第二章(全十二章)
一隊は H a k e n k r e u z の赤旗を立てつついきぬこの川上に
行進の歌ごゑきこゆ H i t l e r の演説すでに果てたるころか
:斎藤茂吉『遍歴』一九二三
《一九二三年 ミュンヘン》
エルスベット・バンデルは手押し車に札束を積み、街路を行くのに四苦八苦していた。粉雪がちらついているのに汗が滲む。角のパン屋まで、白パン一斤を買うためである。
一九二一年、連合国はロンドン会議において、ヴェルサイユ条約で締結した敗戦国ドイツに課す賠償金額を千三百二十億金マルクに決定。ドイツに対するあまりにも苛酷な賠償条件は国民の生活に大打撃を与えた。
更にフランスとベルギーはドイツの賠償金の支払いが遅いことを理由に、ドイツ経済の中心地であるルール地方を占領した。ドイツ国民はこれに反発し、ストライキなどで対抗したが、フランス軍は投獄や処刑による鎮圧を図り、世界中の非難を浴びた。
ドイツ国民の憎悪は増す一方、ドイツ経済は崩壊寸前となり、ハイパーインフレが発生した。最早紙幣の価値は失われ、マルクは紙屑同然となった。街角ではホームレスがマルク札を焚きつけにして火に当たっている有様だ。
エルスベットの押す手押し車の車輪が舗装の割れ目か何かに嵌まりこみ、二進も三進もいかなくなった。なんでわたしがこんな思いをしなくちゃならないのよ。ええい、それもこれも戦争に負けたせい、そもそも戦争なんかしなきゃいいのに。エルスベットは内心で悪態をつきながら何とか車を動かそうとしたが、札束を山と積んだ手押し車、如何せん娘一人の力ではどうにもなりそうにない。その内札束が地面に散らばって大惨事になることは目に見えていた。
「フロイライン、手伝いましょうか」
声をかけられて振り向くと、自分より少し年上くらいの、背の高い、若い将校が立っていた。黒髪に空色の目と、精悍で野性的な顔立ちやいかめしい軍服にそぐわないどことなく繊細優美な物腰が印象的だったが、その時には何とも思わなかった。この間、死傷者も出た大きなクーデター未遂事件があったばかりだから、官憲がそこかしこで街を警邏しているのだ。
「お願いします。助かりますわ」
国防軍の制服を見て何となく安心したエルスベットは、彼が軽々と車輪を割れ目から外し、札束が崩れ落ちないよう器用にバランスを取りながら車を押して歩き出すのを見ていた。
「あの、もういいです。すぐそこまでパンを買いに行くだけなので。ありがとうございます」
礼を言って、手押し車の持ち手を取り返そうとしたが、将校は慇懃な身振りでそれを拒み、深い湖のような、静かで揺らぐバリトンでこう答えた。
「折角ですからパン屋さんまでご一緒します。昼間とはいえこの時世、女性一人でいると色々大変ですし、危ないですからね」
エルスベットは内心ほっとして、もう一度礼を言い、ただ将校の後をついて行った。
「この間のビュルガーブロイケラーの事件は、一体何でしたの。わたし、新聞も読んだしラジオも聴いたけど、情報が錯綜していてよくわからなくて。軍隊にお勤めの兵隊さんならよくご存じでしょうから、教えてもらおうと思って」
終戦の翌年、一九一九年に制定・公布・施行されたワイマール憲法によって、二十歳以上男女普通選挙制度が敷かれることになった。女性に参政権が与えられることは世界史上初めてではなかったが、ドイツ史上では初めてのことだ。今年選挙権を得たばかりのエルスベットの心は躍っていた。
「それがねえ、ぼくも鎮圧には出ましたが、実はよくわからないんです。ナチスが中央政府転覆を企てた事件であることには間違いないですが」
「まあ、怖い」
