お参り
すっかり暑くなり、雨が続く季節になった。大学生活にも今では十分、慣れた。
講義を受け、週に二日はさらに資格対策講座も受け、一週間に三、四日はアルバイトをしていた。将来と生活のために。
一人慎ましく生きて行くのに特に問題はなく、まあ上々だと言えた。
合コンの時のことを謝りに来られた時以来にも、彼女を見掛ける機会が結構あった。
楽しそうに津田理子以外の友達とも話している彼女の日々は、充実しているように僕には見えた。
僕に気が付くと彼女は必ず挨拶してきた。別にそんなに親しくないのにな、なんて思いながらも僕も言葉を返していた。もっとも、僕から声を掛けることはなかったが。
雨続きの中、数日振りに快晴となった六月下旬の平日。僕はバッグを肩に掛け、線香、蝋燭、チャッカマン、雑巾を入れた紙袋を手に持ち、家を出た。
大学には行かずに花屋を目指し、歩く。
今日も講義はあるのだが、一回ぐらいサボっても問題ない。
花屋で百合に菊、その他店員の見立てで作ってもらった花束を買った。僕は花が潰れないよう慎重にそれを紙袋に入れた。
花屋を出ると僕は駅まで歩いた。そして地下鉄を乗り継ぎ、目的地へと向かう。
暑い。額に浮かぶ汗を僕は拭った。
地下鉄を降り、地上に出て歩き始めて二十分弱。道路を挟んで、左右はたくさんの墓達に囲まれていた。目的地まであと少しだ。
ここは集合墓地。戦後、市内にあった墓は大体この場所に移動させられたらしいから、かなりの規模がある。
僕は小道に足を踏み込み、墓地内に入った。平日で、しかも仏事も何もない時期のため、僕以外に人影はなかった。まあ人がいない方がいいから、わざとこの時期に来たのだが。
いくつもの墓石を通り過ぎ、一つのお墓の前で僕は立ち止まる。
「久し振りだね、父さん、母さん。おばあちゃん……あとおじいちゃんも」
挨拶の言葉を一人口にし、僕はバッグと紙袋を地面に降ろした。枯れた花々を取り除き、花びんの水を代えた。そして買ってきた花達を生けてやった。
水道の近くに置いてあったバケツと柄杓を勝手に拝借してきて、僕は墓石に水を掛けた。
蝋燭の蝋とか、水だけじゃ落とせない汚れを、雑巾で拭ってやる。
祖父が亡くなったのが七年前。脳梗塞だった。悲しかったけど人間には寿命があるし、ある意味当然なことだと思えた。
それから一年後。今から六年前。
両親が死んだ。
自動車同士の交通事故。交差点で直進していたところを、横から信号を無視した車に突っ込まれたのだ。余程無惨な有り様になったのか、死に顔を拝むことはできなかった。
当時僕にとって両親はうっとうしくて堪らない存在だった。だからあの日、僕も買い物に誘われたけどついて行かなかったし、見送りすらしなかった。
僕は溶けて蝋燭立てにこびりついた蝋を、雑巾でこすった。
両親の死は当時の僕にはあまりにも突然過ぎた。祖父の時と違って簡単に割り切ることはできなかった。
いたって平凡などこにでもある家庭だったから。父さんと母さんがいるのが当たり前だった。普通というのは大多数の人達の状態を表す指標でしかなく、それが当然のように続くという保証など、どこにもない。そのことを僕は思い知らされた。
僕は柄杓で水鉢に水を張った。そして上から墓石に水を掛けた。
両親を失った僕を引き取ってくれたのは祖母だった。祖母は僕の面倒をみてくれただけでなく、両親が遺したなけなしの財産を親戚から守ってくれたりと、とてもお世話になった。
そんな祖母も二年前に亡くなった。
老衰。歳だったし、どんどん衰弱傾向にあったから間違いなかった。
人と人は支え合わなければ生きていけない。「人」の字の成り立ちの説明をひねったようなことを、祖母はよく言っていた。まあ食べ物や日用品、ありとあらゆる物や事が様々な人達によって支えられている。それに自分だってアルバイトや、将来就職すれば、誰かしらの支えになることになる。
ロビンソン・クルーソーのような状況にでもならない限り、完全に単独で生きていくことはできない。そもそも支え合うこと自体を社会に強制されているのだから、祖母の言うことは正しい。
一回だけ祖母にそんなことを話したら、そういうことじゃないと思い切り怒られたが。
「人は誰かしらと一緒に生きていくものなんだよ」
祖母は諭すようにさらにそう言ったものだった。干渉はしてこなかったけど、今思えば僕の状態を見透かしていたような気がする。
生物は種の繁栄のために次世代を再生産する。アメーバーのように無性生殖する生き物や、一部の花達のように、おしべとめしべの両方を持っている訳でない限り、そのためには相手が必要だ。
人間だって同じ。なんだかんだで本能に従うしかない。だから誰かしら相手を求めて、さらにその繁栄の確立のために集団を作る。この祖母の言葉だって、生物学的に正しいのだろう。
僕だって人肌を求めたくなる時があるから、一夜限りで遊びに興じることもある。
自分や相手に不足しているものだとかを補い合うのが友達。
僕は完璧だからそんなの必要ない。それにこんな僕なんか他人からすれば邪魔者でしかない。都合よく利用するしか価値がない。
墓石を綺麗にし終えると、僕は蝋燭を立て、チャッカマンで火を付けた。蝋燭の火に線香をかざし、立てた。
僕は手を合わせ、目を閉じる。
僕は一人きりでも問題なく生きています。楽しくなんか全然ないけど、おじいちゃんとおばあちゃん、そして父さんと母さんが繋いでくれた命だから、これからも僕は生きていきます。
生きているから僕は生きる。生き残る術を獲得する。
生きたくて生きている訳じゃないけど、生きているから。心臓が動いているから、生きたくなくても生きるしかない。
僕は目を開け、墓石を見つめた。
どんなにこの世がつまらなくても、つらくても、くだらなくても、捨てることだけはできない。彼らからもらった命だから。別に僕が望んでもらった訳じゃないけど、与えられたのだから、それが尽きるまで生きてやるしかない。
僕は立ち上がった。バケツと、その中に雑巾と柄杓を入れ、水道に向かう。日差しは相変わらず強かった。
バケツの水を流し、雑巾を洗う。バケツと柄杓は元の場所に干しておき、雑巾だけ絞り、手に持った。再びお墓まで戻り、紙袋に、取り出した物を全部入れ直す。バッグを肩に掛け、紙袋を掴んだ。
そろそろ僕は去らないといけない。ここは死者が眠る場所だから。生者は動き出さないといけない。立ち止まっても、再び歩き始めないといけない。
また来るよ。
僕は心の中でそう呟き、祖父母と両親の墓をあとにした。




