第一章 異郷 6
6
イサザのムラを後にしてからは、陸路となった。
入り江の奥に口を開けた河口から奥地へと分け入り、そろそろと進んでいく。川沿いには人の通れる程度に踏み固められた道があり、歩くのにそれほど苦にはならないのだが、なにしろ中に荷を乗せた丸太を川に浮かべ――いかだは解体し、その材の大部分はイサザのムラにおいてきたのだが、いかだの下に並べていた、現代でいう「フロート」に当たる丸木舟だけは手元に残し、中に物資を詰め、ミツロウでふたをして、物資運搬のために使うことにしたのである――結びつけた綱で引きながら進むために、道のりは遅々として進まない。
(故郷の里――江であれば、帆をかけて風の力で遡ることもできるのだけれど、この川では……)
引き綱の端を握りしめ、腰を入れて一歩一歩地を踏みしめつつ歩きながら、ちらりと川面に目をやり……クシナはため息をついた。
透明な水が、時折渦を巻き、跳ね上がり、踊りながら、一瞬もたゆたうことなく、早足で流れ下ってゆく。水量も川幅も江とは比ぶべくもないほど小規模なのだが、その分なのだろうか、後から後からせわしなく流れ下っていく水流はあきれるほど強引で、逆らうことを許さない。時期を選べば、屈強な漕ぎ手が数人がかりで櫂を使うことで、なんとか遡ることもできるのだそうだが、川の水が増すこの時期は、どれほど櫂を使おうとも、ひとたまりもなく押し流されてしまうのが関の山。川岸から垂らした幾本もの縄に大勢で取りすがり、牽いていくことで、じりじり船を進めるより他ないのである。
連日縄を握りしめているせいであちこちすりむけ、マメができ、固くなった手のひらを時々腰のあたりに擦りつけながら、皆と息を合わせて足を運び、じりじりと船を進める。慣れぬ姿勢で力を出すために、肩の付け根がきしみ、腰がぎしぎしとかたまってくるが、それでも黙って舟を牽き、歩き続ける。日の出前に慌ただしく菜を腹に詰め込み、その日1日喉の渇きに耐えながら歩き、縄を持つ手が熱を持ち、腰の痛みが金切り声となる夕刻頃、ようやくその日の苦行から解放され、その場に倒れ込むようにして体を休める。そんな日が続いた。
改めて、舟とはなんと重たいものか、そして、この土地での川はなんと力強く、人とはなんと無力なものか、思い知らされる。
しかも。
川を遡り始めてしばらく経つと、ついに人里も絶え、ために、川沿いに踏み固められていた道すら、なくなってしまったのである。
必定、前に進むためには人の背丈よりも高い草をかき分け、根を掘り、新たに道をつけながら歩かなければならない。そのため、ますます歩みは遅々としたものとなった。その分、力を出して舟を牽く時間が減ったために、体の負担が軽くなったのはいいのだが……なんともやるせないことに、一日中、散々苦労して船を進めているにもかかわらず、夕刻、舟を岸に上げたところで来し方に目をこらせば「ああ、あそこが昨晩舟をとどめたところだ」とはっきり見て取れる。1日かけての苦行がいくらにもなっていないことをはっきりと思い知らされ、その無力感に、疲労がよりくっきりと体に刻印され……次の日への希望がどんどん薄れていく。
この分では、目指す土地にたどり着くのは、一体いつになるのか。先が見えず、いらいらが募り、ちょっとしたことで仲間同士の諍いが起こるようになった。
里長である父――ニグィは、そんな中でも決して穏やかさを失わず、つらい仕事の合間に、疲れ果てた人たちを励まし、あるいはたしなめ、どうにか皆をまとめている。
(父様には、本当に頭が下がる。もうお年もお年だというのに、一体どこから、あれほどの底力が湧いて出るのだろう。無理をし過ぎて、体を壊さないといいのだけれど……)
心配する気持ちはあるのだが、言ったところでニグィが聞き入れるのとは思えず、はらはらしながらじっと見守るより、クシナにできることはない。いまだ力も発言力もない子供であることがなんとも歯がゆく、できることなら一刻でも早く成人の儀を済ませ、一人前と認められたい、とあせらないではいられない。が、その一方、いやいや、成人したからといって、すぐに認められるわけではない、年を経て経験を積み、皆から自然と重んじられるようにならねば意味がない、その力もないのにえらそうなことばかり口にするのでは、あのカガチと同じではないか、と思い直すこともあり……結局、まだまだ子供でしかない自分への歯がゆさを改めてかみしめるしかなくなる。
そういった面でも、なんともやるせない日々を、送らざるを得なかったのである。
そんな、ひたすらつらく、重たい日々の中でも、ほんのわずかではあるが、ともしびがほの見える時もある。
その一つが、サグメだった。
