第8話 香りがほどける
第8話 香りがほどける
戦場は、今日も変わらず騒がしい。
金属の擦れる音。
怒号。
遠くで何かが崩れる重たい響き。
エリスは、その中を歩いていた。
視線が集まるのは慣れている。
赤い髪は、戦場では嫌でも目立つ。
進路を塞ぐ者はいない。
正確には――誰も塞ごうとしない。
味方であっても、わずかに距離を取る。
敵であれば、判断を誤って引く。
それが、いつものことだった。
「……ねえ」
隣を歩くソフィアが、声を落とす。
銀の髪が、鎧の肩口に静かに触れている。
「今日は、こっちでいいの?」
エリスは肩をすくめた。
「別に。気分」
それ以上の理由はない。
少なくとも、言葉にする必要は感じていなかった。
戦場の端。
瓦礫が重なり、行き止まりになった空間。
そこに――机がある。
長い木の机。
その向こうに立つ、武器を持たない男。
エリスは足を止めた。
ソフィアも、同時に。
「……ここ」
ソフィアが、小さく息を吐く。
理由は分からない。
だが、二人とも同じ感覚を抱いていた。
剣を下ろしてもいい場所。
エリスは、背負っていた小さな袋を下ろした。
「持ってきて正解だったかも」
中から取り出したのは、二つのコップ。
どちらも木製だ。
だが、戦場で見かける粗雑なものとは違う。
薄く削られ、縁はなめらかに整えられている。
側面には控えめな彫り模様。
手に取ると、指にやさしく馴染む。
可憐で、少しだけ洒落ている。
「それ、どこで?」
ソフィアが尋ねる。
「……これしかなかったの。戦場には似合わないけれど」
何気ない口調だった。
誇るでもなく、説明するでもなく。
エリスは、机の上にそっと置いた。
音は、ほとんどしなかった。
男は、何も言わない。
視線も、反応もない。
ただ、そこに立っている。
エリスとソフィアは、
机の前にあった椅子に、自然な動作で腰を下ろした。
誰かに断る様子もなく、
躊躇もない。
そこに座るのが、
当然であるかのように。
ソフィアが、静かに声を漏らす。
「……私たちの、手が」
「ええ」
鉄を握り、
骨を砕くために鍛え上げられた指先が、
今はただ木の温もりを確かめるためだけに存在している。
隠しようもないほどに、ただの幼い女の手だった。
それを自覚した瞬間、
エリスは恥じるように俯き、コップの縁に唇を寄せた。
鎧の重さを、ほとんど感じない。
背筋を張る必要もなかった。
「……落ち着くね」
思わず、そんな言葉が漏れる。
エリスも、隣で深く腰を預ける。
「でしょ。嫌になるくらい」
男が、背後のかまどへ向かう。
火を起こす手つきは、
急ぎも、気負いもない。
湯が注がれる。
エリスの前に置かれたコップから、
かすかに湯気が立ち上った。
何も入っていない。
香りも、色もない。
それなのに――
エリスは自然と、両手で包むように持っていた。
「……あ」
ソフィアが、小さく声を漏らす。
驚きではない。
確認するような音だった。
二人は、コップに口をつける。
ただの湯。
それだけなのに、
胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりほどけていく。
ここでは、
恐れられない。
期待されない。
強さを証明しなくていい。
ただ、座っているだけ。
エリスは、机の向こうの男を見る。
「ねえ」
男は顔を上げた。
「ここ、壊れないよね?」
問いの形をしているが、
答えを求めてはいなかった。
男は、少しだけ首を傾ける。
エリスの問いに、俺は顔を上げ、ただ机の端を指先でなぞった。
「壊れない」という約束などできない。
だが、壊されるまでは、この机は水平であり続ける。
「……狂いはない」
俺が答えたのは、それだけだった。
ソフィアが、静かに笑った。
「十分だね」
エリスも頷く。
戦場では、
二人は《紅と灰》と呼ばれている。
恐怖の象徴。
切り札。
王都から来た、化け物。
だが、ここでは違う。
椅子に腰を下ろし、
木のコップを両手で持ち、
湯を飲んでいるだけの、
ただの女の子だ。
エリスは、もう一度だけ湯を飲み、
「また来る」
そう言って、立ち上がった。
断定だった。
ソフィアも、同じように立つ。
去り際、
二人とも振り返らなかった。
だが――
ここがあることを、
もう疑ってはいなかった。
戦場の端に、
香りのない湯と、
戻ってしまう場所がある。
それだけで、
今日は、十分だった。
今日は、十分だった。
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