第六章(全十二章)
不幸にして絶望の底を経験してしまった者は、その経験の中に生きる義務を持つ。
:プリーモ・レーヴィ(作家、アウシュヴィッツ生還者)
《二〇〇八年 京都》
「その『女性性』の臨床心理士ははっきり言ってひどい。そんな人の所によう三年も通ってましたな。いやもちろん、個々の診療者によって考え方やら方針があるわけですから、ぼくがとやかく言うべきではないかもしれんが、ピンクの服着たら生理痛が治るやなんて何の医学的根拠もないし、少なくともあなたは自分と合わへん人とばかり当たったんや」
丸刈りに近い頭とどちらかというと瘦せ型の体形のせいか、禅僧のような印象を与える四十前後の精神科医はそう断定した。
「さあ、どうぞ、話して下さい」
福知山市にある病院の診察室の椅子に座ると、田淵医師はいつもそう言った。多くの精神科医は五分、ひどい時は二、三分話を聞いて、薬を出して終わり、と言われるが、田淵は違った。後がつかえて大変なのに、時には自分の昼休みを返上してまで、一人何十分も話を聞いてくれることもあった。
「なるたけ薬を使わない方がいい」と考えているようだった。ひたすら患者のくだくだしい話を聴いて、聴いて、でも、自分の見解や感想も語る、そういう先生だった。「対話こそが精神科医療だ」「人は自分の思いや経験を言葉にして、他者からフィードバックを貰うことでしか癒されない」と考えていたんじゃないかと思う。
「ぼくも勉強になります」「自分の知らない世界の話を聞けておもしろいです」と言ってくれたこともあった。
「その時わたしが文芸サークルのBOXに行ったら、みんながわたしを見る目つきが前と全然違ってて、わたしを除名決議したって溝黒が言ったんです。わたしが『嘘!議事録を見せなさい』と言ってサークルのノートを持ったら、溝黒にバッて取り上げられて・・・・」
思いがけず、もう九年も前になるその時の光景や感覚や溝黒の声色が昨日のことのように、いや、今この場のように、ありありと蘇り、呼吸が苦しくなった。背中が痛んだ。
「大丈夫ですか!?看護師!メイラックス準備!」
田淵は自らも椅子から身を浮かしながら、奥に向かって叫んだ。
「大丈夫です。看護師さんは呼ばなくてもいいです」
わたしはどうにか自力で息を整えながら制止した。田淵はわたしを気遣いながらももう一度椅子にかけ直した。
「しかし、大学でそんなひどいいじめのようなことがあるなんて。いや、いじめそのものやとぼくは思いますね。それで結局中退まで至ったことは、十朱さんにとって一生の痛手になったと思います。その学生は何か処分とか受けなかったんですか?」
わたしは首を振った。
「いいえ。処分なんて受けてないと思います。わたしを殴って怪我をさせたとか、何かを盗んだとか、器物を破損したとか、あんまり言いたくないですけどレイプとか、そういう刑法に触れるようなことなら処分された可能性はありますが」
「そうですか。悔しいですね・・・・。でも、名誉毀損、侮辱いうのも刑法であるんやけどな」
田淵は首を捻る。
「それどころか、溝黒は順調に京都大学の大学院に進学して、最近、崙山大学の常勤講師として働き始めたみたいです。彼は学部時代から優秀でしたから」
田淵は少し驚いていた。
「何年か前、やっぱりあいつがどうしてるか気になって、ネットで『溝黒正』と検索して、京大大学院で論文を発表してることを知りました。それ以来、数ヶ月に一回は検索するようになりました。
あいつが学者として成功してて、二十代で母校の教員になって、他の先生との共著だけど本も書いてる。わたしや母の好きな『サウンドオブミュージック』の研究書です。崙山大学の西洋文学科にはナチスドイツ研究の先生がいるし、溝黒は入学前からナチスに詳しかったから。
そこへ行くとわたしは、大学を出て作家になることを夢見ていたのに、中退して近所のスーパーのレジ係になってしまった。正直、悔しくてたまりません」
「そうですね・・・・十朱さんはそれはそれは悔しいでしょうね。ぼくとしても慰める言葉もありません」
田淵は顔を曇らせ、深い同情を込めてわたしを見つめた。
「地元のスーパーで働いてると小中高の同級生と頻繁に会うからそれは嫌です」
昨日も、高校の同級生の礼二が弁当とお茶を買いにきた。
