとの感想を残している。
年に数回、神事や祭事の際に数時間米を噛むだけで、これだけの重労働なのである。もしこの作業を、生きている間、日常的に行っていたとしたら、その過酷さは想像を絶する。おそらく、道具として使用される奥歯も無事では済まず……「平たくすり減って」しまうのではないか。
沖縄の例では、くちかみの酒造りに参加できるのは処女で美女――まあ、ざっくり年若い女性、としておこう――に限られていたようだが、『大隅国風土記』の記述によれば、口噛み酒造りは若い女性だけでなく、村中の男女ほとんどが参加したようである。おそらく元々はこの形で、村中の男女全てが共同で行っていた作業だったものが、神事として確立されていく過程で、巫女である女性のみが参加するものとされていっただろうと思われる。
麹による醸造を知らぬ縄文人たちは、穀物やイモ類、木の実などの収穫があるたび、大瓶を中心に村人のほとんどが輪になり、それぞれが収穫物を生のまま口に入れてはかみ砕き、瓶の中へ吐き出してはまた口に食べ物を入れ、という作業を繰り返し、酒を醸していたに違いない。その過酷な作業が日常的であったがため、自然、あごががっしりと大きくなり、奥歯もすり減っていったのだ……と考えれば、「固いものを食べいなかった」縄文人の奥歯が「平たくすり減っている」のも納得できるのはないか。
僕はそのように考察しているのである。
さて、思い出してほしい。
もし、縄文人の頭骨の骨格が、この「くちかみの酒」造りのせいでできあがったものであるとするならば……「あごが小さく、奥歯もすり減っていない」弥生人は、どうなるか。
当然、「くちかみの酒」を作っていなかったことになる。
しかし、当時、重要な戦略物資であった「酒」なしでは、生活が成り立たなかったであろうことは――先ほど書いたように――明らかである。
では、弥生人たちはどのようにして酒を手にしていたのか。
「口噛み」で得ていなかったのであれば、その方法は一つである。
そう。弥生人たちは、既に「麹による酒の醸造法」を知っていた。そう考えれば、縄文人と弥生人の不思議な骨格の違いも、すんなり理解できるのである。
これが、「麹による醸造酒の弥生初期成立説」第一の根拠だ。
二つ目の根拠として「アスペルギルス・オリゼー(A.oryzae)による酒造の特異性」が挙げられる。
『もやしもん』等の作品で紹介されることも増えてきたので、ご存じの方もいらっしゃると思うが、アスペルギルス・オリゼーとは、「ニホンコウジカビ」のこと。日本酒とは、ざっくりいうと、蒸した米にこのニホンコウジカビを作用させて、「麹」を作り、その「麹」を酵母により発酵させることで造られる。この「麹」、日本酒造りだけにとどまらず、味噌や醤油、焼酎など、他の多くの発酵食品造りにも必須の材料でもあり……ということは、日本の発酵食品のほとんどが、ニホンコウジカビの働きに造られているということになる(最近では「塩麹」という形で調味料としても多く使われる)。
以上のことから分かるように、アスペルギルス・オリゼー――ニホンコウジカビは、日本人の食文化の方向性を決定し、多くの豊かな味をもたらしてくれた、日本人にとってこの上なく大切で、ありがたい菌類なのである。
ところで、この「麹」を使った酒造りを採用しているのは、日本だけではない。アジア全域――ヒマラヤや東南アジア、そして中国や朝鮮などでも広く見られる酒造法なのだが、ここに、一つ不思議なことがある。
実は、日本以外の地域の醸造酒造りでは「餅麹」というものが主に用いられる。これは、穀物を生のまま粉にし、水で練り固めたものに、菌を繁殖させて作った麹で、この餅麹を砕き、原料となる穀類や水と混ぜ合わせて酒を醸造する、というのが、アジアで一般的に行われている酒造りなのである。
