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     歳

 目の前に置かれているビールジョッキの側面に汗のような水滴がへばり付いている。それがまるで人間のようで少し不気味に感じるあたり俺は少し酔っているのかもしれない。

 頭の端で水滴だと理解していてもなんだか気持ち悪く、横にあるお手拭きで軽く拭い、無理やり胃に流し込んでいると「篠塚さん」と呼ばれた。


「サークルの飲み会に参加してくれるなんて、珍しいですね」


 弾む声を辿ると、そこには副部長となった後輩の矢守やもりが酒を片手にニコニコしながらやってきた。その姿は、新歓の際に泣きながら「もう飲めません」と嘆いていたやつと同一人物とは思えない。


「息抜きに、な」

「就活どうですか? 氷河期って聞きますけど」


 矢守が隣に座る。畳の上には座布団が既にぐちゃぐちゃに散らばっていて、あるべきところになかったが、気にすることなく畳の上に直に座った。

 そういえば、先ほどまで隣に座っていた彼女も座布団を敷かずに座っていたのだろうか、とどうでもいいことが頭を過った。


「ああ。凍りついてるよ」

「この暑さで溶けてくれないですかね?」


 だらしなく眉を下げる表情は相変わらずで、気を抜くと三年前の春を思い出してしまう。あの時は桜が満開で、なんて思い出話なんかし始めたら俺は一体どうなってしまうんだろう。考えたくないのにさまざまな光景が走馬灯のように脳内を駆け巡る。追いかけてくる思い出を振り払おうともう一度ビールに口をつけた。


「面白くねーよ、矢守」


 向かいに座る元気が意地の悪い表情を浮かべ、片手に持っていたビールジョッキをずいっと矢守へ押し付けた。矢守はそれを片手でかわし、顔をそちらに向け、しかたなくといった表情で返答した。


「そういう元気さんは、どうなんですか?」

「俺はもう決まったよ。春から営業マンに」

「それは、めでたいですね! おめでとうございます」


 矢守と元気の弾んだ声がやけに脳に響く。周りは相変わらずわめき散らしているというのに、ダイレクトに届いた。


 …やめてくれ。


 晴れやかな表情が眩しくて、目をそらしたい。皆、前を向いて生きているんだと突きつけられているように感じる。

 どうしようもない感情が肋骨の隙間を縫う様に這ってくる。


 いやだ。逃げ出したい。

 こんな世界、もういやだ。


 本能のままに叫び出したい。が、そんなことは許さないと理性が律した。そのせいか、いつの間にか下唇を噛んでいた。

 だが、ちょうど良かった。口を少しでも開けてしまうと、本音が漏れ出てしまいそうだったから。漏れ出てしまわないように懸命に理性を総動員させていると「タカシ?」と元気の瞳が俺を捉える。


 やめてくれ。そんな風に俺を見ないでくれ。


「…わりぃ、俺ちょっと酔ったみたい。外の風にあたってくるわ」


 元気が引きとめようとしたが、それより先に立ち上がる。靴箱の鍵を手にし、暴れまわる奴らの合間を探し、出口へ向かう。後ろから名前が呼ばれた気がしたが、振り返ることはしなかった。


 俺の人生、振り返ることばかりで大半が終わりそうなのに。


 そう思うと、立ち止まることも、振り返ることもない今の状況が少しおかしく思え、口元が緩んだ。


 そうだ。これでいいんだ。

 なぁ、そうだろ。ユーヤ。




 ◇ ◇ ◇




 酔いを覚ますために出てみたが、生温い風がぶわっと押し寄せ、眉を顰める。夏だということをこうも実感したくないなとしみじみ思いながら、背伸びをして凝り固まった筋肉を伸ばした。夜だからなのか、セミの鳴き声はあまり聞こえない。セミの鳴き声が止んでしまうと夏の終わりを示しているようで、心のどこかに違和感が生じる。

 そんなこと、今に始まったわけでもないが、暑苦しい夏の始まりとセミの愛の悲鳴が聞こえなくなる頃、俺はいつだって泣き出したい気持ちが溢れてしまう。

 誰か、昔の偉人が『青春は人生でのほんの一頁に過ぎない。残りの人生はそれを思い出すだけ』と宣っていたが、そんな仰々しい言葉で知りたくなかった。体験だってしたくなかった。できることなら永遠という、時の止まりが起きてくれないか、と馬鹿げたことを考えてしまう。それなのに、大人になりたいと嘆ていたなんて。あの時の餓鬼をぶん殴ってやりたい。

 お前らの命なんて、蝉と一緒で短いんだよ、知ってんのか、って。


「なにが、酔い覚ましだ。情けない」


 酒臭いため息を吐き捨てると、生温い外気と一緒になって溶けた。

 情けなくて情けなくて嫌になる。そしてこんな情けなくてどうしようもない日は必ず、最後のライブの光景がちらついて頭から離れない。


  最後のライブ。

 それは、あの屋上で、俺たちはオーディエンスもなしに、ただただ空に向かって、勝手に送りつけただけのあっけないライブだった。

 空に向かって歌ったなんて言うとオーディエンスを神に、想いを届け、なんて仰々しくて恥ずかしいことを願ったのではないかと邪推されそうで嫌だったが、それでも俺たちは屋上で歌った。

 なんとなく、ただなんとなく、屋上から歌えばお前がいやらしい笑みを浮かべながら、でも瞳を輝かせながら「そうだろ? そうだろ?」と言ってきそうな気がしたから、歌っただけなんだ。

 もしかしたらしぶとい生き残りの蝉も聞いていたのかもしれない。

 そうだといいな。

 聞いてくれるやつがいるのならそれに越したことはない。

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