前編
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僕は砂浜に座って、長いことスケッチブックに絵を描いていた。それは目の前に広がる、銀色の海だった。きらきらと日差しを照り返す海面が見渡す限りに続き、水平線が薄い青の色彩を滲ませ、どこまでも伸びていた。
その澄み渡るような青空が初夏の清々しさを僕の心に広げて、僕は夢中になってその絵を描き続けていた。風は生温かく、肌が汗に濡れていたけれど、僕は構わずにずっと鉛筆を走らせていた。
ビーチには点々と人々の姿が見受けられ、サーフィンをしている人や、砂浜でテーブルや椅子を持ち出して寛いでいる人など、賑わっていた。
僕はそんな盛んな笑い声からは遠ざかり、一人、砂浜の片隅にぽつんと腰を下ろして、海を描いていたのだった。自転車で海まで来る人が道の端に駐輪している所為か、自転車のブレーキ音が時折僕の鼓膜を撫でていった。
僕はタオルで汗を拭いながら絵を描き続け、じっと海へと視線を向け続けていた。そこでふと、僕は絵に描かれた波打ち際に、“二人の夫婦”を描いてみたくなった。
笑顔でこちらを見つめている二人の若い男女の絵だ。“あの絵のように”、ただただ彼らの笑顔を見ながら、穏やかな気持ちで絵を描いてみたかった。できれば、あの頃に戻りたかったのだ。
でも、描こうとして、やめた。あの人達にこの絵を見てもらいたいと思っても、きっと認めてもらえないだろう。
再び鉛筆を握り、描き始めていると、そこで背後から足音が聞こえてきた。それはどこか軽やかな足取りで、少しずつこちらへと近づいてくる。
そこで、鼻歌が聞こえた。その旋律をしばらく聞いて、僕ははっとする。それは、邦楽バンド『地平線』のとても明るく、心を元気づけてくれるようなアップテンポな曲だった。名前は忘れたけれど、兄貴がとても好きだった曲だ。
思わずスキップをして、踊ってしまうような楽しげな曲で、リズムが小気味良かった。そんな曲を唄っている所為か、背後を歩く人が上機嫌であることは間違いなさそうだった。
僕が振り返るよりも早く、足音がすぐ背後で止まるのがわかった。すると、「ほう」と感心するような女性の声が聞こえてきた。僕は驚いてそっと振り返った。
「なるほど。これは確かに嘘ではなさそうだ。あとはただ、決心するかだな」
女性は独り言のように小さな声でつぶやき、僕の絵をじっと見ていた。彼女は片手で煙草を握って、ぷかぷかと吸っていた。黒髪は腰まで届くほどに長く、星空を流れる天の川のように艶やかに光っていた。
背が高く、黒いパンツスーツを着ていた。どこかボーイッシュな雰囲気を纏った、二十代半ばほどの女性に見えた。化粧っ気がないのに、驚くほどに顔が綺麗だった。
形の整えられた柳眉、日本人離れした直線的な鼻筋、深い意志を感じさせる、どこか挑発的なその目。そのあまりに強いオーラを放つ女性に、僕はたじろいでどんな言葉も零すことができなかった。
そして、彼女の左手の薬指に、指輪が嵌められていることに気付いた。それは夏の燦々とした日差しを受けて、七色に煌めいていた。
この人、どこかで見たような気がする。どこで、だろうか。
僕はじっと女性の顔を見つめて、記憶を掘り起こそうとするが、彼女が「やあ」と片手を上げて挨拶してきたので、僕は面喰って軽く頭を下げた。
「巧いな。海を描くのが好きなのか?」
女性はそう言って、にっこりと目を細めて首を傾げてみせる。僕はその女性の笑顔があまりに心を射抜くような美しいものだったので、どぎまぎしながら視線を逸らせた。
「ええ、まあ。ほとんど海しか描いていません」
僕がそう言うと、女性は軽く唸り、煙を吐き出しながら、どこか呆れているような表情を浮かべてうなずいた。
「海だけじゃ勿体ないくらいの腕を持っているのに。高校三年では、なかなか……」
「ずっとこの海を描き続けてきたから」