サグメは、ほんの一年ほど前からトゥジ様――当代様にお仕えするようになった娘だ(北の民に靡く一派に身柄を拘束されてしまった当代様。おっとりと優しい方であった当代様。今もお元気でいらっしゃるのだろうか。ああ、当代様にお会いしたい……)。
大人の一人――それも、里中でトゥジの一族につぐ勢力を誇る有力者の娘で、しかも、かなり年取ってからできた末の娘であることにより、サグメは、家族や親族、そして多くの里人からかわいがられて育ったらしい。
幼いころからのべつ幕なしちやほやされると、中にはカガチのように勘違いを起こし、おのれを実力以上に大きな存在だと思うようになり果ててしまうことも多いのだが、サグメは、生まれながらのまっすぐな気性が幸いしたのか、誰にも優しく、おっとりした気性の娘に育った。
おっとりし過ぎているせいで、時に失敗や間違いなどを引き起こし、年かさの者に叱られてはしょんぼりすることも多かったが、それでも生まれながらに気性の明るい彼女は、すぐに気持ちを回復し、にこにこと笑顔を振りまくことで、周りの雰囲気を明るくしてくれる。ぱっと見る限り、それほど目立ったところはないが、側にいてくれるだけで、なんだか周囲の空気が少し暖かくなったように感じられる……サグメは、そんな子だったのである。
クシナは、そんな、たんぽぽのようなサグメと、不思議なくらいに気が合った。
当代のトゥジ様に仕える者としては最古参に近く、普段は無表情なのに、時に感情を爆発させ、周囲をおろおろさせるクシナと、新顔で、笑顔を絶やさず、皆を和ませるサグメ。年格好が同じほど、ということ以外に共通点など見当たらないというのに――いや、だからこそ――二人は気が合った。
初めのうちは、これまでに見たことない生き物に対するのに似た、おそるおそるの好奇心から、打ち解けてからは、心を開いてなんでも相談し合える――というか、互いの悩み事の勘所が違いすぎるため、多くの場合、どちらかが一人語りする悩み事に、もう一人がただ黙って耳を傾けるだけ、という状況であったのだが――里で唯一無二の親しい間柄になったのである。
そのサグメも、トゥジに仕える女として、ともに里を後にし、これまでずっと苦楽をともに旅路を歩んできたのだが……旅程の最後に待ち受けていた船牽きの苦行のさなか、他の者が皆おしなべて疲れ、血の気のない顔でいるというのに、ただ一人、いつにも増して楽しそうなのである。
もともと、それほど要領のいい方ではないし、忍耐強くもなければ、聞き分けのよい性格でもない。本来ならば、真っ先に音を上げ、手の皮がすり切れたの足にとげが刺さったのと泣き言を口にしてはめそめそべそをかきそうなものだ。なのに、大の大人が疲れ切った表情で足を引きずるようにしている時であっても、にこにこと笑みを浮かべ、なんとも嬉しげな様子で縄を牽いているのである。
(これはきっと、何かあったな……)
近いうち、夕べの食事の後にでも彼女を捕まえ、詳しいことを聞き出さなければ、とクシナは思い定めていたのだが……1日が終わる頃には、きまって激しい疲労にさいなまれ、「今日はとても無理だ、聞き出すのは明日でもよかろう、今日はとにかく体を休めよう」と重い体をその日の粗末な寝床に横たえるばかりで、ついつい、話を聞けぬままになっていたのである。
そんな日々を十日も過ごした、ある日。
その日もクシナは、好奇心より疲労が打ち勝ち、サグメのかたわらへそっと這い寄る気力も出ぬまま、どろどろした眠りの中へと入り込みそうになっていた。が、そこへ、当の彼女が、幾分顔を上気させ、もうこれ以上むずむずする口をおさえてはおけないという風情で、いそいそとクシナの隣へとやってき、「今日はここで休ませてもらおうかな」と言うが早いか、倒れ込むような勢いで身を横たえ、この上なく嬉しそうな顔で、すり寄ってきたのである。
(ああ、そうか。言いたくて言いたくて我慢できなくなったのね。この子は、本当にわかりやすい。そして、かわいらしい……)
胸の奥で苦笑しつつ、表向きはあくまでそらっとぼけた表情を作り、
「サグメ、横に寝るのは久しぶりだね」
クシナは、そう声をかけた。
「そうだね、ちょっとしばらく、忙しかったから……」
当代トゥジ様の愛弟子で、自他共に認める次期トゥジ候補であるクシナと、トゥジ様にお仕えしはじめたばかりで、言葉遣いすらろくに整っていないサグメとでは、里の中での立場が明らかに違う。なので、里人の目があるところでは、サグメはあらたまった敬語で、クシナは先代様のような、柔らかいがはっきり上の立場だと分かる口調で話さざるをえない。が、こうして二人きりになると、サグメはくだけた友達言葉で話しかけてきてくれる。それが、クシナにとって、なによりも嬉しい。
