「ナターシャ・ルテラにはDV婚約者がいるらしい」
ちょっと尻切れとんぼ風味があります、すみません
荷物の多いその部屋には二つの人影があった。
一人は青年。すらりとした贅肉のついていない体と、優しげで端麗な面立ちを併せ持っているが、今はその美貌を思い切り歪めて、艶やかな黒髪を手で掻き毟っている。
もう一人は少女。中肉中背の体格を縮こませ、これといった特徴もない容貌を伏せて、青年の眼前に無言で佇んでいる。
深呼吸して、青年が口を開いた。
「別に難しいことを言ってるわけじゃないでしょ?人が来たら笑顔を浮かべて、挨拶をする。大きな声でなくてもいいから、相手に聞こえるくらいの声量を出す。難しくありませんよね?」
眉を下げて少女はうん、とか細い声で返事をした。
「それなら、どうしてできないんですか?」
「ご、ごめん…」
反射的に謝罪して、少女は、あ、と青い瞳を見開いた。
青年がみるみるうちに目尻を吊り上げる。
「だから…!謝らないでって言ってるでしょ!?ごめんごめんごめんごめん、もう何回聞いたことか!それしか語彙がないの!?」
「ご、ごめ…あ…」
おどおどと、視線を泳がせて少女は両手を握りしめる。その怯えように、青年は目を閉じて深いため息を吐き、平静な声を出そうと務めた。
「…分かりましたから。これまで以上に私がついててあげますから、だからせめて、笑う練習くらいはしておいてください」
「う、うん…あの、本当にご…あ、ありがとう」
必死で、謝罪ではなく感謝を絞り出した少女に、青年は肩の力を抜いて顔を背けた。
「…いいですから。行きましょう、ナターシャ」
「うん…レ、レオン」
そうして、二人は部屋を出ていった。
それを見届けて、今までずっとその部屋―――倉庫の隅に忍んでいた男は、ずるずると這い出して呟いた。
「や、やべえ現場を見ちまった…」
レオンハルト・フィスターは学内でも有名な色男である。
彼はそれほど高位の貴族ではない。それでも入学前から名が知れ渡っていたのは、彼が相当の美男子であるのに加え、謎が多いという点も手伝っていた。
まず無口で、容易く人に思考を読ませない。
端的かつ淡々と会話をするので、取り入る隙がない。
冷静沈着で理性の塊のような男なので、間違っても人前で口を開けて大笑いしたり、怒鳴りつけたりしない。徹底的に感情を晒そうとしないのだ。
そのため、昔から彼の姿を知る高貴な令嬢達は、謎めいた美丈夫をうっとりと遠目から眺めつつも、決して近づきはしなかった。声をかけても無言で拒絶されるのがオチだからだ。
入学当初は、その事情を知らず大胆に擦り寄って気に入られようとするものもいた。が、すぐに令嬢達に対処された。抜け駆けはご法度だった。
加えて、あまり有名ではないものの、彼には幼い頃から婚約者の存在があったのだ。
ナターシャ・ルテラという名前の少女だった。彼女はレオンハルトとは打って変わって地味な人物であり、特に良い噂も悪い噂もなく、何故あんな少女が、と令嬢達には忌み嫌われていた。
とりわけ不快だったのは、その態度だ。
彼女は学園に入学してから、常にレオンハルトのそばで、彼に庇護されるかのように佇んでいた。
レオンハルトがいなくなった隙を見計って令嬢達が声をかければ、彼女は大袈裟にびくりと震え、強張った表情と、細々しい声で対応した。
そして最後には駆けつけたレオンハルトに手を引かれ、その場を逃げるように去るのだ。
ナターシャのこととなると、冷徹なレオンハルトも落ち着いてはいられないようだった。
それが令嬢達には気に食わない。
最近はどういう風の吹き回しか、ナターシャ自ら令嬢達に挨拶をするようになったが、結局すぐそこでレオンハルトが見守っているので、好感度も上がらない。
美青年に擁護され、依存する卑しい女である。
ナターシャは令嬢達の間でそんな認識になっていた。
そして、とある現場に居合わせてしまった男は、彼女をどうにかしたいと思っていた。
「というわけで、殿下。あのレオンハルトとかいう高圧的イケメンから女の子を救い出したいんです」
「…本当に、見たんだな?」
「はい。バッチリ」
従者であり親友、ブラッドの証言に第二王子ジュリアスは首を捻った。
レオンハルト。もちろん知っているし、学内で事務的な会話も何度か交わしたことがある。女どもは「男性とは思えないほど繊細かつ美麗」「知的でクール」「殿下とは大違い」などと囃し立てているが、そんな大した奴だとは思ってなかった。
