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彼女(1)

次の日は、昨日の台風が嘘だったかのように快晴だった。

 朝、僕は湊有沙みなとありさにもらったタオルを他の洗濯物と一緒に洗濯機にかけ、干した。

 今日中に乾くだろうから、明日にでも彼女に返すことはできる。だが彼女を探すのがいささか面倒だ。

 僕が知っているのは彼女の学部のみ。彼女が何の授業を取っていて、行動範囲はおよそどの辺りかは全くわからない。大学のこの広いキャンパス内をやみくもに探したところで、見つかるはずもない。

 まあ日暮が彼女のメールアドレスを知っているようだから、訊けば居場所を特定することはできるだろう。けれどそんな面倒なことをしてまで早く返さなければならない必要性は、このタオルにはないはず。ならば彼女と確実に会える時に渡すのが得策。僕は彼女程、律儀ではないのだから。

 僕は干したタオルを眺めながらそんなことを思っていた。

 彼女と必ず会えるのは同じ講義を取っている日。つまり明後日の二限、憲法の講義の時だ。その時に返せばいい。

 僕はそう結論付けると家の中に戻り、大学に行く準備を始めた。






 湊有沙と会える、全学共通科目の憲法の講義がある日になった。一限目を終え移動し、僕は憲法の講義が行われる教室に辿り着く。

 時刻は大体講義開始の十分前ぐらいだった。

 少し早く来すぎたかもしれない。

 このくらいの時間だったら、まだ彼女が教室に来ていない可能性もある。教室内はまだ人がまばらだった。

 僕はとりあえず教室中を見回し、彼女の姿を探す。腰ぐらいまであるウェーブがかかった長い黒髪という彼女の特徴を思い浮かべながら一人一人すばやく判別していく。

 ある一点で僕の視線は止まった。教室のちょうど真ん中辺りの右端。

 席に座り、手持ち無沙汰に教科書をパラパラめくっている彼女の姿がそこにはあった。

 人がまだ少なかったためか、意外にも早く見つけることができた。僕はそんなことを思いながら、彼女がいる所へと近づいていった。

「おはよう」

 僕は彼女に挨拶した。

「……あ、おはよう」

 彼女は呆けたような表情をした。

「台風の時はどうも。タオル、返しにきた。

 僕は淡々と用件だけ述べながら、小さめな紙袋に入れたタオルを差し出した。

「別に返してくれなくてもよかったのに。でもわざわざありがとう」

 彼女は目を伏せ礼を告げ、受け取った。

「あなたから声を掛けてくるなんて今までなかったから、ちょっと驚いちゃった」

 彼女は紙袋を横に置きつつ、そう言葉を続けた。

「……」

 確かに僕から声を掛けることはなかったが、それは単に今までその必要性がなかっただけだ。別に驚かれるようなことじゃない。

「ごめんなさい、勝手なこと言って」

 黙ったままの僕の様子から失言したと思ったのか、彼女は謝ってきた。そしてさらに何かに気づいたかのように目を見張った後、口を開く。

「あっ……。私、謝ってばかりね。こんなんじゃうっとうしいだけで、誠意がないようにしか見えないのにね……。本当にごめ……あれ、また謝ってる……」

 瞳を揺らしながら彼女は、一人で勝手に混乱し始めた。

「別に僕は君の言葉が勝手だったともなんとも思ってないから、そんなに気に病まなくていいよ」

 さすがに見かねて僕は制止の声を掛けた。どうやら彼女は台風の時以上に不安定なようだ。うっとうしいだとか誠意がないだとかは、きっと僕じゃない第三者に言われたことなのだろう。それらがごちゃ混ぜになって彼女の頭を悩ませているに違いない。

「……あ、ありがとう。私なんかに気を使ってくれて」

 彼女は弱々しく微笑んだ。

 彼女は自分を卑下して、どんなことでも絶対的に自分が悪いのだと決めつけ、相手に謝罪する。相手が許したと確証が得られるまで、さらにミスしたと彼女が思う度にそれを繰り返す。だからくどく感じるし、うっとうしいと僕も思う。