この時も、自然と顔に笑みがこぼれるのを感じながら、
「毎日毎日船牽きでつらいのに、サグメは機嫌がいいよね。なにかいいことでもあったの?」
と水を向ける。
と、サグメは火照りを冷ますかのように両手で頬を挟み込み、
「いいこととか、そういうんじゃないんだけど……この頃、よく話すようになった方がいらっしゃって」
いかにも嬉しげに、この上なく大事なことを打ち明けるかのようにそう告げる。
(ああ、そういうことか。それは、つらい道のりも苦にならないはずだ)
この子、どなたかに惹かれているんだ、などと心中で訳知り顔にうなずきながら――とはいえ、実のところ、クシナ本人は、ついぞそういった気持ちを抱いたこともないのだが――さらにとぼけた顔を続ける。
「この頃よく話すようになったって、里ではあまり親しくなかった人なの?」
「あ……うん。その……それが、里の方ではなくて」
「里の方ではない?」
「うん。あの……ククチ様なの」
「ククチ様……」
ククチ。カグチの年の離れた兄の息子で、彼に影のように付き従い、共に狼藉を働いている男である。
「年の割の落ち着いていて、話が分かる」と江の父――マダカからの評価は高いが、クシナからすると、カグチの暴走をいさめようともせず放置しているばかりか、むしろそれをあおり立てているように感じられ、すこぶる心証が悪い。
確かに、ククチたちの持つ、どこか自分たち「里人」とは異なった感じに、クシナ自身、はっとすることがないわけではない。とはいえ、頬を赤らめたサグメの口からククチの名が出た時、心にまず思い浮かんだのは「困ったことになった」という言葉であった。
だが、すっかり自分の気持ちにのぼせ上がっているのか、サグメはクシナのそんな苦い気持ちに気づくこともなく、
「その……船牽きの時にね、たまたま、ククチ様が私のすぐ後ろにいらっしゃって。ほつれた縄の先が手に刺さって困っていたら、なにも言ってないのに、そこに布を巻いてくださったの。それからも、私が困っていると、なにかと助けてくださって、そのうち、いろいろと話すようになって……」
と、頬を赤らめながら、いかにも嬉しそうに話し続ける。
その姿はいかにも愛らしく、幸せそうで、見ているだけでこちらまで嬉しくなってくる。相手がなにを考えているのか分からない男であるのが、なんとも気がかりなところではあるが……ふんふんと適当に相づちを打ちつつ、友の満たされた様子を見ていると、ここで余計なことを言って水を差すのが、なんとも無粋なことのように思えてくる。
(そうかといって、なにも言わないでおいていいものなのかどうか……この子も、まだ経験が浅いとはいえ、トゥジ様に従い、マツリを司る立場。ふさわしからぬ場では決して口にしてはならぬ秘密を数多く抱え込んでいる立場だ。それが、里人以外の者に知られることになっては……。いや、サグメだって、言ってよいことと悪いことの区別はついているはず。そう信じてはいるのだけど……)
あれこれ思い悩んだあげく、結局クシナは、問わず語りに延々と話し続けるサグメが一息入れた、その隙を狙って、
「それほどまでにククチ殿は素敵な方なのね。いい人と知り合えてよかった。でも、サグメも、トゥジに仕える立場だってこと、くれぐれも忘れないようにしてね」
と、一言やんわりと言っておくだけにした。
サグメは一見ぼんやりしているように見えるが、その実わきまえるべきことはきちんとわきまえ、押さえるべきところはきちんと押さえることのできる子であると、クシナは思っている。その自分の思いを信じることにしたのである。
その祈りにも似た気持ちが通じたのか、サグメははっと真顔に戻ると、
「うん。分かってる。言っちゃいけないこともあるものね。気をつける」
神妙な様子で深くうなずく。
その姿を見て、クシナは「ああ、やはりこの子はちゃんと分かってる」と、ほっと胸をなで下ろし……そして、
「それで?他にはどんなことがあったの?」
と、まだまだ話したりなさそうなサグメを促したのであった。
後に、サグメが元で里全体が窮地に陥りそうになった時、クシナは「なぜ、もっと強く念を押しておかなかったのか」といたく後悔することになる。だが、この時はただ、ひたすらつらい道のりの中で幸せなひとときを見出した友を祝福すること、そして、その祝福によって、自らの心をも慰めることにばかり気がいっていたのである……。
辛い日々が続く中のもう一つのともしびは――クシナ自身にとっても実に意外なことに――カグチであった。
サグメの恋を祝福してから数日後――船牽きを始めてからはそろそろ二十日になんなんとするころ。それまでずっと、皆を先導してきた江の父――マダカが、まだ日も高いというのに、突然立ち止まった。
(なんだ?)