「バイエルン州の複雑な内部対立が絡んでいるみたいで、ぼくは最近ベルリンからこっちに異動になったばかりなんで、こっちの事情には疎くて当たり前ですね。でも、今回の件では党員が十六人も死んだし、首謀者のアドルフ・ヒトラーとかいう奴は逮捕されたし、ナチスには活動禁止命令が出たし、ヒトラーの政治生命も終わったんじゃないかなあ。反逆罪は終身刑もあり得るし、少なくとも数年は喰らうだろうから」
将校は楽観的な口調で答えた。
「その方、何をやってた人なんですの。元々この国の人じゃないって聞きました」
「戦前はウィーンやミュンヘンで画家やってたそうですよ」
エルスベットはひどく驚いた。
「絵描きさんがピストルをぶっ放すなんて・・・・。世界を変えたいなら武器じゃなく、絵筆で変えないと」
将校は意外そうに彼女を見た。
「あなた、おもしろいこと言いますね」
「あら、そうかしら」
話している内に、パン屋の店先に着いた。
「それじゃ、これで」
立ち去ろうとした将校の腕をエルスベットは思わず掴んで引き留めた。そして、見ず知らずの男にそんな馴れ馴れしい仕草をしてしまった自分に驚き、しかし、相手が特に不快に思っていなさそうなことに安堵した。
「あの・・・・お名前を教えていただけません?わたしはエルスベット・バンデルです」
将校は輝く碧い目を和ませた。
「美しい名だ。でも、ぼくは名乗るほどの者じゃないですよ。所属は第十九歩兵連隊で、階級は少尉です」
エルスベットは思い切って言った。
「本当に助かったわ。今日のお礼に、お仕事がお休みの時にでもうちにお招きしてお茶でも御馳走したいの。うちは両親と年取ったメイドが一人だけですから、全然気を遣わなくていいんです」
将校は彼女の大胆さに面喰らっていたが、やはり嫌がってはいないのがわかった。やや顔を紅潮させ、照れ隠しなのか、丸めた左手の甲で鼻を擦り上げる少年のような仕草をしてみせた。
「そうですか、それじゃあ・・・・オスカー・ミヒャエル・フォン・ローゼンシュテルン」
《一九二八年 ベルリン》
「あなた、レーテ・ダーレンドルフって方からお手紙が来てるわよ」
この国はあまり、「すっきりと晴れる」ということがないように思われているが、たまにはそういう理想的な五月の日もある。光に満ち溢れた先祖伝来のこの広い家に妻の声が響き渡る。
「変わった名前ね。女の方?」
冗談なのか本気なのか、妻は夕空にかかる三日月のような眉を怪訝そうに顰める。
「何を馬鹿なことを言ってるんだよ」
夜勤明けで家にいたオスカーは妻の手から封筒を受け取り、ペーパーナイフで封を切って彼女の目の前で開いてみせた。尤も、封筒にも便箋にも女手のような細かいきれいな字で丁寧に宛名や本文がしたためられているから、見せたところで同じかもしれない。
「ギムナジウムで途中まで一緒だったけど、『牧師になりたい』と言って神学校に転校した奴さ。未だに何年かに一回手紙が来る、こっちも筆マメだから返事はする、時々ラリーになる、ってだけの仲だよ」
「あなた、よく友だちと長い手紙のやり取りをするのね。そういう所、女の子みたいよ」
エルスベット・フォン・ローゼンシュテルンは快活に笑って、洗濯物を干しに中庭に出た。やっぱり冗談だったらしい。ミュンヘン時代、おまえにも何回か書いただろ、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。オスカーは何となく、窓から見える妻の姿を目で追った。輝くような金髪が初夏の日差しに明るく映えている。
アドルフ・ヒトラーがナチスを率いて武装蜂起したミュンヘン一揆の翌年、父ガルストは心臓発作で、ローゼンシュテルン家の末裔としての六十五年の誇り高い生涯を閉じた。その更に翌年、オスカーがベルリン勤務に戻ることになった。辞令があったことを恋人に話し、求婚すると、喜んで受け入れてくれた。
