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濡れた落ち葉と空のグラス

作者: vurebis
掲載日:2026/02/03

赤く色づいた落ち葉の絨毯。

靴の裏から伝わる感触はぐずぐずで、踏み込むたびに小さな水音がにじむ。

気を抜けば滑りそうで、つい歩調が慎重になる。

雲の切れ間から射し込む光は頼りなく、冷たい風が頬を撫でる。

平日の公園は人通りが少なく、遠くで子どもの笑う声がかすかに響くだけだ。

風に吹かれて散る葉がより寂しさを際立たせる。

しばらく歩くと目的地。木々の間、無骨な石が私を迎える。

「ふぅ……悪いね。ほんとは昨日、来たかったんだけど……」

石の上に積もった落ち葉を手で払い、持ってきた花を差し替える。

「……あんなに降ったんだから。いくら君でも来いなんて言わないよね」


「……雨嫌いのくせに、ずぶ濡れ……」

つぶやきながら、懐から小瓶と煙草を取り出し、小瓶に入ったウイスキーを掛ける。

「いつもよりいい奴。どうかな」

次に煙草に火を着け、供えればいつもの墓参りが終了する。

火が小さく揺れ、白い煙がすっと立ちのぼる。

「……じゃ、またね」

短くそう告げて、背を向ける。

誰の名も刻まれていないその石は、今日も黙ってそこに立ち続けていた。


 バイクを走らせ着いた家は公園とはまた違った寂しさが漂う。

「ゴホっ。換気しないとな……」

 開いたカーテンの向こう。聳え立ったビルが影を落とす街なみ。

 人の営みは絶えず続く。誰かが欠けたところで何ら不自由は無い。

 淀みなく流れる人の営みに私は取り残されたままだ。


「……十一月か」

 瞼を落とすと、胸の奥に仕舞っておいた記憶が蘇る。

 西日に当たりより赤く染まる木の葉。風が吹く度に落ちる葉すら美しい。

「まさかこんな近くで紅葉が見れるなんて」

「まぁ、車かバイクが無いと見られないんですけどね~」

「じゃあ、あなたが居ないと見れないですね」

「そう。私の後ろにね」

 バイクを指差しながら覗き込んだその顔をよく覚えている。

 きっとあの人の事だから男のくせにとか考えていたのだろう。

「私が居るから。いつもみたいに後ろに乗せてあげる」

「え、えぇ」

「そんなことより、景色! これ見に来たんだから。こんな話してたらもったいないよ」

 改めて向き直った景色。山の斜面に沿って絨毯の様に敷かれた紅葉。絶対に忘れまいと目に焼き付ける私の隣で君は頬を赤く染め白い息を吐く。

「秋の風って少し寂しいですけど、暖かいですよね」

「この景色見て風の感想? ほんっとにズレてるんだから……」

 つい憎まれ口を叩くが、そんな感想が出てくるあの人が好きだった。

「そうですか? この風、君に似ていて僕は好きですよ」

「もう……いっつもそんなことを平気で」

 いつもキザなセリフを吐きたがるクセに行った後は顔が赤くなる。

 その温度に私はもう触れることは出来ない。


その日の夜。いつもの様に晩酌をした。

