第24話◇元アイドルと喫茶・琥珀糖
カーテンの隙間から部屋の奥に向けて、ライン状に明かりが差している。
クーラーを入れて寝たから、寝苦しさはなかった。
ただし、光線がたまたま腕にかかっていた、その部分だけは、じりりと熱っぽい。
喉がひどく乾いていた。
季節はもう夏になりかけている。
「う……」
重い体を引きずるようにして起き上がった。
ただでさえ寝起きが悪いのに、夢のせいでますます体の動きが遅い。
……久しぶりにあの頃の夢を見た。
記憶は色褪せない。
アイドルだった頃の夢。
そして、カメラに興味を持ち始めた頃の夢でもあった。
はるとくんと、柚木さん。
アイドルを止めた先輩と、カメラの道の先輩。
懐かしい。
二人とも、どうしているだろうか。
枕元、並べて置いているスマホとカメラを見る。
あの時買ったこのカメラはごく普通のデジカメで、今ではもっといい新製品が出ているかもしれない。
写真家になりたいと考えているのなら、もっと機能が充実した、より適したカメラもあるのかもしれない。
「こだわり……」
口走った、その声は掠れていた。
カメラに関するそれは、まだない。
カメラや写真に関する単純な好みだけはあるけれど、技術的なことや自分なりの作風に繋がること、テーマ的なことに関わる「こだわり」に関しては、これというものが見つからない。
たとえ柚木さんや山田さんと運良く会って話す機会が得られたとしても、何を聞くべきかも分からないでいる。
ただ。
はるとくんには、そろそろ会いに行けるかもしれない……。
あの時の約束を果たしてもらうために。
けれども、連絡先は分からなかった。
グループで一緒にいた頃、はるとくん本人から教わっていたはずのスマホの番号は、いつからか繋がらなくなってしまったからだ。
「はるとくん……何やってるんだろ、今」
こういう時は、ネットで検索するのが一番早い。
検索欄に打ち込むのは、とざかはると……「戸坂悠人」。
「はるとくんも、本名だったからな……」
本名で芸能活動なんて、プライベートも何も、あったもんじゃない。
何で何も考えずにそうしていたのか。
だから、今の俺は改名した。
いっそ別人になりたかった。
けれども、さっきの夢は「どんなに改名しても、結局、過去は捨てられないんだ」という現実を、俺に突きつけてきていた。
それを受け入れるしかないのが痛かった。
望みの情報はすぐに引っかかってくる。
インスタグラムのアカウントが発見された。
検索しただけで難なく辿り着いてしまったことが、「はるとくんは逃げなかったんだな」という証明のようで、俺よりはるかに肝が据わっていてかっこいい。
そして、喫茶店。
これはお店のアカウントだ。
つまりあれから数年かけて、はるとくんは公言していた「お店を持つ」という夢もしっかり叶えた、ということだ。
本人が今このタイミングで店にいるかは、分からない。
確実にはるとくんが出る保証はないけれど……。
俺は掲載されている店の電話番号に電話する。
ダメだったら諦めるつもりで。
『はい、喫茶・琥珀糖です』
けれど。
耳に響いたのは、とても懐かしい声だった。
名乗っていなくても、すぐに分かった。
変わっていなかった。
つい泣きそうな気持ちになるのを、何とか我慢する。
「あの。お久しぶりです。洸です。はるとくん」
久し振りに、自分から「洸」を名乗った。
意外と、はるとくんに対してだけは、すっと自然に名乗れた。
『ひかる……って、お前、洸!?声変わってるじゃないか!!』
こんなふうに昔と変わらないノリのまま話しかけてくれたから、変に緊張して強張っていた肩の力もじわっと抜けていく。
そのおかげで、泣き声の形で出てしまいそうだった声色を、少しだけ笑いに変換することができた。
「……もしかして、はるとくんの中の俺の記憶、中学生のままで止まってる?」
『いやー、ははは。悪気はないよ。ただ俺の中で、当時の記憶が異様に色濃いだけ。だから、そう拗ねるなって』
敬語を無くすと、とりわけ子供っぽい言い方になってしまっている。
証明するように、「拗ねるな」と笑われてしまった。
『で?どうした?』
この言い方こそが、既に「ちっちゃい子」扱いだった。
はるとくんとは三歳以上離れているため、当時の先輩メンバーには、そのくらい俺と宵悟は子供に見えていた、ってことなんだろう。
全くあの当時のままの、はるとくんらしい「お兄ちゃん仕草」だった。
もう成人してるのに俺、と内心憤慨しつつも、用件を伝えることにする。
その用件自体が子供だった頃の続きでとんでもなく幼いせいで、「もう逆に年下らしく頼ってやる」と開き直る。
ぎゅっとスマホを強く握って、俺は伝えた。
「話、聞きに行きたい。あの時、大きくなったら聞きにおいで、って言われてたから。約束守ってよ」
ちょっと拗ねた声になってしまったのが癪だけど。
「もう子供じゃないから、ちゃんと俺はあの時の話の続きを聞けるんだからな」という、この態度自体がとことん子供っぽい。
『大きく……?あっ、ああ!!なんだ、あれのことね!!そうかそうか、いいよ。じゃあ店においで』
はるとくんは快く了承してくれた。
スケジュールを聞き合った結果、早速、今日の閉店後に店舗内で会うことになった。
◇
スマホで経路を確認しながら訪れたその店は、午後八時過ぎの夕闇の中、ほんわりと光ってその存在を伝えていた。
ドアを押し開けると、チリンチリンと鈴の音が響き渡る。
「ああ、洸か。好きに待ってて。閉店作業終わらせるから」