初の対話は入学前だった。その時レオンハルトと接して思ったのは「こいつ、さては人見知りの恥ずかしがり屋だな」である。
見た目で過大評価されて得しているだけのシャイなあんちくしょうだな、と。
故に、彼が怯える婚約者に怒鳴り、威圧していたと聞いて受け入れがたい。
果たしてあいつにそんな気概があるのだろうか、と疑ってしまう。
信じられていないと悟ったブラッドは「どうにかしましょうよ殿下!いたいけな女の子が虐げられているのを見捨てるんですか」と煽ってくる。
そもそも虐げられていると断定していいのか。そういうプレイの可能性はないのか、と指摘すれば、ブラッドは「よほどの変態でない限りあり得ません。側で聞いていただけの俺でもびびっちまうくらいの怒り方だったんですよ!」と言い募った。どうやら思い出して萎縮したらしく、ぶるりと小柄な体を震わせる。
「殿下が俺に倉庫へのお使いを命じなければ、こんなことにはならなかったんですけどね」
「仕方ないだろう。お土産を見つからないように保管しておくにはあそこが一番良かったんだ」
お土産とは、魔女への貢ぎ物のことである。
ちょっと他人に言うのは憚られる話だが、王族は密かに魔女とパイプを持っている。
魔女というのは、かつて黒魔術を生み出し国から追放された一族の総称だ。しかし何代か前の王によってこっそりと謝罪、密約が交わされ、今ではちょくちょく物と引き換えに術を提供してもらっている。
その術の効果たるや百発百中で、洗脳から催淫までなんでもござれ。いつかは国に大々的に戻ってもらって協力関係を結びたいが、肝心の魔女達が「嫌だよ森の奥気に入ってるし」と応じないので話は停滞状態にある。
対価を払いさえすれば気軽に受注してくれるので、ジュリアスも何度か秘密裏に利用しているのだ。
閑話休題。
ジュリアスは後頭部に手をやり、困ったなあとポーズで示しつつも、「自分の目で見ないことには信じられん。俺も現場に張り込むぞ」と決めた。
一度あることは二度あると信じ、目撃したのと同じ時間帯に倉庫の隅に隠れる。小柄なブラッドと違いジュリアスは筋肉質な体格である。長時間布をかぶってじっとうずくまっていると痺れるし痛いし精神も「俺何やってんだろう」と落ち込んでくる。
どうにか気を紛らわせようと小声で、隣り合うブラッドとくだらない会話をしていると、微かに扉が開く音がした。
口を閉ざして下からちらりと覗く。
レオンハルトとナターシャだった。
本当に来た。
「…今日も駄目でしたね?」
「…うん」
レオンハルトの静かな問いかけに、ナターシャは沈痛な声で返事をした。
「言いましたよね、普通に笑っていられるようになってくださいって」
「うん…」
「何が悪かったんですか?途中までは順調でしたよね?ちゃんと、笑って対応できていました。声も、わずかですが私の距離まで聞こえてきました。途中までは良かったんです。なのに」
深く、息を吸う音。
「なのに、途中から声量が消えました。笑顔も崩れました。それからずっと保てなくなりましたね。何が原因だったんですか?」
「…それは、その…会話の内容が、嫌な感じで…」
「嫌な、感じ?」
レオンハルトの上ずったおうむ返しに、あ、とジュリアスは予感する。
それは、まずい。
「話されてることが気に食わないから、動揺して、素に戻ってしまったってこと?」
「う、ご、ごめ…」
「―――謝らないでって言ってるでしょ!!」
怒声。反射で震えかける体を必死で押さえ込む。
唐突な叫び声は心臓に悪い。自分達ですらそうなのだから、面と向かっているナターシャはどれほど恐ろしいだろうか。
沈黙の後、レオンハルトは深呼吸して、絞り出すように言った。
「…内容なんて気にしなくていい。悪口だろうが何だろうが、気にせずヘラヘラ受け流しておけばいいんですよ」
「で、でも!悪口は許せない。あの子達、酷いこと言ったんだよ!?よりによって外見を…」
「…特徴のないブスがレオンハルト様の隣に立つな、とでも言われました?」
ナターシャが息を飲んだ。図星だったらしい。
レオンハルトは嘲笑うように続ける。
「そんなことでいちいち傷つかないでくださいよ。事実なんですから」
「な…!そ、そんな、そんなこと」
「―――いいから」
有無を言わせない口調でレオンハルトが話を打ち切る。ナターシャも、それきり黙り込んでしまった。
その後、二人はどちらから提案するわけでもなく、無言で部屋を出て行った。
