ノイズの視界、舞い降りるワイバーン
エルピスの導きもあってか、崖の下から木々が生い茂る獣道に足を踏み入れてから二日ほどが経った。契約者となったからといって完全に空腹がなくなるのではないとわかってからは、エルピスが食べられる木の実や山菜を取ってきてくれた。エルピス自身は青葉からあまり遠くへ行けないようで、ノイズを頼りにゆっくりとした登山に付き合ってくれている。
それでも契約者となったからか、ノイズだけでも山に住む肉食の動物に襲われることもなく登ることができている。体力なら無尽蔵とは言えないが何倍にも膨れ上がったので、日中は手探りも含めて急な斜面を登っていき、エルピスからこの世界について、それからこの山について色々と教えてもらいながらだった。
「この山には人霊がたくさん住んでいてね、たぶん白霧の山へ挑戦しに来た人々に契約を結ばせるためだろうけれど。よく見かけるのは、木々に宿り、枝や根っこを伸ばして人間を捕縛するドライアドと、水辺で幻覚を見せて引きずりこむネレイドかな。他にも強力な人霊はいるけれど、余程運が悪くなければ遭遇することはないよ」
すっかり元気になったエルピスは人霊について教えてくれるが、基本的に契約者には襲い掛かってこないという。すでに契約を結んでいるのだから当然といえば当然だ。
しかし、白霧の山はどれだけの標高があるのだろう。マックダフの小屋を出て目にした時は高尾山よりも数倍は高く見えたが、このまま何事もなければなんとかなりそうだ。とはいえ、何百年と挑戦者を打ち破ってきた白霧の山のことだ、なにかしら乗り越えなくてはならない壁があるのだろう。
それに、荒削りを抜く覚悟ができていなかった。契約者となり、人間の限界を超えて強くなった青葉の斬撃なら大抵の相手を斬り殺せると確信が持てる。しかし、それは青葉の嫌う一方的な力ではないのかと悩んでいるのだ。人を騙そうとしている人霊も、生きる為に人を襲う動物も、こちらの勝手で殺していいはずはない。綺麗ごとかもしれないが、青葉には青葉の信念があるのだ。
「できるだけ戦わない道を選ぶとして、他にいくつか聞いておきたいことがあるんだが、答えられる限りでいいから教えてくれないか」
なんでもどうぞとエルピスは言うので、村で知った四大精霊と白竜アルブム、黒竜アートルムとクラッドを名乗る連中について聞いてみた。
「ボクも人霊の一人とはいえ、まだ十四だ。答えられる限りはあるけれど、それでいいでいいかな」
「構わない。自慢じゃないが頭ならいいからこっちで咀嚼する」
なら、とエルピスは一つずつ話し出した。
「四大精霊は、炎、風、水、土をつかさどる精霊の頂点に君臨する精霊たちだね。炎をつかさどるサラマンダーと、風をつかさどるシルフ、水をつかさどるウンディーネと、土をつかさどるノームの四人かな」
「そのサラマンダーには会ったことがあるが、圧倒的な力を持っていた。他の三人もそうなのか?」
「聞いた話だけど、シルフはエルフたちから絶大な支持を得ていて、自由気ままにパーガトリーに隠れているエルフの里を巡ったりする旅しているようで、ウンディーネはパーガトリーの王都ステンツで精霊と人間の隔たりをなくそうとしているらしいね。ノームは精霊の中で一番長寿と聞いているけれど、どこにいるのかは知られていないみたいだ」
精霊とはいえ、どうにも人間と同じ様に感情を持ち、それぞれの生き方をしているようだ。
「あと、白竜アルブムと黒竜アートルムだけど、知っているとは思うが、アートルムはサラマンダーと手を組んで世界を破滅させようとしている」
「動機まではわからないだろうからいいんだが、それを白竜アルブムとやらは止めないのか?」
「アルブムは天国へ続く門を守っているけれど、あまり人間に興味がないらしいね。アートルムが率いるクラッドに対してウンディーネを含む契約者や国王が頼みこんだらしいけれど、弱い生き物に貸す手はないと空へと帰っていったらしいよ」