いぶかしく思いつつも前方をすかし見る。
と、やや前方に川が大きく広がり、よどんだ水をいっぱいにたたえた淵がある。さらにその先、これから進むであろう方向へと目を向けると、そこには、ごつごつとした岩が連なって遙か高みまで続く崖になっている。
これまで皆で遡ってきた川は、その遙か上方にまで続く岩場の上から、激しい勢いで流れ下っているのである。
「たき」というのだそうだ。
(そうか……先ほどから、なにやら川のせせらぐ音がやや耳につくように思えていたのだけど……あれほど高いところから水か一気に流れ落ちていれば、水音が大きくなるのも当たり前だ……)
見れば、今クシナらが立ち尽くしている場所こそ、砂利が広がる開けた場所となっているが、そこから先はすぐ、背丈を超えるほどの大きな岩岩がいくつも重なって崖の上へと続いている。
(これは……舟を牽きながらなんて、到底登れない……)
皆、途方に暮れて前方の険しい岩山を見つめていたところで、マダカが再び口を開いた。
「見ての通り、ここから先は川縁を進むことができぬ。残りの道のりはそれらを担いで山を越えていくことになる」
それを耳にした一同の間に、これでようやく苦行から解放される、という安心と、この先更なる苦行が待ち受けているのではないか、という不安が入り混じった、なんとも言えない空気が流れた。
だが、ここまできてしまった以上、先になにが待ちかまえていようとも、引き返すことはできない。目的地にたどり着くまでは、たとえ何があろうとも、進み続けるしかない……という諦めが、やがて支配的になり、一同は、のろのろと舟を引き上げては、ミツロウで施したふたを取り去り、中に載せてあった荷物をよろよろと取り出しはじめる。
やがて、淵から川が再び流れ出ていこうとする、その際にできた砂利の平地に、荷物の山ができ……クシナは、その見上げるほどの量に、目を見張った。
(改めて見るとすごい。これほどまでに多くの荷物を積んでいたのか……。道理で重たかったはずだ……)
と、その驚きは、すぐに懸念へと変化した。
これまでも、当座生きていくのに必要な食糧や、濡れては困る寝床用の織物、煮炊きに必要な土の器といったものを中心に、相当な量の荷物を背負って歩いてきている。それに加えてこれほどの量の荷物となると、一度で運ぶことなど到底不可能だ。かといって、価値のあるもの――土地に住みついた後必ず入り用になる上、なかなか手に入らぬ、造り出すのに大変な手間がかかるもの――を、こんななにもない、開けた場所に置いていってしまっていいのだろうか。いくら周囲に人里もないとはいえ、さすがに不用心な気がしてならない。
クシナと同じことを[里の父」ニグィ――と、その他の里の大人たち――も危惧しているのだろう。これまではマダカのいうことを素直に受け入れ、唯々諾々と従ってきたというのに、今度ばかりはやや険しい表情をその頬に浮かべ、黙ったままじっと荷物の山を見つめてばかりいる。
と、そこへ。
「どうしたのだ?早いところ出発しないと、いくらも進まぬうちに日が暮れてしまうぞ?」
いつもの通りずかずかと、カグチが割りこんできた。
「んあ、いえ……ただ、これだけの荷物となると、いちどきには運びきれぬな、と思いまして……」
丁寧だが、よくよく注意して聞くと「あしらっている」のが分かる調子で――荷物をどうするかで頭がいっぱいで、生意気な若造の戯れ言につきあうのが煩わしかったのだろう――ニグィが応えると、
「ああ。それなら、持てる分だけの荷物を持って、残りはここに置いておき、後で取りにくればよいではないか」
と、カグチがこともなげに応える。
それができないから困っているのだ、といわんばかりに眉をしかめ、
「しかし、中には、それなりに高価なものもありますし、濡れては困るものもあります。どの荷物を持っていくべきか選ぶのはなかなか難しいのでございますよ」
幼子を諭すような口調でそういったのだが、それでもなお、カグチはめげない。
「なにを迷うことがある?濡れては困るものと、当座入り用なものだけもって、後は置いていけばいいではないか」
「しかし、それでは、当座は要らぬものの、里での暮らしには必ず入り用で、しかも価の高いものを残していかねばならぬことに……」
村長たる父がそこまで言いかけたところで、傲慢な若者は腕を組み、いかにも大仰にため息をついてみせた。
「なんじゃ、ひょっとして、置いていった荷物を誰かに持っていかれるのではないか、と心配しているのか?それならば気にしなくていい。荷物に筵でもかけて、その上にこれを置いておきさえすれば、誰も手出しはせぬ」
言いながらカグチは、首に下げていた粗末な飾りを取り、ニグィに手渡した。
父の手の上に乗せられたものを、のぞき込むようにして見る。と、それは、直線を三本無造作に交差させた模様が乱暴に刻まれた、クシナの手のひらにすっぽりおさまる程度の大きさの、ただの平べったい石である。首から下げる飾りとしては、なんともお粗末な代物だとかねがね思っていたが、こうして間近に見ると、思っていた以上に粗雑で、ごくつまらないものにしか見えない。
(こんなものが本当に、泥棒よけの役に立つのだろうか……?)