「家柄が違う」と難色を示されるかと思ったが、大戦で長男を亡くし、夫にも先立たれて気落ちしていた母は、「オスカーがミュンヘンからこんな愛らしい嫁を連れて帰った」「この娘さんがローゼンシュテルン家の跡継ぎを産んでくれる」と殊の外喜んだ。オスカーもエルスベットも、オスカーが子供の頃に過ごしたベルリンの家に母と同居するものと思っていたが、本人のたっての希望でベルリン郊外のマンション型老人福祉施設に一人住まいすることになった。元々鷹揚なお嬢さん育ちの母デスデモナは、友だちも増え、今の生活を大いに楽しんでいるらしい。
結婚して三年になるが、エルスベットはなかなか妊娠しなかった。オスカー自身、父が四十を過ぎてからの子だったのであまり気にしたことはなかったが、考えてみれば上には八歳離れた長子クリスティアンがいたし、クリスティアンを産んだ時、母は二十代だったし、ミュンヘンの幼馴染みやベルリンで新しくできた友だちの妊産報告を受けて妻が複雑な表情をするのを見るのも切なかった。
気を取り直して、エルスベットが手紙と一緒に持って入った朝刊の政治面を見る。「ナチス党首ヒトラー氏、二十日の総選挙に向け全国各地で遊説」という見出しと共に、オーストリアの税関吏の小倅で絵描き崩れのいけ好かない顔写真が小さく載っている。
オスカーは軽い苛立ちを覚えながら記事に目を走らせる。
【ナチスは党員数約十万人と小規模ながら、昨年から地方選挙や集会で農村部や中小都市での支持を徐々に拡大。党首は演説や出版物を通じて反ユダヤ主義や反共産主義を訴え、特に経済的不満を抱える農民や中産階級に浸透し始めていると思われる。】
こういう奇抜なスタイルで奇声を張り上げ、極端な主張をする奴をマスコミがおもしろがって取り沙汰するからよくないのだ。エルスベットと初めて出会った時に話したことを覚えているが、こいつは反逆罪で五年の実刑判決を受け、本来ならまだランツベルク刑務所の塀の中に囚われていたはずなのだ。それなのに、獄中でくだらない本を書き、たった九ヶ月で出てきやがった。去年の四月にはベルリンで演説禁止を解除され、ナチスの集会も再開された。
オスカーはこちらに戻ってから、主に警察と連携した治安任務に就いていたため、ベルリンのナチス監視にも間接的に関与していた。おととし、ゲッベルスとかいう博士号持ちの文士がベルリンでの党宣伝責任者の役職に就いたという。オスカーとそれほど年の変わらないそいつが信じられないくらいにやり手で、ヒトラーの演説やメディア戦略を強力に援護しているらしい。その筆、その弁舌は剣の舞か、吹き荒れる嵐か、はたまた燃え盛る火の玉か。党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」を通じて反ユダヤ主義、反共産主義、反ヴェルサイユ条約の主張を猛烈な勢いで拡散している。
オスカーは新聞を置き、さっき妻の前で広げてさっと目を走らせただけのレーテからの手紙を改めて熟読する。いつぞやは確か、アフリカのどこかの国から送ってきていて、そのまま行き倒れて殉教するんじゃないかと思っていたが、今はドレスデン近郊の聞いたこともない山奥の村の小さな教会を牧していると書いてあり、封筒の消印と差出人住所もそこになっていた。「信徒の献金だけでは生活が苦しいので畑を耕している」「まだ独り」「君は愛する人が側にいていいなあ」
レーテの手紙には時々、意味や意図のよくわからない聖書箇所の引用があることがあったが、今回もその一例だった。使徒言行録四章三十二から三十四節。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ちものを自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた。使徒たちは、大いなる力を以て主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、各々に分配されたからである」
