後編
僕は辺りが薄暗くなるまで描き続け、ようやく海が夕焼けから暗幕をかけたような色合いへと変化すると、スケッチブックを畳んだ。
鉛筆をペンケースに仕舞い、砂浜から立ち上がって尻の砂を払い落した。もう一度海をじっと見ると、夜の帳が海面を濁った闇へと染め上げていて、空には紫色に滲んだ雲がどこまでも薄く伸びていた。
静かな潮騒が耳元で繰り返され、僕はリュックを担ぎ上げると、砂浜を歩き始めた。
道路の側に自転車を置いたままだったので、そっとそれに歩み寄って乗った。一呼吸おいて自転車を漕ぎ出す。ふわりと涼しげな風が僕の首筋を冷やしてくれた。
今日は本当にいいことばかりだった。あの人、またここに来てくれるかもしれない。そしたら――。
そんなことを考えると、口元が緩んで鼻歌を唄うのを抑えられなかった。閑静な住宅街を抜けると、七階建てのマンションが見えてくる。
2LDKの部屋はきちんと整頓され、小さなソファとガラス張りのテーブルが一つあった。それからチェックの爽やかな柄のカーテンからはわずかに夜の色が滲んでいた。
壁には“一枚の絵”と、兄貴からもらったケリー・ハラムの海辺の風景を描いた絵が飾られていた。僕はソファに身を投げ出すと、横にあるCDラックの中から『地平線』の、オン・ザ・ボーダーのアルバムを取り出し、かけた。
それは兄貴からプレゼントされたCDで、そういえば、今日会ったあの女性も、『地平線』の曲を口ずさんでいたな、と思う。
さて、今日はずっと絵を描くのに時間を使ってしまったし、法学部の受験勉強をそろそろやらないと。そう思っただけで、再び気分が沈んでくる気がした。
リュックからスケッチブックを取り出し、一枚目から順に捲っていく。一枚一枚じっと眺めて、あの女性の顔を思い浮かべていると、ふと何か違和感を覚えた。
何だろう。何かが足りない気がする。
僕はそのスケッチブックを始めからゆっくりと捲っていったけれど、そこでふと電話のベルが鳴った。
僕は思わず、あ、と掠れた声を漏らして、電話をじっと見つめた。また、父さんと母さんだろうか。何て言えばいいだろう。
僕は少しためらった後、そっと電話を取った。しかし、聞こえてきたのは落ち着いた若い男性の声だった。
『新一か? 今、ちょっといいか?』
兄貴からの電話だった。僕は一気に肩から力が抜ける心地がして、ふっと笑って「兄貴」と答えを返した。
『今日も暑かったな。今、飯の最中か?』
「ううん。別に大丈夫」
兄貴の声は心なしか、嬉しそうだった。いつもはゆっくりと話す兄貴が、今日は声を弾ませてはきはきと喋っていた。何かあったんだろうか。
兄貴は車の中にいるのか、彼の声に混じってBGMが流れているのが聞こえた。僕は少しだけ声を上げる。
それは〝あの女性”が口ずさんでいた曲だったからだ。
『どうだ、最近。ちゃんと高校に行っているのか?』
兄貴は責める訳でもなく、ただ穏やかに聞いてくる。そして、ぽつりとその言葉を漏らした。
――受験勉強、つらくないのか。
その言葉には、何か深い意味合いが込められているような気がした。
「行ってるよ。勉強もちゃんとしてるし、友達もいるから」
『そうか。今からそっち行っていいか?』
そこで微かに水が弾ける音が聞こえてきた。海の潮騒だとすぐに気付く。
「えっと、今から?」
壁に掛けられた時計を見ると、七時だった。僕はしばらく思考を巡らせた後に少し唸り、そしてうなずいた。
「いいけど、今どこ?」
『“友達”と海の側に来ているんだ。行っていいか? とっておきのプレゼントがあるんだ。できれば、素直な気持ちで俺の“友達”と会って欲しいんだが』
「うん。いいよ」
僕が反射的にそう答えると、兄貴は『じゃあ、すぐそっちに行くから』と電話を切った。僕はしばらく受話器を握ったまま兄貴のその奇妙な約束について考え続けていた。