小さなグラスにいっぱいの氷。そこに少しのウイスキーを注いで出来上がり。豊かな香りが漂う。フライングだけど少しだけ口に含む。鼻から樽の匂いが突き抜ける。

冷蔵庫からジャーキーを持ってくれば準備万端だ。

「よし、オッケー」

「ねぇ、君は何にする?」

ソファに座りドライヤーを動かす背中に声を掛ける。

「おんなじの良いですよ?」

「あれ? いつものじゃなくていいのー?」

ウイスキーの隣に置かれたモヒートのグラスを振る。いつも彼はこれを炭酸で割って飲んでいる。

「同じのが良いです」

「ウイスキー、飲めるようになったんだ」

「最近好きになって来たんですよ。誰かさんが会う度飲みますからね」

「ふふっ。やっとウイスキーの良さに気付いたか~」

 さっき用意したグラスを手渡し、新しくロックを作る。

 向かいに座った彼は一口飲み込むと顔をクシャっと歪ませる。

「やっぱり炭酸……」

「あっはは! 手前の所ね」

 ゆったりとウイスキーを飲みながら彼の背中を目線で追う。

いつもと違う情けない背中。

その背中に吸い寄せられる。

「ねぇ、いつ一緒に住める?」

 その『いつ』が来ることはもうない。


また別の記憶。

秋の夜。突然降り出した雨から逃げるように私たちはバス停に駆け込んだ。

「はぁ、もう……」

「ふふ。嫌いだもんね。雨」

「何で楽しそうなんですか。そんなに濡れているのに」

 ハンカチから覗く呆れ顔もよく覚えている。いつもは優しい顔ばかりする癖に、我儘な子供を見るかのようなその顔。

「何でだろうね~?」

「とにかく、拭いて。コレ使っていいですから」

 受け取ったハンカチで顔を拭くと柔らかくあの人の香りがする。鼻に押し当て吸うとまるで抱きしめられているみたいだった。

「それ、返さなくていいですよ?」

「え?」

「それ、肌触り良いですよね。私もお気に入りなんです」

「……貰っていいの?」

「えぇ。気に入ってくれて嬉しいです。今度もっと柔らかいものをプレゼントしますね」

「肌触りじゃないのに……」

 今もポケットの中にあるハンカチ。

もう匂いはしないが、柔らかさだけはあの時のままだ。


 今でも鮮明に思い出せる彼との思い出。

 けれど。

 そんな彼の嫌いな所もあった。

 それは他の思い出とは違って秋雨の様に冷たく私の心を凍えさせる。

「……本当に妻のわがままには付き合え切れませよ」

 彼はいつものようにグラスを傾け不意に口にした。

 彼は時折家族の愚痴を渡しに聞かせた。

「早く私にすればいいのにね?」

 彼は躊躇うことなく続ける。多分間を持たす為のただの話題。今の家族の不満を零して私に気があるというアピール。

 でも。

 私はそんな話なんて聞きたくなかった。

 彼が言葉を紡ぐたび私の胸の奥から焼け爛れる音がする。

 その時の私は笑えていたのだろうか。

 グラスを持つ手が震えていたことを彼は気づいてくれていただろうか。

 声は、震えていなかっただろうか。

「君と違って腹の底では何考えているんだか……」

 そう言って彼はまたウイスキーを呷る。

 私の真意なんて後から幾らでも伝えられる。そう思っていた。

 