疑念に満ちた視線をカグチに向ける。が、カグチは怪訝そうな顔をするばかりである。
「そのような顔をせずともよい。わしが請け負う。これさえ荷物の上に載せておけば、このあたりの者で、手を出す者などおらぬ。なにしろこれは、クムの者――それも、クムタクルの一族の証なのだからな」
「証?」
「そう、証だ。見知らぬ土地で、誰か見知らぬ者に出会った時でも、これさえ見せれば、我らがクムタクルの一族の者であると分かってもらえる。我らは森の中をずっと遠くまで歩き回るが、そんなとき、見知らぬ者と出くわしても、これさえ持ち歩いていれば、無用な争いをせずにすむのだ」
ああ、そうなのかと、クシナは胸の中で深くうなずいた。
クシナたちのような「里人」は、隣の里の者と契りを結んで婿入り、嫁入りするとか、あるいは今の自分たちのようにのっぴきならない理由で里を離れなければならなかった場合を除き、ほとんどの者が里からあまり離れることなく一生を過ごす。里の近くを歩いている者は、たいがい同じ里人か、もしくは交易にやってきたり、婿入りした息子や孫に会いに来た爺婆であったりで、顔見知り以外の者に会うことなど、まずあり得ない。なので、自分が何者かを示すためのものを持ち歩くことなど、絶えてなかった。それどころか、そのようなものが必要であるということすら、思い浮かびもしなかったのである。
が、カグチらは違う。
彼らは森の民。獲物を求めて森の中、山の中をはるか遠くまで歩く者たちである。それだけ行動範囲が広い分、見知らぬ者たちと邂逅する可能性も、クシナらと比べ、段違いに多いはず。そんなときに、自分たちがどこに所属するものかを示す「証」があれば、無駄に相手と争うことなく、平和裡に別れることができる。
(里を持たぬ代わり、石に刻んだ小さな「里の証」を胸に抱いて、カグチたちは野山をさすらっているのだな……)
そう思うと、妙に悲しいような、うらやましいような気持ちになった。
が、そんなクシナの感慨になど一向に気がつかぬ様子で、カグチは淡々と話し続ける。
「この辺りは、もう既に、我らクムの者の縄張りだからな。もうこの証を持ち歩く必要はない。そして、この辺りを歩き回る者たちも、ここが我らの土地だということはよく分かっており、そのことに恐れと敬意を抱いている。だから、我らの証さえつけておけば、それがたとえ、どれほど価値ある財物であろうとも、誰もそれに手をつけたりはせぬ。安心して、置いていくがよい。ああ、ただし、口に入るものは決して置いていかぬように。獣や鳥に荒らされるからな」
いつものカグチの、自信に満ちあふれた自慢げな口調、表情ではなく、それが当然のこと、といわんばかりの平静な口調、落ち着いた顔つきである。それが却って犯しがたい威厳を生じ、ニグィは――そしてクシナも――気圧されたかのように、おそるおそるうなずいた。
そのうなずきにも、ただ素っ気ないうなずきのみを返し、
「では、さっさと準備を始めるがよい。急がないと、山を越える前に日が暮れる」
カグチはそのまま、すたすたとその場を後にする。
そこでようやく、なにかの呪いから解放されたかのように、ニグィは、ほっと体の力を抜いた。
「皆の衆!今の、カグチ殿の言葉を聞いたな?そういうことだから、持てるだけのものを持って、残りはここに置いていくとしよう!さあさ、急ぐのだ!さもないと、山の中で夜を越すことになるぞ……」
その声に促され、里人たちがあたふたと動き出したあとも、クシナは、人々からやや離れたところにしゃがみ込み、ククチと何やら話し込んでいるカグチの背中を、じっと見つめていたのだった。
それが、はじめてカグチの意外な一面を目にした時だったのだが……それから、また数日後。山の中を歩み始めてから、さらに、カグチを見直す出来事があった。
重い舟を全身の力で牽きながら川沿いを一歩一歩踏みしめていくのは、これまで生きてきた中で味わったことのないほどに辛く、骨の折れる経験であった。が、そこから今度は山越えをすることになり、険しい山肌に沿って自分の体を地上から持ち上げるように引き上げていかねばならなくなると、それも、やはり――これまで生きてきた中で味わったことのない――また違った苦しさがあった。
