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弥生の空に2 定住編  作者: 柴野独楽
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第一章 異郷 7

 山中の道なき道をたどって、二日目。

 昨晩の寝床は、厚く散り敷いた落ち葉の上に荒布を広げただけのものだった。

 季節柄、よく雨が降るが、それもこの深い森の中では、高い木々の葉にさえぎられ、そうそう地面が濡れることはないから、これで十分心地よく眠れるはずだ、とのカグチの言を信じた結果、そのようにしたのだが……寝床に身を横たえてすぐ、クシナたちは後悔することになった。

 確かにカグチの言葉通り、雨は木々に吸われ、谷に、沢に流れて、寝床を濡らすことはなかった。が、木々の下にわだかまる空気は冷たい指で体のそこかしこをまさぐり、しっかり踏みしめられていない固い落ち葉は背に辛く、おまけに、なにのものともしれぬ不気味な鳴き声が時折そこここから響き、そのたび寝入りかけの状態からはっと目が覚め……到底、寝られたものではない(カグチやククチは、このような中でも、があがあいびきをかいて眠りこんでいたから、彼らにとっては確かに「寝心地のよい」状況であったようだ)。しかも、手持ちの食べ物を節約するため、朝晩で口にしたのは、ぎりぎり生をつなぐのに足るだけの干し飯と菜、そして水のみ、ときている。

 これでは、疲れが取れるはずもない。

 が……それでも、朝がくれば、先へと進まねばならない。

 ぐったりと重い体を無理矢理寝床から引き剥がし、空腹にさいなまれながら、山の中を上っては下り、上っては下りをくり返す。あまりに脚を酷使したためか、筋肉がきりきりと引きつる。いくら膝に力を込めても、重くだるい足はちっともいうことを聞かず、斜面を這いずるようにしてしか上ることができない。

 それでもなお、あえぎつつ、身をよじりつつ、みっしり生えた下生えを踏みしめながら上り、灌木に捕まりながら獣道を下りを繰り返し、もはや自分が生きているのかどうかさえ定かではなくなった頃。クシナたちはようやく、ごく狭い、平坦な場所へとたどり着いた。

 身を投げ出すようにして手と膝をつき、しばしの間、ぜいぜいと荒い息をつく。それから、身をくねらせるようにして背にくくりつけた荷をおろし、ごろりと土の上に仰向けになる。

 汗でぐっしょり濡れた背中に、冷たい土の感触が心地よい。

 ちらちらと木の葉越しに眺める陽光は、はや中天よりやや傾きつつある。日が差したそうそうに野営地を後にしてきたというのに、もうこんなに時間が経っていたのかと、少々驚いてしまう。

 ああ、でも、なんと心地のいいことか……このまま、ここでしばし眠ってしまいたい……。

 そんなことを思いつつ、うっすらと目を閉じたところへ、

「どうだ?少しは人心地がついたか?」

 なにやら面白がっているような声とともに、うっすらひげの浮いた顔が、人を小馬鹿にするかのような薄ら笑いを浮かべ、上方にぬっと現れた。

 カグチである。

 寝転んでいるクシナの枕元にしゃがみ、至近距離から逆さまに、顔をのぞき込んでいるのである。

 クシナは、軽く鼻にシワを寄せ、顔をそむけるようにして身をひねり、地面に腰を下ろす姿勢になった。

「ええ。おかげさまで、どうやら、少しは」

 感情をほとんど交えず、言葉少なに返事をする。が、そんな彼女の素っ気なさに気づいてすらいないのか、カグチは至極上機嫌な声だ。

「そうか。それならば、ほれ、あそこに見える崖から、下を見てみるがよい」

 指さされた方に目をやると、鬱蒼と茂る木々の中、そこだけぽっかりと空が開けている。

(明るいと思ったら、あそこから光が差し込んでいたのか。それにしても、なぜあそこにだけ、なにも生えていないのか……)

 クシナの不審げな顔を見て取ったのか、カグチがふと、彼方を見やるような目つきとなった。

「あそこには、元はこの山で一番高く大きな木が生えておったのだ。が、去る年の秋、ものすごく強い風が吹き荒れてな。その勢いに耐えきれず、地から根こそぎ剥がされ、崖下へと落ちてしまったのだ」