「十朱やん!久しぶりやな。おまえ勉強できたのに、なんでこんなとこにおるん?」
作業服を着た彼は悪意なく言った。高校時代からつきあっていた同級生の亜里沙と結婚して、既に三人の子持ちだと聞いていた。
「まあ、色々あるわな。元気でやれや。おまえ別嬪なんやから、はよ嫁行けよ!」
わたしの名札がまだ旧姓のままの「十朱」なのを目敏く見つけたのか、彼はそう明るく言って去った。
「溝黒いう子は、まあ、もう『子』って年やないな、今は崙山大学で教えてるその男、十朱さんの才能やら性格やら存在感、正義感の強さが脅威やった、嫉妬してたんと違いますか?『源氏物語』の話聞いてたらぼくはそんな感じがしたけどな。そんな人間の言うことは、十朱さんには何の関係もない。気にする必要はない」
田淵はきっぱりと言った。わたしは胸が熱くなり、涙が込み上げそうになりながらも、でも、わたしが大学を中退してフリーターになった事実、溝黒が京大大学院に進学して研究者として活躍している事実、過去はどうあれ今はわたしが溝黒に嫉妬している事実は厳然として変わらないことに絶望していた。
「この間秋葉原で若い男の人が七人の人を殺した事件があって、わたし、その人の気持ちがわかる気がしたんです。家庭の事情で大学に行けへんで、派遣の仕事しかなくて、インターネットで知らん人と話すことが楽しみやったけど、そこでも自分の言葉がみんなに届いてへんような気がして、それで自棄になって」
駆け付けた警察官に取り押さえられ、血だらけで震えている彼の弱々しい姿を通行人の携帯カメラが捉えていた。眼鏡を掛けた、色の白い、大人しそうな青年だった。報道された写真は溝黒に少し似ていた。わたしが彼だったかもしれない、とその時思った。
田淵はくるりと椅子を回転させてパソコンの画面から向き直り、じっとわたしを見つめた。
「ぼくはね、十朱さんはそんなことはせえへんと信じています。でも、もしも自分や他人を傷つけたくてどうしようもなくなったら、すぐこの診察室に来て下さい。電話でもいいです。言葉でぼくにぶつけて下さい。もしぼくがおらへんかったら、どうかぼくが出勤する日まで待ってて下さい」
わたしは声を上げて泣いた。
大学を辞めたこと自体は後悔していなかった。その時はそれが自分の心を守るために必要な選択だった。
「行かなかった」のではない。「行けなかった」のだ。二〇〇八年、わたしは三十歳になっていたが、まだ京都コンサートホールや府立植物園のあるあの辺りに近づくことさえできなかった。地下鉄烏丸線に乗ることもできるだけ避けていた。そこに行けば溝黒に出くわすかもしれないと思ったからではなく、たとえ溝黒が崙山大学の教員になっていなくても、また、なっていることを知らなくても、同じだったと思う。
大学を辞めたことを悔やんだのではなく、「行けない」状況になったことが悔しかった。大学を卒業していれば幸せになっていたとも思えないが、中退がしたくて大学に入る人は一人もいないだろう。溝黒と出会っていなければ少なくとも、中退はせずに済んでいたと思う。
文芸サークルに入らなければよかったのだろうか。でも、書くことはわたしにとって大切なことだった。
「ぼく、十朱さんが高校時代に書いた小説、『静寂の海』でしたっけ、読んでみたいな。十朱さんはそれだけものごとを突きつめて考える力があって、書物に著す力もあるんですから、充分人生を楽しんでいらっしゃる、或いは、楽しむ力があると思いますよ」
長く続いた通院期間の終わり頃、つまり田淵が転勤になる直前、そんなことを言ったことがある。
「いやー、勘弁して下さいよ。子供の時に書いたものですから。幼稚なお話で」
その頃になると、わたしもすっかりリラックスして、左手で鼻を擦り上げ、笑いながら、友だちに話すように言った。
「そういえばぼくの思春期も、ギター弾いてる内に終わってしまいましたね。もしかしたら、まだ終わってないかもしれません」
田淵は首を傾げてそう言った。多分、院長が代わり、新院長の利潤優先の経営方針に合わなかったのだろう、とわたしは勝手に想像している。
《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》
「イルシェナー、哲学と道徳と政治の違いは何だと思う?」
