第25話◇濃すぎるコーヒーを薄めるようなバランサー
淹れたばかりのコーヒーは舌に熱くて、濃くて、俺はゆっくり、ちびちびと飲み進める。
そうしていると、必要になると既に見越していたかのように、サッとミルクが入ったポットとスプーンが出された。
「無理せずに薄めとけ。俺はこっちで薄めるけど」
言いながらはるとくんが自分のために出したのはお酒のボトル、それはウィスキーだった。
たらりと目分量でカップに垂らされたそれは、また違った特有の香りを立たせながらコーヒーと混じり合った。
それはとても大人な感じがする。
「……一応、俺も成人してるんだけど?」
「帰れなくなるだろ。あと、弱ってるガキには飲ませな~い」
やっぱり、ずっとお子ちゃま扱いをされているような気がする……。
けれども、この場で酔い潰れて迷惑をかけるわけにはいかないというのは確かだし、俺が弱っているというのも事実。
だから俺は黙って従って、ミルクをカップに注いだ。
「宵悟のこと、嫌いになった?」
動揺が指先に現れたために、カチャン、と行儀が悪い音が大きめに鳴ってしまう。
はるとくんが唐突にその話題に触れてきたから。
それは、俺自身があの時はるとくんに訊いたのと、全く同じ問いだ。
だからこそ、はるとくんはあの続きを本気で話してくれようとしているのだと、俺には伝わった。
「っ、その質問、する?」
そして俺が今言われて思った色々なこと、それをそっくりそのまま、あの時のはるとくんも考えていたのかもしれないと、成長した今なら、思い当たることができた。
「教えてあげる、って言ってたからね。……大体、俺が言いたかったこと、分かっただろ?」
感情的な気分になったままカップの中身をスプーンで混ぜ合わせていると、はるとくんは忍び笑いをする。
少し「痛快」って感じに。
だから――俺にそう言われたあの時、はるとくんはちょっとだけ「悔しい」って、思ったのかもしれない。
今、俺がそう感じているのと同じように。
降参するように俺は自分の気持ちを口走る。
「宵悟を嫌いになっては、いないよ。ただ、俺自身が『東雲洸』と『SOLUNAR』についていけなくなっただけ」
実際、俺は過去にやめていった同期の奴らみたいに「宵悟がむかつく」とか「嫌い」とかは思っていない。
比べられたことは辛かったけれど、「宵悟自身が自分と『東雲洸』を比べて何か言ってくること」は一度もなかった。
俺たちを比べて勝手にどうこう言っていたのは、赤の他人だ。
俺が嫌に思ったのは宵悟本人じゃなくて、そいつらだ。
「あいつの隣に立つなら、ちゃんと並び立てる俺じゃないとダメだ。けど、他にしてみたいことができた時点で……」
そしてそう思って、自分で自分を追い詰めた。
だから、宵悟の影響は確かにあったけれど、ここまで煮詰まってしまったのは、俺自身の責任の方がもっとでかい。
無理してでも時間を作って趣味のための写真に取り組む時間を捻出したり、個人の仕事としてやってみたいともっとプレゼンしたりしていた方が、メンタルの逃げ場を作れていたのかもしれない。
……それも、落ち着いた今だから考えつくことだけれど。
「一人っきりでもどんどん前に進める奴、なんだよな。宵悟は。そら、隣にいるとプレッシャーかかりそう」
はるとくんはあえて宵悟を悪く言う。
俺の中の宵悟への感情を煽る言い方をする。
同期の奴らも、最初はこんな感じの言い方から、やがて宵悟への疑心暗鬼と怒りの気持ちに、段々と移行していった。
けれども、「だとしても」と俺は否定する。
「や、でも宵悟はそれでよくて、ブレーキなんていらなくて」
「そう思うよな~!!まぁ、分かるわ。宵悟はそれでいい」
はるとくんは、ちゃんと分かってくれていた。
俺がそう判断したことも、「宵悟はそれでいいんだ」ということも。
この人も、かつて「SOLUNAR」だった人だから……。
沈黙が落ちた。
静けさに耐え切れず、俺は手元の「カフェオレになってしまったもの」を飲む。
濃さも温度もブラックの時よりずっと飲みやすくなっていて、美味しかった。
優しい味がすると思った。
ほんわかオレンジ色の照明。
それに染まったカップやミルクポットの白さ、ガラス、ステンレスのスプーン。
カウンターの木目。
ソファーの黒革。
コーヒーとウィスキーの香り。
俺と同じく黙っている目の前のはるとくんの、衣擦れや呼吸の気配。
カップの中を混ぜる二人分のスプーンの音。
この空間の全部、何もかもが、柔らかく俺を包んでくれているような気がした。