一部始終を見終え、ようやく四つん這いから解放されたジュリアスは「これはちょっと深刻だな」と呟く。所々に埃をつけたブラッドも「心臓が痛い…」と嘆いた。
ブラッドの証言は真実だった。
このまま放っておくわけにはいかない。
「とりあえず、ナターシャに話を聞いてみよう。本当に助けを求めている状況なら、真実を語ってくれるはずだ」とジュリアスは決定し、その日は解散した。
翌日。レオンハルトとべったりな中で、ナターシャが単独行動になる時間を尾行して探す。
しかし、レオンハルトが席を外し彼女が一人になった途端、続々と群がって苦言という名の罵倒をする令嬢達の姿を目にして、ジュリアスとブラッドは戦慄せずにはいられなかった。
多勢に無勢とはまさにこのこと。令嬢達は齢十六にして兵法を心得ているのだ。
だが、ここで「怖いから」と見過ごすわけにはいかない。
ジュリアスとブラッドは勇敢にも女の軍勢に切り込み、「何ですの殿下」「今大事な話してるんですのよ」「殿下に関係ないでしょう」「でしゃばり」などと傷を負わされつつも、ナターシャを密室に連れ出すことに成功した。
「…何か、用で?」
警戒と不安、戸惑いがない混ぜになった顔で佇むナターシャに、「お、女と密会なんて緊張するな。お前が話せよ第一目撃者」「えー殿下が会話してくださいよ!」「何だよしょーがねーなあ」と気をほぐすやりとりを終えてから、ジュリアスは咳払いして本題に入った。
「あー…ナターシャ君。もしかして婚約者のレオンハルト君に苛められているのではないかね?」
「…え」
「実はだね、君とレオンハルトが話している場面を覗いてしまったのだが。その時、彼は君に怒鳴りつけ、追い詰めるような言動をしていたじゃないか」
「な…」
「もちろん、最近の彼の機嫌が最悪で、間が悪かったというのも考えられる。だが、もし日常的に君が彼に威圧され、怯えて暮らしているのだとしたら。我々が力を貸そうではないか」
呆然とナターシャはジュリアスの言い分を聞いていたが、やがて唇を噛み締め、俯いた。
まさか、泣いている!?
苦い記憶が蘇る。
昔。幼きジュリアスは軽率に、泣いている少女に声をかけて相談に乗ったことがある。
「不安なので婚約者の予定を全て私が管理し、私とだけ遊ぶよう仕向けていたら、私に黙って自称妹女と買い物に行くようになっていた。裏切られて悲しい」という内容だった。
軽い気持ちで「それは束縛したお前が悪いな!下心とかじゃなく、たまには別のやつと自由に遊びたいのだ。毎日同じ料理食ってたら飽きるのと同じだ」と言ったら、何処かから聞きつけた令嬢達に囲まれ「最低」「絶対浮気するタイプ」「国の未来が不安」となじられ、トラウマになった。
以来、ジュリアスの令嬢達からの評価は地に落ちている。
あの時の傷をえぐるような真似はもうしたくない。
ジュリアスは無言で身を引き、ブラッドを押し出した。「ちょ、やめてください殿下!俺だって対処法分かりませんよ!」と喚く従者を盾に、身を守る。
しかし、ナターシャは泣いていたのではなかった。
「…ご心配なく。私と…レオンの仲は順調です。あなた方に介入してもらう必要はありません」
明らかに強張った、思い詰めたような暗い表情だった。思わずといった様子でブラッドが口を挟む。
「え、順調って、怒られてあんなに怯えていたのに」
「それは…余裕がなかったからです。私は、かの人を愛している。向こうもそう。だから、何も問題ありません」
最後の方は早口でまくし立て、ナターシャは「失礼します」と頭を下げてそそくさと退室して行ってしまった。
「…問題ないそうだぞ」
「殿下…俺、あの症状、聞いたことあります」
「ん?症状?」
一件落着か?と首を傾げたジュリアスに、ブラッドは真剣な目つきで説明を開始する。
あるところに一人の女がいた。その女は、夫に定期的に暴力を振るわれていた。
女を助けたい一心で、友人は女に「あんな奴とは別れた方が良い」と説得をしたが、女はそれを良しとしなかった。
最初は遠慮しているのだと思った。女は、友人に迷惑をかけたくないのだと。
だが、違った。女は夫に依存していたのだ。
「は?何で虐げてくる夫に依存なんかするんだ?普通そいつと離れたい、助けてって思うだろ?」
「それが厄介なんですよ…」
夫は、暴力を振るう時以外は女に優しかった。女を傷つけた後も、正気に戻ると涙ながらに謝って、手厚く女の手当てをした。
俺を受け入れてくれるのはお前しかいない、お前がいないと生きられない、捨てないでくれと懇願した。
