王妃殿下、お幸せですか?
アンジェリカは、自分こそが世界で最も幸せな女だと信じていた。
聖女に選ばれたその瞬間から、彼女の人生は祝福に満ちていた。王太子は彼女を愛し、王国で最も誉れ高い騎士と謳われる騎士団長は彼女を守るために剣を捧げた。
彼女が微笑むだけで、喜んで愛を捧げる男たちは、両手の指では数えきれないほどいた。
彼女が望みさえすれば、誰でもそばに置くことができた。
彼女のためなら長年の婚約さえも投げ捨てる王太子。名誉と義務を命よりも重んじながら、彼女の頼みの前ではどうしようもなく弱くなる騎士団長。それぞれ異なる形で愛を告白してくる貴族の令息たち。
自分に向けられる愛情や憧れ、ときには剥き出しの嫉妬さえも、アンジェリカに生きているという実感を与えてくれた。
何より、そのすべての感情が自分ひとりに向けられているという事実が、彼女にはたまらなく嬉しかった。
だからこそ、アンジェリカは彼らが好きだった。
やがて時が流れ、王太子は王位に就き、ついに彼女を王妃として迎えた。聖女のために婚約者を捨てたという過去さえも、今では二人の愛の深さを物語る逸話のように語られている。騎士団長は相変わらず彼女を敬い、ほかの男たちもまた、それぞれの立場から変わらぬ愛を誓っていた。
けれど、王妃となって数年が過ぎた今、彼女はときおり考えるようになっていた。
どうして、以前ほど幸せを感じられないのだろう。
朝から続く謁見と会議、貴族夫人たちとの社交、慈善事業に関する報告書、そして絶えることなく届けられる嘆願書。一日が暮れる頃には、笑顔を保つことさえ苦痛に感じられる日があった。
王妃の暮らしが、これほどまでに骨の折れるものだとは思いもしなかった。
「殿下、来週予定されている慈善晩餐会の最終招待者名簿でございます」
「ええ、そこに置いてちょうだい」
侍女から書類を受け取ったアンジェリカは、椅子の背もたれに身を預けた。
王妃自らが主催する慈善晩餐会なのだから、招待者の最終確認くらいは自分の目で行わなければならない。
とはいえ、似たような名前が並ぶ書類を延々と眺めるのは、思いのほか退屈な仕事だった。
幸せを感じられない理由は、単に日々の務めが大変だからというわけではない。
アンジェリカは、すでにそのことに気づいていた。
男たちが変わってしまったのだ。
国王は、今も変わらず優しかった。
彼女の額に口づけを落とし、機嫌を気遣うことも忘れない。
けれど、以前のように彼女を見つめながら時を忘れて語り合うことはなくなった。重要な国政会議があると言って、彼女より先に席を立つ日も増えていた。
何より、自分に向けられる態度に疲労と義務感が滲み始めていることを、アンジェリカが見逃すはずもなかった。
それだけではない。
数日前、アンジェリカは久しぶりに騎士団長を招き、茶を共にした。
以前なら、彼女から誘いが届くよりも早く駆けつけてきたはずの男だった。
それなのに彼は、訓練の予定が立て込んでいると言って約束の時間を大幅に過ぎてから現れたうえ、茶を飲んでいる間も、しきりに時計を気にしていた。
自分に変わらぬ愛を誓った侯爵も、有力商会の後継者も同じだった。
手紙を送れば返事は遅くなり、会いたいと告げれば先約があるという答えが返ってくる。
かつては互いに競い合うように彼女に会いたがっていた男たちが、今ではそれぞれの事情や義務を優先するようになっていた。
自分が王妃になったからㅡだろうか。
それとも、自分という存在に慣れすぎてしまったのだろうか。
アンジェリカは首を横に振った。
自分は今も美しい。聖女という地位にも、何ひとつ変わりはない。王妃となってからは、以前にも増して多くの人々が彼女に敬意を示すようになった。
それならば、一体何が問題だというのだろう。
彼女は再び書類に視線を落とした。
王族と貴族、王国の有力な商人たち、慈善事業に多額の寄付を寄せる後援者たち。
そして、不意に、一つの名前で目が止まった。
「……セラフィナ?」
その名を目にした瞬間、脳裏に浮かんだのは一人の女性。
けれど、その名を持つ女は、とうの昔に姿を消している。
自分自身がその女の破滅を見届けたのだから、見間違えるはずもなかった。
アンジェリカは、書類を握る手に力を込めた。
セラフィナという名を持つ人間が、この世に一人しかいないはずもない。同じ名前の人間が偶然いたのかもしれないし、誰かの名を借りている可能性だってある。
