神の奏でる狂想曲
アパートの202号室に暮らす男子大学生は、その日、眠ることもできずに煩悩の底なし沼に頭まで浸かっていた。時刻は真夜中である。そろそろ床につかなければ、明日のバイトにも差し支える。だが、彼は今、ひょんなことから心ひそかに懸想している女子高生の部屋にいるのであった。
彼女のベッドに横になれば、沸騰した脳みそが頭蓋を突き破り、心臓がダイナマイトのように爆ぜるだろうことは疑いなかった。
201号室、独り暮らしの女子高生。
清楚で可憐な黒髪ストレートの、やや天然ボケの女の子。
条例に引っ掛かるけれども、ピュアな想いを抱いて何が悪いか――男子校出身、文学部哲学科で勉学だけに身を捧げる男子大学生の内なる叫びである。鋼の精神(童貞の魂)を身に宿す彼は、しかし、人生初となる禁断の領域に足を踏み入れようとしていた。
「ああ、いい匂いがする」
思わず、本音が出た。
気高き孤高を貫いてきた自負を持つ彼は、劣情丸出しの己に身悶えた。
頭を抱えてうずくまるものの、鼻先に迫ったカーペットに「ああ、彼女のおみ足が普段ここに……」と妄想が始まり、もはや自分は人ではない、獣であると、精神的敗北を認めるしかなかった。
幸いにして、彼の奇行を、部屋の主である女子高生が見咎めることはなかった。
男子大学生は、今宵、一人で女子高生の部屋にいる。
すなわち、女子高生と条例に引っ掛かるような行為に及ぼうというわけでもなければ、家主がいないのをいいことに変態チックな行為に走るわけでもなく――ただ好意を寄せる女子高生の部屋にいるという事実に、彼は精神を摩耗、崩壊させていたのである。
百年の恋も冷めるような醜態――けれど、恋愛は始まってもいない。
男子大学生は、ただの良き隣人として、女子高生に頼まれ事をされただけなのだ。
「ああ、僕は、もう駄目だ。明日からどんな顔で田中や井上に顔を合わせればいいのだ。合コンするリア充を見て、精神的充足を得られない畜生はあれだから困る……などと、もはや上から目線で語ることができそうにない。かくも女とは魔性であるのか、谷崎潤一郎は正しかったのであるか」
ぶつぶつと苦しみを吐きだした瞬間だった。
「あ、あの……」
背後から、女の声が聞こえた。
振り返った男子大学生は、異様な光景を目にする。
女がいた。ただし、彼女は床から生えていた。正確に云えば、首から上だけが突き出ていた。髪は長く、血色は悪い。声もまた、蚊の鳴くように細い。よくよく見れば、女は半透明であり、奥の壁が透けて見えた。
幽霊である。
これこそ、女子高生から「今晩だけ部屋を変わって欲しい」と頼まれた理由なのだ。
「こ、こんばんは。101号室の者ですが……」
幽霊は、申し訳なさそうに、そう挨拶した。
◆
203号室の男は、ニートだった。
生活リズムも反転している。普通の人が眠る真夜中、ようやく目を覚ました。万年床で身を起こし、カーテンの隙間からのぞく闇夜に、ぼんやり視線を向けた。特にすることもない。虚しい夜が、また始まる。
腹が減った。
久しく、男は食事をしていない。
洗面台に向かうと、蛇口から出る水をそのまま飲んだ。乾きは癒えない。むしろ、空腹は増す一方だ。だが、金もない。貯金は雀の涙ほどしか残っておらず、アパートを追い出されるのも時間の問題と思えた。
働かなくなって、どれくらい経つだろうか。
夜の仕事に就いていた時期もある。男は背も高く、絹のような金髪は女性よりも美しい。髭も生えない中性的な顔立ちは、夜の町で女性を虜にするには打ってつけだった。だが、男自身、そんな仕事に就いていることが惨めでもあり、ある日、気まぐれで辞めてしまった。今はその時の貯金で食いつないでいる。
世が世ならば、贅を尽くした暮らしを送っていたはずだ。
祖先は広大な土地を支配し、自由奔放な生活を送っていたらしい。彼の亡き両親は、生活に困窮しながらも誇りを失わず、在りし日の栄光を子守歌がわりに語って聞かせたものだ。
――私達のご先祖様は、伯爵だったのよ。
男はニートだった。
そして、吸血鬼だった。
「カップラーメンも買えねえ吸血鬼なんて、笑えないったら……」
血が吸えれば、最高だ。
女の血――それも若々しい処女の血。
しかし、法治国家のここ日本で、女性を襲うなどすれば確実に捕まるだろう。高校生の頃、ちょっと仲良くなっていたクラスメイトの女の子に、「ねえ、血を吸わせてよ」と甘くささやいたら、「いやー、変態」と悲鳴をあげられた。その後、壮絶ないじめを受けた事は、男にとって最大のトラウマだ。