ザイサーが問う。木立の中に分け入ろうとするリンデマリーの首に着けた紐を持って牽引しながら、上目遣いにイルシェナーを見返る。
「はあ。哲学と道徳と政治の違い・・・・」
イルシェナーが絶句していると、
「まあいいって。これは君みたいな格好ばかり構ってる色男には不向きな質問だったよ」
ザイサーは素っ気なく言って、木洩れ日が落ちる中、総統官邸の広大な庭に敷かれた小道をリンデマリーと共に歩き出す。イルシェナーは従う。シャルギエルの脱獄を報告するため総統官邸を訪れたイルシェナーは、ザイサーの日課であるリンデマリーの散歩につきあわされていた。耳の立った黒い雌の大型犬である。
「『善とは何か、悪とは何か』を追究するのが哲学。善を為すよう奨励するのが道徳。道徳の実践や応用、つまり制度化を担うのが政治。但し、哲学者も道徳家も、時の政治的権力の影響を全く受けずにはいられない」
ザイサーは独り言のように自答して、足元に来たリンデマリーの頭や首筋を撫でる。
「成程。では、その三者と宗教との違いは何なのです?」
「君にしてはいい質問だね。明快だよ。飽くまで人間の知恵や力で何とかしようとするのがその三者、最後は神秘に委ねるのが宗教。ついでに言えば、どっちつかずで中途半端なのが心理学だ」
ザイサーは浅黒い頬に笑みを浮かべた。リンデマリーが喉の奥で甘えた鳴き声を立てた。
「さすがに、いつもながら総統の洞察は素晴らしい。しかし、『宗教哲学』『宗教道徳』といった言葉もありますな」
「時の政治的権力の影響を全く受けずにはいられないだろ?」
ザイサーは眉を上げ、剽軽とすら形容できる口ぶりで語った。
「あの、総統、話は変わりますがシャルギエルのことは・・・・」
さっさと先を歩いて行くザイサーとリンデマリーに追いつこうと足を速めながら、イルシェナーは喰い下がる。
「またあいつの話かい。逃げたのはもうわかったよ。君はやたら奴に執着するな」
「あいつの偽善的な正義漢ぶった面が大嫌いなんですよ。あの超然とした空色の目。何でもお見通しですみたいな顔しやがって」
イルシェナーは毒づく。ザイサーは軽く苦笑する。
《一九三五年 ベルリン》
オスカーは空色の目をうんざりとして細める。
「神は何でもお見通しだ!」
壮年の牧師は説教台をドンと叩いて目を剥き、会衆を睨めつけ、一人一人を指さした。
ヒトラーかよ、とオスカーは心の中で揶揄した。
「そうです!ヒトラー総統は神の使者だ!」
ちょうど牧師と目が合い、指さされて、オスカーはそれとわからないくらいに首を竦めた。
「キリストの再来だ!我がドイツを栄光の千年王国へ導く!」
ヒトラーが水の上を歩いてきたり、水をワインに変えたりしたら信じてやってもいいけどな。ゲッベルスならそれくらいのイカサマ演出はやりかねんな。
今日は任務でなく私用で、妻エルスベットと娘パウラと三人で、久々に日曜礼拝に出席している。妻のご近所づきあいである。まだ零歳の息子クリスティアンは子守兼メイドに預けてある。
「何だか怖いわ。ビーガー先生、前はあんなんじゃなかったのに」
エルスベットが囁きかける。
ドイツ教会は、ナチス政権に積極的に協力し、キリスト教をナチス・イデオロギーと融合させようとした運動である。一九三二年頃から勢力を拡大し、ナチスの反ユダヤ主義や国家主義を受け入れ、教会を「アーリア化」「ヒトラー化」することを目指した。
一九三三年、ナチスの支援を受けてドイツ福音主義教会(DEK)の指導権を握り、ルートヴィヒ・ミュラーを「帝国主教」に任命、ルーテル派など多くの教会がドイツ教会に取りこまれた。旧約聖書などユダヤ人由来の要素をキリスト教から排除しようとするなどした。
馬鹿馬鹿しい、とオスカーは思う。イエスだって洗礼者ヨハネだって十二使徒だってパウロだってユダヤ人じゃないか。べつに自分はそれほど敬虔な方でもないし、聖書を深く理解しているとも思わないが、ユダヤ人の世界観を理解しなければ新約聖書だって理解できないはずだ。
会衆席の壁際に立っている親衛隊員が鋭い目でこちらを睨んだ。
オスカーは睨み返し、壇上のビーガー牧師を見た。
心なしか、牧師も親衛隊員を気にしているようだった。
《二〇一七年 東京》
「シャルギエル・・・・!」
わたしは女に向かって叫ぶ。その名前を発音するのは実に二十年ぶりだった。