何より、あの女が王宮に姿を現せるような立場にあるはずがなかった。
彼女は書類を侍女に返した。
「問題ないわ。全員に招待状を送ってちょうだい」
侍女が退室したあとも、アンジェリカはしばらく椅子に座ったままだった。
******
セラフィナは、自分が死んだのだと思ったことがある。
正確に言えば、公爵令嬢セラフィナは、あの日死んだ。
王宮の大理石の床に膝をつき、彼女は自分を取り囲む人々を見つめていた。
王太子。王太子の傍らに立つ騎士団長。そして、少し離れた場所で涙を浮かべている聖女アンジェリカ。
王太子との婚約は、セラフィナが生まれたときから決まっていたも同然だった。
今では騎士団長の地位にある彼を含め、彼らは幼い頃からの幼馴染みだった。
共に泣き、共に笑った日々は数えきれない。思い出を一つずつ挙げていけば、きっと一日では足りなかっただろう。
そんな彼らが今、何事もなかったかのようにセラフィナを切り捨てようとしていた。
掌を返すように、あまりにもあっけなく。
嫉妬に狂って聖女を虐げ、ついには毒殺を企てたという濡れ衣。
セラフィナがどれほど無実を訴え、証拠を示して反論しても、彼らには何一つ聞こえていないかのようだった。
聖女アンジェリカの涙が一粒こぼれるたび、事態は彼女にとって都合のよい方向へと傾いていった。
――なんて愚かで、間抜けな連中なのだろう。
あのときセラフィナが抱いたのは、絶望というよりも、強烈な呆れと軽蔑だった。
そもそも、自分が彼女を嫉妬する理由などあるだろうか。
聖女は伯爵家の三女であり、自分は公爵家の一人娘だった。聖女には愛らしいという言葉がよく似合う。自分とは少し方向性が違うものの、自分だって彼女に劣らず美しいという自覚があった。
彼女がどれほど王太子を愛し、王太子がどれほど彼女を愛していようと、正式な婚約者は自分だった。
何一つ、彼女に劣るものなどなかった。
誰一人として、その言葉に耳を傾けてはくれなかったが。
死刑の代わりに言い渡された処罰は、あまりにもふざけたものだった。
貴族の身分を剥奪したうえで、娼館へ売り渡す。
聖女を害そうとした罪人は、生涯、最も低く卑しい場所で身体を売りながら罪を償うべきだという。
命だけは奪わないでほしいという、アンジェリカの「慈悲深い」提案によって。
セラフィナが売られたのは、管理すらまともに行き届いていない三流娼館だった。
ついさっきまで貴族令嬢だった少女に、そんな場所で一体何ができるというのだろう。
事実上の死刑宣告だった。
斬首刑よりも遅く、残酷で、惨めな死。
これから自分はどうなるのだろう。
たちの悪い客に目をつけられ、一度使えば捨てられる玩具のように、何の意味もなく殺されるのか。
あるいは、忌まわしい病に侵され、日に日に朽ちていく身体を恐れながら、少しずつ衰えていくのか。
それとも、耐えきれずに自ら命を絶つことになるのか。
……などの、少々陰鬱な想像を巡らせたことはある。
実のところ、セラフィナは思っていた以上に強かな人間だった。
貴族令嬢として育つなかで、世界がいつだって自分に優しいとは限らないことを学んでいた。公爵家の後継者として、家を取り巻く政治的な駆け引きを目の当たりにしてきたし、父が貴族たちの利害に応じて笑い、争う姿も見てきた。
人は誰しも、自分にとって都合のよい方へと動くものだ。
ならば、自分だってそうすればいい。
もちろん、何とも思わなかったわけではない。
まだ幼い少女が背負うには、あまりにも過酷な場所だった。周囲のすべてが腐り果て、足を踏み入れた者を飲み込もうとする泥沼のような世界だったのだから。
自分に向けられる粘ついた視線は吐き気がするほど不快だったし、自分のすべてが踏みにじられていくような屈辱に耐えるのも容易ではなかった。
自分をこんな場所へ追いやった者たちの顔を思い浮かべるだけで、腸が煮えくり返るような怒りが込み上げた。今すぐにでも引き裂いてやりたいとさえ思った。
けれど、それだけだった。
どれほどのことがあろうとも、セラフィナを屈服させることなどできなかった。
それが才能によるものだったのか、運がよかっただけなのか、それともその両方だったのかは分からない。
ただ、彼女には思いのほか多くのものが備わっており、それらを適切な場面で活用する能力も十分にあった。