とりあえず、息災ならよかった。一九二四年に導入されたライヒスマルクが経済の基盤を支え、一九二三年のハイパーインフレの悪夢のような記憶は遠ざかっていた。オスカーは曾ての同級生の顔を思い出す。あの学び舎で別れて以来、もう十年以上会っていないので、瞼に浮かぶのは未だに、少年の日のままの面差しである。
《一九二九年 ベルリン》
「共産主義はこの世で最も危険な思想です!ナチスも危険だが、共産党と共産主義者はそれ以上に危険です!」
壇上でプロイセン州警察公安部の弁士が声高に演説している。
「左様、皆さん。今年のメーデー暴動では三十一人の死者が出た。共産党員どもはこれを弾圧だ、権力による虐殺だなどと言い立てているが、もちろんそうではない。秩序と治安維持のための戦いなのです!」
一部のテーブルで拍手が起こったが、オスカーはべつに共感しなかったので同調しなかった。
「三十一人の死者が出た」って何だ。「三十一人が殺された」「三十一人を殺した」だろう。
オスカーはまだ、人を殺したことはなかったが、できれば殺したくないし、人が殺された話に手を叩く気にはなれない。
隣のテーブルに着いた同年代の日本人と目が合った。さっきからそれとなく観察していたが、彼も拍手していなかった。
同年代かとは思ったが、実際のところ、小柄な東洋人の外見から年齢を推し量るのは難しい。このカフェで、即ち地域治安会議という美名の付いたこの軍・警察・外交官らの非公式会合で出会っていなければ、また、スーツを着ていなければ、オスカーの目には子供に見えたかもしれない。それくらい若々しく純朴でやさしい顔立ちをした男だ。ちょっと癖毛で、アトピー性皮膚炎なのか首の辺りの肌が荒れがちに見える。
なぜ中国人ではなく日本人だとわかったかといえば、日本の大使館員がオブザーバー兼発言者として参加するらしいと予め聞いていたからだ。国外では満州進出を着々と進め、中国共産党を支援するソ連との間に緊張が高まり、国内では治安維持法成立で共産主義者への監視と弾圧が日々強まる中、ベルリンの日本大使館は、欧州でのソ連の動向、即ちコミンテルンの活動、ドイツ共産党(KPD)との連携に注視していた。ソ連関連の情報を収集し、日独関係を強化する任務を持つ若手外交官がこの場に臨むことは極めて自然だった。
演壇に上がった彼は大日本帝国外務官僚・高橋光晴と名乗り、非常に流暢なドイツ語でKPDとソ連について、ごく事務的なスピーチをした。
国防軍第九歩兵連隊連絡将校として参加していたオスカー・ミヒャエル・フォン・ローゼンシュテルン中尉も、SA(ナチス突撃隊)のデモとビラの危険性について短く報告したが、それはあまり重視されなかった。参加者の関心は専ら共産党と共産主義者と、その後ろに巨大な赤い怪物の影のように佇むソビエト連邦だった。
そのかなりうんざりする会合が終わり、演壇の解体とテーブルや椅子の原状復帰に手を貸していると、思いがけず話しかけられた。
「中尉殿のお話はよかったです」
振り向くと、あの若い大使館員が立っていた。オスカーより遥かに背が低いので見下ろす形になる。日本人の華奢なこと、この国ではエルスベットや母も含めた大抵の女でもこの男よりは背が高い。
しかし彼らが「鉈の重さの剃刀」と言われるあの日本刀を抜くと意外と強い、ということは、既に日清・日露の戦争で世界に明らかになっていた。もちろん、前者はオスカーが生まれる前、後者は四、五歳の時のことなので直接の記憶はない。
「そうですか、よかったです」
オスカーは作業の手を止めずにぎこちなく答えた。