店の前を車が通っていく音と振動。
外のそれさえも、心地いいBGMに思えた。
「俺の場合はさ」
次に口を開いたはるとくんは、周囲のこの雰囲気を壊さない、とても静かな話し方だった。
「オフに自力で生豆炒ってコーヒー淹れる、ってのが楽し過ぎたのと、あの時点で全力出し切って芸能人生は満足しちゃってたから、もういいか~ってなっちゃったんだけど」
俺はアイドル時代のはるとくんが「癒しと落ち着き系の美声」とファンの人に言われていたことや、あるアニメの一話にメンバーのうちただ一人だけが、ゲスト声優として呼ばれていたこともあったと思い出した。
活舌がしっかりした、聞きやすくて説得力がある響き。
あの時は「何ではるとくんだけが?」とよく分かっていなかったけど、この人は「そういう声の力」の持ち主だったのだ。
「だから、俺の中であの頃の思い出は、全部キラキラしたままなんだ。いい感じに区切りがついた。俺は。ファンの人はどう思ったのか、知らないよ?怒った人やガッカリしたって人もいただろうね。でも、これは俺の人生だからなぁ……」
やめた自分自身への後悔はなさそうだったのに、はるとくんはファンのことを口走った時だけ、心苦しそうに眉間にしわを寄せている。
それは俺たちの意志ではろくにコントロールできないものだから。
「無理して続けてたら、きっとお前たちにとっても良くなかった。お前らコンビの方が面白いんじゃないかって、俺ら三人とも思ってたんだよ。実際すぐデビュー決まったしな」
俺と宵悟がのん気にはしゃいでいた時も、先輩たち三人はそういうことを考えて仕事していたのだ。
「ただ、もう少し、やめた後も電話とか会ったりとかしてやるべきだったかもとは、ずっと思ってた。良かれと思ったはずが、まさかファンの間であんなに、なぎこう二人のグループ移籍の話が大ごとになるなんて、思ってなかった」
そしてはるとくんは、事務所から出ても俺たちメンバー四人全員のことを案じてくれていたのだと、ようやく知った。
「あいつらも心配してた。ちゃんとバランサーになってやれる奴が周囲にいたら、きっともっと長く……。そこまでは気付いていたのに、対応できなかった。それは、悪かったな」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。
やっぱり子供扱いだ。
「先輩たちが謝ることなんて、何もないよ」
俺は頭を横に振る。
本当はそこまでお世話されなくても、二人できちんとできているべきだったのに。
はるとくんはもう事務所をやめていたんだし、こうしろうくんもなぎくんも自分のグループを率いている立場で、俺たちどころじゃなかったはずだ。
心配かけたんだな、現在進行形で心配させてるんだな、と申し訳なくて。
でも、気にかけられていることが後輩として嬉しくもあった。
「五年以上経ってくるとさ、周囲に当時の俺を知らない人が増えてくるんだ。少し寂しくて、でもホッとするんだよな」
確かに「寂しそう」な笑顔で続けられたその言葉は、はるとくんのここ最近のストレートな気持ちなのだと思う。
視線は手に持ったカップの中身に、じっと静かに注がれている。
「でもそこでホッとする気持ちが、寂しいとか悔しいとかいう気持ちよりずっと上回ってしまう人間は……きっとあの世界では、長くはやっていけないんだろうな」
それはとても重い実感がこもった言葉だと感じた。
確かに、今の俺も、悔しさよりホッとしている方が強い……。
「俺は、お前の決断も悪くないと思うよ。たくさん考えた結果だろ?なら、いいよ。俺は許すよ」
「うん」
俺が大きく頷いてみせると、ふっと吹き出す感じで、はるとくんは笑った。
そういうところだぞ、って顔で。
「そこはあえて『別に他の人の許しとか、いらない』って意地張って言って、やりたいように貫くところ」
言い切ったはるとくんは、とても美味しそうにカップの中の液体を飲み干す。
この人は実際に、「これをやりたい」と胸に抱いていた決意を実現させたんだ。
「洸は、次にしたいことあるの?」
そういう人に問われると、俺のこの「写真を撮りたい」という気持ちは、まだ「ふわっとした漠然とした夢」でしかなくて、少し恥ずかしい。
「……ある」
けれども、俺は宣言する気持ちで言う。
もし、この人みたいに、「写真家になる夢」を現実にできたら。
そしたら、少しは誇れる自分に近づけるかもしれない。
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