社交界の海千山千の貴族たちを相手にするよりも、むしろずっと簡単なことだったのかもしれない。
セラフィナは、自分を美しく装う方法を学んだ。
どのような衣装や装飾品が自分の魅力を最も引き立てるのかも、少しずつ理解していった。
わざと派手に着飾ることはしなかった。
彼女には、やはり上品で優雅な装いが最もよく似合った。
貴族令嬢だった頃から身についていた気品は、どれほど低い場所へ落ちようとも失われなかった。
何もせずに立っているだけなら、貴族のお嬢様にしか見えないほどの、控えめで洗練された美しさ。
それには、確かな需要があった。
自分がどれほど優れた人間なのかを認めてほしい男もいれば、誰にも打ち明けられない悩みを聞いてくれる相手を求める男もいた。また、自分は金で買えないものを手に入れたのだと信じたがる男もいた。
セラフィナは、そのすべての男たちにとって、必要な女になってやった。
そして、その対価として金を受け取った。
自分の価値を、自分自身で決める術を身につけたのだ。
その金で自分の名前を取り戻し、自分を縛りつけていた契約を処理し、公爵令嬢に戻ることこそできなかったものの、いつしか貴族の爵位まで手に入れた頃には。
彼女はすでに、誰もが気軽に手を出せるような立場にはいなかった。
娼婦という烙印だけは、消えずに残っていた。
それでも、少なくとも自分の身を守るくらいのことはできるようになっていた。
彼女がさまざまな事情から、多額の寄付を行う貴族たちと縁を結ぶようになったのも、その頃だった。
恵まれない女性たちのための保護施設や、貧しい子供たちのための給食事業に少なくない金額を寄付した。そのおかげで、王妃が主催する慈善晩餐会にも招待されることになったのだ。
交流のあった男爵が口添えしてくれたおかげだった。
「まさか、もう一度こんな招待状をいただける日が来るなんて、誰が想像できたでしょうね」
貴族令嬢だった頃なら、このような招待状を受け取っても何ら不思議ではなかっただろう。
けれど、今は少し事情が違う。
セラフィナは招待状に目を落としたまま、しばらく考え込んでいた。
やがて、こらえきれなくなったように笑い声を漏らした。
******
慈善晩餐会が開かれる日、王宮は朝から慌ただしかった。
アンジェリカは鏡の前に座り、最後にもう一度、髪飾りを確かめた。
今日は、いつも以上に身なりに気を配っていた。
王妃となってからというもの、公の場に姿を現すたびに美しいと称賛されるのは当たり前になっていた。それでも今日だけは、誰よりも輝いて見せたかった。
鏡の中の女は、相変わらず美しかった。
王国中の女たちが羨むような地位と美貌、そして自分を愛してくれる夫まで手に入れた女。
これ以上幸せな人間が、この世のどこにいるというのだろう。
アンジェリカが晩餐会の会場に姿を現すと、あちこちから歓声と称賛の声が上がった。
彼女は慣れた微笑みを浮かべながら、貴族たちの挨拶を受けた。慈善事業の成果を褒められれば謙遜して笑い、久しぶりに会った貴婦人が健康を気遣ってくれれば、優しくその手を握ってみせる。
今となっては、目を閉じていてもできることだった。
人々の称賛を浴びながら、ゆっくりと会場の中央へ向かっていたアンジェリカの足が、不意にぴたりと止まった。
会場の一角、華やかに飾られた柱のそばに、人々が集まっていた。
その場の空気が、どこかおかしい。
普通なら王妃が登場した時点で、誰もがこちらに視線を向けるはずだった。
それなのに、数人の貴族たちはアンジェリカが来たことにも気づかず、ある人物を囲んで熱心に話し込んでいる。
その輪の中心に立つ女を目にした瞬間、アンジェリカは息を呑んだ。
「セラフィナ……!?」
書類で見た名前。
まさかと思っていた予感が、容赦なく現実となって目の前に立っていた。
アンジェリカは思わず唇を噛んだ。
記憶の中のセラフィナと、驚くほど変わっていなかった。
いや、むしろ以前より美しくなっているようにさえ見えた。
誰かの顔色を窺う必要も、愛を乞う必要もない人間だけが持つ、ゆったりとした余裕とでも言えばいいのだろうか。
何より理解できなかったのは、彼女を取り囲む人々だった。
「セラフィナ嬢、先ほどお話しされていた商品なのですが……」
「ああ、そちらについては、後ほど改めて一覧にまとめてお送りします」
「セラフィナ嬢、以前ご相談した投資の件ですが……」