結局、微々たる栄養しか摂取できない普通の食事で耐えてきた。
――ああ、血が吸いたい。血が、女の血が……。
ふらふらと倒れそうな足取りで、男は部屋を出た。向かう先は、204号室だ。そこに住んでいるのは偏屈なじいさんで、魔法使いを自称している変わり者だ。かつて初対面の時、男が「ああ、奇遇ですね。俺は吸血鬼なんですよ、ははは」と挨拶したならば、「喝」とサンダーボルトを撃たれた。それ以来、人の道を外れた者同士、なんだか仲良くなってしまい、生活が困窮した時は互いに助け合って生きている。
「じいさん、助けて。カビた食パンでいいから、わけて」
情けない窮状を訴えながら、ドアをノックした。だが、応答はなかった。男は今が深夜であることを思い出し、「年寄りは寝てるもんなあ」と、ため息をついた。肩を落としながら部屋へ戻ろうとして、逆隣の202号室から灯りが漏れていることに気づいた。
そこの部屋に住んでいるのは、化石のような男子大学生である。204号室のじいさんが「あいつには、魔法使いの素質がある。もしかすれば、儂を超える大魔法使いになるかもしれん」と太鼓判を押している程の逸材だ。
ちなみに、魔法使いの覚醒条件は、童貞を貫き通すことである。
「じいさん。じゃあ、あんた、その歳で……」
「云うな。儂は、儂らしく生きた。後悔はない」
「本当に?」
「……ああ」
202号室の男子大学生は、引っ越してきた際、わざわざ挨拶に来てくれた常識人である。廊下ですれ違う時も、たびたび言葉を交わしている。時折、「イケメンは神田川でおぼれ死ね」とつぶやいているのが気になるが、おおむね良き隣人である。
大学生の彼は、夜中でも起きている事が多い。
非常識である事は承知の上だったが、男はもはや飢餓に耐えられなかった。
「たすけて。なんでもいいから、お恵みを……」
吸血鬼にあるまじき、神へ祈りを捧げる一歩手前だった。
202号室の扉を、ノックした。
そうして出てきたのは、黒髪のとても綺麗な女子高生だった。
◆
女子高生は悩んでいた。
いや、実は、悩んでいなかった。
でも、悩んでいる方が正しい――そう信じて、悩んでいた。
彼女がボロアパートで独り暮らしを始めて、そろそろ一年が経つ。高校生が一人で親元を離れて暮らすことに、当然ながら最初は大反対があったものだ。しかし、「これは神様の決定だから仕方ないの」と懸命な説得を続けた結果、彼女の願いは叶った。
不動産屋にてボロアパートを直感で選んだ際も、両親は何も云わなかった。全てをあきらめ、悟ったような親の顔を見て――「ああ、ようやくこの人達も、世界の構造に気がついたのかしら。よかった」と思ったものだ。
そして、退屈な日々は過ぎ去り。
ようやく、今日、運命を果たす時が来た。
「こんばんは、夜分遅くにすいません」
隣の202号室の男子大学生の部屋をノックして、彼女は「毎晩、幽霊が出るため、満足に眠ることもできません。どうか一日だけで結構ですので、部屋を替わっていただけないでしょうか?」と申し出た。当然ながら、非常識な話とわかっている。だから、やや強引に力説した。
「幽霊が出るのは、間違いないんです。ここ数ヶ月、毎晩、話しかけて来るんですから。テレビを見ている時やマンガを読んでいる時……お布団の中で神様の声を聞こうとしている時でも、お構いなし。別にこれからずっと部屋を替わってほしいわけではないんですよ。一晩だけでいいんです。そうしたら、お兄さんも幽霊を見て、不動産屋さんに証明する人が増えるでしょう。ご迷惑はおかけしません。一日だけ、お願いできませんか?」
女子高生は説得に苦労すると思っていたが、男子大学生は意外にもあっさりとオッケーしてくれた。その際、彼が鼻血を吹き出した事は気にかかるが、「ああ、これも神様が運命を操作されたのですね。わかります」と納得した。
さて。
202号室、男子大学生の部屋。
――兄弟のいない私は、男の部屋に入るなんて初めてです。
意外にも――そう云うと失礼かもしれないが、部屋は綺麗だった。殺風景とも云えた。簡単な着替えだけしか持ってきていない(必要なものが出てくれば、隣なのだから取りに行けばいいと思っていた)彼女は、すぐに手持ちぶさたになった。
そこで、『男子大学生のイケナイ秘密をのぞいちゃおう☆大作戦』を開始した。
問答無用で、押し入れを開けた。
女子高生の制服コスプレのアダルトなビデオを発見した。
「おおう……」
感無量であった。
その時、ノックの音が響いた。
「はいはーい」
女子高生がドアを開けると、そこには金髪のイケメンが立っていた。