一体、友達って誰のことなんだろう。そう考えている傍ら、予感が自然と僕の心臓をゆっくりと、砂浜に押し寄せる波のように、強く圧迫してきた。
ソファの上で僕はじっと『地平線』を聴いていた。これから人と会うのに頭はぼんやりとして、今までのこと、“これからのこと”が頭を過って仕方がなかった。
僕が大きな吐息をついた時、チャイムが鳴った。僕は身を固くして、ソファから起き上がった。
兄さんのことだから、きっと僕の為を想って考えてくれているんだろう。
何も心配することはない、と自分に言い聞かせて応答マイクに「どうぞ」と囁き、「解錠」ボタンを押した。兄貴が三階まで上がって来る間、僕はずっと扉を見据えて佇んでいた。
いつの間にかオン・ザ・ボーダーは終わり、無音が僕の体を狭い空間に閉じ込めていた。程なくしてドアがノックされた。
僕は扉を開けて、意を決してそこに立っている二人の顔を見つめた。そして、体から一瞬で力が抜けていき、笑ってしまうのを堪えられなかった。
そこに立っていたのは、長身のスーツを着た男と、“あの女性”だった。男は長い髪を自然なままに梳いているような、着飾らない容姿をしていた。
きりりとした顔立ちには優しい微笑が浮かび、大人の落ち着いた雰囲気が彼のスーツのように体をぴったりと包み込んでいた。まっすぐ僕を見つめ、慈しむような眼差しを向けてくる。
そして、その傍らに立つ女性は、あの海辺で出会った時のままの服装をしていた。スーツは彼女のシャープな印象を抱かせる姿にぴったり合っていた。
腰まで届く髪は扉の外を流れる風にふわりふわりと漂っていた。あの挑発的な目が僕の心を見透かすように、逸らされることなく向かってくる。
僕は驚きと共に、やはり、という気持ちがどこかにあることに気付いていた。やはり、彼女の言葉は嘘ではなかったのだ。
「また会ったね。約束、わりと早く果たせたんじゃないかな?」
彼女はそう言って、一歩こちらに踏み出して頭を下げた。
「初めましてじゃないね。私は広崎宏美って言うんだ」
「どうして、あなたが?」
僕がそう言ってじっと宏美さんを見つめると、兄貴が彼女の隣に並んで、少しだけ申し訳なさそうに言った。
「実はさっき、俺も海にいたんだ。それで、お前がずっと海の絵を描いているのを見ていたんだ」
やはり、あの車は兄貴のものだったんだ。ナンバープレートに見覚えがあったのも当然だ。
「あのさ、新一。核心をつくようだが――」
兄貴はすっと息を吸い、真剣な声で言った。
――お前、本当は美大に行きたいんじゃないのか?
僕は言葉を失い、唇を噛んで俯いた。
兄貴は僕をじっと心配そうな目で見つめ、何かを諭すように優しげな声で言った。
「父さんと母さんには俺から言っておくから。だから、絵の道を進めよ。お前が思っているより、お前は自分の心に素直でいていいんだよ。それに、お前は父さんと母さんを誤解しているんじゃないかな」
そのまま喋り続けようとしている兄貴の言葉を、僕は掌を差し出して押し留めた。
「いいよ、大丈夫。僕はね――」
「いいから、自分のやりたい道を進めよ。その為に、“彼女”を呼んだんだ」
兄貴がすっと傍らにいる宏美さんへと振り向き、小さくうなずいてみせた。それを確認すると、彼女は僕の前まで歩み寄ってきて、ぽんと肩に手を置いてきた。
「私がさっき君に絵を描いてもらったのは、君の絵を見てどれだけ本気なのかをつかもうとしたんだ。あれだけ真剣な表情で描いているのを見て、間違いないと思ったよ。あの涙は、嘘であるはずがない。君の絵には、魂が篭ってる」
宏美さんがそう言って、その形の良い唇に桜の花びらを付けたような、淡い微笑みを浮かべた。彼女の言葉はまっすぐ僕の心に響き、感情が大きく揺れていくのがわかった。
僕はただ、頑張らなくちゃいけないと思って、ずっとやってきたんだ。絵の道をあきらめても、弁護士になる為に、周囲の期待に応える為に、やらなきゃいけないと思っていた。でも、本当に、それでよかったのか?