「そちらは、もう少し慎重に考えた方がよろしいと思います。今すぐ利益が出たとしても、長期的には損失につながる可能性が高いですから」
人々は彼女の言葉一つひとつに耳を傾け、彼女が微笑めば、つられるように嬉しそうな顔をした。
かつて公爵令嬢だったセラフィナのことを、この場にいる者たちが知らないはずもない。
彼女がどのような罪を犯したとして断罪され、どのような処分を受けたのか。貴族社会で知らない者は、ほとんどいなかった。
それなのに、どうしてあれほど堂々と親交を示しているのだろう。
いや、それ以前に、彼女がこんな場所にいること自体がおかしかった。
セラフィナが娼館に売られたという知らせを初めて聞いたとき、アンジェリカは少しばかり気の毒だと思った。
けれど、それ以上深く考えることはなかった。
セラフィナは自分を苦しめ、聖女としての名誉を汚そうとし、挙げ句の果てには命まで狙った悪女だった。
自分がそうした。
あの女は相応の罰を受けたのだと思っていた。
たとえ、その処罰が少しばかり苛烈なものだったとしても、一度決まったことを覆す理由などなかった。
生涯あの場所で身体を売りながら朽ち果てていくか。
それとも耐えきれずに死んでしまうか。
どちらにせよ、もう二度と会うことはないと思っていたのだから。
「セラフィナ!!」
今度は、周囲の人々にも聞こえるほど大きな声だった。
ようやく、セラフィナを取り囲んでいた人々が一人、また一人と口を閉ざした。
誰かが遅れて王妃の登場に気づいて頭を下げ、ほかの者たちも慌てて礼を取った。
セラフィナもまた、人々の視線を追うように顔を向けた。
「王妃殿下、お久しぶりでございます」
少しも乱れていない立ち居振る舞いだった。
腰を折る角度から指先の揃え方に至るまで、貴族令嬢だった頃の礼儀作法がそのまま残っている。
アンジェリカは、その姿が気に入らなかった。
「何故、あなたが……!」
「招待していただいたものですから。王妃殿下のお名前で招待状が届いたと思うのですが、私の勘違いだったのでしょうか?」
アンジェリカは口を開きかけて、言葉に詰まった。
反論ならいくらでもできた。
たとえば、娼婦ごときが王宮に足を踏み入れるべきではないとか。
過去の罪を考えれば、こんな場所に現れる恥知らずな真似ができるはずもないとか。
けれど、招待状を送ったのは自分だった。
名簿を確認し、最終的な承認まで自ら行ったのだ。
セラフィナという名前を見たときは、同姓同名の別人だと思った。
だからといって、今さら招待状を間違えて送ったなどと言い張ることはできない。
何より、ここは王妃である自分が主催する慈善晩餐会だった。
恵まれない女性たちを支援し、社会から取り残された人々に新たな人生の機会を与えるための場。
そんな催しで、娼婦だからという理由だけで誰かを追い出そうとすれば、かえって自分の慈善事業そのものが笑いものになってしまう。
しかも、セラフィナは多額の寄付を行う後援者の一人でもあった。
アンジェリカは慌てて周囲を見回した。
この理不尽な状況を何とかしてくれる、いつだって自分だけを見つめ、どんな問題も解決してくれた、自分の男たちを探すために。
彼らを見つけるのは難しくなかった。
彼らもまたセラフィナの姿を認め、視線を向けていた。
その瞳が揺れている。
戸惑い、驚愕、そして動揺。
けれど、その奥底にあるのは――あからさまな困惑だった。
「陛下! あの女を、あの女をご覧ください! 以前、私を害そうとした悪女セラフィナです! 娼婦の分際で、神聖な慈善晩餐会に足を踏み入れるなんて! 今すぐあの女を牢に――!」
アンジェリカは国王の袖を掴み、すがるように叫んだ。
しかし国王は、彼女の手をそっと振りほどきながら、セラフィナから視線を外せずにいた。
いや、国王だけではなかった。
騎士団長も、侯爵も、その場にいた逆ハーレムの男たちも、誰もがアンジェリカと目が合った途端、後ろめたいことがあるとでもいうように慌てて顔を背けたり、冷や汗を流しながら視線を逸らしたりしているではないか。
アンジェリカの脳裏に、不吉な予感がよぎった。
三流娼館から身を起こし、貴族の爵位と莫大な財産を手に入れた、まさに立身出世を遂げた娼婦セラフィナ。
男なら誰もが崇める夜の女王。
彼女はすでに数年前から、この王国の政財界の大物たちを手玉に取っていて……。
まさか。
まさか、そんな……!