それがどうかしたのか、とおっしゃる方もいるかもしれない。が、これが大問題。麹の作り方が違っているため、この餅麹ではニホンコウジカビではなく、クモノスカビやケカビといった種類の菌が働いている。つまり、同じ「麹」という名前で呼ばれているものの、日本の麹とそれ以外の麹は、造り方も、そこで作用する菌類も全くの別物なのだ。
この餅麹に対し、粒のままの蒸した米にコウジカビを作用させて作った麹を「散麹」、その中でもニホンコウジカビを作用させて作った麹を、その色から「黄麹」と呼ぶ。
ニホンコウジカビをメインに用いた酒の醸造は、今現在、日本以外、どこを探しても見当たらない――全く独自の酒造法なのである。
殷代以前に成立したとされる中国の古文献には、黄麹)を表している(と考えられている)文字がある。そのため、おそらく古代中国――それも、米を主食として食べていた中国南部では、黄麹を用いた酒造りが行われており、それが海を渡って日本に伝わったのであろう、といわれている。その後、大陸では時代が下るにしたがって、気候や原材料の穀物の違い、嗜好などにより酒造法が変化し、餅麹を用いた酒造りが主流になっていった、というわけだ。
もちろん、黄麹を作った酒造りが行われていた名残は、現在でも散見することができる。中国の紹興では、かつて紹興酒を造る際、黄麹を使用していたと思われる伝承があるし、今でも、紹興酒の醸造には、餅麹の他に、小麦を砕いたものにニホンコウジカビを作用させて作った散麹を使用するそうだ(「中国の黄麹菌によるバラ麹の酒」(菅間誠之助著)より)。また、中国南部の福建省、広東省、及び台湾の一部地域では、蒸した餅米にベニコウジカビを作用させて作った真っ赤な色合いの「紅麹」を用いた酒造りが行われているそうである(黄麹そのものも、酒造りに使われることはないものの、豆味噌のような調味料を作りのには利用されているそうだ)。
ここで興味深いのは、中国南部における酒造りは、元々ニホンコウジカビ――黄麹を使用して作られたものであったのにもかかわらず、その方法をいまだに使っているのは日本だけであり、他は、名残こそあるものの、さまざまな形で変化してしまっている、という点である。
これは、相当に異常な状況ではあるまいか。
そもそも酒――酒造法とは、その土地と民族に根ざし、伝統的な製法に従って作られるものだ。時代により、好みに合わせて改良はするものの、通常、その根本的な製法までは変わらない。であるとするなら、いかに東アジアにおける中国文化が巨大で先進的、その影響力が絶大なものであったとしても、「いや、でも、おらは、村に伝わる作り方で作った酒のほうが、やっぱり好きだもの」という理由で、どこか山間の小さな集落に細々と、黄麹醸造が伝えられていても良さそうなものだ。
だが、日本以外の地域に、これがまるで見当たらないのである。
同じ発酵食品でメジャーなものの一つに、大豆と小麦を主原料として作る醤油がある。この醤油が日本に伝わったのが、おそらく平安時代頃のことであり、日本全国で使われるようになったのが、江戸初期のこととされる。ということは、400年もの間、日本中で使われていることになるのだが……にもかかわらず、醤油伝来以前から日本に存在していた「醤」系の調味料である、魚を原料とした「しょっつる」などは――意外に思われるかもしれないが、しょっつる、ニョクマム、ナンプラーなどのいわゆる「魚醤」は、その歴史が醤油よりもかなり古く、有史以前から日本にも存在していたのではないかと言われている――今も立派に生き残り、郷土料理に欠かせない調味料として、土地の人々に愛されている。
400年もの時間をかけても、土地に根ざした食品を完全に根絶することはできなかったのだ。
これらの事実から、次のようなことが容易に推測される。