◆
101号室の住人は、幽霊であった。
霊界等級の第三階位、世我瑠神の管理地域に住まう――早い話、自縛霊であった。
生前の彼女は、202号室の男子大学生も通う、某大学の院生だった。若くして不慮の事故に遭って亡くなった悔恨が、魂をアパートに留めてしまったらしい。自縛霊であるためアパートから離れて行動することもできず、所定の書類手続きを経て、霊界より家賃だけは不動産屋に振り込まれる措置を取ってもらっている。
自分の懐が痛まないならば、もっと豪勢なマンションに住んでみたかった――などと、俗っぽい愚痴を漏らすこともあるが、働くこともせず、気ままに漂うだけの生活に、もともとのんびり屋だった彼女は満足を覚えていた。
平穏が破られたのは、数ヶ月前。
空き部屋であった隣室、102号室に、とある男が入居した。
幽霊とは云え、彼女は別に悪さをするわけではない。人を傷つけることはもちろん、驚かすことだって無理だ。幽霊となった今でも、夜中は怖くて外に出られない。ホラー映画を見て身体の震えが止まらず、ボロアパートに伝播させてしまって、盛大なラップ音を発生させてしまった時だけは、さすがに反省したけれど。
むしろ、彼女は一日一善を心がけている。
管理会社に見放されたようなボロアパートであるから、誰かが手入れしてやらなければ、荒れる一方なのだ。人の目が少ない明け方など、落ち葉を掃除する。昼間は屋根裏に漂って、雨漏れの修繕だ。夕方には、ベランダと外階段の手すりを雑巾がけ。
「こんにちは」
ある日、掃除をしている最中である。
突如として、男の声が響いた。
鼻歌まじりに落ち葉を掃いていたため、背後から忍び寄られたことにも気がつかなかった。慌てて幽霊忍法「姿隠しの術」で気配を消したものの、それまでの掃除姿はばっちり見られていた事になる。透明状態で頭を抱えた後、あらためて声の主を眺めた。
和装の、やや小太りの男だった。
眼鏡をかけており、眼力が鋭い。痩せていれば格好いいかもしれないが、そこそこ年を食っているようでもあり、男性的な魅力を感じる程ではなかった。男は一人たたずみ、腕を組んだ。その手には、お洒落なのか何なのか不明だが、異様とも思えるような――指貫グローブが。
凜と何処かで、風鈴の音が響いた――ような、気がした。
そうして、その日を境に、彼女は謎の男――隣室102号室の男から、壮絶なストーカー行為を受けることになる。幽霊である彼女に、人権はない。法の加護もない。警察に訴えることもできなかった。
泣く泣く不動産屋に苦情を申し出るも――。
「でも、あなた死んでいるでしょう。別に襲われる心配もないわけですから、気にしなければいいんじゃないですか?」
そんな風に云われてしまう始末だ。
昼間も気を抜けば、物陰からじっとこちらを見ている男。
何より恐ろしいのは、夜だった。ボロアパートの壁は薄い。ある夜は、呪詛のようなうなり声が響いてきた。ある夜は、壁や床を打ち鳴らすような音が聞こえてきた。ある夜は、今日こそ静かだと安心していたら――窓の外に、黒い袈裟を着て数珠を構える男が、ゆらりと立っていた。
幽霊であるはずの女は、心、折れた。
それから夜になると、幽霊忍法「壁抜けの術」を使って、上の階へ逃げ込むようになった。二階の201号室の住人は、可愛らしい女子高生である。これだけの容姿があれば、さぞかし異性に言い寄られる事も多いだろう、羨ましい――そう思っていた幽霊であるが、女子高生の脳は、ネジが数本、飛んでいた。
「ああ、幽霊さん。お待ちしていました。神様のお告げにあった通りですね。あなたが私の部屋へやって来る事は知っておりました。これは大いなる前フリなのです。いいですか、私とあなたが仲良しであることは、誰にも云ってはいけませんよ。この時だけの会話に留めておくのです。ああ、でも、この会話自体がアカシックレコードに記録されてしまうかもしれませんね。でも、いいのです。その時は、その方が、世界の構造を正しめることができると神様が判断されたということなのですから」
――へ、変人だー。
幽霊はそう思ったが、黒衣の変態と脳の痛んだ変人ならば、まだ後者がマシと信じた。
とにかく、そうして訪れた、安心して眠れる日々。
今日もまた「お邪魔します」と夜になって女子高生の部屋を訪れた所、そこにはなぜか、202号室の男子大学生がいた。「あわわ、あの二人は実はそういう関係だったの。だったら、この数ヶ月の私の空気読めてなさは最悪だわ」と頭を抱えた瞬間、男子大学生も頭を抱え始めた。
――おや?
