迷子の迷子の――さん(1)
どれだけ理解不能な出来事の後だとしても、時が経てば朝は来る。朝が来れば、社会人として家を出なければならない。
あの後、電源が落ちたように眠りこける茉奈をベッドに運び、割れた皿や荒れたPC周りを整理した。指と掌の傷は思っていたよりも深く、傷をかばいながら大袈裟に動いてしまった机やPCを動かしたのちは俺も眠ってしまった。バスタオルを枕にフローリングに眠ろうとしたが、人生で三本の指に入る最悪な眠りとなった。
重い瞼をこすり、猛烈に節々が痛む体を起こす。辺りを見渡せば、床や壁、机に至るまで、あらゆるところに赤い線が付いている。一応傷の手当はしたつもりだったが、素人仕事で処置が甘かったためだろう。もしかしたら、茉奈の背中には手形が付いてしまっているかもしれない。制服に付いてしまっていたら面倒だとベッドの方に視線を動かすが、茉奈は昨夜から変わらぬ姿勢で眠っている。相当深く眠っているのだろう。夜の間に目覚めて食事を摂った様子もない。堅い床の上で何度も寝返りを打ち必死に眠ろうとしていた俺とはまるで対照的だ。
痛む関節をいくつか鳴らし、体を伸ばすと床に置いたスマートフォンからアラームが鳴り始めた。出勤時間が近い。アラームを止め、ゆっくりと立ち上がる。洗面所で顔を洗い、続いてスーツに着替える。が、深く切った指と掌をかばいながらなので、普段より時間がかかってしまった。スマートフォンと財布を投げ入れた鞄を肩から掛け、出勤の準備は完了だ。朝食を摂っていない分、普段より若干早い。とはえ今更怪我をした手で朝食を作るのも面倒だ。道すがらコンビニで何かを買うとしよう。茉奈の枕元に書き置きを残し、俺は部屋を後にした。
『朝食作っといた
起きたら連絡して
悠大』
扉が閉まる瞬間、ベッドの上の茉奈に向かい、祈るように呟いた。
「さっさと起きろよ……」
恐らく起きていたとしても届かない小さな声を閉じ込め、部屋の鍵をかける。腕時計の針が示す時間は七時二十三分。バス停へと足を進めると、バスが到着せんとするところだった。時間的にも距離的にも、急ぐ必要は全くないのだが、つい早足になってしまうのは何故だろうか。
車内は割と空いていた。普段からこうなのか、今日たまたまなのかは分からないが、普段からなのであればこれを機に生活習慣を見直すのもいいかもしれない。前寄りの座席に腰かけるとバスが走り出した。乗客の多くはスマートフォンかタブレット端末をいじっている。俺も他の乗客にならい、鞄からスマートフォンを取り出した。幸司にメッセージを送ろうとアプリを立ち上げかけて、すでに通知が届いている事に気が付いた。茉奈からのメッセージのようだ。
『今起きた』
余分なものをそぎ落とした簡潔な文章。受信時刻は七時二十五分。部屋を出てすぐだ。案外、鍵をかける頃には起きていたのかもしれない。何にせよ、目を覚ましてくれてよかった。胸のつかえが無くなった気分だ。だが、まだ安心はできない。体調を訊ねるメッセージを送る。
『よかった
気分が悪かったり、痛むところはないか?』
『気分は悪くないし、痛むところもない』
「早っ」
送信と同時に返ってきたメッセージに、思わず呟いてしまう。とはいえ、ノータイムにもほどがあるのでたまたま送信のタイミングが被ってしまったのだろうと解釈する。なんにせよ、これで懸念はなくなった。無論、茉奈がやせ我慢している可能性も考えられるが、それは心配しても仕方がない。ここは文面通り素直に受け取っておこう。
『そうか
だったら、シャワー浴びたら学校行けよ』
返信は無い。シャワーを浴びに行ったか、朝食だろう。ポケットにスマートフォンをしまいかけて、茉奈の上着の事を思い出した。
『家出る前に、上着に血が付いてないか脱いで確認しといて』
もしついていたらクリーニングに出さないといけない。幸い季節的にはそろそろ夏服への移行期間の筈だ。時期としても申し分ないし、上着を脱いで登校しても問題は無いだろう。
メッセージアプリを閉じたところで、ふと見覚えのないアイコンがあることに気が付いた。
“Angel.exe”
翼のついた楯の描かれたアイコンには、そう名前が付けられていた。インストールした覚えはないが、OSのアップデートかなにかで追加された新しい常駐アプリかなにかだろうか。それにしても“Angel”と来たか。やはり昨日の一件がどうにも想起されて仕方がない。
普段なら利用しないアプリは放置しておく俺だが、“Angel.exe”に関してはやはり気になった。ウィルスチェックにも引っかかっていないようだし、一度立ち上げてみるか。
「先輩も入れてるんですね、それ」
「!」