それを受けて女は、この人には私しかいないのだと思い込み、「本当に仕方のない人。私がいないと駄目なのね」と許してしまうのだ。
故に、友人から諭された際、女は「確かにあの人は時折乱暴だけど、良いところもあるのよ」と取り合わず、夫との関係を続けたのだという。
「何だそれは…」
「あのナターシャさんもそれですよ。多分、今話した事例とはちょっと違ってて…そう、”お前を婚約者に据える人間なんて俺しかいないんだから俺に従え!”ってやつですよ!」
「何だそれは」
「いわゆる脅しですね。聞いたことありません?自己肯定感が低い人は、散々こき使ってくる組織側に決心して辞表を出しても”お前ごときを雇う職場なんぞウチしかないぞ、それでもいいのか”って脅されて、結局そこに残ってしまうんです」
「何だそれは!?」
ブラッドの分析によれば、ナターシャは見るからに自信を持っていない。故に、あの美青年に見下されるのが平常となってしまっていて、そこから脱却する気も失せているのではないか、と。
「それに、さっきナターシャさんが、愛してるから問題ないって言ってたじゃないですか。愛してるから虐げられても問題ないと認識するなんて、まさしく例の症状ですよ!」
「お、おお…で、そういう場合、どう対処すればいいんだ?」
「うーん、自分の置かれている状況が異常なのだと理解させること…ですが、彼女があの調子だと時間がかかりそうなので、手っ取り早く元凶を叩きにいきましょう」
レオンハルトを討つのだ。
ブラッドは宣言した。
決行の日、ナターシャと別れたレオンハルトを迅速に確保し、例によって密室に連れ込む。
レオンハルトはバタンと扉が閉ざされ、二人の男が立ち塞がるのを目にして、一瞬怯えた色を見せた。しかし、すぐに表情を引き締め、背筋を伸ばす。
「殿下とブラッド殿、何かご用ですか?」
「単刀直入に言おう。ナターシャへの対応を改善するか、もしくは彼女を解放してもらいたい」
「…それはそれは。私が彼女に何か危害を加えたと?心外ですね。普段の生活を見てもらえれば分かると思いますが、私は内気な彼女が心配なのです。だから、彼女が他の女生徒に囲まれていると思わず連れ出してしまう。それはあくまで彼女への心配からであって交流を邪魔しようとしているわけでは…」
勘違いをしているらしい。流暢に語るレオンハルトに、ジュリアスは遮って宣告する。
「そのことではない。君が、ナターシャに、威圧的に怒鳴りつけていたことだ」
「…お言葉ですが。私は彼女に怒鳴ったことなどありません。そもそも人前で大声なんて…」
「ああ、人前ではな。だが、倉庫では違っただろう?」
その言葉に、レオンハルトは赤い瞳を見開いた。何故、と声にならない声が口から漏れ出る。
「監視していたのだよ。先日、君がナターシャ君に喚き散らしていた場面を、一から十まで見させてもらった」
「…そ、うですか。そ…それは、お見苦しいところを」
「故に、忠告する。態度を改めるか、彼女を自由にさせるか。どちらか選びたまえ」
「わ、分かりました。今後は、このようなことがないように努めます」
レオンハルトは首肯し、男から見ても美しいかんばせを恥じらいからか俯かせる。
嫌に素直だな、とジュリアスは内心疑問を抱く。ブラッドも同じところが引っ掛かったらしく、目配せをしてきた。
「分かりました、直します」と承知しておきながら、結局なあなあにして改善しようとしないパターンだろうか。もうちょっときつく言っておくか。
「君ね。男なら無闇に女を責めるものではないよ。そりゃあ、君は見た目が良いから、きゃあきゃあ騒がれて、何しても肯定され続けてきたのかもしれないけど。いくら理想通りにいかないからって、婚約者相手に大声で従わせるような真似は良くないぞ」
「は、はい…」
「だいたい、女と二人きりの場所で本性を見せるなんて卑怯だ。彼女には誰も助けてくれる人がいなくて、逃げ場もないじゃないか。そりゃあ萎縮してしまうとも。男らしくない、情けないよ」
「申し訳ありません…」
「それにね、ナターシャ君が言っていたけど、彼女はそれでも君を愛しているからと頑なだったんだ。君からの脅しに愛なんてレッテルをつけて、愛されているから大丈夫なんて無理やりに思い込んで…」
こんこんと説教をたれていると、背後のドアが大きい音を立てて開かれた。
扉の近くにいたブラッドがぶち当たって「いって!?」と悲鳴を上げる。