どうやらこれは恋人などという甘い関係のようではないぞ。この煩悩が全身から湯気となって漂うような気配は、まさに204号室のおじいさんに通じるような、圧倒的なモテナイ系男子のオーラである――幽霊はそんな風に察して、意を決し、彼に声かけた。
そうして、ここ数ヶ月の悲惨な境遇を、正義感の強い男子大学生に説明する事になったのである。
◆
アパートの新参者、102号室の住人は小説家。
「こんにちは、はじめまして」
引っ越してきた当日、偶然通りかかった女子高生に、彼は軽やかに挨拶された。
このようなオンボロアパートに美しいお嬢さんが住んでいるとは珍しい――男は、自然と探るような目つきになっていた。職業柄、不思議な出来事や謎めいた物事には、ついつい関心を向けてしまうのだ。男は小説家であり、得意とする分野はミステリであった。
「私、知っています。先生は、妖怪をお書きになるんでしょう。かなりの売れっ子作家さんなのだけど、初心を思い出して、寂れたアパートで仕事することを思いついたわけですね。和装なのは昔の文学者を真似ているだけで、指貫グローブは寒がりなだけで――それらはただ偶然、似てしまっただけなのですよ」
――なんのことだ?
男は首を傾げたものの、まずは名乗るべきだと思い至る。
「ああ、失礼。私の名前は、京……」
「ダメです。それは規約違反です」
ぴしゃりと、女子高生は云った。
「あなたは、妖怪をお書きになる小説家の先生――それで、よろしいのです。あなたに名前はいらないと、神様も仰っています。あなたの存在は、この世界においてもかなりのイレギュラーであり、不確定要素なのです。どうか世界の安定のため、あなたは名無しの小説家であり、ちょっと偶然、特徴が似てしまっただけの人でいてください」
「う、うむ……」
男は、平静を取り繕いながら、頭の中でアラートを鳴らしていた。
――この女子高生に、深入りするべきではないな。
「大変な所に、越して来てしまった」
仕事場のつもりであったから、荷物は少なかった。そもそも、ちゃんとした自宅は都内の一等地に持っているのだ。ここのアパートを借りた事は、女子高生の云った通り、確かに気まぐれでしかない。
作品を書くことについて、少し迷いがあった。
だから、何かしら心が変わるものが欲しかった。それだけだ。
「おや?」
そして、男は見つけてしまった。
美しい女性だった。
その儚さを見て、「ああ、あなたが雲だったのですね」と口説き文句を考えてみたが、よく考えてみれば、意味がわからない。すぐさま頭を振って、「五十にも近い私が、若い女性に言い寄ってどうする」と自嘲した。黙って眺めている方が怪しいだろう。ゆっくりと歩み寄り、声かけた。
「こんにちは」
その瞬間である。
女は、消えた。
愕然とした。これまで小説家として、妖怪を好んで題材としてきた男である。さながら研究者のように、魑魅魍魎や怪異の類には詳しかった。しかし、目の前でこうもはっきりと怪奇現象を目にしたのは、実は初めてである。
男の心に震えが走った。
それは、若い頃の情熱にも似た、心のざわめきであった。
――ああ、これは、書けてしまうな。
そうして、男の戦いが始まった。
ほとんど部屋に籠もったまま、小説を書き続けた。夜になると、気が荒れた。「こうではない、これも違う。ああ、違うのだ……」と、呪詛のような声が自然と漏れ出た。書いたものを読み返し、出来映えが悪い時には、思わず机や壁などを殴りつけてしまう事もあった。
彼女は、このアパートに憑いているようだった。
偶然に見かけてしまうことも、何度かあった。アパートの住人は学生が多いのか、幽霊の彼女は昼間ほど油断しているらしく、堂々と姿を晒してアパートの庭先を掃除していた。小説家という職に、昼や夜の区別はさほどない。そのため、徹夜明けの昼下がり、気だるい気分で彼女の後姿を眺める事もあった。
声かける事はしなかった。
薄透明の彼女は、さながらガラス細工のようであり、ほんの些細な衝撃で、壊れてしまいそうだった。