「数日ぶりにお目にかかりますわね、国王陛下」
セラフィナは、柔らかく微笑んだ。
数日ぶり?
今、数日ぶりと言った?
アンジェリカは自分の耳を疑った。
国王の顔が目に見えて強張ったのだから、聞き間違いではなかったらしい。
「あなた!」
「ち、違うのだ、アンジェリカ! これは、その……! セラフィナ、誤解を招くようなことを言うな! 私はお前のような娼婦とは……!」
「あら、そうおっしゃるのでしたら、次回お約束していた特別なサービスは必要ないということですね?」
「なっ」
セラフィナが大げさに残念そうに眉を下げると、国王は思わず動揺を露わにした。
隣に妻がいることさえ、忘れてしまったかのように。
しまったと思って慌てて表情を取り繕っても、もう遅かった。
アンジェリカは国王の顔を見つめた。
ついさっきまで、誤解を招くようなことを言うなと声を荒らげていたではないか。
自分はあんな下品な女とは何の関係もないと、王の名誉を汚すなと、そう言おうとしていたのではなかったか。
それなのに。
どうして。
どうして、あの女が次回のサービスか何かを口にした途端、そんな顔をするのだろう。
国王だけではなかった。
騎士団長は顔を上げることもできず、ただ唾を飲み込んでいた。
先日、茶の席で何度も時計を確認し、落ち着かない様子を見せていた理由が、直感的に頭をよぎった。
ほかの男たちも同じだった。
彼らの態度は、見事なほど一致していた。
どうか、こちらを見ないでくれ。
頼むから、私のことは話題に出さないでくれ。
アンジェリカは、込み上げる怒りと屈辱に息が詰まりそうになった。
「あなた、あなた……! 安っぽい娼婦のくせに!!」
「あら、安っぽいだなんて。こう見えて、誰にでも時間を割いて差し上げるわけではありませんよ。それに……」
セラフィナは、狼狽える男たちをちらりと一瞥したあと、叫び続けるアンジェリカへと、哀れむような視線を向けた。
知性も、美貌も、男を意のままに操る話術も、セラフィナは一度としてこの聖女に劣ったことなどなかった。
ただ、舞台の条件が不公平だっただけ。
「お金も受け取らずに、何人もの男性に身体を許していらっしゃる方こそ、よほど卑しい女なのではありませんか? 王妃殿下」
誰かが堪えきれずに笑い声を漏らした。
アンジェリカの顔から、さっと血の気が引いた。
卑しい女。
それが誰を指しているのかなど、わざわざ尋ねるまでもなかった。
神聖で慈悲深い聖女。誰からも愛される王妃。
その仮面の下に隠されていた生々しい悪意が、とうとう剥き出しになっていた。
今すぐセラフィナの頬を張り飛ばしてやりたかった。
けれど、全身が痙攣するように震え、指一本まともに動かせなかった。
セラフィナはそんな彼女を、道端の石ころでも眺めるような、淡々とした目で見つめていた。
そもそも、一度だって心の底から、この聖女と呼ばれる女をライバルだと思ったことなどなかった。
「もちろん、愛にはお金では換算できない価値があるのでしょうね。私も、その程度のことは存じております」
セラフィナは少しもためらうことなく言葉を続けた。
「けれど、殿下はその愛をお一人だけに注いでいらっしゃるわけでもない。それなのに、どうしてほかの女にだけ貞節を求めるのでしょう?」
アンジェリカの口が、何度か開閉した。
しかし、たった一言さえ声にならなかった。
喉が塞がってしまったかのように、まるで呼吸の仕方を忘れてしまった人のように、彼女はただ目を瞬かせるばかりだった。
彼女がこれまで一度も疑ったことのなかった、巨大で華やかな「愛」という名の神殿。
それがセラフィナの軽やかな舌先で三流喜劇へと成り下がり、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
「私は聖女よ!!」
長い沈黙の末、ようやく飛び出した言葉は、たったそれだけだった。