俺に声をかけながら、手早くカップを棚に片付けたと思ったら、はるとくんはそのまま外に出て行った。
アイドル時代、俺もはるとくんも、「喫茶店の店員」の衣装は何回も着ている。
けれども、黒シャツに黒のスラックスに黒のエプロン、というごくシンプルなその制服は、過去のどんな衣装よりもしっくりと、はるとくんに馴染んでいた。
腕まくりをしていて、エプロンはあちこち濡れている箇所もあって、たぶん、俺が来る前は洗い物をしていたんだろう。
どこから見ても立派に「喫茶店の人」でしかなくて、それだけの時間がはるとくんをすっかり変えたのだと理解した。
俺はぐるりと、今のはるとくんの居場所を見回す。
そんなに大きな店ではない、席数も多くはないけれど、木のカウンターやテーブル、どっしりとした黒の革張りの椅子が、とても落ち着いた雰囲気だった。
店内の照明の光も柔らかいオレンジみがある色に統一されていて、温かみがある。
と、外が先ほどより暗くなった。
はるとくんがドアの横の照明を落としたからだ。
そのまま店内に戻ってきたと思ったら、通りに面した窓のカーテンをしっかりと閉めていく。
そうすると、いよいよ店内は外の世界と切り離された空間になったように思えた。
漂うコーヒーの匂いのせいもあって。
「琥珀糖は本日の営業を終了しました。ガラガラガラ~」
なんてシャッターを下ろす音を表現して、そのくせ、俺の目の前に氷水を置く、はるとくん。
それはお客さんの扱いで。
「何か飲む?まぁ、俺が飲ませたくて用意してるコーヒーしか出す気ないけど。それ以外はもう片付けちゃったからなぁ」
なのに、あっという間にお客さん扱いは終了した。
それは店員じゃなくて、あの頃同様の「年上の先輩」の顔だった。
「だったら、聞く必要あった?」
「たとえ建前でも、聞かないより聞いた方が、俺のまともな人っぽさが上がるだろ?うちのブレンド、淹れてやるから」
懐かしい。
軽口もあの頃のままだった。
だけども、俺もはるとくんも、ずいぶんとあれから変わってしまった。
はるとくんは、きっと色んな報道で、俺がアイドルをやめた経緯を知っていた。
でも、それについて興味本位に話を聞いてくることはなかった。
豆を挽くところから始めようとしている手元をよく見るために、俺はカウンター席に陣取る。
こんなふうに「ちゃんとしたコーヒー」を飲ませてもらうのは初めてだ。
大人になったような気がする――いや、もう大人のはずだけど。
「二人だけだから、ミルは手動ね。ほら、挽け」
突然、命令と共に目の前に差し出された、上部にハンドルがついた謎の器具。
淹れてくれるんじゃなかったのか、という視線で俺が見返すと、飄々と言う。
「はるひかも、たまには悪くないだろ。そのハンドル回して」
はるひか。
「はると」と「ひかる」だからと、あの頃ファンの人たちが俺たちをまとめて言っていた呼び方。
宵悟との完全二人体制になってからの「SOLUNAR」ファンは、そういう言葉があったことも、知らないかもしれない。
仕方なく、俺は黙ってグルグルとハンドルを回した。
ガリガリと響いて聞こえる音と、ハンドルを握った手に伝わってくる振動、そしてひときわ強くなった香りは、豆が挽かれている実感を俺に伝えてくる。
「はい、そのくらいで。貸して」
はるとくんがミルの下部の引き出しのような部分を開けると、また一段階強く、俺の鼻に香りが届いた。
いい匂い……。
俺が少し心地よさに惚けているうちに、はるとくんは手早くドリッパーにペーパーフィルターをつけて、その引き出しの中の豆をフィルターに入れる。
そうして、ガラス製のコーヒーサーバーを素早くセットした。
いつのまにかコンロにかけられていたコーヒーポットのお湯はタイミング良く沸騰していて、その先端が細い注ぎ口から、少量のお湯が豆に向かって注がれる。
途端、水分を含んだ豆が大きく膨らんで、一気に匂いが立った。
香りは瞬く間にこの空間の中を満たし始めた。
はるとくんの、ゆっくりゆっくり、少しずつ追加のお湯を注ぐ手つきはとても丁寧で、一瞬の集中の乱れも許さない。
俺も引き込まれるように集中してその作業を見つめた。
黒に限りなく近いこげ茶の、濃い色合いのコーヒーはゆるやかにサーバーを満たしていく。
それと同時に、漂う香りもますます濃密になった。
店のロゴが入ったシンプルな白のカップに、コーヒーが注がれる。
はるとくんは二つのうちの片方を俺の前に置いた。
「どうぞ」
言い終わるや否や、俺がグズグズしているうちに先にカップを手に取って、水面を揺らすようにしながら検分する。
「……うん。店でいつも使ってる同じ豆なのに、ミルを変えて洸に挽かせただけでこんなに違う。普段出してるやつより細引きになってるから、だいぶ濃いな。コーヒー、おもろ」
カップを覗き込んだり、匂ってみたり、飲んでみたり。
興味深そうに確認しているあたり、はるとくんは本当に好きでこの店をやっているらしい。
「当時、仕事が会心の出来だった時にしていた、あの表情」をしている。
俺も、飲んでみることにした。
「っ、濃い、けど、飲める。飲みやすい」
確かに普段飲んでいるコーヒーよりも、それはずっと濃くて重い味をしていた。
けれども、味は悪くないと感じた。
「まーね。一番のおすすめだから」
はるとくんはニッと得意げに笑った。
お金をもらってその仕事している人が持つ特有の、確かな自信に満ちていた。
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