ずかずかと入ってきたのは、ナターシャだった。
少女は、ジュリアスとブラッド、二人と対峙しているレオンハルトの姿を目にすると、眉を逆立てた。
「…何を、しているんです」
「あ、あー、ナターシャ君。今ちょうど君の婚約者に鉄槌を…」
「問題ないって言いましたよね。あなた達には関係のないことだと」
「…お、おう」
淡々とした語調ながら、ナターシャが怒っているのは一目瞭然だった。
これも例の症状に当てはまるのだろうか。困ってブラッドを見やると、親友は力強く頷き、ナターシャの震える肩に手を置いた。
「心配することはない。レオンハルト君は自身の行いを反省し、今後一切君にあのような態度は取らないと…」
「何も知らないくせに」
ぼそり、とナターシャが言った。次いで、勢いよくブラッドの腕を掴み、背負い投げた。
「ぐああああ!?」
ダァン!と床に叩きつけられブラッドが叫ぶ。
見事な技だった。
「ブ、ブラッドォォォ!」
「何も知らないくせに!彼女は悪くない!悪いのは全部僕なんだよ!」
ナターシャは、堰を切ったように甲高く叫び続ける。
「何でナターシャが責められなきゃいけない!?僕の失態に巻き込まれて、誰にも相談できなくて、抱え込んで、どうしようもなくて、つい苛立ちから声を荒げてしまう経験なんて誰にでもあるだろう!?僕はナターシャに怒鳴られるべき立場だ。責められるべきは僕なんだ!彼女の怒りは正当なんだよ!」
「な、ナターシャさん?」
戸惑いの中、派手な音に反してほとんど無傷だったブラッドを助け起こしつつ、どうにかジュリアスが呼びかけると、キッとナターシャは青い瞳で睨みつけてきた。
「関係ないだろう、あなた達には!どれほど彼女になじられても仕方ない。僕はそれだけのことをしたんだ。こんな密室に男達に連れ込まれて、彼女がどれほど怖かったことか…!ナターシャは何も悪くないのに!!」
「―――もういいよ、レオン」
もういい。そうこぼしたのは、静観していたレオンハルトだ。
「レオン。私が間違っていました。だから…ごめん。怒って、ごめん。ごめん、ね…」と、意気消沈したレオンハルトが謝罪する。
「何を…!君が謝ることなんて、何一つない!」と、頑固にナターシャが首を振る。
「いいえ。私は、レオンを鬱憤の発散に使った。あなたに怒鳴って、無意識に気を晴らそうとしていたのよ」と、レオンハルトが長い睫毛を伏せる。
「いいんだよ。それでいいんだ!僕こそごめんよ。大きい声を聞くと、体が反射的に震えてしまって、まるで被害者のような反応をしてしまった。でも分かってほしい。僕も、罪悪感で押し潰されそうだったんだ。君に怒らせてしまったと、不甲斐ない自分への情けなさで…」と、眉根を寄せてナターシャが言い淀む。
そこで、ジュリアスはようやく口を挟んだ。
「…お前ら、一体どういう関係なんだ?」
問いかけられた二人は顔を見合わせ、首を傾げ、互いに指を差すと「幼馴染の婚約者です」と返した。
ナターシャ・ルテラは元来、気の強い少女であった。
嫌いなものは嫌いとはっきり言い渡し、自分が納得できない事柄には何が何でも首を振らない。カッとなればなかなか治まらない。特に、幼馴染で気が弱いレオンに関しては、その傾向が顕著に出た。
レオンは内気で、びくびくしていて、言いたいことも言えない性格だった。それをナターシャは「あんたってどうしてそうなの」と呆れ、叱りつつも、いつもそばで彼を庇い、守っていた。
それが微妙に変化し始めたのは、レオンハルトが相当の美男子であると、周囲の子供達も認識できる年齢になった故である。
平たく言えば、色気づき始めた。
女の子はレオンに首ったけだったし、男の子はそれが気に入らないので苛めるようになった。
肝心のレオンは、容貌がどう見られているかなんて自覚していなかったので、「迫ってくる女の子が怖い」「どうして苛められるんだろう」とめそめそ泣いていた。
どうにかせねば。ナターシャは奮起したが、結局良いアイディアは思いつかず。大人に頼ったところ、「じゃあ婚約して虫が寄らないようにしよう」と言われた。
婚約すると虫が寄ってこないというのはどういう意味なのか。
分からなかったが、両親も乗り気だったし、レオンも「結婚できるの?」と嬉しそうだったので、まあそれでいいかと納得した。
そういうわけで婚約した二人だったが、改めてレオンの隣に立つことが決まり、ナターシャはあることを痛感する。
顔が良いって、得している。
