彼女(4)
「あ、そういえばあなたはお昼、大丈夫なの? 学食はすぐに行かないと混んじゃうし、お弁当だって早くしないと売り切れちゃうわ」
「平気だよ。僕は弁当を持ってきているから」
慌て出した彼女に僕は淡々と言った。
「でも食べる場所とか色々あるでしょう。ごめんなさい、私のせいであなたに迷惑を掛けたわ。私はもう大丈夫だから、あなたはお昼を食べに行って」
「君は?」
「えっ、私? 私はもう少し落ち着くまでここにいるわ。こんな顔をみんなには見せられないから」
彼女は乾いた笑みを浮かべる。それが空元気だとは一目でわかった。
「そうじゃない。君はお昼、どうするんだい?」
憲法の講義が終わってからずっと僕と一緒にいたのだから、彼女だって当然のことながら昼食を食べていない。
「あっ……。えっと、私は何も持ってきていないから。……今日は食べないことにするわ。一食ぐらい抜いても平気だから」
ハッと気づいた様子から彼女が何も考えていなかったことがわかった。
「何か買ってこようか?」
僕は彼女にそう訊いた。
何も持ってきていないということはすなわち食べる物がないということ。そして彼女は今人前に出られる状態ではないから、何かを買いに行くこともできない。
食べないんじゃなくて食べられない状況なのだ。
「えっ。ううん、別にいいわよ。私は本当に平気だから。気を使ってくれてありがとう。これ以上あなたに迷惑は掛けられないもの」
「お腹は減っていないのかい?」
「そ、それは……」
質問を変えてやると、彼女は言葉に詰まった。
「何がいい?」
僕は買いに行くことを前提にした上での問いを投げ掛けた。そして立ち上がりゆっくりと歩き始める。
彼女が黙ってしまったことから、本当はできれば何かしら食べたいと思っているのは確実だ。それなのに断るのは遠慮しているから。僕に迷惑が掛かると思っているからである。
ならばこれは僕の意思なのだと示すまでだ。
ドアの近くまで来ると、その前に立っていた彼女は横に退いた。僕はドアノブを握り捻った。
「……おにぎりでいいから。一番安いのにして。それだけでいいから」
彼女はポツリとそう告げた。
「わかった」
僕は返事をするとドアを引いて一人廊下に出た。
再び耳に入ってくるようになった喧騒。
僕は廊下を歩き中央階段へ向かう。そしてその階段を下り、一階にあるキャンパス内でコンビニのような機能を持つ売店を目指す。
昼休み中のため、中央階段は人の往来が激しかった。上って来る人達を避けたり、話しながら下るグループを抜かすこともできず、後ろから歩調を合わせるしかなかった。
わざわざ中央階段を使わず、東階段を下っていった方が早かったかもしれない。僕は内心、後悔した。
そうしている内に階段を降り終え、売店に到着した。
僕は店内に足を踏み入れるとおにぎりが陳列されている所まで行った。人だかりを避け、棚の前に出て、意外と種類のあるおにぎり達を眺める。残り数わずかな物もあったが、売り切れているのはなかった。
いくつぐらい買えばいいだろうか?
僕だったら二個なら腹八分目、三個でまあ満腹になると思う。
だが彼女はどうかわからない。
少食なのか、大食いなのか。
彼女が食事をしているところを見たことがないのだから僕には予測しようがない。
一番安いおにぎりは鮭、たらこ、ツナマヨのちょうど三種。
僕はその三つをすばやく手に取りレジに向かった。
昼休みになってから少し時間が経つためピークは過ぎたのか、レジに人はそれ程並んでいなかった。
僕は支払いを済ますと、買ったおにぎりが詰められたレジ袋を持ち、歩き出した。
僕は何をやっているのだろうか?