僕が拳を握って俯くと、兄貴が彼女の肩に手をぽんと置いて、全く先程と変わらない柔らかな声で言った。
「俺は宏美と結婚しようと思っている。彼女は美大の講師をしているんだ。お前も、知っているだろ、画家の広崎宏美って。前に一緒に行ったじゃないか」
そこで、僕は全身が雷鳴に打たれたように硬直するのがわかった。広崎宏美……もしかして、あの広崎か? そんな、まさか、だって……。
僕の脳裏に数年前の記憶が浮かび上がってくる。前に兄貴と展覧会に行ったことがあった。どうして忘れていたんだろう。
あの時は確か、彼女は長い黒髪を“赤いリボン”で結わえていた。それで、印象がかなり違って見えたのかもしれない。
あの時、そのリボンをつまみながら、彼女は苦笑して話していた。このリボンを結わえる時、私は”本気なんです”。そんな奇妙なことを言う女性のことを、僕も頭のどこかで記憶していた。
「どうだ、行ってみろよ、美大。お金なら、俺も協力するぞ」
「でも、父さんと母さんは何て言うだろう……」
僕はそう言って唇を引き結び、その溢れ出しそうな想いを堪えるのに必死だった。
「大丈夫。世界はお前が思っているほど押し潰されちゃいないさ。今でもお前にとって芸術と経験の宝庫だ。父さんと母さんを信じてみろよ」
兄貴が僕の頭をくしゃくしゃと撫でて、「な?」と笑顔で覗きこんでくる。そこでふと、宏美さんが何かに気付いたように、壁の方へと顔を向けた。
「その絵は……」
宏美さんが指差したのは、ケリー・ハラムの絵ではなく、あの“一枚の絵”だった。それは海を背景に、波打ち際に“二人の夫婦”がこちらを向いて佇んでいる絵だった。
僕はそれを見て、はっとする。脳裏に、あの時両親が浮かべていた表情が浮かんでくる。
「これ、君のご両親だよね?」
宏美さんがどこか真剣な表情でじっと僕の目を見つめて言った。その眼差しは僕の心を見透かすような、とても鋭いものだった。
「なるほど、新二が言っていたのはそういうことか」
宏美さんはそんな言葉を漏らして、兄貴へとちらりと視線を向けて、目配せした。兄貴も何かを悟ったような顔でうなずき返した。
なんだろう。一体、何が言いたいんだろう。
僕はそう思いながらもその壁に掛かった絵をじっと見つめ、心が少しだけ落ち着いていくのを感じた。
「この絵を描いている時が、一番楽しかった。将来への葛藤もない、ただ絵に打ちこめていて、父さんと母さんも僕が絵を描くことを応援してくれていたから」
僕がそう言って視線を伏せて軽く目元を擦ると、宏美さんは部屋の中へと入り、壁の前に立った。そして、じっとそれを曇りない眼差しで見つめていたけれど、やがてぽつりと言った。
「君はこの時、海の側に立つご両親を描いていて、彼らがどんな表情を浮かべていたか覚えている?」
「笑顔でした」
僕はそう言って、何かを考えているようなその顔を見つめたけれど、そこで彼女はふっと息を吐き出して、こちらへと体を向けた。
「なら、もう答えは出てるじゃないか。今だって、君はこの絵を描けるよ。ご両親にその想いをぶつけてみたらどうだ? 自分の将来は自分で決めなくちゃな」
そこで宏美さんは僕の前に立ち、何かを逡巡するような素振りを見せたけれど、思い切って何かを言おうとした。
「本当のことを言うとさ、きっとご両親はね――」
宏美さんが口を開こうとした瞬間、兄貴が手を上げて言葉を制した。彼は宏美さんへ小さく首を振った。宏美さんは困ったように笑い、それもそうだな、とつぶやいた。
「まあ、いいか。それより、君に一枚、プレゼントしたい絵があるんだ」
ようやく僕は彼女が背中の後ろで、何かを握っていることに気付いた。彼女はその手を胸の前へと持ってきて、その一枚の絵を見せた。彼女は紙を丸めて“赤いリボン”で結わえながら握っていた。
「これなんだけど、ちょっと見てくれるかな?」
宏美さんはそう言ってリボンへと手をかけて、それを解いた。ふわりとリボンが浮き上がり、丸めていた紙がすっと横へと広がった。
その瞬間、僕は目を見開いて、その絵をじっと見つめてしまう。鼓動が跳ね上がり、息が止まってどんな思考も掻き消えて、ただその美しい海の風景へと目が釘付けになる。