裏を返せば、顔が悪いと損である。
ナターシャは、生まれてから自分が不細工だと思ったことは一度もなかった。だが、レオンと婚約したことで、女の子には散々「何であの子みたいなブスが」「釣り合ってないのよ」と陰口を叩かれた。
永遠と「お前はブスだ」と言われれば、ナターシャとて「自分はブスなのか」と受け入れざるを得なかった。
そして、ブスはブスでも愛される「愛嬌のあるブス」という存在を知り、「いつも強気で考えなしにものを言う自分は、愛嬌のないブスではないか」と衝撃を受ける。
そこからナターシャは変わった。気に食わなくてもむすっとするのをやめ、できるだけ明るく笑顔を浮かべ、お世辞も言えるようになった。
その急激な変身にレオンなどは「ナターシャじゃないみたい。なんか気持ち悪いよぉ」と泣き言を言ったが、イケメンは黙ってろ。ちょっと笑うだけでもてはやされる美形に、この苦しみは到底理解できまい。
そうして処世術を身につけたナターシャだったが、成長し、高位の貴族も集う学園に通うことになって、燃えていた。
エリート令嬢とも渡り合えるところを見せてやる。まずは無難に知り合って、取り入って懐に潜り込み、いずれは凌駕してみせる。目指すは学園の影の支配者だ。
その矢先であった。
レオンハルトと、精神と肉体が入れ替わってしまったのは。
成長したレオンハルトは、誰が見ても芳しいと認める青年になっていた。が、その中身については、ナターシャと比較するとそこまで変化もしていなかった。
滅多なことでは泣かなくなり、整い過ぎて近寄りがたいオーラから苛められることもなくなっていたが、相変わらず臆病で、ナターシャ以外に心を開ける人間もあまりいなかった。
が、それを特に悪いとは思わなかった。
何しろ、周囲が勝手に良い方向に勘違いしてくれるのだ。
単に人見知りなだけなのに「付き合う人間を選んでいる。思慮深い」と、
会話したくないだけなのに「端的に話して、無駄なことをしない。賢い」と、
恥ずかしいから距離を取っただけなのに「下心のある人間を近づけさせない。目敏い」と。
何をしても「きっと私達には考え付かない思惑があるのだわ」と深読みして評価してくるので、わざわざ内面を晒すこともなかったのだ。
レオンはそれに依拠し、ナターシャのように研鑽はしなかった。それは彼の欠点ではあるが、落ち度ではない。顔が良いのは生まれ持った才能であるし、彼を取り巻く環境がそうさせたのだ。
しかし、環境は変わった。
入学直前の時期。
レオンは、ナターシャの買い物に付き合って街に出て、彼女を店の前で待っている途中、あからさまに困っている女性を見かけた。どうやら迷い人らしい。
少し悩んだが、「この辺の地理に疎い僕に助けられても迷惑かな。きっと他の人が助けてくれる」と見なかったことにした。
その途端、女は豹変した。先ほどまでの困り顔が嘘のように剣呑に迫り、レオンの思考を読んだかのように「アンタァ、今アタシを見捨てたね?ちっとは面が良いから助けられたらサービスしてやろうと思ってたのに。腹立つから呪ってやる!」と囁かれた。
悪魔のような形相に思わず後ずさるも、女は何事か呪文を唱えてレオンハルトに手をかざした。
「レオン!」
その時、馴染みのある声の主に突き飛ばされ、青年は地面に転がった。
そのまま意識を失う。
やがて、目眩と倦怠感に襲われつつ起き上がると、そこには倒れた自分―――レオンハルトがいた。
固まっていると、レオンハルトも同じように呻いて顔を上げ、自分を見る。
女の姿はもうどこにもなかった。
「…レオン?」
「ナターシャ?」
そうして、二人は謎の女の手によって、入れ替わってしまったのだ。
レオンハルトの体となったナターシャは、イライラしていた。
こんなはずではなかった。今頃は、高貴なる令嬢方のご機嫌をとりつつ「おほほほほお茶がうめえ」と優雅に時を過ごしているはずだったのだ。
なのに。
ナターシャとなったレオンは、女の集団に一人放り込まれるのを嫌がった。「無理だよ!できないよ!潰されるよ!」と泣き言をほざいた。
そもそもレオンはナターシャ以外の女が苦手である。それを考えればナターシャも多少ぐらつきはしたが、「仮に元に戻れた時。レオンの後処理をすることになる。そうなったら困るのは私だ」と思い至り、無慈悲にレオンを令嬢達の元へ投げ込んだ。
それでもレオンがなかなか適応できず、どころか「ナターシャ・ルテラ」の評判は下がっていく一方だったので、憤りのままにレオンに大声を出したこともあった。それを目撃されているなどとは、思いもしなかったが。