「それは……残念なことです」

 クシナが後にしていた故郷の山にも、頂上近くに「ヌシ様」と呼ばれる大きな木が立っていた。もちろん、かつて見慣れた里の裏山は、ここの山に比べて低くなだらかだったから、ヌシ様も、そこまで背は高くも、大きくもなかったのかもしれない。けれど、他の木に比べれば、頭一つ大きく、横に大きく枝を伸ばし、まさに山のヌシ、という感じで屹立していた。

 野良での仕事に疲れ、ふと土から顔を上げた時、彼方にそびえるヌシ様が目に入ると、それだけで、ほっとした気持ちになった。自分が生まれるはるか以前よりそこにあり、そして死んだ後もおそらくずっとそこにあるだろうものがある、ということを確認するだけで、なんだか頼もしいような、ありがたいような気持ちがわき上がり、どれ、もう一働きしようか、と再び土に向き合う気力を与えてくれた。

(ヌシ様が(いま)したおかげで、我らはいつも安らぎと共にあることができた。もし、そのヌシ様が倒れるようなことがあれば)

 さぞかし辛く悲しい思いをしたに違いないと、そんな思いから発した「残念なことです」という言葉だった。が……カグチはその言葉にうなずくことも、沈んだ顔も見せることもなかった。

「いやいや、残念なことなどない。他よりも抜きん出て大きくなれば、その分風当たりが強くなるのは当たり前だし、その風に耐えられなければ、落ちて自らの場所を他に譲るのも当たり前だ。あそこにあった木も、一時でも他より抜きん出たことを誇りに、静かな心で谷底へ落ちたに違いあるまい」

 明るく、むしろ嬉しげなカグチの様子に、クシナは(面には出さなかったものの)驚きうろたえ、

「あ……そうかもしれませぬ。しかし、その大樹を心の支えにしていた者たちは……」

 つい、そんなことを口にしたのだが……それは更なる驚きを生むことになった。

「木が心の支えになる、というのは面白いな。大きな木があれば、多くの恵みを実らせてくれるし、雨宿りの役にも立つ。目印にも便利だから、あってよかったとは思うが、なくなったらなくなったで、仕方ないと我らは思うのでな。むしろ、あの木が倒れたおかげで、ここからの見晴らしがよくなった。それに、岸辺に流れ着いた木の枝を払い、中をくりぬき、新たな舟を一艘造ることもできた。まことに、これも山の恵み。むしろ、倒れてくれてありがたい限りよ。うははは……」

 どれほど大きく頼りがいのあるものであっても、やがては倒れ、移り変わるのがさだめ、といわんばかり、無邪気に笑い飛ばすカグチの顔を、クシナはじっと見つめないではいられなかった。

(同じ言葉を話し、同じようなものを食べて生きているというのに、こうまで心が違うのは、どういうことなのか……)

 以前からうっすらと感じていた不安が再び胸の内で靄となり、心を不透明にしていく。

 が、カグチはそんな彼女の内心などまるで無頓着な様子で、

「ささ、そんなことより、早うあそこから、下を眺めてみるがよい」

と、急かすのである。

 その勢いに抗しきれず、不承不承うなずくと、クシナは、あちこち悲鳴を上げる体をなんとか引きずり起こし、よろよろと崖の端までにじり寄り……息をのんだ。

(これは……!)

 なんとも、雄大な光景だった。

 まず目に入ったのは、晴れた空の彼方、クシナたちがいる山の対岸にかすんで見える、同じほどの高さの山嶺だった。

 尾根が連なり、重なり合った山々が、行く手を阻む壁のようにそそり立ち、1か所、大きく壁がえぐれて深い谷になっているところを除き、ずっとつながってでこぼこと空を削り取りつつ、円を描くようにこちらへと迫り……遙か下方に広がる広大な野を囲い込むようような形で、今立っている崖につながっている。

 目線を再び対岸へと移動させ、そこから今度は逆方向へと目をやるが、そちらもやはり、2か所のひび割れたような谷以外、ずっと尾根が続き、こちらの山につながっている。

(なんだろう……この景色、どこかで見たことがあるようなが……けど、故郷にはこんな山はなかったし……)