砂浜はただただ優しいタッチで描かれ、そこに打ち寄せる波は様々な色へと輝いているのがわかる。スケッチだけれど、情景が浮かんでくるような、魂の篭められた絵のように思えた。
手前に砂浜があり、そこに波が幾重にも折り重なって打ち寄せている情景が描かれていた。その上には雲が散りばめられた空が広がっている。
とても爽やかな印象を受ける絵だった。こんなにも綺麗な絵を描けるなんてこの人、本当に気持ちを篭めて描いてくれたんだな。やっぱり凄い人なんだ、と僕は改めて彼女の画力に驚いてしまう。
しかし、そこでふと何か頭の奥で記憶と目の前の情景が重なるような、そんな激しい既視感を覚えた。ちょっと待て、何かこの絵、見たことがあるような気がする。
「これは私が描いたものだよ。これを見て、何が見える?」
彼女はその絵を差し出してきて、僕をじっと見つめた。その眼差しは、僕の心までも見透かすようだった。
僕はその絵を食い入るように見つめて、その違和感について必死に考え、何か記憶を掘り起こそうとするけれど、何度やっても喉まで出かかった声を絞り出すことはできなかった。
やっとのことで、僕はその言葉を伝えることができた。
「とにかく、輝いているように見えます。何というか、魂を篭めて描いたのがよくわかります。何だか、心に響いてきて……」
宏美さんは満足そうにうなずき、すっと僕の顔へと手を差し伸べ、実は、と悪戯っぽく笑いながら言った。
「この絵、私が描いたものじゃないんだ。描いたのは、君だよ」
「え?」
僕はその絵をもう一度見つめて、思考が停止するのがわかった。
「実は君のスケッチブックから一枚抜き取らせてもらったんだ。私が手を加えたけど、間違いなく君の絵だよ」
僕はその絵を見て感じていた違和感の正体がようやくわかった気がした。この絵の構図、僕が描いたものにそっくりだ……何故気付かなかったんだろう。彼女がより綺麗な絵に仕上げてくれたからだろうか。
僕は喉を震わせて、その絵を思わず振り落としてしまいそうになる。だって、こんなにも自分の絵を見て、心を揺れ動かされたことはなかったから。
「自分の絵が輝いて見えるなら、絶対に君は道を誤らないよ」
彼女は「自分を信じて」と僕の手から離れかかった絵をしっかりと握らせてくれた。
僕は溢れる涙を抑えることができなかった。どんなに腕で乱暴に目元を拭っても、その雫は次々と落ちていき、そのスケッチを透明な色に濡らしていった。
僕は嗚咽を噛み殺しながら、自分の今まで堪えていた想いが一斉に溢れ出すのを止められなかった。本当は絵を描きたいと思っていたこと、それでも弁護士になる覚悟を持って、自分の想いを抑え込んでいたこと。
けれど、今やっと自分の道筋が見えた気がした。
僕が絵を描くことが許される限り、僕は精一杯魂と、血の滲む程の努力を絵に注ぎ込んでいこう。
僕は兄貴に頭に手を置かれながら、そうしていつまでもその絵を握り締めて泣きじゃくっていた。
彼女がそこで、僕の心に確かな言葉を刻んでくれた。
――これから、私がずっと付いているから。
その優しい声が僕の胸を濡らし、また歩き出そうと思わせてくれた。兄貴はこんな素敵な女性と知り合えて、とても幸せだな、とこんな状況にも関わらず、少し羨んでしまった。
*
あれから三カ月が経ち、僕の心もその決意も、あの時刻んだ約束を果たす為に、まだ燃え続けているままだった。今まで自分でバイトで稼いできた貯金を全て使って予備校に通い、絵について猛勉強した。
幸い宏美さんが定期的に僕の絵を見てくれているので、道から外れることはなかった。しかし、僕にはまだ越えていない大きな壁があったのだ。それは、両親にその決意を伝えることだ。
彼らがずっと僕が幼い頃から願ってきたこと。兄貴がなれなかった弁護士になって、両親と同じ職業に就職して、後を継ぐということだった。
兄貴はもう弁護士を志すことはやめてしまったし、彼らに残された希望は僕だけだった。僕も両親の期待に応える為に、今までずっと法学部の勉強を続けてきた。
