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神曲(全)  作者: 名倉マミ


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第十一章-3 「神々の黄昏」

私は間違っている。しかし、世界はもっと間違っている。

:アドルフ・ヒトラー

《一九四四年 七月 ベルリン》


 ゴットフリーデが帰り、子供たちが寝静まった後、夫婦の寝室のカーテンの陰で、オスカーはエルスベットを抱きしめる。隙間から差す月光が妻の露な細腕に冷たく映える。

 わずかに開いた窓から庭の花壇の花々の香気が漂い、彼の指と共に、彼女の豊かな金髪に絡みつく。



《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》


 「空軍も海軍ももっと兵力を増強しろ」

 「そうは言いましても総統、ない袖は振れんのであります」

 例によって、ザイサーと将軍たちとの言い争いが始まっている。

 みんな内心ではこう思っているはずだ。おまえに戦争の何がわかる。空想家の絵描きめ。

 「申し訳ありませんが、かけなければならない電話が一本ありまして、ちょっと中座を」

 ユーノはさりげなくそう言って、会議室を出る。何人か、ひょっとしたら全員が巻き添えになるだろうがすまない。

 「この鞄、邪魔だな。ユーノのかい?もうちょっとそっちにやってもいいかな」

 ユーノが退出した後、誰かが何気なく言って、テーブルの下に置かれていたやたらに重い鞄を動かす。

 総統本営の建物を出て、車に向かって歩いていたユーノは背後で爆音を聞く。振り向くと、今ユーノのいた部屋の窓ガラスが木っ端微塵に砕け、火の手が上がるのが目に入る。



《二〇二〇年 岐阜》


 「喋れますか?お名前を教えて下さい」

 龍堂寺がわたしの口元にボイスレコーダーを差し出すが、わたしの舌は痺れたように、喉は塞がったようになっていて、若菜のように滑らかに動かない。辛うじて「お、お」と発声するだけである。

 以下は龍堂寺が打ち出してくれた実際のセッション記録である。


龍堂寺「では、少佐とお呼びしますね。私、十朱ミクさんから事前に頂いたメールを熟読して、今日のセッションに備えて予め調べてきたんですが、少佐、あなたは一九四四年七月二十日の『狼の巣』爆破事件に関わっていましたか?」

十朱(人さし指)

龍堂寺「関わっていた。どの程度?計画の中枢にいた?深く関わっていましたか?」

十朱(反応なし)

龍堂寺「ふわっと知っていた?上の人に言われてそれとなく準備していた感じですか?」

十朱(人さし指)

龍堂寺「上官に命令されたからではなく、あなたはそれ以前からナチス体制に対して批判的であった?」

十朱(人さし指、何度も勢いよく上げ下げする)

龍堂寺「わかりました(笑)。一刻も早く戦争や虐殺をやめさせるため、この計画に協力しようと思ったのですね?」

十朱(人さし指)

龍堂寺「ですが、誰でも知っている、或いは予想がつく通り、ヒトラーを暗殺しようとしたこの計画は成功しなかった。様々な偶然が重なり、ヒトラーは軽傷だった。以前から反抗的であり、危ない橋を渡っていたあなたは、ついに当局に計画への関与を疑われ、捕縛されたのですか?」

十朱(人さし指)


 龍堂寺と少佐の会話を聞きながら、わたしは何かが込み上げてくるのを感じる。激情なんてものじゃない、四十年以上生きていて、これまで感じたことのない何か。魂の漆黒の深淵からせり上がってくるような、噴き上がってくるような、「そう、そう、そうなんだ!」「私の話を聞いてくれ!」という、敢て言葉にするなら、そういう悲鳴のような、絶叫のような何か。