 僕は彼女の様子をよく窺ってみる。

 俯きがちな顔。

 揺らいでいる瞳。

 こわばった表情。

「……僕は君にそれを返しにきただけだから。じゃあ」

 僕は紙袋を指差し言い、去ることにした。今の彼女に何か指摘するのは酷なことだろうし、これ以上僕がいたところで何の意味もない。より彼女を追い詰めるだけだ。

 僕は踵を返した。

「待って!」

 大きめな声と同時に服の袖を掴まれた。

「一人にしないで」

 縋るようなその声に僕は思わず彼女を凝視してしまった。

「あっ……。ごめんなさい、ごめんなさい!!」

 僕の視線に気づくと彼女は慌てて手を離し平謝りする。

「わ、私、なんだか寂しくて、つい……。馴れ馴れし過ぎて、不快に思ったよね。この講義の時はいつも一人なのに、一人ぼっちが怖くなっちゃって。他意はないの」

 無理矢理な笑みを浮かべ、彼女は言った。

「引き止めたりして本当にごめんなさい。ちょっと気が動転していただけで、もう大丈夫だから。今のは気にしないで。なかったことにして」

 彼女は声を上擦らせながら弱々しい作り笑いを僕に向けた。怖い思いをさせられたはずの相手である僕に縋りついた程、彼女は思い詰めている。

 すごく不安定で危なっかしい感じがする。

「……隣、座ってもいいかい?」

 僕は彼女にそう訊いた。彼女には借りがあるし、なんとなく放っておけなかった。それに教室に人が増え始めた今、良い空席を見つけるのは少し面倒だ。

 ちょっとした気まぐれから発しただけの問い掛けだった。

「えっ……」

 彼女はまじまじと僕を見つめた。

 やっぱり僕なんかが近くにいるのは怖いのかもしれない。別に嫌なら拒絶してくれればいい。

「いいの?」

「君が許可してくれるのならね」

 恐る恐る聞き返してきた彼女にそう答える。

 何も無理にとは言わない。彼女が拒否するのならば、大人しく他の席を探すまでだ。

「わ、私はいいの、隣に来てくれて。ごめんなさい、私が変なこと言っちゃったから気を使ってくれているんでしょう」

 彼女はそう言った。

 さっき謝ってばかりの自分を気にしていた癖に、また謝罪の言葉を口にしている。

 彼女の場合、真面目に本気で自分に非があると思っているからこそ謝る。それは今までの彼女の行動から嫌という程わかった。 だから僕は誠意がないだとかなんとかとは決して考えない。

 最早彼女の特性のような気がしている。けれど無駄に謝って欲しいとは思わない。

「『ありがとう』。『ごめんなさい』じゃなくてさ。僕は僕の意思で言ったんだから、謝るくらいなら礼を告げてくれた方がいい」

 僕はそうぼそりと指摘した。

「あ、ありがとう」

 彼女は慌てて言い直す。

 それでいいと僕は思った。感謝されるようなことなんて彼女に何一つしてないが、謝られるよりはましだった。

「後ろ、失礼するよ」

 僕は彼女の後ろを通り、隣の席へ腰を降ろした。そのまた隣へはバッグを置き、僕は筆記用具と教科書類を机の上に並べた。

「私なんかのために一緒にいてくれて、本当にありがとう」

 彼女は僕の方を見て、弱々しい笑みを張り付け礼を言った。そしてすぐに前を向いた。

 不自然に無駄に目を瞬かせて、小刻みに肩を揺らしている彼女。間近で見るとそれがよくわかる。

 もう少し彼女から離れれた位置に座るべきだったのかもしれない。彼女のすぐ隣ではなく、間にバッグを挟めばよかった。

僕は内心後悔する。近づき過ぎた。

 いくら彼女が呼び止めてきたからと言って、僕はなんだかんだで怖がられているのだから。けれど席を動くわけにはいかない。

 机の上には筆箱、教科書、ノート。バッグは僕の隣の椅子の上。

 今更移動するのは不自然過ぎる。

 僕はもう一度彼女に視線を移す。前を向いていた彼女は再び教科書を開き始めた。しかし目線はちっとも文章を追っているようには見えなかった。

 謝ってばかりで、他人の言葉をいちいち気にする彼女。

 他人の勝手な言い分に一体どんな価値がある?