道なき道を斧を振るって切り開きながら歩いて行くのはどちらも同じなのだが、川の方は開けている分、丈高く密生した草が多く、それを切り払ってしまえば、歩くのにそれほどの苦労はない。ところが、山では急な斜面を右に左に折れながら這うように上っていかねばならず、それらの道筋全ての下草を刈ることもできないので、必然的に下草をかき分けて歩いて行くことになる。
山の中はひんやりとした思い空気がじっととどまっており、川沿いに比べて至極過ごしやすいのだが、重い荷物を背負い、場所によってはつるつるすべる土を踏みしめつつ、草をかき分け、その上膝を高く持ち上げて斜面を行くうち、自然息は上がり、頬は火照り、体は火がついたように暑くなって、後から後から汗が流れ出してくる。船牽きの時は、ずっと腕に力を込め、腰を落として進まねばならぬ苦しさはあったが、つらい時には、周りの人たちとかばい合い、体を休めながら進むことができた。が、山を登るときには、それも叶わない。力をゆるめれば、そのまま斜面を滑り落ちていくことになる。どれだけ苦しくても、辛抱して足を進めるより他ない。
分かってはいるのだけれど、それは、なまなかでなくつらく……後から後から額から流れ落ちる汗にいらいらし、クシナは思わず、顔をしかめた。
(ああ、どうして汗というものは、これほどまでに目にしみるのか!)
自分では、十分に注意を払っていたつもりだったのだが、つらさと心地悪さに気持ちが乱れ、ついつい足下への注意がおろそかになっていたのだろう。
「痛っ!」
一歩を踏み出した右足のすねに、鋭利な痛みが走った。
立ち止まってみると、膝よりもやや下のところ、脚を横切るように一本の赤い筋が浮かび上がり……みるみるうちにそこから血がにじんでくる。
下生えを雑にかき分けた時、鋭利な葉の縁で切ったのだろう。我ながら、なんと迂闊なことだ、といまいましい思いにさいなまれ、思わず顔をしかめる。
だがまあ、この程度の傷ならばどうということもない、放っておけばそのうち血も止まるだろう、と再び歩き出そうとした時。
「どうした?切ったのか?」
やや面倒くさそうな……だが、聞きようによっては心配している風に聞こえないでもない若い声が、斜面の上から滑り降りてきた。
カグチである。
たいしたことない、これぐらい、と脚を退こうとしたのだが、それよりも早く、カグチはふくらはぎに手を添え、子細に傷を眺めている。
「む、笹の葉で切ったな。これはいかん」
「大丈夫。これぐらい、放っておいても……」
若い男に至近距離で脚を眺められる居心地の悪さに、クシナはなんとか脚を引き戻そうとするが、カグチはそれを許さない。
「なにを言うか。笹の傷は怖いのだ。これしき、と思っている傷が腫れ上がり、脚そのものが腐って死に至ることもあるのだぞ。放っておくなど、もってのほかだ」
そういいながら、腰に提げた竹筒を取り外し、中に入っている水を、クシナの泥はねのついた脚に振りかける。
じんと傷にしみて、思わずうめき声を出しそうになるのをなんとかこらえ、
「気持ちはありがたいのですが、どうかもう……」
と言ったところで、
「どうしたのです!?」
仲間の、トゥジに使える女たちが数人、駆け寄ってきた。
「うむ、こやつが少々怪我をしたようでな。それで手当を……」
カグチが言いかけたところで、
「なにをなさっているのです!そなた様が口をつけた水をクシナに振りかけるなど!」
「手当はこちらでいたしますから、さ、どうかその手をお放しになってくださいませ!」
口調こそ丁寧だが、語気の荒さからして、明らかに相手の怒りを買っていると悟ったのか、
「い、いや、わしはただ、手当てをしてやろうと……」
やや戸惑っているカグチに、
「申し訳ありませぬ。我らトゥジに使える者は、みだりに他の者と触れ合ってはならぬ、という掟があるのです。その……」
「ケガレよ!ケガレを防ぐため!だから、限られたものしか食べられないし、あまり人と触れ合ってもいけないの!分かった?」
クシナの言葉の後を受ける形で、仁王立ちしたサグメが憤然とそう言い放つ。
(あ、ばか!この乱暴者のこと、せっかくの好意を、そんなきつい言葉で責めたら、一体どうなるか……!)