僕はそう言って海を見つめ、その後に視線を伏せた。どんなに絵を褒められても、あの人達の言葉が蘇り、胸が締め付けられるような心地がした。
でも、仕方がないことなんだ。僕が自分で決めたことだし、それがきっと僕にとって最善の道なのだから。
「そうか。なら、たまには私を描いてみるのはどうだ?」
女性が突然そう言って煙草を投げ、踏み潰したので、僕は目を大きく見開いて、何故そんなことを言い出すのかと、瞬きを繰り返した。
「え、でも……それはちょっと」
「自分を変えたいと思うなら、何事も一歩を踏み出してみることだ」
女性がそう言って煙草の吸殻を屈んでつかみ、携帯用灰皿に突っ込んでいるのを見て、僕は暴れ狂う心臓の鼓動を感じながら、黙っていた。
この人を描けば、僕も変わることができるのかな。
「わかりました。いいですよ」
僕はスケッチブックを捲って鉛筆を構えたけれど、どこか心が浮き立つような感覚を抱いた。たぶん、人物画を描くのが本当に久しぶりだったからだろう。何年ぶりかな……。“あの時”、からか。
今でも、この砂浜に座って彼らを描いたことは鮮明に思い出せる。今だけ、そう、今だけならいいだろう。
「――国公立の法学部を」「弁護士に――」
そんな言葉が頭を過ったけれど、僕は今は気にせず、絵を描くことにした。
女性は海をバックにしてこちらに立った。風が吹く度に彼女の黒髪がさらさらとなびき、彼女の前髪が浮き上がると、そこから汗ばんだ額が覗く。
その一つ一つの粒が日差しにきらきらと煌めいて、とても眩しかった。そして、彼女が軽くポーズを取った。それはモデルがしていると思ってしまうほどに様になっていて、彼女がこうしてポーズを取るのに慣れているのがすぐにわかった。
「脱いだ方がいいか?」
彼女は突然にこっと微笑んで、そう言う。
「冗談はやめて下さい」
「悪い悪い。私にはもうフィアンセがいるし、あいつに怒られそうだからな。じゃあ一枚、よろしく」
僕はそこで軽く息を吸い、とてつもない速さで絵を描き始めた。手を休めることなく、彼女をその紙の上に描いていく。彼女の一本一本の髪や、そこに浮かんだみずみずしい笑顔まで、すべてを筆に込めて描こうとした。
鉛筆を動かせていると、喜びが湧き起こってくるのを感じた。憂鬱な気持ちが掻き消え、心から楽しいと思う。
やっぱり絵を描くのは楽しい。こうして彼女の姿をずっと描いていたい。
そう考えながら、夢中になって描いていると、どこからか涙が出てきた。あれ、と腕で肌を擦ると、それは溢れて零れ落ちた。
僕、なんで泣いているんだろう。
僕は嗚咽を必死に堪えながら、ずっと女性の絵を描き続けた。時が経つのも忘れ、一心不乱に描き続けた。
やがてその絵が完成すると、僕の涙も止まっていた。
「できたかい? 見せてくれ」
女性は近づいてきて、僕からそのスケッチブックを受け取った。そして、大きく目を見開く。
「驚いた。本当に――」
彼女は喉を震わせながらそうつぶやき、ずっとスケッチブックを固く握って眺め続けていた。その唇がわななき、何か言葉を絞り出そうとしているようだったけれど、そこからは深い溜息しか漏れなかった。
やがて彼女はそのスケッチブックを胸に抱き、こちらに振り向いて、どこか興奮したような表情で何度も叩きながら言った。
「この一枚、私にくれないか? 本当に、この自画像は私にとって大切なものなんだ」
僕がいいですよ、と掠れかかった声でつぶやくと、女性は花びらが一斉に舞うような、とても美しい笑顔を見せて、スケッチブックを捲っている。
「他の絵も見せてくれないか? 君の分身を少し眺めていたいんだ」
僕がうなずいてみせると、女性はスケッチブックを素早く捲って、熱心にその一つ一つの海の絵を見つめていた。その口元には心からの穏やかな笑みが浮かんでおり、本当に僕の絵を気に入ってくれているのがわかった。