至る所から聞こえてくるざわめきの中、東階段へと向かいながら僕は自問する。
わざわざ他人に、しかも押し付けがましく世話を焼くようなことをするなんて、僕らしくもない。
彼女が落ち込んでいようが、泣こうが、お腹を空かせていようが、僕には何の害もない。
放っておいたって何の問題にもならないはず。わざわざ関わろうとする方が余程面倒だ。
合コンの時のこと、タオルを貸してもらったことに対する義理立てか。今まで義理だとか煩わしいことを全て切り捨ててきたこの僕が、何を今更気にするというのか。
僕は東階段へのドアを開き、自嘲した。
とりあえず、彼女のいる階まで上り、買ってきたおにぎりを渡すしかない。
一段一段階段を上がり彼女が待つ階へと戻る。
彼女は廊下に通じるドアの横に突っ立ったまま、こちらを見ていた。
「あ、あなただったのね」
目差しを緩め、彼女は息を吐いた。どうやら他の誰かではないかと警戒していたようだ。
「買ってきたよ。どうぞ」
「ありがとう」
彼女はレジ袋を受け取った。
「あっ、いくらだった? お金、払うわ」
彼女は自分のバッグを探り始める。
「お金はいらないよ」
「で、でもあなたに支払わせちゃったでしょう」
「別に気にしなくていいよ」
「けど、あなたに悪いわ」
彼女は財布を取り出し、開こうとする。
「僕が勝手に買ってきただけだから払わなくていい!」
強く僕は言い放っていた。その物言いに彼女は硬直した。
「ご、ごめんなさい、私……」
畏縮してしまった彼女は、もう何度目かわからない謝罪の言葉を口にした。
僕は本当に何をやっているんだろう?
また恐がらして謝らせた。
そんなことをさせたかったんじゃないのに。
ただ、受け取ってもらえれば良かったのだ。
彼女には借りのようなものがあるから、それを埋め合わす意味も込めて奢ろうと思った。だから彼女に払ってもらう必要性はないと言いたかった。けれど僕の発言は高圧的になってしまっただけだった。
「僕はもう行くから。君は落ち着くまでそこにいればいい。いや、ここにいるのが嫌だったら別の場所に移動してもいいだろうし、自由にしなよ。それだって無理に食べなくてもいいし、いらなかったら捨ててくれて構わない。君の好きにすればいい。全部僕が勝手にしたことだから」
これ以上僕が彼女の傍にいたところで、できることは何もない。それどころか彼女をより怖がらせるだけだ。
ならばさっさと彼女の近くから離れた方がいい。
僕なんかいない方がいいのだ。
「嫌だなんて……」
「じゃあ」
彼女の言葉は最後まで聞かず、一方的に別れを告げると、僕は東階段を出た。
そして廊下を足早に進んでいった。
彼女の傍からなるべく早く離れたかった。
僕は中央階段を下る。
下のさらに下のフロアまで降りると、僕は手近な教室に入った。
昼食を食べている人達が少しいるだけのその場所の空席に、僕は適当に座った。バッグを隣の席に置き、息を吐く。
彼女はいない。
僕はいつも通り一人。
弁当箱を机の上に乗せ、開いた。
誰かのためにどうにかしようだとか、そういうさっきまでの状況がおかしかったのだ。
らしくなかった。
本当に僕らしくもなかった。
僕は自分で作ってきた弁当を食べる。別に好物を入れてきたりはしなかったけど、いつも以上にご飯やおかずを口に詰め込み、咀嚼する。
味わいなんかせずにそれらを次々と飲み込み、あっという間に平らげた。
僕はどうしてあんなことをした?
後悔ばかりが募る。
さらにその理由を明確に自分自身に示すことができず、苛々した。
僕は弁当箱を食べっぱなしにしたまま、携帯を取り出し開いた。そしてブックマークからとあるサイトにアクセスする。
今週末、土曜日はバイトがない。
久し振りに遊びに興じることにしよう。そうすればきっと、よくわからない心のわだかまりも全部すっきりさせてしまえる。
いつも通りの僕のペースを完全に取り戻せるだろう。
僕はそのサイトの掲示板に文を打ち始めた。