ある日、男の作品は山場に差し掛かった。ミステリの醍醐味である、全ての謎が解明される場面――憑物落としになぞらえるのが、男の作品の特徴である。陰陽師の主人公が、その時に身に纏う黒衣を、作家である男自身も着込む。それはもともと、参考資料として買い寄せた袈裟や数珠であったが、戯れに着込んでみれば、気分が盛り上がることを知った。
――いい歳して、少々恥ずかしいが……。
夜中であれば、人目もないと考えて、そのまま散歩した事もある。
そうして、ようやく今日、大作が完成した。
男は束になった原稿をまとめると、それを出版社へ送る準備だけ整えて、気分転換に外へ出た。何もないボロアパートであるが、静かな空気はそれだけで心地よかった。夜空が作品の完成を祝福してくれるようで、輝く星々へ目を細めた。
その時である。
アパートの外階段を、足早に下りてくる音。
二階の一室に住む男子大学生が、剣呑な光を目に浮かべて、男へ詰め寄ってきた。もやしのように細い学生であるが、男も文筆家であり、典型的なインドア派だ。荒事には慣れていない。
それでも年上の威厳を保ち、何事か――そんな風に、目線だけで尋ねた。
予想外の言葉が、男へ突きつけられる。
「このストーカー野郎」
◆
吸血鬼は、部屋の中へ招かれた。
男子大学生が出て来ると思っていた所、201号室の女子高生が登場した時は驚いたが――いや、実はまだ動揺は収まっていなかったが、「ちょっと訳ありで……」という彼女の言葉に、とりあえず納得しておく事にした。
「それで、どうしましょう?」
なんとなく正座して向き合った男へ、女子高生はそんな風に首を傾げる。
「食べ物と云っても、ここは私にとっても他人の家ですから、何処に何があるのやら……」
それならば、「お金がなくて、食パン一枚でいいから、もらえませんか?」と情けないお願いをした時に、なぜ断ってくれなかったのか。吸血鬼の男にとって、今の状況は生殺しに近い。目の前に、とてもおいしそうな《餌》が――女の子が、いるのだから。
本能を押さえるのに必死だった。
それなのに、女子高生の方はのんきなものだ。
「こんなものしかありませんが……」
何か思いついたように押し入れを物色し始めた女子高生が、その手にアダルトビデオを持って戻ってきた。「ああ、でも、神様の定めたルールでは、このような有害作品を描写することは……きゃあ」と、悲鳴。
吸血鬼の理性は崩壊した。
もはや、どうにでもなれ。
ひん剥いて、その身体を味わい尽くしてやる――長年飢え続けてきた男は、吸血鬼の本能に負けた瞬間、その瞳を赤く輝かせた。覚醒した彼は、始祖である某伯爵と同等の力を持っていたのであるが――残念ながら、相手が悪かった。
「規約違反です」
女子高生が告げると同時に、男の身体は、見えない壁に叩きつけられた。
そして、ピンポン玉のように吹き飛ぶと、ガラス窓を突き破り、そのまま階下へ落ちていく。
「よく見てください。どこに年齢指定の注意書きがあるでしょうか。神様がこの世界をそういうものと定めている以上、私達はそれを外れることはできません。どうか悔い改めてください――と、云いたい所ですが、そうでした。世界の構造は、私しか知らない秘密なのでしたね。うっかり」
可愛く舌を出す女子高生。
そして、気を取り直したように、彼女は落下した吸血鬼を追いかけて部屋を出るのだった。
◆
幽霊は、困惑していた。
自分が原因となって、目の前で男子大学生と小説家が、凄まじい言い争いをしている。
おろおろと狼狽えるのには理由がある。彼女が涙ながらに境遇を訴えた後、男子大学生は正義感に駆られたようで、「そのような不届き千万な輩は、僕がやっつけてやります」と憤怒の表情で出て行った。幽霊は最初こそ頼もしく思ったものの、もしかすると、さらに厄介な事態になるのでは――などと、生来の心配性が首をもたげ、恐る恐る、言い争う声の聞こえる階下へ降りてきたのである。
身を潜ませて、小説家の吠える声を聞いていた。
そして、その内に、赤面した。
――ああ、なんたる、自意識過剰。
小説家が弁明する内容は、どれも正論だった。
何もかも、彼女の勘違いである。
それを悟り、口論を止めるため、慌てて二人の間に割って入った。
しかし、白熱する議論に対して、幽霊の存在は意味を為さなかった。