 記憶を揺り起こそうと、懸命に目を見張り、山肌に沿って視線を下ろしていく。と、山頂からずっと続くみっしり茂った森が、そのまま斜面を流れ下り、麓からさらに平野の奥、そこからさらに彼方の山の麓まで、濃い緑の力強い紋様を描き出している。その森を分断し押しのけるかのようにして、森よりやや色の薄い草原が、紋様の隙間を埋め……その原野をのたくるようにして、谷底から流れ出ているのであろう、きらきらと光る銀色の筋のような川が、こちらからあちらへ、向こうからそちらへと続いている。

 見渡す限り、生の森と原野しかない、手つかずの、静かに眠っているように見える土地。

 ただただあるがままにあるだけなのに、どこか厳かにも見えるその光景に、クシナの心は吸い込まれ、目の離せないままに、じっと立ち尽くしている。

 そこへ……静かな声が響いた。

「どうだ。気に入ったか?」

 背後から響く声にはっと我に返って振り向くと、いつの間に来ていたのか、カグチがお得意のにやにや笑いと似ていながらどこか違う、不思議な――しかし、決して心地悪しくはない――笑みを浮かべながら、その場に立っていた。

「ここが、お前たちにくれてやる土地だ」

「ここが……」

「そうだ。我らはここを、『鉢山』と呼んでいる。詳しくは親父殿に聞かぬと分からぬが、ざっくり鉢底の土地全てを、お前たちにくれてやると聞いておる」

 そう言われて、再び崖の方を振り向く。

 と、ようやくそこで、先ほどから感じていた見覚えのある感じが、すうっと胸の底に収まった。

 あまりな大きさの違いに、それと思いつけなかったのだが、言われてみれば確かに、底面がやや広く平面になっているところといい、緑の木々に覆われたまま盛り上がった山々が丸く周囲を縁取っているところといい、なるほど、この土地は、菜を入れるのに使う浅鉢によく似ていたのである。

(そうだ。確かに鉢だ。長く使い込んでひび割れたところまで……)

 クシナは、その鉢の欠けたところに目をこらした。

 と、先ほどはただただ銀色の筋にしか見えなかった川が、その銀色の奥に深い藍色をたたえていることが見て取れる。

(ふるさとの「(うみ)」とは比べものにならぬ細さだ。けど、あの色からして、かなり底は深い。あれならば、きっといい稲を育んでくれる……!)

 稲作を生業(なりわい)とするものにとって、田を潤すに足る豊かな水が土地にあるかどうかは、命にかかわる大問題である。その点ここは、その第一の条件は満たしている。しかも、故郷の里と同じく、川縁(かわべり)に鬱蒼とアシやカヤが生い茂っているところを見ると、おそらくは田に使える土地も、見つけられるに違いない。

(ここならば……ここならば、確かに、きっと……)

 長く、長く旅をしてきた末にたどり着いた、誰も住まぬ土地。

 人手の入った痕跡などみじんもない、みっちりと丈高い草の生い茂る原野。

 だが、そこは確かに、わずかなりとも、この先生きていく希望を見出すことのできる場所であった。

「どうだ、元気は出たか?元気が出たなら、そろそろ出発だ。なにしろこれから、沢伝いに麓まで下らねばならぬからな。水のしたたる寝床で今夜一晩過ごしたくはなかろう?ならば、足を進めよ」

 クシナが「約束の地」の眺めに釘付けになっていることに満足したのか、カグチはそう言い捨てると、さっさときびすを返し、機敏な足取りですいすいと山を下りはじめる。

(全く……なにがどうあっても、憎まれ口を叩かないではいられないのか!)