「この後の懇親会には参加されないんですか?」
日本人が尋ねた。「あなたと話がしたい」という趣旨の婉曲表現に違いなかった。ここ数日、エルスベットの体調が優れないようなので当初は早く帰るつもりだったが、自分もこの相手に全然興味がないわけではなかったし、一杯くらいならと思い直した。
左手の甲で鼻を擦り上げ、微笑んだ。
「いえ、行きますよ。多分、途中で帰るけど」
《一九九一年 京都》
わたしは左手の甲で鼻を擦り上げ、歴史の安藤先生の授業に耳を傾ける。教室の窓から吹きこむ秋風にセーラー服のリボンが揺れる。
「カール・マルクスという人は、プロイセン、今のドイツの出身で、十九世紀のヨーロッパで、『この世界から貧しい人がいなくなるにはどうすればいいか』という話をしていた人です。『共産党宣言』『資本論』という本を書き、共産主義、社会主義という考え方を人類史上初めて唱えたんやね」
安藤先生はマルクスが好きみたいだった。教科書の写真をみんなに示し、「ほら、髭もじゃもじゃで怖そうやけどやさしい目をしてはるよ」と個人の感想を言ってみたり、「ぼくもどっちかというと、限られたごく一部の人が富を独占するんやのうて、競争やら極端な貧富の差がない、みんながいつもだいたいおんなじくらいのお金を持ってる社会の方がいいと思うなあ」「そうしたら、いつか『貨幣』そのものも要らんようになる。そんなすごいこと考えた人が百五十年も昔のヨーロッパにおったんやで」と熱を込めて語ったりした。
わたしは安藤先生が好きだったし、星新一の小説みたいにシュールでファンタジックですらある「『お金』のない世界」の話が強く胸に焼き付いた。「バブル崩壊」とか「これから景気が悪くなる」とかで大人たちが大騒ぎしているけど、その時のわたしにはまだ、同じくらい縁遠いことに思われた。
「『安藤はアカや。偏っとる』『子供に偏向教育しよる。子供が共産党になったらどないしてくれる』ってうちのお父さんが言うてはった」
「そう。うちのお母さんも。『安藤先生が駅前で共産党のビラと赤旗新聞の見本配ってはった。先生があんなんしたらあかんのに』って」
「ようわからんけど、『ニッキョーソ』とかも」
と陰口を叩く同級生もいたけど、わたしは何が悪いのかわからなかった。日本共産党の党員ではなかったけど、「しんぶん赤旗」の日曜版ならうちも日刊の朝日新聞と共に取っていたし、わたしも時々、中高生向けのページを中心に読んでいたから。
母は日本共産党の故・蜷川虎三元府知事を英雄のように崇めていて、わたしの名前の「ミ」の字は蜷川虎三の「三」の字を貰ったんだと聞いている。その人が「十五の春は泣かせない」というスローガンの下、府下の公立高校への全入政策を敷いていなかったら、貧しかったうちは母たち三姉妹を全員は高校に進学させられず、母は父と出会えていなかった、つまりわたしは生まれていなかったかもしれないから、妥当だと思う。
安藤先生は小林多喜二の虐殺写真が載っているページを示しながら、ややトーンダウンして話を続ける。
「しかし、共産主義者、社会主義者は資本主義諸国、特に大日本帝国やナチスドイツなどのファシズム国家体制下では大変な弾圧を受けるようになります。多喜二のように特高、特別高等警察に捕まって、残虐な拷問の末に殺されたり、女性は強姦されたりもしたんやね」
今まで退屈そうにしていた前の席の男子二人、陣内と秋山が最後の言葉に反応して、顔を見合わせ、ニヤニヤ笑った。わたしは不快に思ってそっちを睨みつけた。
「何じぇ十朱。何メンチ切っとんねん」
陣内が敵意を剥き出しにして声を張り上げた。「イカれとるんやろ」と秋山。
わたしは息が苦しくなるのを感じた。背中の特定の部位に独特の、原因不明の痛みが走るのを覚えた。おかしなことに、今年の春に初潮を迎えた頃から時々、ストレスを感じるとこうなった。我慢できないほどでも、日常生活に差し障りが出るほどでもないので、誰にも言っていない。