論点はもはや幽霊の事ではなく、小説家が「そもそも君は五月蠅いのだ。いい歳をした大学生の癖に、夜な夜な、奇妙な呪文や恥ずかしい必殺技の名前を叫んでいるだろう。時には、馬の鳴き真似までしておる。あれは、私の執筆活動を大いに邪魔してくれた」と叫び、男子大学生が「嘘はやめろ。僕はそんな中学生の病をこじらせたような真似はしていない」と吠えた。
幽霊はどうにか話題を変えようとして――。
「そ、それはきっと、103号室の人ですよ」
奇妙な呪文や恥ずかしい必殺技を夜な夜な叫び、馬の鳴き真似をする――そんな奇行を押しつけるのは申し訳ないが、とにかく二人を落ち着かせるのが最優先だ。しかし、幽霊の必死の思いつきに対して、小説家は残念そうに首を横に振った。
「103号室は空き部屋だ。私が入居する際に、不動産屋から102号室と103号室どちらが良いか聞かれたからな。あれから入居者があった様子もないため、今も空いたままだろう。つまり、私の部屋に騒音をもたらす者は、大学生の君しかおらんのだ」
小説家は云いながら、確かめるように、103号室の扉へ手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
扉が開く。
◆
異世界ミーンストレルム。
東の大国ローレンシアと西の大国ユーステリアスが、苛烈な戦争に国土を痩せさせていたのも、今は昔である。長い闘争の歴史の果て――強力な魔法が交錯して、騎士が必殺の剣技を声高く叫ぶ時代は終わり、人類は国家の垣根を越えて統一を果たした。
しかし、ミーンストレルムに災厄をもたらす存在は、人間だけとは限らない。凶悪な魔物は頻繁に人里を襲う。また、鋭い爪や炎の息を吐くドラゴンも、町を焼き、森を焼き、山を崩した。やがて魔王が登場するに至り、人と他種族による大規模な戦争まで起こった。
勇者の伝説。
彼は人類の戦争を終結させて、ドラゴンを打ち倒し、魔王を滅ぼした存在であった。彼は全ての戦いを終えて、眠りについた。英雄の穏やかな眠りに寄り添うように、ミーンストレルムにも平和が訪れた。
世界には清浄な風が吹き、緑は栄える。水は恵みをもたらし、太陽の光は陰ることなく、世界を包んでいた。もしも、この異世界ミーンストレルムの平和を脅かす者があらわれるならば、それは世界の外側からやって来るものと云われていた。
そして、今まさに、異世界ミーンストレルムに異次元の扉が開かれようと――。
◆
小説家は、103号室の扉を閉ざした。
「私は、何も見ていない」
小説家は目を閉ざし、ただ沈黙した。
男子大学生も、幽霊も、103号室の扉の向こう側に見たものを、必死に頭から消そうとしていた。「明日のバイト、朝早いから、いい加減に寝ないといけない」「そう云えば、燃えるゴミの日だから、カラス避けのネットを準備しておかないと……」「ああ、そうだ。関口君に、小説が完成した事を連絡しておこう」などと、それぞれ好き勝手に明後日の方向へ意識を飛ばしていた。
そうした中で、さすが年の功か――はたまた、小説家などという想像力に物を云わせる仕事をしているためか、男の立ち直りは早かった。熱も冷めた。口論していた事が馬鹿馬鹿しくなる。何かひとこと云って、場を落ち着けよう。
今、見てしまった不可思議を忘れるような言葉がいい。
そうだ。こう云おう――。
「この世には不思議なことなど……」
瞬間。
階上から窓ガラスの割れる音が響き、金髪のイケメンが降ってきた。
◆
ボロアパート、最後の一室。
忘れられた部屋。
104号室。
その部屋には、混沌がいた。
彼には、名前があった。
ニャルラトホテップと云う。
クトゥルー神話における、最も有名で凶悪な旧支配者。
彼は、異次元の扉が開く音を聞いた。
世界に混沌をもたらすために――ニャルラトホテップは、104号室の扉へ這い寄る。
◆
男子大学生は、わけのわからない展開に、とうとう叫び声をあげた。
どうして203号室の前から好かないと思っていたイケメンが、自分の部屋から降ってくるのか。自分の部屋には、今まさに可憐な女子高生が泊まっていたはずである。彼女が招き入れなければ、イケメンが部屋に入れるはずがない。女子高生はイケメンと深夜、娯楽も何もない部屋の中で何をしていたのか――男子大学生の頭に、恐ろしい想像が浮かんだ。