黄麹醸造の「迫害」がはじまったのは、おそらく、はるか古代まで遡るはずだ。加えて、散麹醸造を行っていた民族は弱小で、攻め込んできた的の攻撃を耐えきることはできず、次々と降伏。その一部は、先祖伝来の土地を離れ、流浪の民と化した。そして、残った人々は、長い年月の間に、征服民との文化融合が進み、古来からの酒造法を変化させていった結果、黄麹醸造による酒造りは、日本以外の地域から消滅してしまったのではないか……。
もっと詳しくいうと、こうなる。
第一部でも少し解説したが、大陸では古来、ジャポニカ米を使って田んぼによる農業を行っていた民族が、長江中流域に住みついていた。それが、弥生期における気候の寒冷化に従い、北方民族が南下し、その圧力に負けて、各地へ――中国南西部の険しい山中やチベット、ヒマラヤ地域、長江沿岸部、朝鮮半島、そして日本へと、移住していく。
それが、紀元前七世紀頃。今からおよそ2700年前のことになる。
この時に、黄麹醸造文化を持っていた人々が日本にも渡り、以後、連綿とその文化を継承していった。一方、大陸では、餅麹醸造を行う北方の文化が長い年月をかけて隅々まで浸透し、とうとう黄麹による醸造は絶滅してしまったのだ……そう考えれば、つじつまがあうのではないか。
稲作文化、そして酒造法も、中国から朝鮮に移住した人々から日本に伝わった、というのが現在の定説ではあるが、僕がこの説に賛同しかねる理由の一つが、ここにある。
朝鮮半島にも遠く紀元前から受け継がれている「マッコリ」という酒があるが、このマッコリ、やはり散麹ではなく、餅麹を用いて醸されるのである。
もちろん、朝鮮からの移住者がやってくる時点では、まだ散麹――黄麹を採用しており、その後、中国の影響により朝鮮の酒造法が餅麹に変化した、という可能性はある。しかし、それだと、中国長江中流域に住んでいた人間が朝鮮半島に移住し、田畑を拓いて定住した後、数百年も経たないうちにまた日本へ移住した、ということになる。土地に執着する農耕民が、それほど頻繁に移住を決意するものだろうか?
移住したのではなく、朝鮮から進んだ文物を取り入れる過程で黄麹による醸造も一緒に入ってきたのだ、古事記の応神天皇記にも、当時朝鮮に存在した新羅や百済などの国家から多くの文物が献上され、また大勢の人物が派遣されてきた際、須須許理という名の酒職人も一緒にやってきた、その職人が醸した酒を飲んで「須須許理が 醸みし御酒に われ酔ひにけり 事無酒 笑酒に 我酔ひにけり」という歌を天皇がお詠みになって喜んだ、という記述がある。これが、日本に麹を使った酒造法が根づく元となったのだ――つまりそれ以前には、日本の酒は口噛みの酒しかなかったのだ、と考えておられる方も、歴史学者にはいらっしゃるようである。
しかし、これにもやや無理がある。
応神天皇がもし実在したとするなら、おそらく4世紀後半頃の人物であろうといわれている。中国では、既に紀元前10世紀――現在より3000年以上前には、麹による醸造が行われていたとされる。その時代から実に1300年もの間、大陸から数多くの人間が渡ってきたにもかかわらず、麹による醸造法だけは伝来しなかった、というのは、さすがに考えがたい。
さらに言うと、天皇の命令により職人を招き入れた、というのであれば、それは当然「大陸の進んだ文物を取り入れるため」であり、当時の「進んだ醸造法」とは、すなわち中国における餅麹による醸造法であったはずだ。となると、この時来日した須須許理なる人物は、「黄酒」――紹興酒に代表される、中国の醸造酒造りの職人であったと考えるのが、妥当なのではないか。
古事記による記載というのを根拠にするのであれば、それこそスサノオの時代、ヤマタノオロチを退治するために「八塩折の酒」を用意した、という記述がある。「八回も繰り返し醸造した」強い酒、という意味なのだが、これはくちかみの酒では作れない。明らかに麹による醸造を指している。しかも、オロチにのませる大量の酒を用意した、という記述からも、醸すのに非常な手間がかかるくちかみの酒であったとは考えがたい。ということからすると、既に神代の時代に麹による醸造酒が知られていたことになる。