だけど、それでも、僕は絵を描くことをやめられなかった。画家になるという夢を捨て切れず、兄貴もそれを理解してくれた。宏美さんの後押しがあって、僕は今こうして両親に自分の意思を伝える決心を持つことができた。
僕は宏美さんが運転する兄貴のレクサスに乗って、両親が住む実家へと向かった。車が高速道路から降りて、たくさんの車が行き交う道路へと入ると、懐かしい住宅街の景色が遠くに見えてきた。
宏美さんは道を直進して住宅街に入ると、もうすぐだね、とつぶやいた。
「行く前に少し休憩するか? あそこにベーカリーレストランがあるけど」
「まっすぐ行って下さい」
僕がすぐにそう言うと、宏美さんは小さく微笑んで、アクセルを大きく踏んだ。閑静な住宅街を抜けていき、僕がろくに周りの景色を確認する間もなく、あの懐かしい民家の前まで来て車は停止した。
宏美さんはシートベルトを外すと、くるりとこちらに振り返り、小さくうなずいてみせた。
「ちゃんとお守りは持った?」
「持ちました。じゃあ、行ってきます」
僕はそう言って、車のドアを開けようとしたけれど、そこで宏美さんが言った。
「君には、これから私が付いてるから」
その言葉は、あの時にも僕を励ましてくれたものだった。僕はぐっとその胸に押し寄せる想いを堪えて、はい、とうなずいてみせた。
「行ってきます」
僕はそれだけ言い残すと、車の外へと出た。蝉の鳴き声が一気に弾け、夏の燦々とした日差しが僕の肌を焦がさんばかりに降り注いでくる。僕はドアを閉めると、その家を改めてじっと見つめた。
自分の実家だけれど、なかなか大きく、数年前には建て直した。大きな塀がぐるりと家の周りを囲っていて、大きな門が揺らぎもせずにその家への道を閉ざしていた。
僕はインターフォンを押して、両親が応答するのを待った。やがて母親の少し掠れた声が聞こえてきた。
「もしもし。どちら様ですか?」
母さんの声は、電話で聞いていたものよりもはるかに年老いて聞こえた。僕はしばらくその老いた母の声に言葉が出てこなかったけれど、一つ息を吸って言った。
「僕だよ。新一だ。大事な話があって、ここまで来たんだ。少し話をさせてくれないか?」
僕がそう言った途端、母さんが短く息を呑む声が聞こえた。そして、本当に新一なの、と驚いて震えている声で言った。
「うん。本当に大事な話なんだ。いきなり来てごめん。でも、それだけの覚悟が必要なんだ」
僕が言うと、母さんも何かとても重大な話をしようとしているとわかったのだろう、すぐにインターフォンが切れて、扉が開いた。
そこから現れたのは初老の女性で、彼女が僕の母さんだった。昨年兄貴がプレゼントした赤いセーターを着て、グレーのスカートを履いていた。
十分な収入があるのにも関わらず、いつも最低限のものしか買わず、また着飾ることもなく、常に自分というものを持って生きる芯の強い人だった。
あの全く意思の揺らがないまっすぐな目は一年前に見た時のままだ。髪は黒く染められ、上品に整えられていた。足取りはゆっくりだが、おそらく今も趣味の水泳を続けているのだろう。
彼女は僕を見ると目を見開き、体を激しく揺らせて駆け寄ってきた。門を開いて、肩をつかんでくる。
「新一、久しぶりね。学校は行ってるの? 勉強はやってる?」
僕はその言葉が出た途端に肩を跳ねさせて、心臓がぐっと何か凶暴な爪でつかまれたような気がしたが怯まずに、まっすぐ彼女を見つめた。
「母さん。僕は将来について伝えることがあって来たんだ。今はただ、父さんと母さんと三人で話がしたい」
自分の声なのに、肺炎にかかったようなひどく苦しそうな声に聞こえた。母さんも僕の懇願するような声の響きを感じ取ったのだろうか、小さくうなずいて、僕の手を引いて家へと入っていく。
中へ入ると、二人の使用人が礼をして、僕のコートを受け取った。
久しぶりに見る我が家は写真の中の豪邸を見ているような感覚を僕に抱かせた。玄関だけで視界一杯に空間が広がり、シャンデリア風の照明があまりに眩しく僕の目に映った。
いつ来ても、あまり落ち着かないところだ。
