アクアリウムの放課後
理科準備室のドアを開けると、骸骨が少し照れくさそうに頭を掻いている。
その骨ばった手を今度は腰に移動させてから、サヤは首をひねった。
「うーん、なかなか様にならないわねえ」
すると、横からすかさず抗議の声が上がった。
「おいサヤ、何遊んでんだよ」
窓枠に腰をかけて足をぶらぶらさせながら、プラスチックの腎臓と十二指腸を見比べているユウタに、サヤは不満げに言い返す。
「遊んでないわよ、ちゃんとホコリ払ってるでしょ」
「……そういう問題じゃないんじゃないか」
トウマの呟きは、他の二人にあっさり黙殺された。
サヤとユウタとトウマの三人は、理科準備室掃除の担当だ。というより、他の生徒はみな準備室を気味悪がっているので、この部屋を恐れない三人が必然的に選ばれたのだった。
何しろ理科準備室には骨格標本や人体模型、カエルのホルマリン漬けに動物の剥製、縄文人の頭蓋骨など、子供が怖がるには充分な迫力のある代物がそろっている。
しかし、サヤは骨格標本にポーズをとらせて遊んでいるし、ユウタは人体模型の内臓を分解してパズルにしているというように、彼らは恐れるどころか完全にプレイルームと見なしている。結局、まともに掃除をしているのは、小学生ながら苦労性のトウマだけという有様だ。
モップを片手に溜息をつくトウマの後ろで、内臓パズルを終えたユウタがはしゃいだ声を上げた。
「なあなあ、この水槽にクラスで魚飼ったらどうかな」
ユウタはどこから掘り出してきたのか、八十センチほど横幅のある大きな水槽を持ち上げて嬉々としている。
ここには魚はおろか、人間以外に生きた生物はいないというのに、ユウタはいそいそと流しの蛇口をひねって水槽に水をなみなみと注ぐ。
その様子を見やりながら、サヤも面白そうに訊く。
「何の魚飼うの?」
「フナとかザリガニとか」
「ザリガニは魚じゃないよ」
トウマが訂正を入れると、ユウタが嫌そうな顔をする。
「いいんだよ、細かいことは」
ユウタが抗議した次の瞬間。
「それじゃあこの魚はどうかな」
外から別の声が上がった。
と、同時に窓際に置かれた水槽の水が、ぱしゃんと跳ねる。
三人の子供たちは同時に目を丸くした。その水槽には、体長五十センチはありそうな大きな魚が出現していたのだ。
「うわあ、何これ! でっけー!」
ユウタは驚きの混じった歓声を上げた。彼にしてみれば、魚を飼いたいと言った直後に突然降って湧いたのだから興奮するのも無理はない。
その彼に幸運を運んできたのは、見知らぬ男だった。どこから入ってきたのか知らないが、一階の理科準備室の様子を中庭から窺っていたらしい。
目深にかぶった帽子と濃い日差しのせいで、男の表情は読み取れないが、三人の子供たちのやり取りを面白がって聞いていたのだろう、唯一見える口元がかすかにほころんでいる。
「見たことのない魚ですね」
突如現れた男を探るように、トウマは慎重に問う。
青みを帯びた銀色の鱗。その背に映える乳白色の腹。そして尾びれの瑠璃色の斑模様は陽光を受けて目映く光る。
安っぽい学校の備品の水槽の中でも、なめらかな姿態を翻して泳ぎ回るその様は、水族館を髣髴とさせた。
食い入るように幻想的な魚に見入っていたサヤが、にわかに身を乗り出して、男に向かって訊ねた。
「これ、何て名前なの?」
「名前なんて自分でつければいいさ」
くすりと笑いながら男が答えると、ユウタがあっさり命名する。
「よし、じゃあユウタ2号な」
「やめてよ、そういうセンスのない名前」
二人の応酬を無視して、トウマが男に重ねて訊く。
「この魚はどこで捕れるんですか?」
「そうそう、どうせ飼うなら、こんくらいでっけーやつがいいよ」
ユウタが同調すると、男は唇に笑みを浮かべながら訊いた。
「君たちはこの魚が欲しいのかい?」
ユウタは強く、サヤは軽く首を縦に振った。今までに見たこともない魚に幻惑されていた二人にしてみれば、これを欲しがるのは至極当然のことだった。
「よし、じゃあこうしよう」
そう言って、男は骨ばった人差し指を一本立ててみせる。そして、もう片方の手でコートのポケットを探ると、中から牛乳ビンより一回りほど大きい空きビンを取り出した。