「私は聖女なの! 神に選ばれた人間なのよ! あなたのような女が、私を侮辱してもいいと思っているの!?」
「殿下が聖女でいらっしゃることは、私もよく存じております。王妃というお立場にあることも。ですから、そんなにお怒りになる必要はないのではありませんか?」
セラフィナは口元に手を添え、小さく笑った。
「本日は少々用事がございますので、これで失礼いたします、殿下。寄付金は侍女を通じてお届けいたしますので、どうか有意義にお使いください」
セラフィナは優雅にドレスの裾をつまんで一礼すると、何の未練もなく踵を返した。
耳をつんざくような叫び声。それをなだめようとする声。時折、自分を引き止めようとする声。
さまざまな音が入り混じって聞こえてきたが、セラフィナは気にも留めなかった。
******
馬車に乗り込んだセラフィナは、背もたれに身を預けた。
窓の外では、王宮の華やかな正門が少しずつ遠ざかっていく。
先ほどまで耳を騒がせていた音楽も、人々のざわめきも、もう聞こえなかった。
セラフィナは目を閉じた。
久しぶりに昔の顔ぶれと一度に顔を合わせたせいか、思っていた以上に気を遣ってしまったらしい。
とりわけ、アンジェリカの表情は見ものだった。
あれほど自信に満ちていた女が、目の前で起きたことを理解できず、どうしていいか分からずにうろたえる姿。
数年前の自分が見たなら、きっと信じられなかっただろう。
「まあ、私に貼りついた娼婦という烙印は、一生消えることがないのでしょうけれど」
セラフィナは独り言のようにつぶやき、目を開けた。
どれほど大金を稼ごうと、どれほど高貴な人々と肩を並べるようになろうと、彼女を指差して非難する人間は必ずいる。
公爵令嬢だった女が娼婦になったのだと。
卑しい身体を売って、富と栄華を手に入れたのだと。
そんな方法で得た財産や地位に、果たして胸を張ることができるのかと。
もし結婚することになったら、夫は本当に自分の過去を受け入れられるのだろうか。
最初は構わないと言ってくれても、喧嘩をした日には、ふとした瞬間に自分の過去を思い出すのではないか。
自分がほかの男と目を合わせただけで疑い、知らない過去の男たちを想像して苦しむのではないか。
そして、もし子供でも産んだら。
子供には何の罪もないのに、母親の過去を理由に人々の噂の的にされるかもしれない。
どれほど立派に育ち、どれほど優れた功績を残したとしても、誰かはその子を娼婦の子と呼ぶのだろう。
この手では、最後まで取り戻せなかったものもあった。
けれど、セラフィナは今の自分を嫌いではなかった。
娼婦になった自分も、数え切れないほどの男たちの欲望を相手にして生きてきた自分も、その過程で金と権力を手に入れた自分も。
そのすべてが、自分自身だった。
恥じるべき人間がいるとすれば、生き延びるために必死にもがいた自分ではない。
罪を着せておきながら、何の罪悪感も抱かずに生きてきた者たちこそ、恥じるべきなのだ。
「それにしても、今日は少しすっきりしましたね」
窓の外をぼんやりと眺めていたセラフィナの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
――愚かなこと。
国王と王妃の関係は、もう二度と以前のようには戻らないだろう。
表向きは相変わらず作り物の笑顔を交わし、完璧な国王夫妻を演じ続けるのだろうが、互いの顔を見るたびに今日の出来事を思い出すに違いない。
アンジェリカは夫を際限なく疑うようになり、国王は自分を執拗に問い詰める妻の態度に押し潰されながら生きていくことになるだろう。
騎士団長も、侯爵も、ほかの男たちも同じだ。
アンジェリカはこれから先、あらゆることを疑いながら生きていくことになるのかもしれない。
その疑念と不安の果てに、何が待っているのだろう。
「もう、私には関係のないことですけれど」
セラフィナは、馬車の揺れに身を任せた。