ナターシャ側は割と楽だった。というのも、レオンはあまり人と喋らないキャラだし、顔が良いし、たまに嫉妬で絡んでくるものもいるが無視すれば諦めて逃げるし、背が高くて運動神経も実はあるし、顔が良いし。
何を言っても周りが肯定してくれるので、たまに、生来の歯に衣着せぬ物言いをしても何なく受け入れられてもらえて、気分が良かった。
やっぱり美人ってすごい得してるな、と思う。
ナターシャは、レオンの体になってから通例の敬語を使い始めた。うっかり「なのよ」とか口にするのを防ぐためである。
入れ替わって初日に鏡で見た、レオンが女言葉を使っている様がどうにも気持ち悪かったのもある。
ちなみに、男女の入れ替わりで付き物である「きゃっ、男の人の裸見ちゃった」という感情はナターシャにはなかった。小さい時に一緒に水浴びしたことあるし。でかくなったなあと感慨深くなったくらいだ。
もっとも、レオン側はそうもいかなかったらしく、「な、ナターシャお風呂ついてきて…」と毎晩縋り付かれた。誰かに見られたら「あの二人既に色事を!?」と噂されるだろうから移動は慎重に行われた。
たまに考えた。
このまま、レオンの体で生きていくことになったら、どうすれば良いのだろうかと。
レオンでの生活は楽とはいえ、ナターシャは自分の肉体が疎いわけではない。いつかは、自分の体に戻りたい。
けれども、手がかりも何も存在しない。入れ替えた犯人であろう女は、忽然と姿を決して、痕跡もない。
実家に相談の手紙は送ったが、遠地なので返事はまだ来ない。
光明が見えない。
その焦りと恐怖から、ナターシャは無意識のうちに、環境に馴染めないレオンに当たり散らすことで、心の均整を維持していた。
ナターシャの体となったレオンハルトは、ビクビクしていた。
女の子がこんなに怖いとは思っていなかった。
無論、過去に女の子と接した経験はたくさんある。
だが、彼女らは色気づいた表情ですり寄ってきては、こちらが素っ気なく対応すると素直に身を引いて、以降は遠目から見てくるだけで、関わってこないでくれる。たまに諦めの悪い人もいるが、しばらくするといなくなる。
物分かりの良い、親切な令嬢達である。
そんな認識しかしていなかった。
違った。女の子は本性を隠していただけで、獰猛だった。
学園に入学して出会った彼女らは、ナターシャの見かけをしたレオンを、初対面から容赦なくこき下ろした。
レオンは呆気に取られ、我に返ると「ナターシャにそんなことを言うな」とふつふつと憤りが湧いてきたが、それをぶつけることはできなかった。
ナターシャと、事前に固く約束していた。
「何を言われても、令嬢達に逆らわず、言いなりになれ」と。
けれど、大好きなナターシャが、よく知らない人間から手酷く扱われている惨状に、笑顔を保つことは不可能だった。
それを、ナターシャは怒った。
どうして受け流せないの。あんなの気にしなければいいの。あなたのせいで、私の評価が下がるのよ。ちゃんとして。
自分のせいで、ナターシャの評判が悪くなる。
レオンは、情けなくてたまらなかった。
悪口を聞き流せない自分も、
女の生活に慣れず、余裕がなく他人とまともに仲良くなれない自分も、
不安でたまらないだろうナターシャに怒らせてしまう自分も、
女の子に幻想を抱いていた自分も、
これまでもナターシャが女の子らにどれほど虐げられていたか、気づけなかった自分も、全部不甲斐なかった。
情けなくて、謝り続けて、萎縮してしまうばかりだった。
そんな折、王子とそのお付きに目をつけられた。
彼らは、レオンとなったナターシャを責めた。少女が、青年に苛められているのではないかと勘ぐった。
悪いのは、全てレオンなのに。
あらましを説明し終え、レオンハルトとナターシャは再び顔を見合わせると、ため息を吐いた。
「…そ、そんなややこしいことに…?」
「あ、さっきは申し訳ありませんでした。咄嗟に背負い投げてしまって…」
「あ、いやいや。見事なお手前で」
頭を下げ合うナターシャ(中身はレオンハルトだが)とブラッドに、ジュリアスは「それどころではない、おいブラッド」と従者を呼んだ。
何事かと寄ってくるブラッドの耳元に囁きかける。
「これは、十中八九、街に遊びにきた魔女の仕業だ」