「もし君たちがこのビンの中に魚を入れることができたら、こいつをあげよう」
「えー!?」
男が窓の向こうからずいと差し出したビンを見て、三人は一斉に声を上げた。その透明なビンの口は直径五センチ程度だ。高さ自体も二十センチよりやや上くらいだろう。これに体長五十センチもの大きな魚を入れられるはずはない。
「そんなの無理だよ。だってこいつ、このビンの口よりでかいじゃん。どうやって入れろって言うんだよ」
「ビンを切ったり割ったりしちゃ駄目なんですよね?」
ユウタとトウマが口々に訊ねると、男は笑いをこらえるような声音で答える。
「ビンはそのままで。だけど工夫次第でいくらでも入れられるよ」
「嘘だあ」
「大丈夫、すぐ大きくなるよ」
それだけ言うと、男は「また明日」とだけ付け加えて背を向けた。三人は中庭から去ってゆく男をしばらく呆然と見送っていたが、その姿が視界から消えると、ただちに議論に入った。
トウマさえもモップを放り、掃除もそっちのけで緊急会議に参加する。
「こんなもん、どうやって入れればいいんだよ」
「この魚、ビンより大きいんじゃない?」
「ぜってー無理だよ、無理!」
「でも工夫次第でいくらでも入れられるって言ってただろう」
白熱する議論を中断させたのは、ふと水槽に視線を投じたサヤの声だった。
「あ!」
サヤに注意を促され、ユウタとトウマも水槽に目を向ける。一瞬、何が起こったのかわからなかった。しかし、さっきまでとは違って水槽の水がにわかに濁っているのに気づいた。
「この魚、卵産んだわよ」
よく見ると、水槽内を濁らせていたのは魚の産み落とした無数の卵だった。心なしか、魚の白い腹が少ししぼんだようにも見える。
ユウタは食い入るように水槽をのぞき込み、目を輝かせながら告げた。
「こいつ、メスだったんだ。じゃあユウタ2号は駄目だな。よし、サヤ2号に決定!」
「だからやめてって言ってるでしょ!」
ユウタとサヤが言い合っている横で、トウマは小さくつぶやいた。
「そうか……」
やけに真剣な表情に、二人もたわいない争いをやめ、トウマをまじまじと見つめた。
「何だよ、トウマ」
「どうしたの?」
それぞれ訊ねると、トウマは唇の端に子供らしくない笑みを浮かべた。
「だから、ビンに入れるのはこの魚じゃなくてもいいんだよ」
「あのなあ、回りくどい言い方やめて、はっきり言えよ」
トウマのこうした妙に大人びた態度に、ユウタは時々苛立たされる。だが、不快げなユウタの声にも動じず、トウマは涼しい顔で、いきなりビンに水道の水を入れ始めた。
ビンにたっぷり水が入ると、彼はそれを二人の前に差し出した。
「つまり、この中に卵を入れて、それが孵れば魚をビンに入れたことになるだろ?」
確かに、卵の姿ならビンの小さな口からでも入れることができる。要は発想の転換なのだ。それに気づいたトウマは得意げに笑い、サヤは嬉しげな声を上げる。
「そっかー! 凄い、さすがトウマね」
トウマを称えるサヤの横で、ユウタはちぇっと舌打ちした。
そんなことをしていると、不意に準備室のドアがガラッと開けられた。
「おい、おまえたち、いつまで掃除してるんだ?」
「わっ、先生!」
入ってきたのは、彼らの担任教師だった。掃除の時間が終わっても戻ってこない三人に気を揉んで、ここまで呼びに来たらしい。
「何が『わっ』だ、まったく。どうせサボってたんだろう」
その台詞は、三人の中で最も不真面目と思われているユウタに向けられた。当然、ユウタにしてみれば面白くない。思わず彼はぶうたれた。
「心外だなあ、先生」
「何を言ってるんだ、おまえは。トウマ、ちゃんとこいつらに注意してくれよ」
「先生、そりゃねえよー。何でトウマばっか贔屓すんだよ」
「ユウタが宿題を毎日やってくるようになれば、信用してやるよ」
その一言で抗議を遮って、担任は三人に指示を出した。
「そろそろ鍵閉めるから、早いとこ片付けておけよ」
「はーい」
返事だけは殊勝な子供たちを置いて、担任は準備室を後にした。
そして、残された三人は早速、会議を始めた。