それでも、こうして歩いていると、兄貴と遊んだ時の思い出が蘇ってきて、口元が綻んだ。
絨毯が敷かれた廊下を歩き、中程まで来ると、父の書斎をノックした。すると、中から「入ってくれ」と柔らかな男性の声が聞こえた。
母さんは「失礼します」と短く言ってドアを開いた。すると、懐かしい書物の匂いが僕の鼻を突き抜けて体全体に広がった。
部屋の四方に書棚があり、少し埃の混じった空気を吸って僕と母さんは中へと入った。
父さんは大きな机に分厚い本を広げて、読書をしていたらしかった。
彼はそっと丸縁眼鏡を取り、本の横に置いた。蛍光灯の光が父さんの顔をはっきりと浮かび上がらせていた。
顔に刻まれた皺は一年前よりも驚く程に増えていた。一年の間にこれ程人相が変わってしまうのかと思うくらい、印象が変わっていた。けれど、それは僕の心の変化から来ているのかもしれなかった。
父さんはその強面の顔に優しく諭すような微笑みを浮かべ、言った。
「久しぶりだな、新一。そこのソファに座りなさい」
父さんはそう言って立ち上がり、近くのソファに母さんと一緒に座った。僕は丸テーブルを挟んで向かいの席に座って、固く拳を握った。
「話があって来たそうだな。前置きはいらないから、遠慮なく話してみなさい」
父さんと母さんの表情は少し強張っていたけれど、笑顔は絶やさないままだった。僕は手に持っていた“それ”を両親の前に置き、結んでいた赤いリボンを解いた。すると、その場一帯に海の風景が広がった。
二人は僕が持ってきたその一枚の絵を見つめて、息を呑んだ。僕は紙を結んでいたその赤いリボンをぎゅっと握り、胸の前に持ってきた。
どうか僕を導いてくれ、宏美さん。
そう心の中でつぶやき、僕はそっとリボンを握ったままポケットの中に入れた。
その絵は僕の部屋に飾られていた、“二人の夫婦”を描いたあの絵と全く同じだった。海を背景にして、若い男女が映っている。彼らは砂浜の方を向いて、満面の笑顔を浮かべていた。
僕がまだ小学生だった頃、あの海辺に両親と共に行って、描いた絵だ。彼らは僕が絵を描くと言うと喜んで波打ち際に立ち、僕が絵を描く様子を見守っていた。
父さんと母さんは身を乗り出してその絵を見つめ、そこに描かれているまだ若かった頃の自分達を食い入るように凝視していた。その喉がひくつき、何か言葉を絞り出そうとするけれど、二人はうまく声を出せないようだった。
やがて父さんがソファに寄りかかり、大きな吐息をついて言った。
「これは、あの時の……」
けれど、その絵には“あの絵”とは決定的な違いがあった。
その絵の手前に、“少年”が夫婦をスケッチしている姿が描かれていた。そう、その男の子は僕だった。
その顔には笑顔が溢れて、本当に満ち足りたような表情をしているのがわかる。僕の部屋の壁に掛けられていた絵とは、そこが全く違っていたのだ。
「これが僕の願いなんだ。あの頃と同じように、僕はまた絵を描いていたいんだ」
僕はそう言ってもう一度、ポケットの中の赤いリボンをぎゅっと握った。指先の震えが、それを握っていると、次第に収まっていった。
――これから、私が付いてるから。
彼女のあの時の言葉が、もう一度頭の中に蘇った。
そこで両親の顔に怒りの表情が浮かぶだろう、と僕は思っていた。しかし、彼らは“あの時と全く同じ”笑顔を見せて、うなずいてみせた。僕はそこでふと兄貴が語っていた言葉を思い出し、ようやくその事実に気付いた。
――お前が思っているより、お前は自分の心に素直でいていいんだよ。それに、お前は父さんと母さんを誤解しているんじゃないかな。
――父さんと母さんを信じてみろよ。
僕は弁護士になることが二人の願いだと思っていた。でも、もしかしたら――。
「その言葉を待っていたんだ」
父さんがどこか重荷から解放されたような柔らかな声でそう言った。僕は目を見開いて顔を上げ、父さんの顔を食い入るように見つめる。
「最初は私達もお前に弁護士になってもらいたいと思っていたんだ。でも、お前の心がわかって、本当は何をやりたいのか、気付いていたんだ」
父さんはそこで目元を擦り、どこか悔しそうな、それでいて晴々しそうな複雑な表情を浮かべて息を吐いた。