放課後、生徒たちは皆部活に出払って人けの少なくなった廊下を図書室へと急いだ。変な学校だった。学業成績では口丹(京都府口丹波地域。現在の亀岡市、南丹市、船井郡と京都市の一部)一位、スポーツでも一位、特にスポーツでは府下有数と言われるのに、図書室に生徒がいたためしがない。二十世紀末、平成初期の農村部の公立中学では仕方のないことだったが、蔵書も充実しないし司書の先生もいなくて、いつもがらんとした陰気な空間だった。
カーテンを閉め切った湿っぽい匂いのするその広い部屋の隅で、わたしは立ったまま、机に大判の資料集を二冊広げた。今日の安藤先生の授業の中ではほとんど触れられなかったけれど、なぜか、日帝と同盟して共産主義者を弾圧した人物や国家体制について調べたくて仕方なかった。
「十朱、何しとる!はよ着替えてグランド十周走らんかい!」
突然、扉がガラッと開いて、学年主任で生活指導の福原先生が怒鳴った。この頃はまだ、ジャージを着て竹刀を持ち歩く漫画みたいな教師が辛うじて生き残っていたものだ。というか、ほんとにそういう人がよくいたから漫画に描かれた。絶滅に瀕したティラノサウルスみたいなもの。
二十一世紀になって漸く問題視されるようになったが、わたしの通った中学は全員運動部強制加入という制度が敷かれていた。放課後は歌を歌ったり、劇を演じたりしたい、さもなくば家に帰って本を読んだり書いたりしたい、と思っていたわたしのささやかな希望はこの学校では叶うことはなかった。
「おまえ、何部やったっけ」
福原先生がぶっきらぼうに尋ねた。
「ソフトボール部です」
わたしは答えた。ソフトボールなんか好きじゃない、そもそもスポーツが好きじゃなかった。叔母の千歳とは違って、人と勝ち負けを争うことは苦手だった。
誰にも言わなかったけど、その部活を選んだのは、女子向け競技の中で唯一、下半身の線が明確に出る体操着やユニフォームを着なくて済むからだった。
「東先生にも言うとくからな」
福原先生はソフト部の顧問の先生の名前を言いながら、手帳に何ごとか書きつけた。
わたしは泣きそうになりながら、「すみません」と呟いて、本を閉じ、棚に戻した。背中の左側の真ん中よりちょっと上辺りのごく狭い範囲がまた、しわしわと嫌な感じで疼いた。
何の本を見ていたのか、幸か不幸か、福原先生が興味を持つことはなかった。「ヒトラーとムッソリーニ」「ヒトラーとナチスドイツ、第二次世界大戦」。
《一九二九年 ベルリン》
「ローゼンシュテルン、君を見てるとつくづく思うけど、ドイツ人とイタリア人は同じヨーロッパ白色人種なのに随分と性格が違うね。ドイツ人と日本人の方が似てる」
と、東京帝国大学を出てしばらくはローマ駐在だったという外交官は語る。
「オスカーでいいよ。俺も光晴って呼ぶから」
その頃になると、オスカーもすっかり打ち解けて、自分から寛いだ口を利いた。光晴は「手刀」という東アジアでも日本特有らしい奇妙な仕草をして謝意を示し、この日のためにわざわざ祖国から取り寄せた日本酒を手ずからオスカーのグラスに注いでくれる。
「ありがとう。我々の友情に乾杯」
その日、オスカーの招きに応じて彼の私宅を訪れた友人は、見たこともない異国の装いをしていた。
「変わったもの着てるな。それ、キモノか?」
自ら出迎えたオスカーが開口一番そう言うと、
「サムエ(作務衣)だよ」
と袖を広げてみせ、日本の寺院で僧侶が作業や日常の起居をする時に着るものだと説明した。
「へ~」
とオスカーが感動していると、
「早く、奥さん呼んでよ。お祝いが言いたいからさ」
と、子鹿のような黒い瞳を輝かせ、明るい声を張り上げたものだった。