耳の奥にこびりついた彼の言葉。

「奥さんが」「家に帰ったら」「君と違って」

 いや。違う。違う。違う。

 そんなものはなかった。いなかった。存在してはならなかった。

 彼の隣にいたのは、ずっと私だ。私だけだ。そうでなければならない。

「早く来るべきだったのよ……」

机の上。

 コースターの上に置かれた二つのグラス。ひとつは私のもの。もうひとつは……彼のもの。

 氷が半分残っていて、水が薄くグラスの表面を伝い、ぽたりと落ちる。

 カラン、と小さな音を立てて水面が揺れる。

その音がまるで返事のようで、私は息を止める。

「ね、そうだよね?」

 気づけば口からこぼれていた。

 その瞬間、部屋の空気が確かに動いた。

返事なんてあるはずがないのに、確かに頷いた気配を感じた。

 あぁ、そうだ。やっぱりここにいる。まだ、私のそばにいる。


 私の目の前にあるのは、私と君のグラスだけ。


 夜になると、私は決まって食卓を整える。

 テーブルクロスを丁寧に直し、皿を二枚、グラスを二つ。

真ん中に鍋敷きを置いて、スプーンとフォーク。彼の方には箸もつける。

 ほんの少しずつ違う位置に置いてみては、やっぱり気に入らなくて、また動かす。

彼は、きっとこれを見た時に「丁寧ですね」と褒めてくれるから。


 冷めたスープの鍋を火にかける。

 くつくつと泡が立ち上がる音に、心が落ち着いていく。

 湯気が立ち昇り、曇った窓ガラスに薄く滲む影がふたつ。

 ひとつは私。もうひとつは……あの人。

 ここにいる。確かに座っている。椅子に背を預け、グラスを指で弄んでいる。

「おかえりなさい」

 口から自然に言葉が出た。

 返事はない。けれど、グラスの氷がかすかに鳴った。

 それで充分だった。

 皿を配る。ひとつは私に、もうひとつは彼に。

 スープを注ぐ。湯気が二つ、ゆらりと揺れる。

 メイン料理を乗せた皿を中心にゆっくりと並べていく。

 こうして二人で囲む食卓は、ほんのひとときだけ、過去と今を繋げてくれる。

「今日はね、公園に行ったの」

 独り言みたいに、でも確かに彼に向けて話す。

「落ち葉がたくさんで、あなたの石に積もってて……。だから、ちゃんと払ってあげた」

 言いながら、胸の奥で何かがじわりと膨らんでいく。

 涙かもしれない。あるいは笑いかもしれない。

 私にとってはどちらでもよかった。ただ彼を想い、何かで満たされるならそれで。

 ふと視線を上げる。

 彼が笑っているように見えた。いや、笑ったのだ。

 私は思わずスプーンを持つ手を止める。

 そして、深く頷いた。

 やっぱり、ここにいる。間違いない。

 私の目の前に、今も彼がいる。


確かに彼の視線を感じながらスプーンを口に運ぶ。熱さが舌にしみ、思わず目を細めた。

 その瞬間、ふっと耳の奥に声が落ちてくる。

『相変わらず猫舌は治りませんね』

スプーンを持ったまま固まる。

 ……聞こえた。

 まぎれもなく、あの人の声だった。

 胸の奥で膨らんだ何かが弾けた。私は思わず笑ってしまう。

「……猫舌が治るなんて聞いたことないです」

 返す言葉が自然に口から零れた。

 会話が、成立してしまった。

『でもせっかちなのは治せると思いますよ?』

「誰のせいでこうなってると思ってるの?」

『私ですかね……まぁ、そうですね。私のせいです』

静かな部屋に、二人だけの声が溶け合っていく。

 氷の音、スープを啜る音、笑い声。

 すべてが当たり前の暮らしの一部みたいに重なり合う。

「……ねぇ、覚えてる?」

『なにを?』

「バイクで紅葉見に行った日のこと。あの日の君の顔、ずっと忘れられない」

『あの景色よりも、君の頬の方が赤かった』

「……ほんと、そういうことばっかり言うんだから」

視界が滲む。涙が出ているのか、笑っているのか、自分でもわからない。

 ただ、ひとつだけ確かに言えるのは。

 彼がここにいる、ということ。

スプーンを置き、グラスを掴む。

 氷がカランと鳴る。

 その音に重なるように、彼の声がまた聞こえた。

『ねぇ……。どうして泣いてるの?』

「泣いてなんか、ない」

 そう答える私の声は震えていた。

グラスの中で氷が解け、また音を立てた。

 その瞬間、彼の声がふたたび胸の奥を揺らす。

『ここは落ち着くな……やっぱり君と一緒がいい』

心臓を掴まれたみたいに息が詰まる。

「……何それ。帰ってきたみたいな言い方」

『だって帰ってきたんだよ。君のところに』

「……ほんと?」

『本当さ。あんな窮屈な家じゃ息ができない。ここは私と君だけだ』

おかしい。

 だって、彼には妻がいる。

 家庭がある。