 みるみる小さくなる彼の背中をにらみつけながら、クシナはゆっくりと立ち上がる。

 そして、心なしか、先ほどよりやや軽句なったように思われる荷を担ぎ、一歩、また一歩と慎重に斜面を下りはじめたのだった。


 伝い下りてきた沢が徐々にその幅を広げ、高い木々の下生えから丈高いカヤのびっしりと生い茂る麓まで下りてきたところで、旅は終わった。

 とうとう、目的地に着いたのである。

 とはいえ、その実感は、まだ、ない。

(もともと望んで出た旅はないせいなのか、ここまでの道のりがあまりに険しく辛かったせいなのか、それとも、明日からまた、家づくりや田畑の整備といった、辛い仕事をはじめなければならないと分かっているせいか……)

 重荷を道ばたに下ろし、座り込んでもよいことに、やや色あせた開放感を覚えるだけで、長旅の終焉をことほぐ気持ちはおろか、一日の行程の終えた安堵の気持ちすら、湧き上がってこない。

 今はただ、身を横たえて泥のように眠り込むことだけを望むばかりである。

(せめて、寝床は今までよりもましなところで……)

 そう思って、地べたからようやくのことで尻を持ち上げる。と、里人の多くが同じことを考えていたと見えて、既に多くの者たちが作業を始めている。

 大きな分厚い石の上に丸い石を据え、手に持った固く鋭い石で思い切り叩いて打ち割り、即席の石鎌を作る者。その石鎌を受け取り、鋭くとがった刃を根元にたたきつけるようにして、密生しているカヤを刈り取る者。カヤから固い葉を取り除き、地面にたたきつけて柔らかくする者。それをつる草の一種であるカヅラで束ね、地面に敷き詰めていく者。そして、その敷き詰めたカヤの上に乗り、固い脇芽や鋭くとがった切り口を鎌で切り取りつつ、丹念に脚で踏みつけ、さらに柔らかく、寝心地よく仕上げていく者。

 その最後の者たちに混じって、クシナも、しばらくの間、無心でカヤを踏みつけ続ける。と……からだが心地よく上気し、軽く汗ばんできたところで、ようやく寝心地のよい――少なくとも、背中にごつごつと石が当たって寝苦しい思いをしたり、地面から立ちのぼる湿気で体を濡らしたりせずにすむ――敷物ができあがる。

 欲を言えば、その上に屋根をさしかけ、不意の雨に襲われても体を濡らさずに済むようにしたいところだ。が、そのためには、屋根を支えるための柱となる木を切り倒さねばならず、木を切り倒そうと思えば、まず石斧を――石鎌よりもずっと複雑で、加工に手間がかかる――作り、その石斧を手頃な太さの木に幾度も打ちつけて幹を削りとっていかなければならない。

 長旅で体が疲れ切っている上、陽は既に山の向こうへと隠れつつあり、早くも東の空はほの赤く色づいてきている。さすがに今からそれらの辛い作業に手をつける気にはなれない。

 幸いなことに、空模様を見る限り、今晩は降られずに済みそうな感じである(そろそろ雨の時期も終わりなのだろうか?)。なので、今日のところは、森の縁に敷物を運び、寝床をしつらえ、突然の雨に襲われてもそれほど濡れずに済むようにして、なんとかやり過ごすことにする。

 クシナたちが寝床を作っている間、それらの仕事をするには力不足の者――子供や老女たち――は、火をおこし、水をくんで、残りわずかとなった食べ物を煮こんでいた。やがて、寝床をしつらえ終わり、空の色も赤から紅、さらに蘇芳色へと黒みを増してきた頃、ちょうどそれらも食べ頃に仕上がり、器に盛られて運ばれてくる。

 しなびた青葉や縮んだイモ、根菜の切れっ端などが浮いた、塩味の強い熱々の汁を、そっと流し込むように腹へと収めていく。額に再び浮かび上がった汗が、折しも吹き始めた夜風になでられ、すうっと体を冷やしてくれる。

 割り当てられた汁を飲み干すやいなや、それまで体の芯にひそんでいた疲れがどっと表に押し寄せ……クシナは、這いずるようにして寝床まで体を運ぶと、そのまますぐ、横になった。

 トゥジに仕える者は、可能な限りその身を清く保つようにしなければならない。どれほど寒い季節であろうと、朝は水をくみに行くついでに水浴し、身につけていた衣服を洗う。そして、夜も食事の後に水を浴び、口をすすぎ、野良仕事で体にこびりついた泥やほこりを落としてから眠るよう、定められている(そのために、普通の里人ならば、身につけた1着しか持つことの許されない服を、2着も3着も持ってよいことになっているのである)。

(でも……今日はもう無理だ。こんなに暗いのに、あの流れのきつい川に入れば、流されてしまうかもしれない……)