杯を打ち合わせ、一口飲んでから、光晴はまた饒舌に喋り出す。
「個人的には、日本人は世界一温和だと思ってるし、ドイツ人は世界一冷静沈着だと思ってる。共通する性質として、『生真面目』というキーワードがあるんじゃないかな。日本人は他者に配慮しすぎる生真面目さ、ドイツ人は突きつめて考えすぎる生真面目さ、といったところか。両者ともイタリア人にはぜんっぜん似てないね」
それじゃイタリア人が不真面目だ、軽々しくておちゃらけてるって言ってるみたいだぞ、とオスカーは思ったが、黙っていた。実際、変な奴が実権を握っているが、いつまで続くやら。ああいうのを持ち上げるのは真面目なのか不真面目なのか。行く末は「最初はおもしろいと思ったけどやっぱりおもしろくないからダメだ」みたいな感じになるのか。
「ぼくはそういう余裕のない『生真面目』な性質は危ういと思うな。『あ、これダメなやつかも』と思っても適度な所で引き返せず、『最後まで頑張らないと』と破滅まで突っ走ってしまう。普段から適度に『シャレ』で息抜きする癖をつけておかないと、いざという時『シャレにならない』ことをしでかしてしまうものなのかもしれない。なんかおもしろいこと言おうか。オスカー、日本では酒に強い奴のことを『ウワバミ』っていうんだぜ」
「ウワバミ・・・・?」
オスカーは繰り返したが、巧く発音できなかった。
「そう。大蛇。すげえでっかい蛇のこと」
「こっちでいうとミドガルズオルムみたいなやつかな」
「そう!それそれ」
「二人とも何言ってるのよ。もう、酔っ払い」
言いつつ、エルスベットがチーズ、サラミ、ソーセージを盛った新しい皿を持って台所から現れる。
「エルスベット、寝てなくて大丈夫か?ランゲに任せたらどうだ」
最近雇った住みこみのメイドの名前を出してオスカーが気遣うと、妻は微笑んで、
「もう一時期よりひどくないから平気よ。はい、これおまけね。この間ルーマンさんの奥さんから頂いたのよ。高橋さん、ゆっくりなさってね」
「奥さん、すみません、私、うっかりしてて。何も気が付かなくて」
光晴が恐縮して会釈する。
「それ、さっきも言ったじゃない。気になさらないで。元々飲める方でもないし」
「いやいや、ほんっとにだめだな~俺は。だから俺のとこにはお嫁さんが来ないんだ」
オスカーも笑って、頭を抱える友人と、妻が皿の脇に置いたチョコレートの包みと、妻の頬を赤らめた嬉しそうな笑顔を見比べる。最後に、それとなく妻の腹を見やる。だいぶ目立ってきたかな。
「エルスベットさん、お加減よかったらちょっと座って下さい。お詫びと言っては何ですが、おもしろいものをお目にかけますので」
光晴はさっさとチョコレートを口に放りこみ、ちょうど正方形をしている包み紙の皺をテーブルの上で伸ばして注意を引いた。
何が始まるのかと二人が見守る中、光晴の両手は驚くべき速さで動き、かなり酔っているとは思えない鮮やかさと正確さで、数分と経たずにただの赤い紙を優美な形に折り上げ、羽を開いてエルスベットの手に載せた。
「これは・・・・鳥?」
「『オリヅル』です」
と光晴は日本語で言い、補足した。
「Kranich(クラーニヒ、鶴)ですね」
「すごい!手品みたい!」
「ほんとだ!それもこんな小っさい紙でよくこんな複雑な形が折れるな」
エルスベットとオスカーが二人して驚嘆していると、「日本人なら誰でも折れるよ」と笑って、
「祈りを込めたい時に沢山の折り鶴を糸で繋いで、寺社に奉じたりもする」
と付け加えた。
「お祈りって?」
エルスベットが尋ねる。
「長寿祈願とか、女の子の技芸上達だね。裁縫が上手になりますように、とかそういうやつ」
「死者を悼む時、とか」
オスカーが何気なく言った。顔形は全く異なるのに、この日本人の表情や物腰のどこかに、クリスティアンを思わせるものがあったのだろうか。