「私達も葛藤がなかった訳ではないが、お前の絵の才能をわかってて、それで決断したんだ。私達はお前のことを何だって知ってる。お前が本当は何を志しているのか、わかっていたんだ。だから、その決心を打ち明けてくれることを待っていたんだ」
父さんはぐっと何かを堪えるように俯き、母さんにうなずいてみせた。母さんの顔にも涙が伝い、彼女の掌を濡らしたけれど、二人は絶対に笑顔を歪ませたりはしなかった。
「私達はお前を信じている。どんな道でも生きていけるよう、血と汗を流すほどの努力をしていきなさい。それが生きる決意となるなら」
僕はうなずき、本当にありがとう、と彼らの手を強く握った。二人も涙を浮かべたまま、ぎゅっと指先に力を込めて握り返してくる。
僕は二人の全くいつもと変わらない笑顔を見つめながら、本当にすごい人達だな、と感じた。それと共に、自分の選んだ道はどれほど苛酷であっても乗り越えてみせると、決心が固まるのがわかった。
本の落ち着いた香りが立ち込めるこの部屋で、どこからか海の潮騒が流れてくるのがわかった。僕はいつまでもいつまでも、涙を喜びに変えて、その手の重みを感じていた。
父さんと母さんは、宏美さんを車で待たせているのは悪いから、と言って僕に連れて来させようとしたけれど、僕はそれを断った。今日は決意を伝えられてそれだけで嬉しかった。宏美さんにはこれから用事があるし、お礼の言葉だけ伝えておくよ、と二人に言って家を出た。
最後まで父さんと母さんは微笑みを浮かべていた。僕を散々罵倒したい気持ちもあっただろうに、すべてを許して僕の決意を認めてくれた。それは逆に、これから僕がその想いに応えなければならないということでもある。
僕は門から出ると、道の端に停車しているレクサスの助手席のドアを開き、戻りました、と晴れやかな顔で言った。
その途端、流れてきたその爽快感のあるメロディに、僕ははっと口を開いた。
それはあの時、宏美さんが口ずさんでいた曲だった。海辺をドライブするのにとても合っているような、どこか清々しいサウンドだけれど、バンドの演奏がはっきりと際立って、とても心が弾むような曲だった。
そこで宏美さんが運転席のシートにもたせかけていた体を起こし、こちらに振り向いて、「これね」とつぶやいた。
「この曲はね、夢を追う人への応援歌なんだ。私もこの曲に何度も助けられたよ。名前、何て言うか知ってる?」
――夢追人。
君のことだよ、と彼女は言った。僕はしばらく彼女のその悪戯っぽい目をじっと見つめていたけれど、ふっと噴き出してポケットに手を入れ、それを差し出した。
「借りていたものです」
彼女は僕が差し出したそれを見て、少し恥ずかしそうに笑った。
「このお守り、役に立った?」
「これがあったから、なんとか父さんと母さんに想いを伝えられました。ありがとうございます」
「うん。それはよかった」
僕は車に乗り込んで、彼女の隣に座った。すると、すぐ側から彼女の潮の香りがする髪の匂いが漂ってきて、僕は体から力が抜け、シートに体を投げ出すようにして寄りかかった。
彼女は目を閉じ、すっと息を吸った。そして、次に目を開いた時、彼女の瞳の奥には張り詰めた緊張のようなものがあった。
「これから本気で君に協力するから。夢を追う手伝いをしたい」
そう言って彼女は僕が渡した赤いリボンを振ってみせた。これがそのしるしだ、とつぶやき、両手を頭の後ろへと持っていった。そして、きゅっとあの展覧会でしたように、髪をリボンで結わえた。
「これで、私が本気だってことがわかっただろ?」
「ありがとう、“姉さん”」
“夢追人”はいつまでも僕と姉さんの心を爽やかな潮風で撫でていき、水平線の彼方まで旅させていく。僕はそこでただ、絵を描きたいと思った。
「夢は消えないから “願い”という風を
演技ではない 心 未来を育てるんだ
僕は夢見る いつか海の向こうから “僕”を見続けるよ」
――僕は筆に願いを込め、“夢”を描き続ける。
いかがだったでしょうか。是非感想や評価を残していただけると幸いです。よろしくお願いします。