これから生きていく世界についてまだまだ知る事は多くあるが、黒竜アートルムをどうにかしなくてはあの村のような惨劇は続いてしまう。
――そういえば、マックダフは白霧の山を登ることができれば人間を超えるほどに成長できると言っていたが、その度合いによっては挑む事も出来るかもしれない。白霧の山を登ることが大前提として存在しているが。
「最後に一つ、お前は食事をしないでも大丈夫なのか?」
この二日間は最低限の食べ物でなんとかなってきたが、エルピスは一口も食べていない。
「精霊ならば食べることは必要だけど、人霊ならば何かに宿っていれば心配ないね。それに、見ての通り体も小さいから、一人だったときも木の実を一かじりするだけでも十分だったよ」
「便利な体だな」
「便利だけれど、代償もあるよ」
声のトーンを落としたエルピスは、片にちょこんと座った。
「人霊は生まれもって与えられた力以上には成長できないんだ。契約によって力は増幅するけれど、裏を返せばそれだけしか方法がない」
だから人間が羨ましいとエルピスは、おそらく苦笑を浮かべている。
「でも、もういいかな。リャナンシーはとても数が少ないし、そのほとんどが人間と契約を結べずに死ぬからね。だから、今のボクはこうして契約ができて、少なくとも青葉が生きている限りは死ぬ事はない。リャナンシーとして、最大限に感謝しているよ」
今度はきっと笑っている。この二日間で、なんとなくだがエルピスのことも知ることができた。優しくて、意外と博識で、感謝を忘れない義理堅い性格。それに報いるためにも、この山を登りきる必要がある。
「もう少し進むぞ」
元気よく答えたエルピスと共に、白霧の山を登る。この先の先まで進んでいけると信じて。
その翌日のことだった、肌にあたる日の光から天気がいいとわかったので、開けていて平らな水辺でいい加減気になってきた臭いを落とそうと体を流してTシャツとジーパンを洗って干していると、上空から気配を感じた。見上げれば、暖かい日差しを遮るように翼のようなものをはためかせた大きな影が舞い降りてきている。
「青葉! ワイバーンだよ!」
同じように水浴びをしていたエルピスが飛び上がって指差すと、ワイバーンとやらは青葉たちを見る。
「エルピス、ワイバーンとやらは人を襲うのか?」
「千差万別だけど、好戦的な種族だ!」
斬りたくはないが、急いで生乾きの服を着る。即座に荒削りを手にしていつ襲ってきてもいいように引き抜くと、そのままワイバーンとの睨み合いが始まる。ノイズ越しにギリギリ見える自分の数倍はあるワイバーンを相手に冷や汗が流れ出てくるが、戦いとなれば勝てるのだろうか。
その火ぶたが切って落とされそうなときに、キンキンと耳に響く声が降り注ぐ。
「ちょっとまって! 私たちそういう目的じゃないから!」
緊張して張りつめていた空気をほぐす様に、慌ただしい女の声がワイバーンの方から聞こえてくる。
「……ワイバーンって、喋るのか?」
「知性はそれなりにあるらしいけど、言葉は流石に……」
荒削りを構えたまま声の主を探すと、やはりワイバーンから聞こえてくる。
「頭のいいワイバーンのようだな」
「違うわよ! よく見なさいってば!」
慌ただしい声と一緒にワイバーンが水辺におりると、その背中から誰かが降りてきた。
「この高貴な青い刺繍のマントを見ればわかるでしょ! 私はスプレンドーレの司祭の一人よ!」
胸を張っているが、誇らしそうにしているのだろうか。ノイズ越しでは判別できない。
「悪いが、そんなはっきりとは見えなくてな」
なに? と、ひっかかりを感じているスプレンドーレとやらの司祭を名乗った女は、ハッとしたかのように青葉を見て口元を押さえている。
「その目……あんたまさか、一人で白霧の山へ挑みに来たの?」
