遊び(2)
“この前はおにぎりとか、色々とありがとう"
二限目に講義がなく図書館で勉強していた僕に、彼女はそう告げてきた。
その表情は明るく、二日前の落ち込みようが嘘みたいだった。
そして彼女は
“あのこれ、そのお礼。もしよかったら食べて"
とレジ袋を差し出してきたのだ。
中身は市販のシュークリームと牛乳プリンだった。
“あなたはお弁当を持ってきているみたいだから、デザートにどうかななんて思ったんだけど……"
僕は別に食べ物に好き嫌いはなかったし、差し出された物を無下に拒否する理由もなかったため、受け取った。お礼を言われるどころか、余計なことしかしなかったのに、もらうのは変な話だとは思ったが。
“このシュークリーム、カスタードクリームとさらに生クリームまで入っていてすごくおいしいの。牛乳プリンの方も素朴な味わいでとってもおいしいの。だから選んだのだけれど、好きじゃなかったらごめんなさい"
レジ袋の中身を眺めていると彼女はそう言った。シュークリームと牛乳プリンの下りは若干力説気味だった。その話し方から彼女の好みでチョイスしたんだなと僕は推測できた。
まあ相手の好みがわからない場合、突飛な嗜好の持ち主じゃない限り、自分の好きな物を選んで渡すのが無難だろう。
謝るのは最早彼女の口癖か習性みたいなものかと思いつつ、僕は嫌いじゃないと返したのだった。
彼女はホッとした顔を見せた後、僕の目をしっかりと見つめ真面目な表情で口を開いた。
“あなたは私にそんなに他人のためにどうにかしようとしなくていいって励ましてくれたわよね。私はあの時そんなにうまく答えられなかったから、あなたと別れてから一人でそのことについて考えたわ"
その後の発言が僕が彼女のことを思い返してしまっている直接的な原因。きっと今も、千夏の手を握って歩きながらも思い出してしまった理由はそれだろう。
ここ数日、ずっと耳から離れない彼女の言葉が。
“私がどうにかしようとするのはきっと少しでも歩み寄りたいからだと思うの。上から目線みたいな言い方だけど、たぶんそういうことだと思うの。何もしないでそのままじゃ、きっと後悔するから。だから上手くいかなくて傷付くことがあっても、私はきちんと向き合っていきたいと思うの”
まっすぐ僕を見据え彼女は語った。そして目差しを緩め柔らかい表情で続けた。
“誰とでもわかり合いたいし、なるべく嫌な思いさせたくないもの。きっと誰もが根本的には『人』の字みたいに繋がりたい、支え合いたいって思ってるはずだから”
彼女は右手の人差し指だけを斜めにピンと伸ばし、その第二関節に左手の人差し指の指先を支えるように添えた。
僕はそんな彼女が作った「人」の字を見つめながら思ったものだ。
「人」の字の新たな解釈が出たなと。
彼女の手振りと言い方によると、支え合いたい、繋がりたいと思うから「人」の字になったかのようだ。
人と人は支え合わなければ生きていけない。
祖母によく言われた言葉をその時僕はまた思い出した。
僕はその言葉を支え合わなければならないように仕組まれているからと解釈していた。
生物としての種の繁栄のための本能。まるでプログラムみたいに組み込まれ、そう生きるように強制されているのだからと割り切ってきた。そしてその体現がまさしく「人」の字だと僕は考えていた。
“『人』の字ってお互いが歩み寄って一緒になろうとして、そして繋がった感じになっているでしょう。だからきっと私がきちんとわかり合いたい、仲良くなりたいって思って頑張れば、絶対じゃなくてもなんとかできると思うの”
黙ったままそんな思考に耽りかけていた僕に彼女はさらに微笑みを浮かべながら語ってきた。
お互いに歩み寄って一緒になろうとしてそして繋がる。「お互い」が歩み寄ってその結果繋がる。
つまり彼女の言うことを深読みすればどちらか一方だけでは成立しないということ。
誰もが繋がりたい、支え合いたいと思っているという彼女の言い分。
色々な見地から繋がりを持ち、支え合うようにされているんだという僕の解釈。
強制されていることだという概念さえ除けば、僕の考えは彼女の意見とほぼ同一のものになる。
僕も彼女も人が誰かしらと繋がり支え合うんだという事実を肯定している。
彼女は皆が各々にそう思っているはずだから、繋がろうと手を伸ばせばきっと相手もそれに応えてくれると歩み寄ってきたのだろう。だけど僕は強制で、最低限は仕方ないんだと割り切り、それ以上は歩み寄ろうともしなかった。
そこが根本的で絶対的な僕と彼女の差。
彼女にそんな意図はないのだろうけど、繋がりたいとなんだかんだで思っていたとしても歩み寄ろうとしなかったから、お前は一人なんだよ、何も得なかったんだと責められているような気がした。
彼女はきちんと前を向いて対峙しているのに、僕は後ろを向いて膨れていたんじゃないのか?
そんな考えがずっと頭の片隅でわだかまっていた。そして今もまた苛まんでいる。
だけど僕は完璧だから、他人から見れば邪魔者でしかない。
『お前はなんでもできるから一人でも構わないだろ』
小学生の時その事実を、クラスメイトの総意を告げられ無視された。
なんでも人並み以上に完璧にこなせる僕は、他人を脅かす目障りな存在。
いらないんだと。
邪魔なんだと。
向こうがそう思っているんだ。
実際にそう言ってきたんだ。
そんな奴等にどうして歩み寄れると言うんだ?
邪魔でいらないと思われるのならこっちから願い下げだ。
僕だって君らのことなんかいらない。
寄ってきたとしても僕の容姿に惹かれてくるだけ。
やがて勝手に幻滅して仲間や周りと一緒によってたかって僕を冷ややかな目で責め立てるのだ。
だから深入りせずに後腐れのない浅い、いつでも切れる最低限の繋がりだけで僕は良いんだ。
そうすることを求められているんだ。いらないと思っているのは向こうなのだから仕方ないんだ。
僕は手を強く握り締めた。
「痛い」
隣から声が上がった。
千夏が顔をしかめていた。僕はすぐさま手の力を緩めた。
思考に囚われるあまり千夏と手を繋いでいたことを忘れていた。
「どうかしたー? 何か嫌なことでも思い出したー?」
千夏はにやにやしながら僕の顔を覗き込んできた。図星だったがこの女にそんなことを悟られたくない。
「別にどうもしていない」
僕は千夏から目を逸らし、足を速めた。
さっさと目的地に行ってしまうに限る。
一軒だけ南国な雰囲気を醸し出している、周りの建物と明らかに浮いているホテルが前方に見えた。
あのホテルを右に曲がってずっとまっすぐ歩けば目的地。
僕の目指している場所まであと数分だ。
こんな恋人紛いの茶番劇も、湊有沙のことで頭を悩ますのも、もう終わりだ。
「わ、私はそんなつもりじゃ……。ただ道がわからなくて……」
千夏と手を繋いだまま、右折すると聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「またまた。そう言っておきながら、金蔓になりそうな男を探していたんだろ?」
「今もオヤジと援交して一稼ぎぐらいしたんじゃねーの?」
「そ、そんなこと私はしていません! ごめんなさい、私はただ道を訊きたかっただけで、お金とかそういうことを考えていた訳じゃないんです」
僕から見て十メートルぐらい先。
道路の左端で二人の柄の悪い男に囲まれているのは……。
吃りながらも真面目にはっきりと話そうとする声。
長い少しウェーブがかかった腰まで届きそうな黒髪。
見間違えようがない。それは紛れもなく湊有沙だった。