光晴はちょっと考える素振りをした。
「それは今のところ、聞かないな。でもこれからそういうのも流行ると言ったら変だけど、一般的になることもあるかもしれないよね」
それから、少し間を置いて言った。
「東洋人は、死んだらそれで終わりなんじゃなくて、魂は永遠に続くと考える。でも聖書の『魂は不滅である』というニュアンスとは少し違ってて、同じ魂がまた別の肉体に宿って、別の存在として『生まれ変わる』と考えるんだ。『業』とか『因縁』といって、また前の人生と同じようなことを繰り返したり、同じ人に出会ったり、逆に自分のやった悪いことが自分に返ってきたりもする、という発想がある」
「じゃあ、わたしやオスカーや高橋さんも、死んだらまた他の人に生まれ変わって、またどこかで出会ったりもするってこと?」
エルスベットが興味深そうに言った。
「そう」
「わたしのおなかの赤ちゃんも、前は別の誰かだったってこと?やだ、変なの」
エルスベットは無邪気に、声を上げて笑った。
その夜、光晴が贈ってくれた小さな小さなピンク色の折り鶴を、妻はオスカーの知り得る限り――つまり、彼が生きている間、ずっと大切に持っていた。家族の思い出の品や写真を集めた場所の真ん中辺りに、ずっと飾っていた。
光晴が彼らの家を訪れたのはそれが最初で最後になった。次の年に彼は、外務省の職を辞し、家業を継ぐために故郷の長崎という街に帰った。最後に会った時、彼は希望に顔を輝かせて、そこに骨を埋めるつもりだと言っていた。彼は非常に優秀だったが、内心では外交の仕事が合わないと感じていたのだろう。
「長崎で奥さんを貰って子供を持って、君のような温かい家庭を作りたい」
そう言っていた。彼は、オスカーが出会った中で最も高貴で善良な人間だった。
《一九九三年 長崎》
色とりどりの花と千羽鶴に飾られた平和祈念モニュメントの前に、わたしは一人で佇んでいた。
そこには、原子爆弾で斃れた無数の人々の銘が刻まれていた。佐藤、鈴木、山田、高橋・・・・平凡な姓の数々が並ぶ。所々、同じ苗字が連なるのは家族なんだろう。
もちろん、誰一人として顔は知らない。他の生徒たちと同じように、わたしにとってもそこは、ただの修学旅行で訪れた戦跡、歴史や夏休みの平和集会で度々習った教材に過ぎず、神聖で厳かではあるが自分とは何の関係もない場所であるはずだった。
なぜだろう、膝が震え、涙が込み上げそうになった。わたしはそっとモニュメントに両手を差し伸べた。居ても立ってもいられなかった。実際にそうすることはできないので、想像の中で花の間に跪き、モニュメントを抱きしめた。
「十朱!何やっとるんや、はよ集合しなさい。みんな君を待っとるんや」
担任の佐野先生の苛立たしげな声がわたしを呼び立て、我に返った。
「あいつアホか。何やっとんねん。新興宗教か」
去年のクラス替えでまた同じクラスになり、結局三年間一緒だった陣内が聞こえよがしに吐き捨て、何人かの男女が同調して笑った。「折り鶴の歌を聴け~」と茶化す声が上がり、また笑いが起こった。
わたしが走って追いつくのを見て、佐野先生は背中を向けて歩き出した。
「さっさと行け。頭イカれたグズ!」
陣内がわたしの肩を小突き、脹脛を蹴りつけた。
また、背中が痛んだ。
足を速めて陣内から離れながら、振り返って巨大な平和祈念像をもう一度仰いだ。
「天を指さす右手で原爆の恐ろしさを、水平に伸ばした左手で平和の尊さを示していらっしゃいます。東洋人でも西洋人でもありません。仏様の慈悲と神様の愛を顕していらっしゃいます」
という、さっき聞いたばかりのガイドの言葉が蘇った。
何十年経っても忘れないだろう。
参考文献
『まんがで読破 わが闘争』イースト・プレス