「そんなつもりはなかったんだがな。それと、一人じゃない」
エルピスがいざという時のために隠れていた背中から二人の間に浮遊すると、スプレンドーレの司祭は、また驚いた。
「あなた、リャナンシーね! あ、ごめんなさい、私はシエル・ローリアン。しかしすごいわね、いきなり個体数の少ないリャナンシーに出会えるなんて!」
人間にではなく人霊へ先にあいさつした、一人で騒いでいるシエルという女性は声からして若いようで、白霧の山に居るというのに目も見えているようだ。
「スプレンドーレがなんなのか知らないが、あんたはいったい何者だ?」
「あんたこそ、いったいどんな田舎で育ったのよ……王都ステンツに光の聖堂を持っていて、教会に変わって結婚やお葬式を執り行うウンディーネ様が率いているスプレンドーレくらい親から学ぶでしょ」
「俺はネイバーなんでな。親からは交通ルールくらいしか教わらなかったよ」
ネイバー? とシエルは首を傾げたが、また興奮し始めた。
「うそ! 本物! 本物のネイバー? 観測されている中では四十年近く見つかっていないのに、こんなところにいたの?」
途端にそっけなかった態度は一変して、色々と青葉のいた世界について教えてほしいと頼みこんでくる。しかし、そうかと思えばエルピスの方へ年齢や使える魔法等を聞いている。やかましい女だなと思っていると、シエルはまたしても疑問を浮かべている。
「ネイバーが白霧の山のこんなところまで登ってこられるとは思えないし、リャナンシーがこんなに元気なのもおかしいわね……」
勝手に疑問を浮かべて勝手に悩んでいるシエルに、エルピスは名乗ると、青葉と契約を結んだと口にした。
「え、じゃあ、あんたは契約者なの?」
「成り行きでな」
「リャナンシーとの契約者は……たしか観測されていないはず……これって大発見じゃない! マックダフさんにウンディーネ様が頼みこんだかいがあったわ!」
日本の女子高生より騒がしいシエルが落ち着くまで待つと、今度はこちらが質問した。
「白霧の山で目が見えるのはマックダフを説得したみたいだが、いったいこんなところへ何をしに来た? あと、スプレンドーレってなんだ」
我に返ったのか、ハッとしたシエルはスプレンドーレとは精霊と人間との共存を目指す大規模な集団で、この山には人霊の調査に来たという。
「白霧の山は全くと言っていいほど人の手が入ってなくてね、エルピスちゃんみたいな珍しい人霊が沢山いるのよ」
「それはわかったが、なにを調査するんだ」
「精霊との確執を埋めるには、まず精霊たちのことを知らなくちゃいけないからね。私はこう見えても……って見えないのよね」
「エルピスのおかげで輪郭だけなら見えているよ」
「それもまた大発見ね……失明した人の治療に役立つかも……ああごめん、話がそれちゃったわね。まあネイバーへ簡単に教えるなら、私は結構期待されていてね。ウンディーネ様からの紹介で光の人霊ウィスプと契約していて、こういう所へは精霊たちの分布を調べるためによく来るのよ。それで、ものは相談なんだけど……」
何やら不穏な空気を感じると、シエルは両手を合わせて頼みこんできた。しばらく一緒にいたいと。
「俺たちは早く登りたいんだが。お前も調査は一人の方が捗るだろ」
「登りながらで結構なのよ。それにウィスプは意思を持たない人霊で、防護壁くらいしか創りだせないの。だから強力な精霊に襲われるとひとたまりもなくてね。もちろん、ただとは言わないわ」
シエルは肩から下げていたナップザックから硬貨を取り出したようだが、今は必要ない。それならば、登頂した暁にはスプレンドーレで身柄を預かってくれると約束してくれた。
登り切ったあとに行くべき場所があるのは素直に助かるので、最低限しか戦わないと付け足して、シエルを交えた登山が始まった。