 本当は、ただただ疲れ切っているため、水を浴びるのがおっくうなだけだ。けれど、やがてトゥジを継がねばならぬ自分が、そんなたるんだ理由で水浴を怠ったりすれば、皆に示しがつかないし、それになにより、自分の矜持に傷がつくような気がする。

 なので、少々汗で気満ち悪いことにも目をつぶり、暗闇と流れの速さを理由に自分を納得させようとしているのである。

(明日は誰よりも早く起きて、きちんと水を浴びよう……髪もほどいて、一本一本がきれいになるよう、丁寧に指を通して……)

 後ろめたさを押し隠そうと、そんなことを強く思いつつ身を横たえているうち、耐えがたい眠気が押し寄せ……うとうとと目を閉じかける。と、そこへ、隣に誰かがゆっくりと横たわる気配が伝わってくるのとほぼ同時に、優しい手が、クシナの頭を二度、三度とそっとなでていく感触が伝わってきた。

(ああ、父様が来られたのか……)

 口元にうっすら笑みをにじませつつ、重いまぶたをゆっくり持ち上げる。と、目線の先に移ったのは、ニグィの、がっしりと骨ばった頬ではなく、もっとふくよかで、そこここに染みの浮き出た、優しい皺の縦横に走る(かんばせ)であった。

 先代トゥジである。

「あ……これは……」

 慌てて起き上がろうとするクシナを、先代はゆっくり首を振ってとどめる。

「いいのですよ。横になっておいで」

 里の指導者であった方の前で、だらしなく体を伸ばしたままでいるのは、なんとも無作法で、居心地が悪い。普段のクシナであれば、断じて姿勢を正し端座するところである。が、この時ばかりは、昼間の疲れと、そして、先代の目に宿る不思議な光とに気圧され……不承不承ながら、だらりと体を長く伸ばし、されるがままになっていた。

 見れば、あれほどふくよかであった先代様の頬が、やや垂れ下がり、以前よりも太い皺が幾本も増えたようだ。

(旅の疲れのせいだろうか、なんだか、一気にお年を召した……)

 クシナは、ちりりと胸に痛みが走ったように感じ、思わず両手を握りしめた。

 思えば、先代様は、初老の域に達した父より、まだ一世代も年上。里の中でも最高齢に近い年齢なのである。にもかかわらず、旅のさなかも、若き者たちに交じって舟を引き、割り当てられた荷物を背負って、誰の手も借りることなく、山道をずっと歩き通してきた。その間ずっと、いつもと変わらぬふくよかな笑みをたたえ、ころころとよく笑い、へこたれそうになった里人を励ましすらしていらっしゃった。だからクシナも「なんともお元気なことだ、私も負けぬように頑張らねば」と思うばかりで、つい見過ごしていたのだが……旅の労苦は、やはり老体にはっきりとその爪痕を残していたのである。

(先代様……おいたわしい……)

 だが、そんなクシナの心中など気にも留めていないかのように、先代様は、ひたすら頭をなで続け……次には、指先と指先の間で髪の毛を梳くように、なでつけはじめた。

 ほこりにまみれた頑固な髪の塊が少しずつほぐれ、まっすぐになっていくにつれ、心もすっきりと整っていくように思われ、クシナは、うっとりと目を閉じた。

 そのまま、うとうとと眠り込みそうになったところで、

「……ようやく、たどり着きましたね」

 先代様の声が、そっと響いた。

 はっと目を開けると、先代様は、この上なく優しげな目で、じっとこちらを見つめている。

「里の皆……ことにニグィ殿には、存分にねぎらいの言葉をかけねばなりますまい。皆、本当によく耐え、本当によく頑張ってくれました」

 遠い目となる先代様に、クシナは「ええ、その通りでございます」と深いうなずきを返す。

 里を捨て、江を下り始めてから二月半。かつての同胞に追われ、波荒き「うみ」を乗り切り、土地の者たちから猜疑の目を向けられ、道なき道を、重い荷を()きつつ歩き……本当に、長く辛い日々だった。途中で、誰一人として命を落とすことなくここまでこれたのは、奇跡にも近い幸運と――認めるのは口惜しいが――カグチらの加護があったからに他ならない。