 それでも、今この瞬間は、私だけのもの。

「……嬉しい」

 小さく吐き出すように呟いた声は、いつの間にか嗚咽に混じっていた。

 彼は続ける。

『本当の僕を見せられるのは君だけなんだ。あの家での僕は形だけ』

「形だけ……そう、だよね。あの人じゃ、あなたをわかってあげられない」

『わかってくれるのは君だけだ』

「そう……私だけ。ずっと、ずっと私だけ」

頬を伝う雫を乱暴に拭う。

 弾けた胸の奥で膨張し続ける熱は、逃げ場を失い、喉を焦がしていく。

「ねぇ……じゃあ、もう帰らなくていいよね?」

『……もちろん』

その返事を聞いた瞬間視界が鮮明に色づいた。

テーブルの上のグラスが、ふたつ並んでいる。

 そこからわずかに立ち昇るウイスキーの匂い。

 今日彼の石にかけた銘柄。私がいま注いだものとは違う、もっと甘い香り。

 あの公園で使い切ったはずの匂いだ。

思わず嗅覚を集中させる。

 もう一度息を吸い込むと、背筋を冷たいものが撫でる。

突然のことだったが私を包んだのは安堵だった。

 やっぱり、ここに居る。

 ここに、ちゃんと居るんだ。

ふと視線を横にやると、灰皿に煙草の吸い殻が一本転がっている。

 彼の癖のある吸い口、私が真似してもどうしても出来なかったあの潰れ方。

 昼間の墓前に供えた煙草。その吸い殻が、ここにある。

 まるで彼がさっきまで居たかのように。

 鼓動が早くなり、周囲を見渡すが人の気配はない。

「ねぇ……やっぱり、いるんでしょう?」

私の声だけが反響する。

 けれど、灰皿の中の煙がかすかに揺れた。

足元に視線を落とすと、カーペットに小さな水滴の跡がいくつも続いていた。

 バイクブーツの跡みたいに、玄関からリビングまで、くっきりと。

 私のものではない。大きさも形も、知っている。

 彼の足跡だ。

その瞬間、喉の奥がひゅっと鳴った。

 空気が胸いっぱいに入らず、身体が小さく震える。

 怖い? 違う。

 怖いよりもずっと、心地よい。

 ついに、確かなものに触れたような感触。

 あぁ、やっと……会える。

私は椅子を蹴って立ち上がっていた。

 足跡を追いかけるように、玄関に向け歩を進める。

 玄関まで続くそれは、途中でふっと消えている。

 けれど消えた先の空気に、彼の匂いが残っている気がした。

 ウイスキーと煙草、そしてもう嗅げないと思ったあの匂い。

「ここにいるんでしょう? ねぇ……返事してよ」

その声に重なるように、耳の奥で小さく彼の声が響いた。

『……すぐ、そばにいるよ』

身体がぶるりと震えた。

「ずっと……居てくれる?」


次の日の朝、目を覚ますと、ベッドの片側がわずかに乱れていた。

 私の眠っていた側とは逆。シーツのしわが、人ひとり分だけ沈んでいる。

 触れてみると、まだ温かい気がした。

「……やっぱり、帰ってきてたんだ」

私は小さく声を漏らした。やっぱり夢なんかじゃなかった。

キッチンへ向かうと、シンクに洗い物がひとつ。

 昨日は確かにグラスを二つ並べた。けれど片方は私が片付けたはずだ。

 チラリと見たテーブルに残っていたのは、彼の使っていたはずのグラス。

 底にわずかに琥珀色の液体が残っている。

 夢でも幻でもない。

 だって、ここに彼の痕跡が残っている。

 リビングに戻ると、ソファの背に上着がかけられていた。

 私のものではない。大きなサイズ、彼がよく羽織っていたジャケット。

 あの雨の日に濡れて、乾ききらないままの匂いが蘇る。

 指で触れると、まだ湿り気が残っているようにさえ感じられた。

「……忘れてったの? もう、ほんとに……」

思わず頬が緩む。

 涙が滲むのに、笑みが止まらない。

「ふふ……ふふふっ」

 彼はここで眠り、ここで酒を飲み、ここに服を置いていった。

 すべてが、二人で生きている証だった。


それからの日々、彼の痕跡は少しずつ、けれど確実に増えていった。

 玄関には彼のブーツが並んでいる。

 タバコの吸い殻が、毎晩新しいものに入れ替わる。

 冷蔵庫には私の買った覚えのない炭酸水が置かれていた。

 そして夜、寝る前にふとベッドへ目を向けると、必ずそこにもうひとつの凹みがある。

私はもう迷わなかった。

 彼は、いる。

 ここに、私と一緒に生きている。

 誰がどう否定しようと、この部屋にある証拠の数々が、揺るぎない真実を教えてくれる。

「ねぇ……見て、全部。あなたの跡ばっかり……ふふっ。ずっと一緒」

 声に出して笑う。

 返事はなかった。

 でもいい。返事なんかなくても、私は知っている。

 彼はここにいる。私の隣に、ずっと。

それからの日々は、確かな重みを帯びて過ぎていった。