「それはシャルギエルです。わたしが高校の時に書いた小説の主人公です。あなたのことは・・・・よく知っています」
《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》
「シャルギエル・・・・」
イルシェナーは鏡に向かって呟く。
「おまえのことは・・・・忘れん」
《一九三五年 ベルリン》
「ローゼンシュテルン・・・・」
ステラン・ゾーファーブルクは鏡に向かって呟く。
「おまえのことは・・・・忘れん」
あれはおまえだったな。この間の日曜、女房と子供を連れて教会から出てきた。こっちは車の中だったから気がつかなかっただろう。
おまえは覚えているかどうか知らんが、俺は忘れてないぞ。おまえに俺は生き恥かかされたんだからな。
ゾーファーブルクは鏡の前で金髪を整え、親衛隊の制服の上着に腕を通す。
一時間後、彼はベルリンの街を見下ろす事務所に立っている。眼下にハーケンクロイツの旗が翻る。ヒトラーユーゲントの子供たちの楽しげな歌声が遠くで聞こえる。
邪魔なユダヤ人 紅海を渡り
世界各地へ 散って行く
これでドイツは 安泰だ
ゾーファーブルクは煙草に火を点けた。オスカー・ミヒャエル・フォン・ローゼンシュテルンの顔が、あの偽善的な正義漢ぶった面が脳裏に浮かんだが、すぐに打ち消した。奴は古い時代の遺物だ。新しいドイツには、俺のような男が必要なのだ。
彼はゆっくりと紫煙を吸いこみ、黄緑の目を閉じる。
《二〇一六年 京都》
脳裏に誰かの黄緑の目が閃いた気がした。
微かに背中が痛んだ。
誰だろう。遥か昔、そんなキャラクター作ったことあるな。イルシェナーだったか。
そんな小説のことも、ヒトラーやナチスドイツに興味を持ったことも、久しく忘れていた。
蝉の鳴く暑い夏の日、わたしは東京に発つ直前で、京都の高台寺で屏風の前に座っていた。そこでは「百鬼夜行展」という催しが開かれていて、妖怪の絵巻物の他、地獄極楽絵図が多数展示されていたが、圧巻は現代の作家がお寺の屏風に描いた地獄絵図だった。
ひとりでに、涙が流れた。子供の頃、洋の東西を問わず、地獄に堕ちた人の絵は怖くて仕方がなかった。なぜ昔の人はこんなおぞましいものを延々と描いたのかと思い続けてきたが、彼らの心の叫びが伝わった気がした。
「だって、こうじゃないと納得できないよな」
「人に絶望の底を経験させた者は、自らもその経験の中に置かれるべきだ」
って言いたかったんじゃないだろうか。
裸の亡者が引っ立てられてきて、巨大な閻魔大王の浄玻璃鏡で自分が生前に犯した殺人行為を見せられている。浄玻璃鏡に映るのは、人けのない山の中で現代日本のハイカーらしき男が女の背後に近づき、谷底へ突き落とそうとしている光景だ。二人とも笑顔なのが怖い。
この絵の場合、金品を奪い取る目的とも思えないので、出来心や遊び半分なんだろう。或いは二人は夫婦で、保険金目当てか。それとも、笑っているけど男が女を恨んでいる、何らかの感情的な執着があるのか。
永遠に誰にも知られることがない(と思われる)なら、後ろから突き落としたいくらいに憎い人間がいるかと言われれば、少なくともわたしは一人思い浮かぶ。彼は覚えているかどうか知らないが、わたしは忘れてない。
イルシェナーの出てくる小説を書いていた頃に「幽☆遊☆白書」という漫画を読んでいた。その中に「黒の章」というアイテムが出てきた。閻魔大王の治める霊界が保管している資料で、歴史上人類が犯してきた残虐行為を延々と何万時間も記録したビデオテープだ。
「ビデオテープ」という所が今となっては時代を感じるが、当時はとても斬新だと思った。浄玻璃鏡に表される古典的な発想をビデオテープという現代文明の利器と結びつけるなんて。
「歴史上人類が犯してきた残虐行為」というと真っ先にホロコーストが思い浮かぶけど、「黒の章」の真の怖さはそういうことではなくて、「対象側には全く認識不可能でも、ある倫理的基準を持つ人ならぬ何者かが、人には不可能な方法で観察し、全て記録している」ということだと思う。
いのちの書には 世にありし日に
為せしその業を 全て記され
鏡の如くに 思いと業とを
映して示す
【教会讃美歌「終わりの日来たり」日本福音ルーテル教会】