講義
花見から数日後、大学では本格的に講義が始まった。
二限目、全学共通科目である憲法の講義を受けに行くため、僕はキャンパス内を歩いていた。講義が行われる教室は東棟という初めて行く講義棟だったため、キャンパス内の簡略図で一度場所を確認しながら向かった。キャンパス内の各建物、店等の位置は、昨日のうちに簡略図片手に暗記していたが、念のため目を通しておいた。
目的地である教室に辿り着くと、前の方の出入り口付近の空いている、横長の机に付属した、の九人がけの席の端に僕は座る。そしてバッグから教科書、バインダーにルーズリーフ、ペンケース、プラス今読んでいる文庫本を取り出した。
僕は出版社の広告が印刷された紙の栞を挟んでおいたページを広げた。栞は最終ページに挟んで続きを読み始める。講義が始まるまで読書するつもりだった。
「あ、あの」
何ページかめくったところで、誰かに声を掛けられた。声の主は女。しかし、聞き覚えは全くなかった。
僕は顔を上げて相手を見た。腰まで届く長い少しウェーブがかかった黒髪。華奢で清楚な雰囲気を持った彼女は、真面目な顔でまっすぐと僕のことを見つめていた。
花見の時に酔い潰れて僕に抱きついてきた女。
僕は一目でそう確信した。
「何?」
形式的に僕はそう訊いた。
「えっと、都築君、よね?」
「そうだけど」
「ごめんなさい。こ、この前の花見の時はその、突然あなたに抱きついてしまったようで……」
彼女は謝罪しつつ口ごもる。恥ずかしそうに目を伏せた。どうやら自分がしでかしてしまったことに対して羞恥心を感じているようだ。男慣れしていないタイプだとわかる。
「……本当にごめんなさい。私、あの時は酔っていて、記憶がなくて……」
「別にいいよ。気にしてないから」
彼女の友人にも同じようなことを言ったな、と思いながら僕はそう口にした。
「あっ、私は湊有沙っていうの。謝るのが遅くなってしまってごめんなさい。名前と学年と学部がわかっても、あなたの学部に知り合いがいなくて、それに大学内も広くて……。偶然だけど今日やっとあなたに会うことができたの」
「だから僕は別に気にしてないんだけど」
尋ねてもいないのに勝手に名乗り、べらべらと並べ立てる彼女に、僕は名乗り返しはせずに言った。今の言い分から彼女は僕の名前を知っているようだから、わざわざ自己紹介する義理はない。それにこれ以上、関わる気もなかった。
彼女が謝罪し、僕が許す。これでこの話は終わる。
「よかった……。でも本当に謝るのが遅くなってごめんなさい。あなたを煩わせてしまって」
何回謝るつもりなんだと考えていたが、最後の言葉だけは聞き捨てならなかった。
「君は君が抱きついてきたことを、僕がずっと気にしていたとでも思っていたのかい? 随分と自意識過剰なんだね」
「えっ。わ、私、そんなつもりじゃ……」
彼女はオロオロと否定するが、あの台詞の裏にはそういう心情が感じ取れた。僕はまったくもって花見の時のことなど気にしていなかったのに、思い上がりも甚だしい。
「私はただ……」
彼女は話すべき言葉が見つけられないのか、口をパクパクと空回りさせるのみだった。
僕はその様子を冷ややかに見つめる。
「わ、私はずっと気にしていたの。あなたに、その……酔った勢いでしでかしてしまったことを。私は自業自得だけど、あなたの場合は不可抗力だから。煩わしい思いをさせていたら悪いなって、ずっとそう思ってて……」
彼女は真剣な顔で精一杯弁明するが、さっきと言っていることは結局変わっていない。彼女自身がどう思い考えていようと構わないが、僕も同じだと勝手に決めつけないで欲しい。
「あ、そう」
僕は文庫本に視線を戻した。どうせこのまま会話を続けたところで、彼女は同じ内容で否定するだけだろうから、無駄な時間にしかならない。これ以上、彼女と押し問答をする気はない。
「はい、皆さん、お静かに」
ちょうどその時、先生が講義の開始を告げた。ここの大学で講義を受け持つのは教授か、非常勤講師。どちらかなんて見た目で判別できない上に把握しておくのも面倒。皆、無難に全ての教員に対して「先生」と呼ぶ。
シラバスに記されていた名前から予測した通り、女。年齢はおそらく四十代。耳に良くも悪くも響く声だと僕は思った。
「あの、隣に座ってもいい?」
視界の端でキョロキョロと慌てて周囲を見回していた彼女は、僕に窺うような視線を送りながら訊いてきた。
「……」
僕は無言のまま、自分の席を前にずらし、彼女が通れるようにした。
「ありがとう」
彼女は小声で礼を言うと、僕の隣の席に座った。まあ正確に言えば、僕は隣の席に自分のバッグを乗せていたので、彼女はそのまた隣の席に着いたということになるのだが。
「怒ってる?」
先生がイントロダクションとして、成績の付け方や講義全体の大まかな進行について話している中、小声で彼女は話し掛けてきた。
「別に」
僕は前を向いたまま短く答える。
「私はただ、あなたに煩わしい思いをさせていたら悪かったなって思って、さっきそう言ったの。だから、あなたがそう思ってなければそれで良くて……」
「『私は自意識過剰ではありません』って言いたいわけ?」
僕は彼女の言葉を遮った。彼女の方へ冷ややかな視線を送る。
「えっ」
「君が言いたいことはそういうことだろう。僕に自意識過剰って言われたことを訂正して欲しいだけなんだろう?」
「それは……」
「いいよ、訂正しておくよ。君は別に自意識過剰で発言したんじゃなかった。これで君は満足だろう」
「……」
呆然と言葉を失ってしまった彼女を尻目に僕は先生の方へ視線を戻した。これで彼女はもう、鬱陶しく話し掛けてきたりはしないだろう。
せいせいした気分で僕は先生の話に意識を集中させる。
「……違うの。私はあなたにそう言わせたかったわけじゃない。ただ、謝りたかっただけなの」
「ふーん」
「余計なこと、言ってしまってごめんなさい」
「もういいよ。君の言い分はよくわかった。だから黙ってくれない? 僕は講義に集中したいんだ」
僕の予想に反してまたぐちゃぐちゃと再び口を開く彼女に、はっきりと言ってやった。
「ごめんなさい……」
彼女は僕が不愉快に思っていることにやっと気づいたのか、それ以降は黙っていた。
今日は初回ということもあり、イントロダクションだけだったので、早めに講義が終わった。すぐに僕は教科書と筆記用具をバッグにしまうと、席を立った。
「待って」
教室を出ようと歩き出そうとした僕を彼女は呼び止めた。
「何だい?」
仕方なく僕は彼女の方へと振り返り、形式的にそう訊く。
「ごめんなさい。私、あなたに謝りに来たのに、より不愉快にさせてしまったみたいだから。本当にごめんなさい」
彼女は目を伏せた。その表情と声音から本気で言っていることはわかったが、いちいち謝ってくる彼女に、僕はうんざりしていた。
「僕のためを思うんだったらもう謝るのはやめてくれないかい? 僕は君のことなんかこれっぽっちも気にしていないから。じゃあ、さようなら」
冷たくそう言い放つと、彼女の返事も聞かずに僕は背を向け歩き始め、教室から出て行った。徹底的にぞんざいな対応をして突き放したから、彼女はもう僕に関わってこようとはしないだろう。
僕はせいせいした気持ちで階段を下り、お昼休みを挟みその次の講義がある中央棟へと向かった。