《一九四四年 七月 ベルリン》


 「ローゼンシュテルン少佐?ゲシュタポのアクライトナーです」

 二十一日の夕方、既に帰宅していたオスカーを訪ねた男はそう言った。青白く無表情な四十絡みの男だった。

 「あなたに書類偽造の容疑がかかっております。昨日の『狼の巣』爆破事件への関与についてもお話をお伺いしたく・・・・ご同行願えますな?」

 「はい」

 とオスカーは答えた。

 階段の上に立っていたエルスベットは全てを察した。

 「ゴットフリーデ、子供たちをお願い。『お父さんは戦争に征く』と言って。あの人が連れて行かれるところを見せないでちょうだい。早く!」

 小声で傍らのメイドに囁きかける。

 「お父さんにお客様?」

 何か気配を察したのか、パウラが二階の私室から出てきて母に尋ねた。

 ゴットフリーデがその前に立ち塞がった。

 「お嬢様、旦那様は戦争に征かれるのです。奥様のお言いつけですから、お部屋にお入り下さい」

 「えっ、どういうこと?なんで急に?」

 パウラは驚いて、玄関先の父と、父を迎えにきた男と、階段を駆け降りていく母と、ゴットフリーデの曾てないほど真剣な表情とを見比べている。

 「前から決まっていたのです。さあ、お部屋にお入り下さい」

 「何?どうしたの」

 クリスティアンもパウラの部屋の向かいの子供部屋から顔を覗かせる。

 「クリスティアン、お父さんは戦争に征くんだって。お母さんが送ってくんだって。わたしたちはゴットフリーデと一緒に子供部屋で、お父さんのご無事をお祈りしよう」

 驚いたことに、十四歳のパウラは健気にもそう言って、クリスティアンの肩を押して部屋の中に戻そうとする。

 「えっ、やだ!お父さんが戦争に征くんなら、ぼくも一緒にお見送りしたい!」

 クリスティアンは泣き出した。パウラは弟を抱きしめ、自分も涙を堪えながら言った。

 「お願い、聞いてちょうだい。いい子だから」

 ゴットフリーデもクリスティアンの背中をさすり、そっと部屋の扉を閉めた。

 「オスカー!」

 二十年近くの歳月を共に過ごした古い家の戸口に立ち、エルスベットは血を吐くように叫ぶ。

 「もう一度、顔を見せて」

 アクライトナーと数人の男と共に車に向かって歩いていたオスカーは立ち止まり、振り返る。妻のほっそりとした影が家の前に佇んでいる。その顔は西日の残照が逆光になっており、見えない。

 「もういいでしょう」

 アクライトナーが無情に言って、やや邪険にオスカーの肩を押した。



《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》


 「お尋ね者シャルギエル ついに捕えられる」

 「死者四名の総統暗殺未遂事件 実行犯ユーノは自殺」

 新聞の一面に大活字が躍っている。

 イルシェナーは豪華なソファの上で笑い転げながら、酒を飲み、両側に侍らせた二人の令嬢の肩を抱き、時々口づけを楽しむ。



《一九四四年 七月 ベルリン》


 聖書が置いてあることに最初から気づいていたが、未だに手に取って読もうとは思わなかった。

 今何時頃だろうか。時計がないし窓もないから正確な時刻はわからないが、恐らく夜だろう。一応食事らしいものは出るし、あまり明るくないが常夜灯も点いている。

 突然、鍵の回る音がして、房の扉が開いた。ここでは見慣れない背の高い親衛隊員が入ってきた。といっても、親衛隊員は皆背が高いし、ここに来てまだ幾日も経っていないのだが。

 「よう、ローゼンシュテルン。覚えてるか?」

 目深に被った帽子の鍔を上げ、男が黄緑の目を覗かせた。

 「あんたか」

 黒シャツ姿で堅い椅子に腰かけたオスカーは目だけ上げて言った。

 男は脱帽し、小さなテーブルの上に置いた。オスカーを見返った目が豹のように爛々と輝き、彼はしゃにむに声を張り上げた。

 「『あんた』?『親衛隊中佐殿』だろ!」

 オスカーは冷静に言う。

 「相変わらずイカれてるな」

 ステラン・ゾーファーブルクはマッチを擦って燭台に火を灯した。揺らめく炎の明かりが彼の金髪と白い肌と黄緑の瞳を鮮やかに彩り、その長身を巨大な影として獄の壁に映し出す。

 「イカれてる?へえ!だが、今のこの国では、狂ってるのはおまえの方だぜ」

 「そんなこと言いに、わざわざ十年ぶりに顔見に来たのか」

 ゾーファーブルクは得意そうに眉を上げた。その美しいが険のある嫌味な表情は十年前と変わりなかった。

 「明日の朝だって聞いたからさ、昔の誼で親切に教えてやりに来たのよ。おまえさんがこの世で最後にまともに面拝んで会話するのは俺だってこと」

 「別の人がよかったな。人間じゃなく蛇でもあんたみたいなナチ公よりはましだよ」

 オスカーがにべもなく言うと、ゾーファーブルクはちょっと意外そうに目を剥いた。

 「十年前に比べて口が達者になったなあ。俺の顔見ても、明日くたばるって聞いても動じないね。さすが騎士様の家系じゃないか」

 オスカーが黙っていると、どういうつもりか、若干口調を和らげて言った。

 「家族に手紙でも書くんならと思ってな」

 オスカーはやはり沈黙していた。ここから手紙を出すつもりはなかった。届く届かないは別として、書いたところでどうせ検閲されるだろうし、そうすると家族や友人知人の身を徒らに危険に晒すことになり得る。