「それじゃあこの魚、どうしようか?」
「でも明日また来るって言ってたじゃない。ここに置いといたほうがよくない? どうせ明日も掃除に来るんだし」
トウマとサヤが話し合っている横で、いきなりユウタが大声を上げた。
「あ! 卵が孵ったぞ!」
その言葉に、二人も話を中断して水槽にへばりついた。中を見ると、確かにユウタの言った通り、一匹だけだが卵が孵っていた。メダカほどの小さな稚魚が、広い水槽を悠々と泳ぐ姿に、サヤは歓声を上げた。
「うわー、可愛いー!」
「他のも孵ったら、僕も家で一匹飼おうかな」
「あ、俺も!」
そんなことをわいわいと言い合っている内に、時間はあっという間に過ぎてゆく。
「おい、何してるんだ。まだ終わらんのかー?」
再び担任の催促の声が上がった。これ以上やっていたら、さすがに叱られてしまうだろう。
三人は掃除用具を適当に突っ込んで、慌てて準備室を後にした。
翌朝、サヤはいつもより一時間ほど早く登校した。もちろん、魚のことが気になっていたからなのだが、同じことを考えていたのか、彼女は廊下でトウマとばったり行き会った。
「おはよう、トウマ。どうしたの? 何か考え込んで」
サヤがそう訊ねたのは、トウマが腕組みをして首を傾げるという、いかにも悩み中のポーズを取っていたからだ。
「ちょっと気になることがあって」
いったい何がと、さらに訊ねようとしたところで、背後から別の声が上がった。
「おー、はよー」
大あくびを噛み殺しながら現れたのは、遅刻常習犯のユウタだった。
「あれ、ユウタが早いなんて珍しいじゃない」
「あの魚が気になってさあ」
そう言いながらも、ユウタの目はまだ夢とうつつを行き来しているようだった。それでも何とか起きられたのだから、魚の力は偉大だとサヤは思った。飼育係にでもなれば、もしかしたら遅刻癖が治るかもしれない。
「うん、僕もそうなんだ。それで、調べようと思って、今日はいつもより早く来たんだけど」
何かに熱中することの少ないトウマにしては珍しいと、サヤは思った。
「でも準備室って鍵が閉まってるんじゃないの?」
「いや、もう先生に頼んで鍵を借りてあるよ。僕は信頼があるからね」
「うわあ、嫌な奴―」
横から合いの手を入れるのは、ユウタである。それには取り合わず、サヤはさらにトウマに訊ねた。
「でも、何でそこまで気にするのよ。今日だって掃除でまた行くでしょ」
そう言いながら、サヤの足取りはだんだんと速くなってゆく。というのも、先を歩くトウマがどんどんと急ぎ足になっているからだ。
いったい何が、彼を焦らせているのだろうか。
「――あの魚、物凄い早さで成長してると思わないか?」
振り返るトウマの表情はどこか強張っているように見えた。彼はさらに言葉を続ける。
「昨日、家に帰ってから調べてみたんだ。魚の産卵から孵化までの期間は、種類によってもだいぶ違う。だけど、十分やそこらで孵るものなんて一つもなかった。それなのに、あの魚は一分もしないうちに孵ってただろ?」
「一匹だけな」
そう答えたのは、一番後ろからついてきたユウタだった。トウマの言葉に目が覚めたのか、顔から眠気は消えていた。
ユウタの言葉に、トウマはさらに緊迫した声で返す。
「確かにね。でも、もし他の魚もそうだったら? あのおじさんが言ってただろ、すぐ大きくなるって」
「それは……」
ユウタもサヤも、それ以上の言葉を失ってしまった。トウマの懸念が、今になってようやく感じられてきたのだ。
「大人になったら五十センチもある魚が、あのスピードで全部成長していったら――」
トウマが言い終わる前に、三人は理科準備室の前にたどり着いた。
借りた鍵を取り出したところで、トウマはハッとして一歩下がった。
下を見ると、準備室のドアの隙間から、足元の床に水がしみ出していたのだ。しかもその水は、瞬きするごとに面積を広げていく。
言葉を失い、静まり返った廊下で、三人の耳は確かに捉えた。
ドアを挟んだ向こうから、次第に大きくなってくる、ぴちぴち、みしみしという音を。
そして次の瞬間、誰もいない準備室のドアが、中からガタガタと震え始めた。
―了―