と、クシナは、こわごわカグチの表情を探ったのだが、案に相違し、彼は「ケガレ」という言葉につかの間顔をしかめたものの、すぐに真顔となり、
「掟か。なるほど、ならば仕方ないな」
訳知り顔で、そううなずいたのである。
なんとも意外な反応であった。
(あのようにきつい言葉をぶつけようものなら、間違いなく激怒し、サグメを殴り倒すぐらいのことはするだろうと思っていたのに……)
クシナの不思議そうな視線にも一切気がついていないのか、カグチはあくまで真剣な表情で、手当の心得のある者がいるのか、山のことに詳しい者がいるのかと、「トゥジのむすめ」たちに問いただしている。そして、娘たちが皆、表情を曇らせ、黙り込んでいるのを目にすると、難しい顔で、ひげがぽつぽつと生えたあごをさすりはじめる。
と、やがて。
「よし、分かった。それでは、わしがやり方を教えるゆえ、そなたたちで傷の手当てをせよ。それならば文句はあるまい?」
あごから放した手を胸の前で組むと、カグチはそういって、サグメを顔をのぞき込むように見つめた。
「え?あ……うん。それなら……」
他の娘たちの反応をきょろきょろとうかがいつつ、彼女がおそるおそるうなずく。それを見て取り、
「よし。では、まずはそこに生えている草の葉を摘んでまいれ。ああ、それではない。そちら……そうそう、その、つんとした、爽やかな匂いのする草だ。あ、いかんいかん、大きく育った固いものではなくてな、茎の伸びた先についておる、柔らかい葉を摘むのだ。そうだ、それだ。それを、手のひらいっぱいになるまで摘んだら、口の中に入れてな……」 カグチのてきぱきした――そして、やはりどことなくえらそうな――指示の声を遠く聞きながら、クシナは、旅の途中のカグチのあの尊大で傲慢な態度と、それとは似ても似つかない、ここしばらくの落ち着いて冷静な態度とを、かわるがわる思い浮かべていた。
そして、はっと気がついたのだ。
(もしや……もしかすると、カグチは、外地でずっと気を張っていたのかもしれない……)
カグチら「山の一族」は、山中で木の実や薬草を採ったり、シシやシカといった獣、キジやカモといった鳥を獲ったり、沢に下りて魚や貝、カニを捕って、日々の食糧を得ている。一定期間そうやってとある土地に住んで生活し、やがて手に入れられる量が減り、一族を養うのには足りぬようになれば、その地を捨て、実りの多い土地を求めてさまよい歩く、という生活をしている(サグメがククチから聞き出した話を又聞きしたことに、クシナ自身の観察を加えて導き出した推測だから、全くこの通りの生活ではないのだろうが)。 とはいえ、日々の食糧を得るに十分な豊かさの森にさえたどり着ければ、それ以上遠くまで移動する必要などないし、他にも山の一族がいくつか存在し、それぞれ山々をさすらい歩いて生活している関係上、自ずから、一族が移動する場所は限られたものとなる。
山を三つ、ないし四つほどを数年かけて一周するような形で渡り歩き、時折木も実が不作の年などあれば、それよりもやや遠いところにまで脚を伸ばす……おそらくは、そんな形で彼らは一生を送っているのである。
ただ、一族全体はそのような生活を送っているとはいえ、獲物となる獣を求めて、時には山をいくつも踏破する男連中は、他の一族と鉢合わせしてしまうことも、少なくない。そういう場合、山の一族では皆で宴をはる習わしなのだという。
お互いが出くわした狩り場に近く、しかも皆が集まって座れる場所――滝壺近くのやや平たい場所であるとか、落ち葉の厚く散り敷いた高木が立ち枯れてできた空き地であるとか――に腰を下ろし、互いの獲った獲物を持ち寄って――酒を携帯していれば、もちろんそれを飲みつつ――さまざまなことを語り合う。
どこの一族の誰の息子か、他の一族に加わった誰かのことを知っているか、今年はどこの山のどんな木の実の出来がいいか、どこそこの一族には噂に高い美女がいるということだが、一体どのような女性なのか、などなど、たき火を囲んで一晩中語り尽くす。なかんずく、彼らがもっとも重視するのが、狩りなどの手柄話なのである。
数年前の冬、山に入ったのだが、その年はことさら寒く、雪が多くて獲物がなかなか見つからなかった。かといって手ぶらで帰るわけにはいかず、普段の年よりも遠くの山まで足を伸ばしたところ、そこで、巨大なシシに出くわしたのだ……などという感じで語り起こし、その獲物をどれほど苦心して追跡したか、皆でどのように追い詰めていったのか、そして、その巨大な獲物をいかに仕留めたのか、微に入り細をうがち、事細かに話す。
