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雨(1)

 朝、ベッドの中で目を覚ますとザーッと間断なく続く水音が耳に入った。周囲は明るくなっているものの、いつもと比べて薄暗い。

 僕は起き上がり、閉めたままのカーテンを少しだけ捲くって、外を見る。しとしとと細長く線を描くように間断なく地面を打ち付ける雫。その雫によってっ地面には水たまりができ、その水面に円を描いていた。空は暗澹とした雲に覆われている。つまり雨が降っていた。

 僕は自室のカーテンを開けた後、ため息をつきながら自分の部屋を出た。そしてリビングのカーテンも同様に開けた後、洗面所へ行き、自分の顔と手を洗う。タオルで顔と手を拭き眠気を吹き飛ばすと、僕は台所へと向かった。

 冷蔵庫から必要な食材と、戸棚から調味料やら調理器具を取り出すと、僕は弁当を作り始める。

広い台所にダイニング、リビング。自分の部屋にその他空き部屋が数部屋ある一軒家。二年前まで祖母がいたけれど、今は僕一人きりだ。

淡々と炊いた米と調理したおかずを詰め込み、弁当を作り終えると僕はトースターに食パンを突っ込んだ。冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注ぎ、食パンが焼き上がると皿に乗せマーガリンを塗り、食べた。

牛乳を飲みながら外を見る。雨は相変わらず降り続けていた。

大学に自転車で行くのは今日は無理そうだ。歩いて行くにはさすがに距離がありすぎる。地下鉄を使うしかないのだが、僕の家から駅までは少し距離がある。それに交通費がかかってしまうことが僕の気をたまらなく重くさせた。

トーストと牛乳のみのシンプルな朝食を終えると僕は食器を洗ったり着替えたりして身支度を整え、バッグに今日必要な教科書類やノート等の筆記用具と冷ましておいた弁当、水筒、その他貴重品を詰めた。そうして一通り準備を終え、僕は一息つき時計を見る。

そろそろ家を出なければならない時間だ。普段のように自転車で行ければもう少し遅くてもいいのだが、あいにくの雨だ。いつもより早く出掛けなければ遅刻してしまう。

僕は戸締りをして家を出た。外は暗澹とした曇天。雨はザーザーとそこそこの勢いで降り続けていた。

僕は傘をさして歩き出す。雨は予想以上に強く、傘をさしていたのにも関わらず、駅に着くまでに少し濡れてしまった。

駅に辿り着くと僕は改札を通り、階段を下る。ホームにまで出たところで時間を携帯で確認してみた。そして近くの電光板を見る。

次の電車がくるまであと五分ちょっとだった。

僕は近くの椅子に座りバッグから本を取り出し、暇つぶしに読み始めた。

「おはよう」

 突然聞こえてきた女の声を僕は無視していた。この駅に知り合いはいないはずだから、誰か別の奴に言った挨拶だと思っていた。

「おはよう」

 再度、同じ声が挨拶をする。

 彼女が声を掛けている人物は耳が遠いのか。僕は本の世界に浸りながらそんなことを考えていた。

 考えていた。

「……」

 ここで僕は本の世界から完全に離れ、気づく。挨拶をしていた声に聞き覚えがあることに。さらに僕の周囲には他に誰もいないということに。

「おはよう」

 もう一度繰り返されたその挨拶に、僕は顔を上げた。

 腰まである少しウェーブがかかった長い黒髪。ブラウスにロングスカートと清楚な感じの服装にこちらをじっと窺うのは紛れもなく湊有沙だった。

「……おはよう」

 僕は仕方なく挨拶し返した。彼女と会話するのは憲法の講義の初回以来だろう。

「やっと気づいてくれた」

 目の前に立っていた彼女はそう言った。やはりどこかの誰かではなく、僕に向けての言葉だったようだ。

 なぜ彼女がここにいるのだろうか?

 僕の頭は重くなった。雨のためただでさえ憂鬱なのに、その度合いがさらに増す。

 それにしてもどうして彼女は僕に話掛ける気になったのだろうか?

 僕はきついことを言ったり、講義後素っ気なくして彼女を突き放したはずだ。

「あなたもこの辺りに住んでいるのね」

「まあね」

 今こうして他に乗り換える路線もないこの駅にいることからそのくらいは推測できるし、別に隠す必要もない。彼女の発言から相手もまたこの近辺に住んでいるようだとわかった。

「……」

「……」

 会話が途切れ沈黙がお互いの間に流れる。僕としては別に彼女と話すことなんか何もないので構わないのだが、目の前に突っ立っていられるとどうしても気まずい。

 まだ電車は来ないのかと、僕は線路の方へ視線を遣る。

「あ、あの……」

 彼女が口を開きかけたものの、言い淀む。話してもいいのかを窺うように僕を見つめてきた。話したいことがあるのならば、さっさと口にすればいい。

「何?」

 僕は仕方なくそう言った。

「この前の講義の時、私、あなたに自分のことを押しつけてたような感じになってた。それであなたに、無理やり認めさせるみたいな形になってしまって……。だから、私の言い方が悪くて、その、軽率なこと言ってしまって、それでその、申し訳なく思ってたの。それを伝えたいと思っていたらあなたがこの駅にいて……。それでつまり私は……。私はあなたに謝りたかったの。だからその、ごめんなさい」

彼女は頭を下げた。

 まだあの時のことを引きずっていたのかと彼女の様子を見て僕は思う。僕としては完全にあれで終わりのつもりだったのだが。

それにしても彼女の言うことは長ったらしくて、いまいち要領を得ていない。自分が言いたいことを言葉にするのが下手だ。話ながら言葉を見つけていこうとするものだから、余分なことをべらべらと並べてしまっている。

 要約すれば、彼女は僕に自分が言ってしまったことを謝りたい。それだけの話なのに。

 どうしてわざわざ謝ろうとするのかは僕には理解できないけれど。あの時僕に言われたことを真に受けて、自分の非を認めるなんて予想外だった。僕としてはあれだけ言っておけば、二度と関わってこようとしなくなるだろうという、目論見があったのだが。

 僕には彼女が未知の存在に思えた。

「いいよ、別に。僕は全然気にしてないから」

僕は「全然」を強調して言った。

「本当に?」

「本当だよ」

 そもそも僕に嘘をつくメリットがない。

「よかった……。ありがとう」

 彼女は安心したような表情で、僕に礼を告げた。

なんで僕が感謝されているんだろうか?

 もともと許すかどうかというような話じゃなかった気がするし、かなりとんちんかんな展開だ。

 そんなことを思っていると、プラットホームに短い曲と共にアナウンスが流れた。


 どこ行き、白線の内側で待てという注意。そして、それと共に耳に入る電車の音。

 僕は椅子から立ち上がり、バッグを肩に掛けた。まだ僕の前から離れていなかった彼女は、横に退いた。

轟音を立てながら電車がホームに入ってきた。

僕は横にいる彼女に目を遣る。当たり前のことながら僕よりも身長の低い彼女。

「……」

 なんとなく気まずい。

 彼女が謝り、僕が許すという形で話は一段落ついた。だから僕が彼女と話すことはもう何もない。それでも彼女が僕の前からいなくならないのは、単に電車が来たからだろう。同じ大学に通っているのだから仕方がない。しかし、なんだかひどく居心地が悪かった。

 電車が完全に停止し、ドアが開いた。僕は中へと乗り込む。もちろん彼女もだ。

電車の中は混んでいた。この電車が向かう路線上には高校、大学が多いため、車内には制服や私服の学生がたくさんいた。座る席はなく立っている人も多かったが、おしくらまんじゅうになってしまう程ではなかった。


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