「あー確かに。はた迷惑な…あれっ、それじゃあ解決じゃないですか。魔女に呪いを解く術を依頼すればいいんですよ。ほら、殿下が用意してたあれを捧げて、ナターシャとレオンハルトを元に戻してもらいましょう」
「や、やっぱりそうなるよな…俺のお土産…」
ジュリアスが魔女への土産として用意し、倉庫に保管していたのは、最近王都で流行っている木彫りの人形だった。宝石に似た色石が散りばめられ、その色によって「家内安全」や「健康」「恋愛成就」など効果が異なる。
それと交換にジュリアスは「数日間女心の機微に敏感になれる術」をもらうつもりだった。
「仕方ないですよ。殿下のはまた今度にして、一刻も早く戻してあげましょう。二人とも限界みたいですし」
「うむ…うん、そうだな。これも人助け!俺はやるぞ!」
「流石殿下!よっ男前!女人気はないけど男人気は堂々の第一位!」
「やめろ、辛い」
そうして、ジュリアスは身銭を切って二人の若者の人生を救った。
数ヶ月後。
「ナターシャさんとここまで仲良くなれるとは思っていませんでしたわ」
「本当よね。殿下が邪魔をしなければ、貴女ともっと早く打ち解けられていたのに」
「最低ですわね殿下」
「本当やってくれますわよね殿下。ねえ、ナターシャさん?」
「ふふ…ええ、おほほほ…お茶が美味」
ナターシャは、かつて爪弾きにしてきた令嬢達と親交を深めることに成功していた。
というのも、ジュリアスが、あの時期の事柄は全て自分が脅していたからだと宣言したのだ。
自分はナターシャに一目惚れした。
そのため、ナターシャに陰でしつこく言い寄り、彼女の精神に負荷をかけていた。
レオンハルトが彼女を気にかけ、常にそばにいて、見守っていたのもそのせいである。
しかし堪忍袋の緒が切れたレオンハルトに背負い投げられ、目が覚めた。
すまなかったナターシャ。すまなかったレオンハルト。
その懺悔はあっという間に学内に広がり、令嬢達は一気にナターシャに同情の目を向けた。
あら、そうでしたのね。あの殿下に迫られたら、そりゃ参りますわよね。
私達も、そんなこととはつゆ知らず、冷たい態度を取ってしまってごめんなさいね。
もし良かったら、これからでも仲良くいたしましょう。
そうして、ジュリアスに全ての責任と傷を負わせる形で、事件は終着した。
無事に元の体に戻り、此度の計画を知らされたレオンハルトとナターシャに「あなたにそこまでしてもらうわけには」と慌てられた際、ジュリアスは爽やかな笑顔で、けれどどこか遠い目でこう言いのけた。
「気にするな。汚れ役は、慣れているからな…」
その哀愁漂う背中に、ブラッドが涙し精一杯の声援を送ったのは言うまでもない。
なお、今回の経験から「このままではいかぬ」と感化されたレオンハルトが、何事にも動じず、冷静に状況を見極め、適切に自ら行動できるような鋼の心を求めて、第二王子に教えを乞うた。ジュリアスは弟子入りに照れながらも彼の熱意に応じ、不遇でも耐え忍ぶ極意を教授した。
彼らの距離が狭まったことで「ジュリアス片想い事件」の軋轢も収束したのだと周囲に伝わり、渦中の記憶は薄れていったという。
裏話
本当は魔女の呪いを解くためにもう一騒動あったりそこでレオンハルトが気張ったりナターシャが啖呵を切ったりピンチになったり、ジュリアスが従者と距離近すぎるから令嬢方に「あの二人きっとできてるんですわ」って裏で囁かれたり
互いの肉体に戻ってから
モブ「あんな地味な子と婚約してしまってもったいないね」
レオンハルト「はい?」
モブ「周りを見たまえよ、この学園には器量の良い娘が多いじゃないか」
レオンハルト「え、学園の中で一番可愛いのってナターシャじゃないの」
モブ「レオンハルト様って言われるほど美人じゃなくないですか」
ナターシャ(目腐ってんのか?)
モブ「なんか無口で気味が悪いですよね、性格悪そうっていうか」
ナターシャ(殴ろ)
ナターシャとレオンハルトの会話で
「今度こそ、君が酷いことを言われたら、僕が守るよ」
「鏡見てから言いなさいよ、泣き虫レオン」
「見て僕の体だったから言ったんだよ、怒りんぼナターシャ」
「ふん。もう二度と、あなたの体には入りたくないわ。足が長くてつまずくし、周りが優しいからつい頼って甘えん坊になっちゃうもの」
「僕も、もう君にはなりたくないかな。君の体じゃ、君に本当には触れられないし、触れて赤くなる君の可愛い顔も見えない」
「馬鹿っ」
みたいなやり取りを差し込みたかったんですけど、それを書くとなるとどんどん長くなって気力がもちませんでした…