もしもこの時、相手にろくな手柄話をできないと、大変なことになる。
山でろくに働けぬものばかりが揃った――つまりは、もし諍いが起こったとしても、手もなく打たれてしまう弱者ばかりの――一族であると見なされ、なめられ、自らの生命線である山々を、奪われるかもしれないのである。
だから、彼らは腹にぐっと力を入れ、気合いを入れて手柄話を語る。大仰な表情を作り、腕を振り回し、身振り手振りをつけ、実際の成果よりもやや誇張した話を語るのだ。
山の一族の男たちは、だから、狩りのうまさもさることながら、この「語り」の巧みさをも、大事な資質として見なされる。獲物を屠り、皆にうまい肉をふるまうばかりでなく、巧みな話術でもって、出会う相手を「ほう」と感心させることができる男こそが、皆から尊敬されるのである。
カグチは、この山の一族の価値観にどっぷりと染まって生きてきた――というより、それより他の生き方を知らぬ――男だ。
彼にとって、初対面の人間とはすなわち敵対する可能性のある者。その敵対心を挫くためには、いかに自分が――自分たち一族が強靱で、油断がならず、奸智に長けているのかを相手に深く知らしめなければならない、と思い込んでいる。
そんな男が、住み慣れた山を離れ、遠くうみを越えて旅をすることとなったのである。当然ながら彼は、見知らぬ土地で「相手に舐められないように」必死の思いで虚勢をはり、ことさらに傲慢な態度で、仰々しく飾り立てた自慢話をまくし立てる。そうすることで、土地勘もなく、見知らぬ者ばかりの心細い土地においても、自らと、一族の矜持を守ろうとしたのだ。
自らの故地に戻り、やや落ち着いた態度と物言いとなったカグチの姿を見て、かの者の、目上の者を敬おうともしない、虚勢をはった、この上なく鼻持ちならない態度の幾分かは、そういったことから発していたのかもしれないと、クシナは卒然と思い当たったのである。
(……もちろん、一族の誇りを守ろうという思いだけで、あれほどにえらそうな態度を取るとは思えない。「江の父」の頭を痛めている様子からしても、もともとカグチには人を人とも思わぬ一面が、大いにあったに違いない。けれど……)
いきなり放り込まれた見知らぬ土地で、自らに課せられた役割をなんとか果たさんとしたがゆえの暴走も、かの身勝手さの中に含まれていたのだとすれば、その分は割り引いて考えてやるべきではないのか……。
女たちの手で傷口を洗われ、かみ砕かれたどろどろの草の葉をそっと傷口に当てられる痛みに耐えながら、クシナは、そんなことをずっと考えていた。
やがて、どろどろの草の上からくるくると布が巻かれ、きゅっと結んで留められる頃には、血は止まり、痛みも和らいで、歩くのに何の不都合もない、と感じられるようにまでなっていた。
(すごい……なんという効き目だろう)
目を丸くして、しげしげと自らの足を眺めていると、そのすぐ近くにカグチが腰を下ろし、にたりにたりと気味の悪い笑顔を浮かべつつ、クシナの顔をのぞき込んでくる。
「どうだ?痛みが和らぎ、心地よくなったであろう?」
恩着せがましいしたり顔に、いらつきを覚えたものの、かなり楽にはなっているのは間違いない。
「ええ……ありがとうございます。おかげで助かりました」
不承不承例を申し述べると、カグチは、嫌みったらしい笑顔をさらに濃くし、多くに二度、三度とうなずいた。
「そうであろう、そうであろう!そなたに今使ったのは、「フツ」という薬草でな。山にすむ者で、その効能を知らぬ者はおらぬ。がしかし、そなたらのような里人はもの知らずだからな。そんな、赤子でも知っておることすら知らぬ。全くもって世話が焼けるが、まあ、仕方がない。これからも困ったことがあれば、なんでも相談せよ。気が乗れば、助けてやらぬでもないからな。うははははは……」
勝ち誇ったような笑い声を残し、軽い足取りでカグチはその場を後にした。その背中を、いきり立った気持ちそのままに、クシナはきりきりとつり上がった目で、ぎっとにらみつける。
(なんだ、あの態度は!なにが、「助けてやらぬでもない」だ!ええい、腹が立つ!少しは見直してやろうと思っていたけれど、やめ、やめだ!あの男は、もともと性格がねじ曲がっているのだ!あんなやつに情けなど、みじんもかけることはない!根っからの嫌な奴なのだ!)
その思いに突き動かされるかのように、クシナは憤然と身を起こし、再び背中に重い荷を背負うと、再び地を踏みしめつつ、斜面を登りはじめたのだった。