 朝になれば彼の靴音が残り、夜になれば彼の煙草の煙が揺れる。

 私の部屋は、次第に彼の部屋へと変わっていった。

 冷蔵庫には彼の好物が増え、クローゼットには彼の衣服が掛かり、洗面台には彼の髭剃りが置かれている。

 これは私と彼だけの生活。

 世界のどこよりも幸せで、夢にまで見た毎日。

 誰にも邪魔できない毎日を過ごしている中、夜、二人でお酒を飲むとき、私は時々問いかける。

「ねぇ、本当にここでいいの?」

 彼の声が耳の奥を撫でる。

『いいに決まってるでしょ』x

「じゃあ、ずっとここに居てね」

『もちろん。君とならずっと』

 私は頷き、笑う。

 そのやり取りを繰り返すうちに、私の世界はますます彼で満たされていった。


 それからというもの、時間の流れは加速し、私は常に彼と共に過ごした。

 過去のどの時間よりも濃密に、その思い出よりも鮮やかな毎日だった。


気が付くと十一月も残り数日。

 街はクリスマスの飾りに彩られ、人々は忙しそうに足早で進む。

 けれど私の部屋は、外の光に背を向けるように暗かった。

外の明かりに吸い寄せられて彼が出ていかない様に。

私は彼だけを見つめていたかった。

テーブルの上には、二人分の食事が並ぶ。

 焼きすぎた魚。冷めかけたスープ。

 それでも、私は真剣に皿を整える。

「ごめんね、今日は少し焦がしちゃった」

 向かいの席で彼が笑って「大丈夫だよ」と言っているように思えた。

 私は安堵して、グラスを持ち上げる。

「お待たせ」

 グラスを打ち合わせる乾いた音が響く。

 しかし揺れたのは、私の手に握られた一つのグラスだけだった。

 翌朝。

 カーテンを開けると、窓の外は雨だった。

「急に降って来たね。雨、大丈夫だった?」

 私は彼の髪を拭く。宙で踊るタオルは空しく空を切る。

 指先にはタオル以外なんの感触も無いが私は笑う。

「今日は一日、家にいようね」

冷蔵庫の中は、もうほとんど空だった。

 残った食材を無理に並べ、なんとか二人分の料理を用意する。

 小さな肉片を分けて皿に盛ると、私は自然に声をかけていた。

「え? 多い方くれるの?」

 向かいの皿は、誰も手を伸ばさない。

 それでも私は安心した。

「うん、ありがとう。やっぱり優しいね」

 夜になり、ウイスキーを注ぐ。

 氷が音を立て、琥珀色の液体が満たされる。

 もう一本、同じグラスを作り、テーブルに置く。

「はい、どうぞ」

 誰も受け取らないグラスに向かって、私は微笑みかける。

 壁にかかったカレンダーは十一月のまま。

 赤く丸をつけた幾つもの日を、私は指先でなぞる。

「ふふ。全部大事な日。私たち、十一月に好かれてるみたいだね」

 返事はない。

 けれど、確かに頷く気配を感じる。

 そのたびに胸が熱くなり、涙が滲んだ。

ポケットには、あの時貰ったハンカチがまだ入っている。

 匂いはもうない。

 けれど、柔らかさだけはあの日のままだ。

 指で撫でながら、私は繰り返す。

「ねぇ、明日はどうしようか」

 小さく呟くと、かすかな声が胸の奥で答える。

『……君と一緒ならどこでもついていくよ』

そうして夜は過ぎ、また朝が来る。

 朝食を作り、洗濯をして、掃除をする。

 隣の椅子には誰も座らない。

 それでも、私は二人分のグラスを並べる。

「何しよっか?」

 返事はない。

 けれど沈黙の中に彼の声を確かに聞いた。

 そう思い込むたび、私は安堵する。

 やがて冬が近づき、街の灯りはますます眩しくなる。

 だが私の部屋は、昼も夜も変わらず薄暗いままだった。

 無音の部屋に雨の音が響く度に私は必ず言う。

「雨大丈夫だった?」

 タオルで空気を拭きながら、笑う。

 それを何度も、何度も繰り返す。

 夜が更ける。

 テーブルの上には二つのグラス。

 片方は空のまま、氷が溶けて水になっていた。

 私はそのグラスを見つめながら囁く。

「ずっと一緒に居ようね」

答える声はなかった。

 けれど私は頷き、微笑んだ。

私だけがその返事を聞くことが出来ればそれだけでいいから。

この作品は朗読会、Lunask Act2で使用した台本です。


朗読動画、配信にご利用いただいて問題ございません。


その際は概要等に下記の表記をお願い致します。


シナリオ:vurebis(https://x.com/vurebis_)


※ご使用される際、私に報告等は一切必要ありませんが、教えていただけますと全力で応援させていただきます!

※自作発言等はご遠慮ください。

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