 エルスベットに伝えたいことは予め書面にして、夫婦の寝室のとある場所に忍ばせておいた。今頃はもう見つけているかもしれない。

 ドレスデンのレーテ・ダーレンドルフ牧師を頼るように、とも書いておいた。

 慈悲を見せてやったのにオスカーが機嫌よく返事をしないので、ゾーファーブルクは苛立ったようだった。

 「立て」

 冷然と命じ、顎をしゃくってみせた。

 オスカーは動かない。

 「立てっつってんだよ」

 オスカーの胸倉を掴んで無理やり立たせると、彼は両足を揃え、右手を高々と掲げて敬礼した。

 「ハイル・ヒトラー!」

 オスカーは微動だにしない。一言も発さない。

 「返礼しろよ、貴様」

 吐き捨てて、ゾーファーブルクは無抵抗のオスカーを床に殴り倒した。硬いブーツの爪先で何度か腹を蹴りつけた。

 しばらく、呼吸ができなくなり、体を二つ折りにして呻いた。ゾーファーブルクは無造作にオスカーの体を蹴って仰向かせ、片膝で強く押さえつけながらシャツの襟元に手をかけ引き裂いた。

 釦が飛んで行って石の床に当たり、高い音を立てた。

 「野郎裸にしてどうしようってんだよ」

 苦しい息の下からやっとのことで悪態をついた。

 ゾーファーブルクは燭台に近づき、煙草に火を点けた。

 「こうだよ」

 一服吹かしてから、先程と同じように片膝で腹に伸し掛かり、彼の左の鎖骨のやや下、胸元に火を押し当てた。



《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》


 イルシェナーは酒を呷り、空になったグラスをシャルギエルのこめかみに叩きつける。

 獄の冷たい石の床に破片が飛び散る。後ろ手に縛められ、跪かされたシャルギエルの(かしら)に血が滴る。

 シャルギエルは碧い目に静かで野性的な光を躍らせて、力による支配に憑かれた美しい悪鬼のようなイルシェナーの形相を見上げる。



《一九四四年 七月 ベルリン》 


 あまりの熱さに意識が遠くなった。

 「じゃあな、負け犬」

 吸い殻を放り投げ、帽子を取り、捨て台詞してゾーファーブルクが出て行ったのも、房の扉が閉まったのも定かではなかった。

 数分、いやもしかしたら数十分、石の床に仰臥していたかもしれない。

 顔と、腹と、火傷を負わされた胸の痛みに耐えながら、何とか起き上がった。這うようにして、水差しのある棚まで行き、直接口をつけて血の味のする水を飲み、大して冷たくはなかったが気休めに胸に押し当てた。

 今更ながらに、聖書と水と一応洗面所が備えられている以外は何の救いも飾りもない、殺風景極まるがらんとした部屋を見回す。黴臭い匂いが鼻をつく。一体何人の晴らせぬ無念がこの壁に、床に、天井に染みついているのだろうか。

 几帳面だな、奴。蝋燭もきちんと吹き消して行ったらしい。



《二〇二〇年 岐阜》


龍堂寺「あなたは処刑されたのですか?」

十朱(人さし指)

龍堂寺「ギロチン?」

十朱(反応なし)

龍堂寺「絞首刑?」

十朱(反応なし)

龍堂寺「銃殺?」

十朱(人さし指)



《一九四四年 七月 ベルリン》


 房の扉が開いた。朝の光が差す。

 「オスカー・ミヒャエル・フォン・ローゼンシュテルン、中庭へ」



《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》


 中庭に出たシャルギエルは眩しさに目を細めた。

 「何か言い残すことは?」

 両腕の縛めを今一度確認して、年長の刑務官が尋ねる。シャルギエルが傷だらけであることにも、衣服の乱れにも気がついたが、何も言わない。

 「一つだけ。目隠ししないでくれ」

 今しも布を持ってシャルギエルの顔を覆おうとしていた若い刑務官が、年長の男と顔を見合わせる。

 「必要ないだろう。壁に向かって立つんだから」

 シャルギエルの言葉を聞いて、年長の男は言った。

 「まあいいでしょう。どうぞ、ご自分で前にお進み下さい」



《二〇二〇年 岐阜》


 セッションの途中で、わたしは急に叫び出した。

 「痛い!背中が痛い!」

 涙が溢れた。泣きながら、わたしはソファの上で仰け反り、背中の左側の真ん中よりちょっと上辺りのごく狭い範囲の、あの「いつもの」場所の、しかしこれまでになかった激痛を訴えた。言葉では「背中が痛い」としか説明できなかったが。

 「大丈夫ですか!?セッションを中止して催眠を解除しますか?中止したい場合、声に出して言うか、人さし指で答えて下さい」

 龍堂寺がわたしの肩に軽く触れて言った。

 わたしは黙って涙を流し続けた。人さし指も動かなかった。

 この日以来、背中が痛むことはなくなった。



《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》


 拘置所の中庭に銃声が響いた。

 弾丸がシャルギエルの背中から心臓を貫いた。

 シャルギエルは碧い目を薄く開いたまま、俯せに倒れた。土煙が弱々しく立ち昇る。

 どこかでイルシェナーの哄笑が響いたかのようだった。


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