「古事記のあの部分は単なる神話であり、その記述を信頼することはできない。しかしながら、同じ古事記の応神天皇記は歴史を反映しているから、信頼すべきなのだ」と強弁されるのかもしれないが、同じ文献資料でありながら、その資料価値を部分ごとに変えて評価する、などという態度は、それなりの根拠がない限り、研究者としては許されないはずである。『古事記』『日本書紀』の記述を信頼するなとはいわないが、8世紀に編纂された、それも多分に政治的意図が混じる文書である以上、400年以上前の古代の記述をそのまま飲み込むことはできない。単に「昔、こういうことがあったらしい」程度に参考にするのが適当であろう。
ということで、僕は、この時期朝鮮から渡ってきた酒職人は――そういう事実があったとすればだが――「日本酒」職人ではなかった、と確信する。
そうなると、この時の応神天皇の歌は、非常に興味深い。
前述の歌をざっくり現代語訳すると、「須須許理が醸した酒に、わたしは酔ってしまった。無事平安な酒、笑いがうまれる酒に、わたしは酔ってしまった」という感じになるのだが……一見しておわかりのように、この歌のどこにも「うまい」「おいしい」などに類する感想が述べられていないのである。
ご存じのように、日本酒と中国酒の食味は、かなり違っている。
当時の日本酒は甘酒やみりんのような、甘く、ぽってりとしたこくがあり、とろりとした味わいだったと言われている。対する中国酒は――今の味わいに近いものであったならば――甘味の中にやや醤油に似たしょっぱい味が混じり、するりとしたのどごしで、独特の後味が残るものだ。
当時既に日本酒の原形となる「日本独自の麹醸造酒」が確立されており――僕はそう確信しているが――天皇がその味に慣れ親しんでいたならば、はじめて口にした中国酒は、さぞ珍妙な味に感じられたに違いない。
(うわ、なんだこれ!?本当にこれ、酒なのか!?)
などと思い切り困惑したが、わざわざ友好国から――それも大陸の文化先進国から派遣してもらった職人に作らせた酒である。こんな変な味のモノなんか飲めるか、と吐き出しでもしたら、両国の友好にひびが入る。そこで、「ああ、酔った酔った。両国の関係が平安で、ほほえんで酒が飲める。なんて幸せなんだ」と、その味に一切触れない歌を詠んだのではないか。
ともすれば顔をしかめそうになるのを無理に笑顔にし、なんとかそれなりに格好のつく歌をひねり出す応神天皇。その様子を想像すると、昔も今も、マツリゴトを司る方は苦労が多かったのだろうな、とついニヤニヤしてしまうのである。
最後に少し脱線してしまったが、以上が二つ目の根拠である。
弥生初期醸造酒渡来説には、もう一つ根拠があるが、それは、今回僕がクシナたちのたどり着いた舞台を日田周辺とした――そして、そこを中心にやがて大きな勢力と成長していった――ことにも、密接に絡んでくる。そちらについては、もう少し後で述べさせていただこうと思う。
さて、だいぶん話が長くなった。読者の中には、細かい歴史上の事実などはどうでもよい、速く物語の続きを、と思っている方もいらっしゃるかもしれない。そういう方は、日本酒の原形となる醸造酒は紀元前7世紀、遅くとも紀元前6世紀には作られていたと筆者は考えていること、この物語はその世界線に沿って作られていることだけ、頭に入れておいてほしい。
さて、ではクシナたちの世界に戻ろう。
ようやくクシナたち一行は、「約束された土地」にたどり着いた。
が、そのうち主だった者たち――里長であるニグィと大人たち、それに、先代トゥジと、クシナはじめ、そのトゥジに仕える娘たち――は、その地でほんの一晩を過ごした後、すぐに出立の準備を始めた。
目指すは、クムの一族の村の一つ。
今、ちょうどそこに、カグチの父にしてこの地の王であるクムタクルが逗留しているのである……。