下劣である。
下品である。
身悶えた。
男子大学生が信じる彼女は、決してそんな破廉恥な存在ではなかった。だから、この時、罵るべきはそんな想像をしてしまった自分である。許すまじ、己。信じるものは救われるのだ。信じることをやめてしまった時、全ては終わる。
――僕は、彼女を信じる。
決意を固くする男子大学生の背後で、ニャルラトホテップ《這い寄る混沌》が必死に存在を主張している。
一方で、決め台詞を途中で止められてしまった小説家は、混乱する周囲を眺め回しながら、「ふむ……」と思案した。ミステリ作家でもある彼は、この状況を、綺麗に解決したいと思い始めていた。
この場は、まさに紐が絡まってしまったような状況に見える。
それを一本一本と解きほぐし――全てを理路整然と並べ終えた時こそ、もう一度、決め台詞を云う瞬間なのではないか。腕を組んで、小説家は熟考し始めた――その背後では、ニャルラトホテップ《這い寄る混沌》が必死に存在を主張している。
さて、女子高生を襲おうとして、世界の理に破れ、窓から落下した吸血鬼は、息も絶え絶えだった。始祖の力に目覚めている彼にとって、実は落下のダメージはほとんどない。ただただ空腹だった。飢餓の果てに、このまま気を失ってしまいそうだ。
「だ、大丈夫ですか?」
そんな彼を心配して、助け起こそうとしたのは、幽霊である。
差し伸べられた手を見て、吸血鬼は瞳を輝かせた。「ありがとう。そして、ごめんなさい」と、助けようとしてくれた女性に襲いかかる非道な自分を呪いながら、「いただきます」と女性の首もとに噛みつこうとして――当然、幽霊なので、すり抜けた。
「なぜに?」
驚愕の悲鳴をあげる吸血鬼の背後で――「僕の血を吸ってもいいよ」と、ニャルラトホテップ《這い寄る混沌》が必死に存在を主張している。
「みなさん、おそろいですね」
嬉しそうな歓声をあげて、アパートの外階段をリズミカルな足音で、女子高生が降りてくる。
「お嬢さん。さ、さっきはすまなかった。ところで、あの力はいったい……」
頭を下げながら、どこか畏怖するように、吸血鬼が云う。
「き、君さ。ど、どうして、この男と、ぼ、僕の部屋にいたのかな?」
決意を固めたはずが、震える声で尋ねる男子大学生。
「ねえ、どうして男の子と部屋を替わっていたの。どっきり?」
それほど怒っているわけでもなく、のんびりと尋ねるのは幽霊。
「おや、そう云えば、今晩の騒動には君というピースが欠けていたな」
推理を巡らせていた小説家は、全てのヒントが提示されていなかった事に不満な顔。
そんな彼らの背後では、クトゥルー神話の人気者であるはずのニャルラトホテップ《這い寄る混沌》が、「あれれ、おかしいな。僕がラスボスで、みんなで戦うみたいな話じゃないの?」と云いたげに、触手をうねうねさせたり、無数の顔を生み出して火を噴いたり、世界を包み込むばかりに闇と混沌を広げてみたり――とにかく、必死だった。
女子高生はそんな面々を眺め回して、ふと首を傾げる。
「あれ、一人、たりない?」
204号室の魔法使い。
「じいさんなら、俺がさっきノックした時も返事がなかったから、たぶん寝てるぜ」
「寝ている? おかしいですね。神様によれば、本日このアパートの面々が一同に介して、大騒ぎという筋書きだったはずですが……まさか、私の知らない間にアカシックレコードが書き換えられたとでも云うのでしょうか。そんな事は、今まで……」
女子高生はさらに首を傾げるが、このような『全員集合したと思ったら、一人だけ欠けている』という状況に対して、最も素早く反応したのは、やはりミステリを得意とする小説家だった。
「むむ、この流れはまずい。そのじいさんの部屋へ急ぐぞ」
小太りの小説家の駆け足に、よくわからない顔をしたまま、男子大学生が「は、はい」と間抜けな声で続く。「私も行きます」と云って、宙を舞って二階へ飛んで行く幽霊。「だ、誰か、手を貸してくれ」と情けない声で、ふらふらの足取りの吸血鬼も階段を上る。