 他人の軽い発言に傷付いて振り回されているなんて馬鹿みたいだ。

「君はどうしてそんなに他人のことを気にするんだい?」

「えっ」

 僕が発した問い掛けに、彼女は戸惑った顔をこちらに向けた。

「他人の心ない言葉をいちいち真に受けてさ。傷ついている癖に謝ったり無理に改善しようとしたり、薄っぺらい他人なんかにそこまでする価値が一体どこにあるんだい?」

 僕は呆然としたままの彼女にそう続けた。

 僕には全くもってそこが理解できない。

「わ、私に悪いところがあったらそれを直すのは当然のことだもの。そうしないと駄目でしょう」

「なんで君は自分が悪いんだと断定するんだい?そう言った奴の方が君よりもよっぽど下衆な輩かもしれないとか思わないわけ?」

 彼女の相変わらずな返答に納得がいかず、問い詰める形になる。

 傷付きプライドなく謝って、他人と同調するために自分を変えようとする彼女。少しも自分の方が正しいのではないかと考えもしない。

「やめて! そんな風にひよちゃんや他の人達のことを悪く言わないで。私は他人を貶めてまで自分を正当化なんてしたくない」

 彼女は声を荒げた。彼女にしては強い口調に僕は目を見張る。

「あ……。ごめんなさい、大声を出して。あなたを責めるつもりじゃないの」

 彼女はハッと口許を手で押さえた。

「別に謝らなくていいよ。それはわかるから」

 むしろ僕の尋ね方が間違っていた。まるで彼女に、悪いのは自分じゃなくて相手の方だと強制しているようなものだ。

 これでは僕も彼女を振り回す「他人」と何も変わらない。

 僕は一体彼女に何を言わせたいのだろうか?

 彼女が他人の言葉を真に受けて傷付き落ち込んでいようが勝手だし、僕がとやかく口出しすることじゃない。わざわざ問い質す必要性なんて全くないのだ。

 彼女は謝り症で、どんなことがあっても自分が悪いのだと思い込み、他者と繋がろうとする。

 それが彼女のスタンス。そのことに明確な理由なんてきっと存在しないのだろう。

 ただでさえ揺らいでいた瞳をおどおどと僕の方に向ける彼女。僕の発言はより彼女を追い詰めただけだ。けれど彼女のその姿勢は僕には理解し難くて、馬鹿みたいな気がしてたまらくて。無駄に傷付いて、それでも自分をどうにかして他者に歩み寄よろうとする訳が僕には全くわからなくて。

「ねえ、君はさ。そんなに他人のために自分をどうにかしようとしたりしなくてもいいんじゃないの?そこまでする必要性、僕は全くないと思うんだけど」

 僕は彼女に言った。彼女は他人との関係を良好に保つことに奮闘し過ぎている。それが僕には無駄なことのように思えてならなかった。

「それは……」

 彼女は口を開きかけたが

「はい皆さん、お静かに」

 講義の始まりを告げる先生の声に遮られてしまった。

 弾かれたように前を向いた後、戸惑ったように僕の方を見る彼女。話すべきか話さないべきか悩んでいるようだ。

 僕は先生の方へ視線を遣り、シャープペンを持つ。話の続きは講義後にしようと態度で示したつもりだった。

 それが通じたのか彼女も慌てて教科書を開き始めた。










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