僕はそれだけで、沈んでいた気持ちが少しずつ溶けていって、心が透き通るようなものへと変わっていくのを感じた。本当に、本当に僕の絵が誰かの心をつかんだんだ。こんな言葉をもらったのは、“あの時”以来かもしれない。
僕が彼女の嬉しそうな様子をじっと見つめていると、女性はこちらに背を向けて、その絵をスケッチブックから抜き取っているようだった。そして、再びこちらへと向き直ると、その絵を胸に抱えて軽く頭を下げてきた。
「ありがとう、宝物にするよ」
女性はそう言って僕にスケッチブックを渡してきた。僕は受け取りながら、間近からじっと彼女の顔を見つめたけれど、薄らと彼女の目は潤んでいるように見えた。
僕はそのどこか深い意志の篭った、何か物言いたげな眼差しに口を開こうとするけれど、すぐに彼女は絵を抱えながら歩き去っていこうとする。
僕は慌てて声を張り上げ、「あ、あの!」と呼び止めようとした。すると、彼女がこちらに振り返り、あの挑発的な目でじっと見つめてきた。その口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「なんだい、高校生」
「あの、あなたの名前は?」
僕が動悸の激しい胸を抑えてやっとのことでそう言うと、彼女はそれには答えずに、片手を上げて合図した。
「また近いうちに会うことになると思うよ。約束だ」
彼女は含みのある言い方でそんな言葉を残すと、今度こそこちらに振り返らずに、歩き去っていった。
そこで再びあの口笛が聞こえてくる。『地平線』の曲は、僕の心に羽を生やして、一斉に空へと解き放ってくれた。時折途切れるその旋律に合わせて、僕の心臓が跳ね上がった。
なんで、どうしてこんな晴れやかな気持ちになれたんだろう。
僕は彼女のそのほっそりとした背中を見つめながら、涙を堪えるのに苦労した。彼女がくれたその優しげな揺らぎのない意志が、この胸の中で燃え続けているのがわかった。
僕は何かを忘れていたのかもしれない。でも、これでそれを取り戻すことができたんじゃないか。
彼女は道路の側に駐車してある赤い車へと向かって、歩いていく。僕はその瞬間、わずかに体が震えるのがわかった。その車が、レクサス・RXのレッドだったからだ。
僕は思わず身を乗り出して、その車の運転席に座る人物の顔を見ようとしたけれど、その前に女性は扉を開いて中に入り、発進してしまった。
まさか、な。
僕は動悸の激しい胸を抑えながら、その車が道の先へと消えていくのをずっと目で追っていた。そこでナンバープレートが微かに見えた。
横浜 330 さ 36-51
僕はそのナンバーをどこかで見かけた気がした。けれど、どんなに記憶を掘り起こそうとしても、何か事実が浮かび上がってくることはなかった。
僕は不思議な気持ちになりながら、その車を見送った。フロントマスクの鋭さ、全体の少し太った感じのするボディ、僕が今までずっと見てきたものだ。車はコーナーに入り、運転手がハンドルを切った。
小さな舵角から正確に向きを変えて、車はどこまでも“地平線”へと向かって遠ざかっていく。僕はそこに自分が乗って、一緒に「彼方」まで消えていってしまいそうな、そんな感覚を覚えた。
僕は首を振り、激しい鼓動を感じながら、熱い吐息を漏らした。まだ彼女を描いた時の高揚感が頭を焦がさんばかりに残っていた。ボーイッシュでスタイルが良く、黒髪のストレートだった。
兄貴の好きなタイプ、ドンピシャだな、と思った。僕はくすりと微笑み、『地平線』のその曲を軽く口ずさんだ。
「夢は枯れないから “願い”という水を
造花ではない 生きた苗木を育てるんだ
僕は夢見る いつか雲の上から 君を見続けるよ」
その言葉をつぶやいていると、次第に自分の中で何かが変わっていくような気がした。僕はスケッチブックを手に取り、再び鉛筆を握った。
僕には、描くことしかないのかもしれない。今だけは、すべての心をこの手に込めて描き続けよう。
僕はずっと砂浜に座って、描き続けた。