プロローグ
『プロローグ』
汚い世界だと、いつも思っていた。学べば学ぶほどに見えてくる政治の腐敗と、一方的な社会の格差。同じように祝福されてこの世へ生まれてきたはずなのに差別され、区別され、ゴミの様に分別され、人間関係は上と下に分かれていく。そんな世界が嫌いだった。
桜が散って緑の葉が目立ち始めた頃、蒼海青葉は交通事故による怪我で長い間入院し、大学を一年留年していた。友人たちは社会へと進んでいき、一人取り残されて年下とは仲良くなれなかったが、青葉は物事を考える時間が増えたと楽観的にとらえていた。
それに、留年したといっても日本で五本の指に入る大学へ進学し、成績も申し分なかったので両親は特になにも言わなかった。更には青葉の友人が入院中に授業のレポートやプリントを届けてくれたので、この留年する一年の講義はすでに知っていることばかりだった。
だから考えていたのだ、この大学を出て進んでいく道について。自分より一足先に社会へ出ていった友人たちは地方に飛ばされ、慣れない一人暮らしをしているという。大学から特別に誘われている公務員になっても、汚職が蔓延る汚い場所だ。だからといって土方になっては、ここまで大金をかけて育ててくれた親にたいして失礼だとも考えている。それに親は青葉に冷たく重くのしかかるような期待を寄せていた。だから、一流の企業に入れと言葉ではなくちょっとした態度で要求しているのだ。そのせいで気楽な自営業や中途半端な中小企業には勤められない。
青葉は会社そのものに不満を垂れているのではないが、そこにいる人々の中にある日本特有の年功序列が嫌だったのだ。産まれた時間という変えようもない一方的な理屈で、どんなに努力しても若いからと地方に飛ばされてしまうのは一方的な暴力の様にすら感受している。
そんなことを思い浮かべて、大学の講義室の端で知っている講義を聞きながら外を眺める。かつて自分を跳ねた車が排気ガスを出し、路上喫煙が禁止されているというのに煙草をくわえる人も見受けられる。
こんな世界でこれから死ぬまで生きていくのかと、青葉は深いため息を付いて変わらない現実へ諦観に似た感情を燻らせていた。
講義が終わり、夕焼けが見えてきた頃合に昨年買った赤いカワサキのNinja250にまたがり三十分ほどでマンションに帰ると、食事をするわけでも風呂に入るのでもなく剣道の胴着に着替える。そのまま竹刀を持って大通りに面したマンションの一階にある剣道場へと降りていった。精神力と体力をつけるために高校二年生から受験をはさんで六年間つづけていた剣道は、二段にまで登りつめた。六年間もやって二段では少々遅いが、学業との兼業だったのでしょうがない。それに、青葉の剣術は他人と大きく違っていた。公式戦では使えないような秘剣と名付けた所謂必殺技のようなものを考えては練習していたのだ。真面目にやっていれば、おそらく五段か六段以上の実力はあるだろう。
青葉のルーチンはこんなところだ。朝起きて大学へバイクで行き、もう知っている講義を聞き流しながら様々なことへ思考を巡らせて、帰ってきたら剣道の修業に明け暮れる。たまの休みには趣味の映画鑑賞のため映画館やレンタル屋に足を運ぶ。どこにでもいるようでいない、少し変わった人生を送っていた。それもあと一年だと考えると気が滅入るが、ここまで自分に関わってきた人々のためにも真っ当な職に就くと、自分に嘘をついていた。
だが青葉の人生は、唐突に幕を下ろすことになる。
バイクでタクシーを左からすり抜けようとしていたら、タクシーへ手を上げる人がおり、タクシーは合図も出さないまま左へ寄っていき、すり抜ける際に激突。スピードも出していたので転倒しながら跳ねられて、起き上がると後ろからやってきたトラックが瞳に映る。その跳ねられるという刹那が永遠に感じられるほど走馬灯を見ていると、もういいかと青葉は目を閉じた。
汚い世界、留年という気にしないふりをしていたコンプレックス、過度な両親の期待――それらにはもう、正直疲れていた。所詮この世は一夜の夢なのだ。気が付かずにはじまり、気が付くころには終わる。それでも、こんなどうしようもない世界を変えてやりたいと心に決めていた。一方的な力に抗ってやると覚悟していた。それに挑戦すらできないまま死ぬ事だけは無念だった。
そうして悪いことはしていないから地獄にはいかないだろうと脳裏に浮かんだ瞬間、蒼海青葉の二十三年間に及ぶ人生は終わりを迎えた。