(江の父が……クムの者たちがいなければ、私たちはどうなっていたのだろう……)

 おそらくは、里を出ることすらかなわずに殺されていたか、あるいは、旅の途中で波にのまれ、あえない最期を遂げていたに違いない。

「……とにもかくにも、皆無事にたどり着いて、本当にようございました。これからは、この新たな土地にて、田を拓き、畑を作って、生きていけばよい。土地を守り、土を耕して……これまで我らが生きてきたように、暮らしていけばよいのです」

 心底ほっとした口調でそうつぶやきながら――先代様自身にとっても、慣れないことだらけであったこの「旅」はきっと、命をすり減らすような体験であったのだ――再びクシナの頭をなでたところで、先代様は、声を落とし、がらりと口調を改めた。

「……ですが、それは里人たちのこと。私たちは、これからさらに、さまざまなことに心を配り、マツリを行い……神酒を醸さねばなりませぬ」

 疲れた声音でありながら、思わぬ強さのこもった口調に、クシナは再びはっとし、ぎゅっと眉を引き締めた。

 そうなのだ。

 旅が終わって、それで安心してはいられない。いや、里人たちは心安らかに、慣れた「土仕事」に精を出してもらえばよい。だが、先代様と、クシナ本人は……そうはいかない。里人たちを鼓舞し、クムの者たちとの間柄を滑らかに整え、しっかりと土地に根をはるために、皆の支柱として、マツリを執り行なわなければならないのだ。

「明日はクムを束ねる方――クムタクルでしたっけ?――の元へと、主だった者でご挨拶にうかがいます。それが終われば、我らはすぐに、マツリの準備を始めることとなります。そなたにも、存分に働いてもらわねばなりませぬ」

 わずかにやるせなさの混じった声だった。が、クシナは、先代様のその哀切な思い――年若き自分に重荷を背負わせることをわびる思い――には一切気づかず、ただ、強くうなずく。

「お任せくださいませ」

 短いながら、決意のこもった返答に、先代様は顔をくしゃりとほころばせ……それから、いたずらっぽい笑顔となった。

「ならば、まずは明日の朝は一番に起き、きちんと水を浴びるのですよ」

 しまった、見抜かれていた、とクシナは思わず肩をすくめ、

「申し訳ございませぬ!明日といわず、ただいま、すぐに……」

 体を起こそうとしたところで、その機先を制するように先代が背中へと手を回し、ぎゅっとその胸元にクシナを抱きとめる。

「よいのですよ、大人に戻るのは明日からで。今晩は、今晩だけは、かわいいクシナでいてくれてよいのです……」

 抱きしめられたまま、そっと背中をなでさすられる。ほのかな暖かさと、ゆっくり背中を動く手のひらの感触が心地よく、クシナは、再び体の力を抜き……幼い頃に戻ったかのように、うっとりと先代にもたれかかった。

「そうそう。それでよい。そのまま、ゆっくりと眠ればよい……」

 その言葉にうなずくと、クシナは、先代の胸乳に顔をうずめ、甘い匂いをいっぱいに吸い込みながら、目をつぶった。

 先代も、そしてクシナ本人も、分かっていたのだ。

 今日が、クシナが子供に戻れる最後の日である、と。

 成人の儀こそまだ迎えていないが、明日からはすっかり大人となり……一族を、里を背負い、生きていかねばならぬのだ、と。

 老女は、まだ幼さが濃厚に残る少女に、心ならずもそのような大任を任せなければならぬことを憂い、せめてもの名残を与えようと娘を抱きしめ、娘はその心遣いをありがたく受け入れ、ただこのひとときだけの子供返りを、思う存分味わっているのである。

 そのまま……どれほどの時が過ぎたのだろうか。

「明日は……一番に起きて、必ず水浴をいたします……」

 その言葉を最後に、クシナは、心地よさそうな寝息を立て始めた。

 先代は、にっこりと顔をほころばせると、彼女を胸に抱いたまま、ゆっくりと目を閉じる。

 やがて……その口元から、ほのかないびきが聞こえはじめる。

 抱き合ったまま眠る二人の女の寝顔には、あどけない笑みにも、なにかに傷ついた哀しみにも見える表情が、ほのかに浮かんでいた。



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