「これは、どういう結末になるのでしょうか。神様、どうかお導きを……」
祈りを捧げた後で、女子高生も204号室へ向かう。
その後ろから、意外と空気を読む旧支配者――ニャルラトホテップ《這い寄る混沌》は黙ってついて行く。
◆
神さん、ありがとよ。
眠る前に、最後に楽しい夢を見させてくれてさ。
魔法使いとしての覚悟を貫いた儂には、看取ってくれる家族もいない。
それなのに、こんなに大勢に囲まれて、賑やかに逝けるなんて、最高の贅沢だ。
ありがとよ、みんな。
お前らの馬鹿騒ぎ、楽しかったぜ。
◆
それから。
とある一夜の大騒ぎを経て、築二十年を超えるボロアパートの住人は、全員が顔なじみになった。大きな地震でもくれば、あっさりと倒壊してしまいそうなアパートだけど、不思議と誰も引っ越す様子なく、出て行く気配もない。
男子大学生は、相変わらず条例に目を瞑って、隣の女子高生へ懸想している。昔は想いが募る一方で、部屋の中で悶々とするばかりだったから、挨拶したり会話したりが容易になった今の環境は、彼としても望む所のようだ。
幽霊は、これまで隠れて生活してきたのが嘘のように、活き活きとしている。ボロアパートの管理人さんのような仕事は当然ながら、夜になれば手料理を作って、隣の小説家はもちろん、育ち盛りの女子高生や男子大学生へ振る舞っている(女子高生が「お母さん」と一度呼んで、彼女を激怒させた)。
吸血鬼はニートを脱却した。彼は夜な夜な、103号室の異世界へ出勤する。「いやいや、魔王の仕事はびっくりするほど優良だよ。女の子たちも『魔王さまー、私の血を吸ってー』みたいな感じだしね。君も就活に困ったら、俺に云ってよ。四天王のポストぐらい用意するからさ」などと云って、男子大学生を歯噛みさせている。
小説家がアパートで書き上げた新作は、彼の新境地を切り拓く作品として話題になり、多くの書店で平積みされていた。文学部に通う男子大学生が今さらに彼が高名な小説家であることを知って驚愕したり、作品のヒロインにされていた幽霊が赤面するなどのオチもついた。仕事場に過ぎなかったアパートであるが、最近は寝起きする場所としての体裁も随分と整ってきたようだ。
そんな小説家が次回作の構想を練り始めた時、これに目を付けたのが、ニャルラトホテップ《這い寄る混沌》である。彼は女子高生から、「あなたがラスボスになれなかったのは知名度の問題ですね。ええ、もちろん、あなたは超有名人ですよ。でも、日本の若者相手では違ったのです。日本の中高生は『にゃ、にゃるら……? なにこいつ、変な名前』と云って笑うでしょう。笑われるような存在が、ラスボスにはなれません」と手厳しく云われて、今、啓蒙活動に勤しんでいる。
ニャルラトホテップ《這い寄る混沌》は、小説家に対して、自分を主人公にして作品を書くように訴えている。その姿は、幽霊が思わず「書いてあげればいかがです?」と援護射撃をしてしまうほどに必死だ。小説家も徐々に覚悟を決めたようで、「アザートスにインタビューはできるかね?」と云い始めた。
そんな風にして、色々な騒動も起こしつつ、季節は巡り、三月下旬。
まだ肌寒さも残る中、花をつけ始めた庭先の桜の下で、花見。
小説家が取り寄せた高級な日本酒で、男子大学生が盛大に酔っぱらっている。吸血鬼は異世界で覚えた魔法で苦手の太陽を克服し、さらに大気の精に働きかけて女性陣が肌寒さを覚えないように気を使っていた。幽霊は最近さらにこり始めて、もはやプロと見間違うばかりの料理の腕を存分に振るう。ニャルラトホテップ《這い寄る混沌》は、よくわからないけれど、うねうねしていた(酔っているらしい)。
そんな皆の様子を満足そうに眺めながら、女子高生は「むむ……」と電波を受信。
「なるほど、神様。魔法使いのおじいさんが亡くなった204号室に、新しい住人がいらっしゃるわけですね。季節は四月、まさに新しく物語りが芽吹く時――さて、このボロアパートに、次はどんな大騒ぎがやって来るのでしょうか?」
さながら次回予告のような物云いである。
彼女はにっこり微笑んだ後、「おしまい」と云って、こちらへ向けてお辞儀した。